黒猫のルナ
ルナがいない。それに気がついて家を飛び出したのは、日が暮れる少し前のことでした。
ルナは、つやつやな毛並みと、つぶらな金色の瞳がかわいい黒猫です。子猫のときは手のひらにおさまるほど小さかったのに、いまでは膝に乗せると重たいくらい。元気いっぱいに、大きく育ちました。
歩くたびに、ルナの全身には光の輪ができます。座っているときも寝ているときも、その身体は美しい曲線を描いていました。私は、その輪郭を撫ぜるのが好きでした。
ピンと立った耳は私の声に反応してよく動き、長い尻尾はじっとしたり暴れたり、様々な感情を表現します。髭はピアノ線みたいに張って、たまにしゅんと萎れました。
頭はとても良くて、ジャンプしてドアも開けられるし、台所の水道から水だって飲めます。たまにトイレットペーパーをビリビリ破ったりすることもあるけれど、いたずらと呼べるものでした。
辛いことがあっても、ルナと戯れあえば忘れられます。誰もが嫌がる話でも、ルナは最後まで聞いてくれます。ルナは母のようで、姉妹のようで、やっぱり猫でした。
ずっと昔から、家族でした。一緒にいるのが当たり前です。だからこそ、ぐるぐると考えてしまいます。
玄関のドアが閉まる直前。私を呼び止める母の声が聞こえましたが、私は止まりませんでした。ルナを見つけなければ。それしか考えていませんでした。澄んだ空に燃えるまっかな夕焼けは、いつも通りに綺麗でした。
ルナはきっと近所にいて、すぐに見つかると思っていました。思いたかったのです。でも、見つかりませんでした。見つからないうちに、あたりは真っ暗になってしまいました。
いつの間にか、家が一軒も見えません。街灯はなく、黄色い月明かりだけが頼りです。夢中で走り続けて、知らない場所に行きついてしまったようでした。
どうしましょう。これではルナを見つけるどころか、私が迷子です。おまけに、暗くて見えなかった何かにつまずいて転び、膝を擦りむいてしまいました。もう、泣きたいです。
目頭に滲む熱い水を手の甲で拭って、私は唇をぎゅっと噛みしめました。泣いたらいけません。泣きたいのはルナのほうなんですから。
でも。誰もいない暗闇のなかに、それもすごく寒い日にいると、やっぱり泣きたくなります。
黒くてふわふわの毛玉を、ルナを抱っこしたのが、なぜか懐かしいです。もふもふの毛皮に顔を埋めて、ぷにぷにの肉球で遊んで。つい昨日のことのように思い出せるのに、どうしてこんなに遠く感じるのでしょう。
――ルナ。どこにいるの?
冷たい空気に、私の呟きが響き渡りました。聞いていたのは、夜空のお月様だけでした。
――ルナと一緒じゃなきゃ、帰れないよ。
もうひとつの呟きは、声には出せませんでした。口にしたら、本当になってしまいそうで。
黙っていると、木枯らしが肌を掠め、地面の冷たさが骨まで届きました。身体がこわばって、思うように動かせません。
このままでは、凍りついて死んでしまうかも。困り果てた私の耳に、ちいさな音がはいりました。私ははっとして、勢いよく顔をあげました。
にゃおん。にゃあ。そんなふうに聞こえるそれは、確かにルナの鳴き声でした。聞き覚えのある、優しい調子の声です。とても気持ちが良さそうで、まるで歌っているようでした。
私は目をこらして、暗がりをじっと見ました。すると、黒く塗りつぶされた闇に、ふたつのまるいものが浮かび上がったのです。らんらんと輝く金色の宝石――それは、ルナの両眼でした。
ルナ、やっとみつけた――私の伸ばした手を、金色はすっと避けました。そしてそのまま、どこか別の場所に向かおうとしています。どんどん行ってしまいます。その歩みは速くはありませんが、ぼうっとしたら置いていかれてしまうでしょう。
痺れかけた足に力を込めて、私は立ち上がります。膝の痛みは、いつのまにか消えていました。もう、ルナを逃がしたりなんてしません。これからもずっと、永遠に一緒にいたいのです。
ルナのためなら、火のなか水のなか。明けることのない夜であろうとも、私を止めることはできません。誘われるままに、私は黄色い尾を引くふたつの月を追いかけました。
ご高覧、誠にありがとうございます。