エピローグ 3
僕が落ち着いて来たのを見ると、女は再度話しかけてきた。
「ねぇ。あなたは、どうしてあんな泣きそうな顔をしていたの?もちろん、無理に言う必要はないわ。ただ、話したら楽になることもあると思うの」
「お姉さんの、余計なお節介だと捉えてくれて構わないわ」と付け加え、女は再度コーヒーを啜る。
そうだ。この女の言う通り、こんなのは一方的なお節介でしかない。いくら僕がこの女のことを一方的に知っているとはいえ、初対面の人間に悩みを話すなんて考えられない。
普段なら。
そうだ。僕は今、全然普段通りじゃない。普段通りならそもそもここにいない。だったら、少しくらい、話した方が楽なんじゃないかと。そんな甘い考えが頭をよぎってしまったのは仕方がないことだ。
「…失恋、したんです」
「…え?」
「振られたんです、さっき。ずっと、ずっと好きな人でした。ずっと憧れていて、僕にとって、ヒーローのような人です」
女は黙って僕の話を聞いている。その目は中学生の恋愛ごっことバカにするものではなく、いたって真剣なものであった。
「僕の片思いなのは知っていたんです。この気持ちが叶わないものであるとも知っていたんです。叶わない理由があったのも、理解していたんです。僕の思いが醜くて、歪なものだなんて分かってます。それでも、好きだったんです。…僕は、間違っていたのでしょうか?」
そうだ。理解していた。
お兄ちゃんが女の子を好きなことも。血の繋がった兄に恋をすることが無謀であることも。
この思いが、叶うわけがないということも。
それでも信じたくなくて、僕はお兄ちゃんを病的に愛することを選んだ。
妄信的に、狂気的に、病的に、お兄ちゃんを愛することで。ヤンデレとなることで。そんなことは関係ないと、自分自身に信じ込ませるために。
それでも僕は今日、現実を突きつけられた。
言葉に出すと余計に悲しくて。ふと、先ほど女が取り出したチョコレートの箱が目に入り、
「…お姉さんなら、この気持ち、わかるんじゃないですか?」
つい、余計な一言を口にしてしまった。
そうだ。この女は、椎名杏子は、恋をしている。はずだ。
相手は確か…お兄ちゃんと仲の良いスキンヘッドの男。名前は忘れた。前にお兄ちゃんたちを尾行していた時に、多分そうなのだろうと思った記憶がある。
けどそのスキンヘッドは、あの頭の悪そうなチビギャル――城嶋晴香のことばかりを見ていた。つまり、椎名杏子もまた、僕と同じく叶う可能性の低い恋をしているのだ。僕の予想では。
推名杏子は僅かに目を見開いたが、すぐに優しそうな表情を取り戻すと、「一日で二人の失恋話を聞くなんて、なんて偶然なのかしら」と小さく漏らしながら、口を開いた。
「そうね。もしかしたら、間違っているのかもしれないわね」
目を伏せたまま、椎名杏子は語る。
「あたしはね、叶わない思いっていうものは存在すると思っているの」
「少女漫画とかドラマとかじゃ、主人公とヒロインは結ばれるわ。教師と生徒、兄と妹、貴族と庶民。どんなに高い障害も、どんなに沢山の障害も、全てを跳ね除けてね。彼らはこう嘯くわ、『叶わない思いなんてない』ってね」
「でも現実は必ずしも上手くはいかない。障害があればあるほど思いは叶わないものとなっていく」
「別に物語の世界のことを、所詮は創作だと一蹴する気はないのよ。非現実的かもしれないけど、もしかしたら、現実でもあり得るかもしれない。でも、それはやっぱり一つの可能性でしかないの…所謂、サクセスストーリーって奴ね」
「現実にはサクセスストーリーだけじゃなく、実らなかった恋物語がごまんと溢れている。それはどんな綺麗事を並べても覆しようのない事実なの」
「だから、叶わない思いは必ず存在する。思うだけなら自由とは言うけれど、思うだけっていうのは辛いものよね。だから高い障害は、恋を諦める理由に成り得ると、あたしは思うわ」
一息つくと、椎名杏子は目を開き、僕を見据えていった。
「そういう意味では、叶わない思いをしていると自覚したまま思い続けているあなたは、間違っていると言えるかもしれない」
間違っている。
間違っていると、言われた。
僕の思いは、間違っていると。
…いや、最初から分かっていたじゃないか。間違ってることなんて。僕は何を期待していたんだ。間違っていないと、言ってほしかったのか?無責任な肯定を欲していたのか?
違うだろう。そうじゃないだろう。
高い障害は諦める理由になると、椎名杏子は言った。
僕とお兄ちゃんの間にある障害は、とてつもなく大きい。仮に、仮にだ。仮にお兄ちゃんの気持ちが僕に向いていたとしても、そこから先にはやはり大きな障害が待ち受けていることだろう。
ならば、これでよかったのかもしれない。
僕がお兄ちゃんを諦めたことは、正しいことなのかもしれない。
顔を伏せ、そういう風に考えていると、
「でも」
推名杏子の声が聞こえ、僕は顔を上げた。
「でも、それが恋ってものじゃない?」
「…それが、恋?」
意味が分からなくて、思わずオウム返しをしてしまった。
椎名杏子はさらに続ける。
「カップルになって、イチャイチャするだけが恋じゃないわ。たとえ叶う可能性が低くても、諦める理由があったとしても、思い続ける。それも恋の一つの形よ」
「でもそんなの、そんなの辛いだけですよ。辛い思いをして、それでも報われない思いに、意味なんて…」
「辛いわよ。辛くて、胸が張り裂けそうになる。好きであることを止めたくなることもあるし、無理して好きであり続ける意味もないのかもしれないわ」
「だったら…!」
「でも、夢見るの。あたしたちが、あたし自身が、物語のサクセスストーリーの一つになれることを。上手くいかない事例の方が多いかもしれない。それでも、夢見てしまうの。自分がハッピーエンドを迎える光景を」
そう言いきる彼女の姿は、まるで自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「あたしは、あなたは、間違っているのかもしれない。諦めたほうが幸せになれるのかもしれない。それでも今は、目指したいの。あいつと一緒にいられる未来を。この気持ちが醜い執着だなんて言わせない!だから、」
椎名杏子は、僕の手を取って、
「あなたが真剣に好きだと思っているなら、その気持ちは、絶対に醜くなんかない。たとえ間違っていたとしても、歪なんかじゃないの!」
そう、言い切った。
僕は、僕の気持ちを醜いものだと思っていた。普通じゃない。まっとうな恋じゃない。歪な恋心だと。
それでいいと思っていた。それを自覚しているだけ自分はまともだと、大人ぶっていた。
でも、そうじゃない、と。そうじゃないと言ってくれる人がいることが、こんなにも嬉しくて。驚いて。それで。それで。
僕はそれ以上、涙を堪えることが、できなかった。
―――――
「お、お見苦しいところをお見せしました」
「いいのよ、気にしないで」
それから丸々30分は、杏子さんを泣いている僕に付き合わせてしまった。僕が泣き喚いてる間も、杏子さんはずっと僕の手を握っていてくれた。これは黒歴史確定だ。
それから僕らは、チョコレートを食べながら雑談に興じていた。喫茶店で持ち込みのチョコレートを食べていることに今更申し訳なさを感じていると、「マスターには話をつけてあるから気にしないで」と言われた。どうやら最初から僕とチョコレートを食べる算段だったらしい。
そんなことを言われては、これバレンタインチョコじゃないんですか、なんて口にすることはできなかった。
コーヒーと一緒に二人で食べるチョコレートは、さっきよりも一層甘く感じられた。
暫く話し込んだ後、僕たちは二人で帰路に着いた。コーヒーは杏子さんにご馳走になった。
杏子さんは「こんな時間まで付き合わせちゃってごめんね」と言い、バス停まで一緒について来てくれた。バスが来るまでの間、僕たちはまた雑談をして時間を潰していた。
そして、もう少しでバスが来るというときになり、杏子さんは思い出したかのように言った。
「そういえば…あたしたち、お互いの名前も知らないわね」
…確かに。僕は一方的に杏子さんのことを知っていたから疑問に思わなかったが、そういえば僕らは自己紹介もしていないんだった。
そのことに可笑しさを感じて、僕らは二人で笑い合った。
そこでタイミングよく僕の乗るバスが到着した。
開いたドアに足をかけながら、僕は振り返った。
「僕は、も…いや、葵。ただの、葵です」
「そう、葵くんね。いい名前だわ。あたしの名前は椎名杏子。あなたと出会ったあの高校に通っているわ」
「杏子さん。今日はありがとうございました。また、僕と会ってくれますか?」
「ええ、もちろんよ」
その返事を聞いたところで、バスの戸はゆっくりと閉じられた。
バスが動き始めてからも手を振り続けてくれた杏子さんに、見えなくなるまで手を振り返しながら、僕は空いていた席に座った。
――帰ったら、お兄ちゃんに謝ろう。遅くまで帰らなかったことを。今まで、迷惑をかけていたことを。たくさん、たくさん謝ろう。
謝ったら、勉強をしよう。
お兄ちゃんと同じ高校に入るために。杏子さんと同じ高校に、入るために。




