エピローグ 2
少し長くなったので分割しました。
夕陽はもうすっかりと山の向こうへと隠れ、辺りを照らすのは街灯やお店の光の役目に代わっていく。
僕は一人、あてもなく、目的もなく、ひたすらに目の前の道を歩き続けていた。
頭の中はぐちゃぐちゃだ。
今日の光景が、さっきまでのやりとりが、幾度となく僕の頭の中で繰り返される。
関係ない、と言われた。僕の納得なんて関係ないと。
現実を見ろ、と言われた。お兄ちゃんが好きなのは、あいつなんだって。
キスをしろ、と言った。できるわけないって、高を括ってた。
キスをした。お前にはできないだろと、見せつけられた気分だった。
…家族だ、と言われた。お前は家族だと。家族だから、弟だから、ダメだと。言われた。
「……っ」
零れそうになる涙を、唇を強く噛み締めることで押しとどめる。
悲しみだけではない。堪えないと、心の底からどろどろとした感情がとめどなく溢れてくるような、そんな気分だ。
お兄ちゃんからの拒絶に対する悲嘆が、あいつに対する怨嗟が、自分自身に対する憤怒が。そんな感情が、ミキサーでぐちゃぐちゃにかき混ぜられたみたいに、溢れてくる。
…何がいけなかったんだろう。
あの女がお兄ちゃんに接近したことを阻止できなかったこと?
お兄ちゃんを『看病』しきれなかったこと?
僕にお兄ちゃんを落す魅力が足りなかったこと?
いや、もっと根本的な。
僕がお兄ちゃんの弟であったこと?
妹ではなかったこと?
血のつながった家族であったこと?
分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。
お兄ちゃん。お兄ちゃん。お兄ちゃん。お兄ちゃん。お兄ちゃん。お兄ちゃん。お兄ちゃん。お兄ちゃん。お兄ちゃん。おにいちゃん。
ぼんやりとお兄ちゃんのことを考えながら歩いていると、気が付けば僕はお兄ちゃんの通う高校の前に立っていた。休日の、夜の学校。灯りなどついているはずもない。
闇にのまれた学校をじっと見つめる。
――あぁ、あと一年とちょっともすれば。お兄ちゃんの後輩として、学校でもお兄ちゃんを落そうとしていたのに。その前に振られちゃった、な。進路希望、変えようかな。
そんな風に物思いに耽っていると、近づいてくる足音が一つ。
その音は、僕の傍らを通り過ぎる……ことはなく。その音の発信源は僕の真横で立ち止まった。
「ねぇ、ぼく。こんなところでどうしたの?」
声の主に顔を向けると、そこにいたのは一人の女だった。
首に黒のチョーカーを巻き、耳にはピアスというチャラチャラした格好。しかしそれらの装飾は決して下品な印象を与えることはなく、むしろ凛々しい彼女の顔立ちをより一層引きたてるアクセントとなっている。
僕は、この女を知っている。
知り合い、という意味ではない。お兄ちゃんの交友関係を調べているうちに知ることになった女、お兄ちゃんのクラスメイト。名前は…、
「…ねぇ。もしよかったら、近くの喫茶店でお姉さんと少しお話しない?」
「……はい?」
突然の誘い。理由も、目的も読めない。
もう出歩くには遅い時間、しかも見た目は可憐な美少女である僕に急に話しかけてきて、あまつさえお茶に誘う。どう考えても怪しい。
けど、僕が把握している情報からすると、この女は別段悪い人間ではない。むしろ、周囲からの評判は抜群に良かったはずだ。特に同性から。
それでも、普段の僕なら絶対についていくことはなかっただろう。でも今の僕は、いつもよりも少しだけ、自暴自棄気味になっていたので。
「…わかりました」
ほいほいと、ついていってしまったのだ。
―――――
「ここね、あたしのお気に入りの喫茶店なの。学校にも近いし、雰囲気も気に入ってるわ」
そう言いながら連れられた喫茶店は、アンティーク調の振り子時計、置きすぎなほど大量の観葉植物、古びた木造のイスやテーブルと、なんとも昭和を感じさせる雰囲気のお店であった。
女は店主と思われる初老の男性といくつか言葉を交わすと、迷いなく店の最奥にある席へと向かったため、僕もそれに追従する。
席について、なるほど、ここは内緒話にはうってつけの場所だと理解した。
僕たちの座っている席だけは他の席と離れた場所にあり、またひと際大きな観葉植物に妨げられて近くの席からも死角になっている。
これは、目の前に座るこの女の気遣いなのだろうか。
「あたしはコーヒーにするけど、あなたはどうする?奢ってあげるわ」
「…僕も、同じで大丈夫、です」
「…そう。マスター?」
女の呼びかけに応じ、植物の陰から先ほど話していた店主が現れた。女は慣れたように注文をすると、店主は黙ってカウンターへと引っ込んでいき、暫くすると温かそうなコーヒーを携えて戻ってきた。
コーヒーが届いてから暫くの間、僕たちの間に会話はなかった。女は黙ってコーヒーを啜り、僕はただ下を向いたまま、ゆっくりと時間が流れていく。
やがて、女はこちらを探るように言葉を投げかけてきた。
「さっきも聞いたけど、あなたはあそこで何をしてたのかしら?あなた、中学生、くらいよね?それくらいの子が出歩くにはちょっと遅い時間だと思うのだけど」
「そんな夜遅くに出歩く幼気な中学生をお茶に誘ったお姉さんは、さぞ年上なんでしょうね?」
気遣いに、皮肉で返す。罪悪感はない。たとえそれが、お兄ちゃんといつも一緒にいるこの女に対する、ただの八つ当たりだとしても。
女は機嫌を悪くすることはなく、少し困ったような表情を浮かべた。
「ごめんなさい。あたしもあなたとたいして変わらないわ。もう少しで高二になるの」
知っている。知っているけど、こんなにお人よしであることは知らなかった。まさか素直に謝られるとは、思ってもみなかったから。
ここにきて初めて感じた罪悪感を誤魔化すように、僕は話題を逸らすことにした。
「そうですか。それよりも、どうして僕に声をかけたんですか?」
まずは、一番気になることを聞く。返答によってはコーヒー代を払って早々に立ち去らなければならないからだ。
女は「そうねぇ」と少し考えるそぶりを見せてから、ゆっくりと答えた。
「こんな時間に、それもあたしの通ってる学校の前で、今にも泣きだしそうな顔をした男の子がいたら話しかけちゃうものよ」
そうですか、と、言いかけて、僕は思わず女の顔をまじまじと見つめてしまった。
「…どうして、僕が、男だと…?」
「え?一目見たら分かるわよ。雰囲気でなんとなく、ね」
…そういえば、最初に声をかけて来た時も、『ぼく』って言っていたような…。
この女はさらっと言っているが、僕は自分の女装姿にそこそこの自信がある。化粧もしているし、体格も女子寄りであると自負している。
話し方は特別意識していないため会話から察せられるのはまだしも、見た目から性別を当てられるなんて、初めてのことだ。
自分の中の自信というものがガラガラと音を立てて崩壊していくのを感じ、なんとか正気を保とうと、僕はコーヒーに口を付ける。
――にっが。
見栄張って頼むんじゃなかった。苦い。すごく苦い。でも、バレたら恥ずかしいから隠し通さなきゃ…にっが。
そんな風に僕が一人で悶絶していると、女はいつの間にかカバンから少し大きめの箱を取り出していた。
箱を開けるとそこに入っていたのは、チョコレートだった。彼女はそこから一つを無造作に取り出し、僕に差し出してきた。
「ほら、これ食べて。少しはマシになるわよ」
反射的に受け取ってしまったチョコレートをためらいながら口に含むと、カカオの香りとミルクの甘味が脳に伝わる。
どうやら僕の強がりはバレていたみたいだ。この女、異様に察しがよくない?
恨めしさを込めた視線を女に向けると、
「そんなことないわよ」
と言いだしたので、本当に怖くなってきてしまった。ナチュラルに心を読まないで欲しい。
そんな僕を見て、女は心底面白そうに笑うのだった。




