第五章
結婚式前夜、クリソベリルとエドルスティンが会ったのも、偶然だった。
長い間封じ込めてきた恋を、本当に今晩で殺さなければならない。
クリソベリルは悲痛な決心をして、庭園の片隅に佇んでいた。
だが、押さえても押さえても、心の中の激情は暴れまくり、彼女を苦しめていた。
そんな時、エドルスティンが通りかかったのだ。
結婚式の日、アイリーナに手渡す花束の花を選ぶために庭園を訪れたエドルスティンは、幼なじみの姿を見つけ、気軽に声をかけた。
それが間違いの元だったのだ。
クリソベリルが自分に恋心を抱いていることは、鈍いエドルスティンでも、さすがにうすうす気づいていた。
だが、エドルスティンにはどうすることもできなかった。
その気持ちを受け入れることなど到底できない。
だが、クリソベリルの思いを否定し、拒絶することもできなかった。
彼にできることは、ひたすら気づかないふりをし、親友のままでいること。
アイリーナとは別な次元で、クリソベリルも大切な存在であり、愛してもいたが、それは同じ大切な人を守る同志というような感情であった。
そして、健気にアイリーナにつくしてくれる、妹のような存在でもあった。
最初に交わされたのは普通の世間話だった。
二言三言話しただけで、すぐ自室に戻ればよかったのだ。
だが、エドルスティンはそうしなかった。
どこか沈んでいるクリソベリルの表情を、つい憂いてしまったのだ。
どうしてクリソベリルが落ち込んでいるかなどと、少し考えればわかることなのに。
結果、クリソベリルは激昂し、自分の思いをさらけ出した。
今まで押さえに押さえ、心の内に殺していた思いを。
まるで長い間眠っていた火山が噴火するように、溢れ出る想いをぶつけて来た。
押しつけられた唇を拒絶できなかったのは、そのくちづけに彼女の悲しみを痛いほど感じてしまったから。
瞬時に哀れで愛しいと思う気持ちが沸き上がってきたのも事実だ。
だから、抱きしめてしまった。
そこで悲劇が起きた。
「でえええい!」
雄叫びをあげ、城に続く地下道で次々と襲いかかってくる魔物に剣を振るいながら、エドルスティンは思った。
だからこそ、今度こそ僕は君の側にいなくちゃならないんだ!
アイリーナ!
「こんなとこで朽ち果てるわけにはいかない!」
勢いよく振られる剣から、新たな力が噴き出す。
もう皆限界のはずだった。
だが倒れるわけにはいかなかった。
目の前に、どう猛な魔物が大きなキバを剥いて飛びかかってくる。
きつく剣を握りしめ、向かい討とうとしたその時、突如暖かな光に包まれた。
そして、次の瞬間には、身体が浮遊するような感覚に囚われ、目の前の光景がすべて消し飛んでいった。
■ ■ ■
藍里は長く曲がりくねった廊下を進み、幾重にも渦を巻いている螺旋階段を駆け下りる。
暗い円柱の底にぽつりと見えている赤い光が、核への入り口だった。
複雑な文様を施されたドアには、引き手口もドアノブもない。
ドアの中央にはめ込まれた赤く光る石に己の手をかざすと、それは招き入れるように静かに開いた。
「アイリーナ様?」
「お前? どうしたんだ?」
突然姿を現した藍里に、モニターの前で何やら作業していたメノー・レとコランダムは腰を浮かせた。
だが、まっすぐにコランダムとメノー・レを見つめる視線が、アイリーナのものではないと、瞬時に二人は理解した。
「お前、藍里だな。なんだ、いつのまに元に戻ったんだよ。アイリーナはどうした?」
「困りましたね。アイリーナ様でないとセキュリティを外せない」
「アイリーナアイリーナ言うがな、この身体はもともと俺んだよ」
「そーいやそうだったな」
憮然とした藍里の言葉に、コランダムは薄く笑みを浮かべ、片腕をあげて見せた。
「んで、その藍里様が何の用だよ? 用があるからわざわざ逃げずにここまで来たんだろ?」
藍里は深く頷くと、視線をメノー・レへと移した。
「メノー・レ、お前に聞きたい。なんでこんなことをする。なぜ、今ここの星で生活している人たちの命を脅かしてまで、この星のプログラムを無理矢理変えようとする?」
「聖核などなくても脅かされない世界にするのですよ。現にアイリーナ様一人がいなくなっただけでこの有様ですよ」
「それは、お前らが再誕の儀式を妨害しているからだろ? 普通に俺が帰ってきてたらここまで酷くはならなかったはずだ」
「そう……そうですね。でもどうせここまで破滅が進んだのなら、いっそのこと新しい世界に書き直してしまいたいと、貴方だって思うでしょう?」
両手を広げ、どこか芝居がかった口調で、メノー・レが言う。
「……なんかそういう口調も兄貴に似てんのな。お前んとこの家系ってみんなそうなのか? なんとなくイヤミっぽくってさ」
嫌そうに眉を顰め、藍里は吐き捨てるように言う。
「やめてください! 私はあの人などに似てなどいない。これっぽっちも! これっぽっちもだ!」
いきなり声を荒げ、メノー・レは拒絶するように大きく腕を振った。
その過剰なまでの反応に、藍里が訝しげに目を細める。
自分の動揺を恥ずかしく思ったのか、メノー・レは咳払いをし、少し声を落とした。
「私などと比べたら、兄が怒りますよ。私と違って、兄は生まれた時から特別な存在でした。祭司である才能に溢れ、家の誰もが彼を称え、敬った。私の存在など、彼らにとってはゴミクズくらいでしかなかったのですよ……」
「ゴミクズ?」
「そう、たとえ私がどこかでのたれ死んでも誰も気づかないくらいにね」
メノー・レの独白に、藍里の心がちくりと痛む。
藍里にも覚えがある感情だ。
「ですが、こんな私でもね、心を癒してくれる存在はあった。幼い頃から私たちは一緒に遊び、そして自然に二人は結ばれると思っていた……。だが……」
「聖核が何もかもぶちこわしたのさ」
腕を組み、黙ってメノー・レの話を聞いていたコランダムがつと顔をあげた。
「王が彼女の妹を后にと所望した。そして、それだけで飽きたらず、姉の方も……」
拳を握りしめ、メノー・レは唇を振るわせた。
「姉の方も愛していたというのなら、許せもする。でも、前王の理由はそうではありませんでした。妹と同じ姿をしている女を、他のヤツに娶らせたくなかったから! たったそれだけの理由で、前王は彼女の想いを踏みにじった」
王への憎悪をこめて、メノー・レが吐き捨てる。
「彼女は孤独だった。妹と共に城にあがっても、王が愛したのは妹のみ。捨て置かれ、存在を無視され、一室に閉じこもりっぱなしだった彼女を、私は足しげく訪ねた。いっそのこと一緒に逃げようかとも思った……」
苦しげに目を伏せながら、メノー・レが言葉を続ける。
「そのうち姉君も妹姫と一緒の時期に子供を身籠もりました。でも、王にとってそれはありえないことだった。なぜならば前王は、姉の方には指一本触れてなかったのですから……」
藍里は衝撃のあまりに目を見開き、言うべき言葉を失った。
コランダムとその母親が、ずっと屋敷に幽閉されていた理由。
メノー・レが聖核を憎む理由……。
そしてコランダムに聖核が移らなかった理由。
それがやっと一つになった。
コランダムとメノー・レを、藍里は代わる代わる見つめた。
この二人は紛れもない親子なのだ。
「こんな私たちを、貴方は否定しますか? 藍里様」
問いかけられても、藍里は頷くことはできなかった。
コランダムが続ける。
「俺はさ、アイリーナも同じかと思ったんだよ。クリソベリルがエドルスティンを好きなのは、俺にだってわかってた。だが、アイリーナはそれにはまったく触れずに、無邪気にエドと結婚しようとしていた。アイツも、聖核の力をひけらかして、人の心を踏みにじるような女なんじゃないかって……。アイツは俺を助けてくれた。だから信じたかった。だが、アイツの父親の所行を考えると、手放しでは信じられなかった」
「コランダム……」
「だからアイツにほのめかしてみた。そしたら……」
コランダムは言葉を呑み込み、感情を抑え込むように小さく息を吐いた。
「アイツは自分を滅ぼす方を選んじまった。……いとも簡単に聖核を捨てやがった」
「だからこそ、アイリーナ様のためにも、聖核に縛られる王族を解放したいと思ったってわけですか?」
突如入り口の方から聞き慣れた声が振ってきた。
服はあちこち破れ、身体も傷つき血で汚れた酷い有様ではあったが、フェルドスパーが、エドルスティンが、そしてクリソベリル、オリオ、ライラが元気にその姿を現す。
「お前達! いつの間に」
コランダムが叫ぶ。
「藍里様が呼んでくれたんです。ね? ご丁寧に回復もしていただいたようで。地下道の中で朽ち果てるかと思ったんですが、間一髪で助かりました。ここについたとたん、身体が軽くなりましてねえ。ありがたいことです」
フェルドスパーがおどけて片目を瞑って見せた。
「いつの間にそんな……。お前、覚醒してなかったんじゃねえのかよ?」
驚いて声を張り上げるコランダムに、藍里が静かに視線を向けた。
「アイリーナは全てを教えてくれたよ。コランダム。お前のことも」
そして、エドルスティン、クリソベリルへと視線を向ける。
「君たちの事も」
「藍里……」
エドルスティンとクリソベリルの表情が曇る。
「それでも、アイリーナは俺の意志に従うと言ってくれた。だから、俺はこの世界は滅ぼさない。聖核もなくさない。今のこの世界を、守り続けていく。たとえ滅びが近くても、無様にあがく方を選ぶ」
藍里の言葉に、フェルドスパーも大きく頷いた。
一歩前に出、弟へと射るような視線を向ける。
「第一、プログラムの書き換えなんてたった一人の人間にできるわけがないんですよ。本当は祭司以外知ってはいけない、門外不出の秘密事項ですが、今更隠しても仕方ないですし、話さなければおバカさんたちが納得しないでしょうからぶっちゃけますけど、今生きている人間のどれだけの英知を合わせても、クリスティラが作ったプログラムを変えることなどできない。そのように作られてるんです。過去この星の人間は、何度もそれを試し、そのたびにこの世界を滅亡寸前まで追い込んできた。その度に、先人達が築いてきた、大いなる古代の技術が滅んできた。ここ千年ほどは、そんなバカは現れてはいませんけどね。永遠の平和を望んで作られたクリスティラの世界ですが……。結局人は、いつでも何かを滅ぼさずにはいられないのかもしれないですね」
「クリスティラの世界?」
エドルスティンの問いに、フェルドスパーは頷いた。
「王族をまもる祭司のみ伝え聞くことができる真実。この星に隠された新の姿。古の時代、天才錬金術師であり、魔術師であり、科学者でもあったクリスティラは、既に半ば死んでしまったこの星を強制的に再誕するために、再誕のプログラムを造りました。それがすなわち我々が聖核と呼んでいるものです。クリスティラはそのプログラムを、自分が作った人工生命体にインストールし魂に定着させた。それが聖核を宿すために作られたこの国の王族の正体です。王族という者は人間ではない、人の姿をしてはいるが、クリスティラが作った、この世界に調和をもたらすためのプログラムを入れる器だった。そして、彼女はその大いなる力で、その器とこの星の生命を強制的にリンクさせることに成功した。故に、聖核を持つ者がこの世に存在すれば星は安寧に回り、滅びてしまえばその運命に殉じるシステムになっているのです」
「器……」
コランダムが呟く。
「聖核を持つ王族が巨大な力を持ってる理由は、星そのものと繋がっているからなのか……」
「星のエネルギーそのものが聖核の力になりますからね。聖核を宿すものが存在しなくなれば、この世が滅びる。逆にその聖核さえ滅ぼさずにいれば、この星は自動的に浄化を続け、小さな生き死にを繰り返して永遠に生き続けるのです」
「永遠に……?」
「そう。第一、既にこの星はとっくの昔に半ば死んでいるんです。それを聖核の力で無理矢理生かしているに過ぎない。それが失われたら、結局この星は、本来の屍の姿になるだけなのです。だから、今ある世界を壊しても、聖核がなければ再びつくることなんか出来ない。聖核のない世界なんて、クリスティラには生まれるわけがない。だって既に死んでるんだから。新しい世界を作っても、結局は再び聖核に頼らざるを得ないのがこの星の逃れられぬ宿命なんですよ。まさに愚弟がやろうとしていることは本末転倒。このバカはそこまで考えつかなかったんでしょうけどね」
心底侮蔑するような険しい視線を、フェルドスパーは弟へと向けた。
「それとも貴方は本当にこの世界を滅ぼしますか? 聖核をなくすということは、そういうことですよ。でも貴方はそれが本意ではないでしょう。愛する人と設けたたった一人の息子には、何がなんでも生き延びてほしいと思っているはずだ」
フェルドスパーの言葉に、メノー・レは唇を噛みしめて俯く。
「第一、この世で不幸なのは自分だけだと思いこみ、あげくの果てに世界を変えようなんて考えてしまうあたり、浅はかとしか言えませんねえ。いい年こいて何甘えてんだか」
「不幸じゃないか! 幼い頃からどれだけ私が蔑まされて生きてきたか! 栄光ある路を生まれながらに用意されていた兄上に言われたくない! あげくの果てに、愛する人を奪われ、救えぬまま、孤独の中で死なせてしまった……。聖核などに振り回されて!」
メノー・レは激昂し、身体を震わせながら叫ぶ。
だが、フェルドスパーは顔色ひとつ変えず、あいかわらず揶揄するように、意地悪い笑みを浮かべている。
「そう思いこむところが浅はかなんです。皆心にいろんな傷を持って生きている。思い通りにならないことも多々ある。貴方だけじゃないんです。みなそんな人生を、それでも無様に、一生懸命生きているんですよ。そんなこともわからないで、頭はおこちゃまで、身体だけ一人前になっちゃったんですねえ」
怒りで頭が沸騰し、言うべき言葉も見つからずに、メノー・レはただ身体を小刻みに震わせている。
藍里は顔をつとあげ、まっすぐにメノー・レを捕らえた。
「メノー・レ。今いるこの世界を否定して、たとえ新しい世界を作れたとしても、絶対また気に入らないところは出てくる。どうしようもなく悪い部分も出てくる。その度にお前は世界を壊して作り変えるつもりかよ。今いる命を勝手に散らして。そんなこと本当に許されると思ってるなら、人の心を踏みにじる聖核とお前はなんら変わりないだろ!んな権利、お前にも俺にもないんだよ!」
藍里はそう叫ぶと、顔をあげ、目を閉じた。
アイリーナの腕が、優しく藍里を抱きしめたのがわかった。
二人の心がひとつになっていく。
唇から、当たり前のように、美しい旋律が生まれる。
身体から発する光の粒子に囲まれ、藍里は大きく腕をさしのべた。
アイリーナの姿と、藍里の姿が重なり合う。
「あれは……再誕の歌……! いけません、藍里様。なんの用意もなく、急に歌っては、お体に!」
フェルドスパーが慌てて駈け寄ろうとするが、濃厚な光の粒子が盾になって前に進むことが出来ない。
このままでは!
「見てください、エド様! あそこ!」
クリソベリルが声をあげる。
宙に浮かび上がっていたいくつものモニターに、すさまじい文字が流れ出す。
「再誕の構築文が……、くそっ! ここまで来てやらせるものですか! 私はまだ諦めない! 兄の言うことなど信じてたまるか!」
メノー・レが杖を発動させると、フェルドスパーが止める間もなく、藍里へと向かって容赦のない衝撃波を放つ。
だが、それは藍里の身体を貫くことは出来なかった。
まるで光の壁が防御しているように、衝撃波は勢いよく跳ね返り、メノー・レへと直撃した。
悲鳴をあげて、メノー・レが壁へと叩きつけられる。
「メノー・レ!」
コランダムが駈け寄り、抱き起こす。
唇から血を滴らせながらも、メノー・レは言い募った。
「コラン……ダム……殿下……。あれをどうか止めて……くださ……。我々の計画が……、なにもかも……終わりになってしまう」
ぎりりと唇を噛みしめると、コランダムは剣を握りしめて光の粒子へと飛びかかった。
だが、剣を突き立てる間もなく、見えない壁にはじきとばされ、身体ごと床へとたたきつけられた。
激痛に顔を歪めながら、コランダムは光に包まれている従兄弟の姿を呆然と見つめた。
「んなの無理だろっ……どうやって止めるんだよ……。側にも寄れねえのに」
「フェルド……、藍里は……」
縋るようにエドルスティンがフェルドスパーを見上げるが、彼は視線を藍里から放さなかった。
歌い続ける藍里を、無言のまま険しい表情で見つめている。
歌とともに紡ぎ出される光の粒子が壁を越え、外の世界へと広がっていく。
それは、光の速さで国を駆けめぐり、星を覆った。
枯れた木々が、窪んだ大地が、まるで時間を逆戻りするかのように再誕されていく。
そして、星を囲んでいた、赤黒い障気も、霧散しては消えた。
変わりに、本来の青く澄んだ、美しい空が現れる。
長い長い時間をかけて、最後の旋律まで歌いきると、藍里はその場で声もなく崩れ落ちた。
「藍里!」
光で覆われた結界が消え、エドルスティンは横たわる藍里の元へと駈け寄った。
抱き起こしたその姿は、少年のものではなく、愛しい婚約者に変わっていた。
「ア……アイリーナ……」
エドルスティンの呼びかけに、アイリーナは瞳を開き、微かに笑みを浮かべて見せた。
「……エド……。世界は……世界はどうなった?……元通りに……なったか?」
宙に浮かんでいる画面には、光の粒子に包まれながら、再誕を始めた世界が映っていた。
喜び合い、抱き合う人々。
うれしさのあまり泣き出す人々。
様々な人々の様子が、映し出されている。
「なったよ、アイリーナ、もう大丈夫だ。障気もなくなった。世界中に青空が広がっているよ」
「よか……た」
儚くアイリーナが微笑む。
「そう、だから、何も心配することない。君も僕のもとへ……」
帰ってきてという言葉は、アイリーナの細い指先が、エドルスティンの唇を押さえたことで遮られた。
「忘れたのか……? 私はもう……既に死んだんだ……。これからは、お前は……藍里とともに……」
「アイリーナ!」
光の粒子が再びアイリーナの身体からあふれ出していく。
それがまるでアイリーナの魂が抜け出ているようで、エドルスティンは思わず腕の中の愛しい身体を固く抱きしめた。
とめどなく涙が溢れ、アイリーナの頬を濡らす。
「バカ……だな。オトコが……泣くんじゃな……」
「アイリーナ……」
再び身体を離し、エドルスティンがアイリーナの瞳を覗き込む。
最期の力を振り絞り、アイリーナが指先でエドルスティンの頬を撫で、微かに唇を動かした。
「でも……お前の……花嫁に……なりたかった……な……」
その言葉を聞くと、エドルスティンはもう耐えられなかった。
細いアイリーナの身体を抱きしめ、その唇を深く奪った。
長い長いくちづけの後、再びアイリーナの顔を覗き込むと、彼女の瞳からも涙が溢れていた。
「嬉し……」
「アイリーナ……僕は君を愛して……」
「……エド……お前は……藍里と……ともに……」
生きていけ、というささやきを最期に、アイリーナの姿は光の粒子となって空へと昇っていく。
クリソベリルが、そしてライラが床に膝をつき、声をあげて泣き始めた。
「アイリーナ! アイリーナ! アイリーナ!」
絶叫の中、抱きしめたアイリーナの姿は、光に包まれた後、ゆっくり藍里へと変化した。
気を失ったままの藍里を抱きしめながら、エドルスティンは子供のように涙を流し続けた。
■ ■ ■
「貴方は昔からそうでした。人の話は聞かないし、考え方は偏ってるし」
暗い地下牢の中、フェルドスパーは罪を犯した弟を訪ねていた。
あの後、メノー・レは捕らえられ、罪状を調べられた後、新しい王が聖断を下すまでの間、城内の地下牢へと拘禁されたのだ。
「悪かったですね……」
ふてくされたようにメノー・レはそっぽをむいた。
だがふと俯き、声を落とすとどこかぎこちなく尋ねてきた。
それはまるで、返ってくる答えを恐れているかのようでもあった。
「……コランダムは……どうしています?」
「貴方の息子ですか? 元気ですよ。今のところはね。この先どうなるかは藍里様を筆頭とした新しい議会での決定によりますけどね」
「……そうですか……」
脱力したようにメノー・レは肩を落とし、背を丸めた。
「結局私は何もかも失ってしまったんですね……。息子まで失ったのなら……もう生きている意味もない」
絶望と共に吐き出された言葉を、フェルドスパーは一笑に付した。
「失ってって……。貴方には命があるでしょう? 前に進む二本の足もあるじゃないですか。貴方の足は単なる棒ですか?」
「……命?」
「藍里様は貴方を処刑したりしませんよ。なんたって法治国家とやらで育ったお方ですからね。命を奪っても何も変わらないことは、あの方はよく知っている。もちろん貴方は自分のやったことは償わなくてはならない。でもそれは死をもってではない。死なんか一瞬ですからね、何の足しにもならない。罪人の命を奪うより、罪人の命で償いをさせた方がマシだって藍里様はおっしゃってましたよ」
いたずらっぽく笑みを浮かべると、フェルドスパーは肩をすくめた。
「貴方の所行も、情状酌量とやらを組んだものになるでしょう。本当におもしろいことを考える子だ。私は俄然生きるのが楽しくなってきましたよ。少なくとも、退屈はしなさそうだ。あの子の作る世界とやらを是非見てみたい」
「それは……ようございました」
疲れたように、メノー・レが呟いた。
「おや、貴方は興味ありませんか? 自分が滅ぼそうとした世界を、新しい王がどう作り変えるかを」
メノー・レは無言のまま首を振る。
そんな弟の姿を横目でちらりと見ると、フェルドスパーは小さく息を吐いた。
しばらくの沈黙の後、フェルドスパーは今までとは打って変わった真摯な口調で弟に語りかけ始めた。
「貴方は知らないでしょうけどね、私は決して司祭なんかになりたかったわけじゃないですよ。人にとっては垂涎の的だったかもしれませんけどね。私にだって他に行きたい人生があった。でもそれは許されなかった。どうしてか? 才能があるからです。望んでもいない、祭司としての才能が、なぜか溢れんばかりに私にはあった。立場は貴方と同じです。貴方にはうらやましい路だったかもしれない、恵まれていると思っていたかもしれない。でも、私にとってそれは疎ましいだけだった。貴方には考えもつかなかったでしょうけどね」
「え……?」
初めて聞く告白に、メノー・レは顔をあげた。
信じられない思いで兄の顔を凝視する。
「それでも人には宿命というものがあるらしくてね。出来ることを出来るのにやらないのは、それはそれで罪なのかもしれないと、最近の私は思い始めてるんですよ」
「兄……上」
「貴方にそう呼んでもらったのは初めてのような気がします。おかしいですね。たった二人の兄弟なのに」
そう言うと、フェルドスパーは自嘲気味に笑った。
「初めからこんな風に会話をもてたのなら、貴方も違った路が開けたのかもしれない」
「兄上……」
「今更言っても仕方ないですね」
いつも通りの皮肉っぽい笑みを浮かべると、フェルドスパーは弟に背を向けた。
出口へと歩を進めると、後ろから弟の声が聞こえた。
「兄上」
「なんです?」
フェルドスパーは足を止め、振り返った。
「ひとつだけ聞いてもいいですか?」
弟に問いに、無言で顎をしゃくり、促す。
「兄上が生きたかった別の人生ってなんなんです?」
口端を軽くあげ、微笑を浮かべると、フェルドスパーは茶化すように答えた。
「内緒です」
と、その時、固く閉ざされていた鉄の扉が重々しい音を立てて開いた。
フェルドスパーの持つ儚い明かりだけが頼りだった闇の中に、眩しいほどの光が差し込んでくる。
姿を現したのは、聖核を持つ新しい王、藍里とエドルスティン、そしてコランダムだった。
「おや、皆さんおそろいでどうしました?」
「先ほど判決が下った。喜んでくれ。俺の主張が議会に通ったんだ」
そう言うと、藍里は視線をメノー・レへと向けた。
「メノー・レ。お前を王の名において、王都から永久に追放する」
思いがけない言葉に、メノー・レが目を見開く。
「お前は狭い自分の考えに固執しすぎた。それ故に大きな間違いを犯した。だから、その目で見て来るがいい。お前が壊そうとしたもの、壊したもの。クリスティラのありとあらゆる姿を。そして己がこれからどうすべきなのか、己がしたことをどう償えばいいのか、進むべき道を選んだのなら……サードニックスの名を捨て、新しい名前で戻ってこい。地位も肩書きも捨て、生まれ変わった一人の人間として」
藍里はそう言うと、鮮やかに微笑んだ。
「死ぬよりずっと建設的だろ?」
メノー・レとフェルドスパーはその場に膝をつくと、床に額がつかんばかりに深々と頭を下げた。
「王の温かいご恩情溢れるお言葉、痛み入ります」
藍里は深く頷くと、視線を傍らにいるコランダムに向けた。
「お前はどうする? 父親と一緒に行ってもいいんだぞ」
コランダムは腕を組み、首を傾けた。
「やめとく。俺が一緒に行ったら親父にとって罰にならねえだろ。俺さえいればいい人だからな」
息子の言葉に、メノー・レが顔をあげる。
「それに、これは俺にとっても罰なんだ。親父と離れて生きたことなんてないからな。でも、いい経験になると思う。いい加減俺も親父も、子離れ親離れしねーとな」
どこか自嘲気味に笑うと、肩をすくめる。
「それにな」
打って変わった真摯な声でコランダムは続ける。
「俺も自分の進むべき道を、もう選んだんだ。お前は、世界を滅ぼそうとした俺を許してくれた。生かしてくれた。俺を城から出してくれたアイリーナのように。俺は、二度もお前に救われたんだ。だからこそ、ここで誓う。今度こそお前を疑うことなく守り続けるってな。忘れてるだろうが、俺はお前にとってたった一人の肉親なんだぜ? 確かに親父は違うが、母親たちの血は繋がっている。俺たちは従兄弟同士なんだ。たとえ、お前の肉体が地球の人間の血を引いていても、魂は血が繋がってる。そうだろ?」
コランダムの言葉に、藍里が笑みで応える。
「ああ。そうだな」
「それに」
そう言うと、ニヤリと笑い、コランダムは藍里の肩を抱きしめた。
「藍里に生まれ変わった今、俺だってお前の伴侶候補になるよな? 身分的には問題ねーし、クリスティラは従兄妹の結婚も許されてるしさ」
「なっ!」
それまで黙って二人の会話を聞いていたエドルスティンが、焦った声をあげる。
「コランダム! 何を言い出すんだ!」
「だってお前はアイリーナの婚約者で、藍里の婚約者じゃねえもん」
「そんなっ!」
「そういうことなら、私にも立候補の権利はありますよねえ。独身ですし。祭司と王族の結婚はめずらしいことでもないですし。それに中年の魅力もなかなかいいもんですよ?」
フェルドスパーもいたずらっぽく笑いながら藍里の空いている方の腕をとる。
「フェルドまで何を言い出すんだ!」
情けない声をあげて、エドルスティンは縋るように盟友を見る。
「お前らさあ。根本的なことを忘れてない? 俺はオトコなんだけど」
辟易とした声で藍里が言う。
「そんなの関係ないですよ。貴方の中の聖核は、必要とあれば貴方の染色体まで変えちゃいます。どうしても子孫は残さなくちゃならない立場ですからねえ」
「え……ええ?」
腰をぬかさんばかりに驚愕し、藍里は思わずすっとんきょうな声をあげる。
「聖核ってそんなことも出来るの?」
「まあ普通の人間じゃないわけですし」
「マジで?」
「マジで」
わざとらしいまでの笑みを浮かべながら、フェルドスパーが胸の前で両手を合わせてみせた。
はあ……。
深くため息をつくと、藍里は憮然と顔をあげた。
「だったら俺が可愛い女の子を娶るってのもアリだよな?」
「もちろんアリです」
飄々とフェルドスパーが応える。
「そんなっ!」
「んなのダメだろ!」
エドルスティンとコランダムが同時に声を張り上げる。
だが、次の瞬間にはぎりりと火花を散らし、お互いをにらみ合う。
「だから君は関係ないだろ!」
「お前こそいつまでも婚約者面してんなよ。もう時効なんだよ!」
「時効なんて関係ない! 僕の愛は永遠だ」
「俺だって永遠だよ」
不毛な口げんかを繰り広げる二人を置いて、呆れきった藍里は無言のまま冷たく踵を返した。
フェルドスパーも苦笑しながらその後を追う。
あたりを憚らず見苦しい喧嘩している男二人は、扉が重々しく閉じる音でやっとおいて行かれたことに気づき、慌てて外へと走り出す。
ほんの一瞬だけコランダムが後ろを振り返ったが、背中の視線を振り切るように無言のままその場を離れた。
光に溢れる鉄の扉の向こうに藍里たちが消え、慣れ親しんだ静かな闇が訪れると、メノー・レは再び深々と頭を下げ、ささやきにも似た掠れた声で感謝と謝罪の言葉を呟いた。
■ ■ ■
「藍里様、お支度は出来ましたか? そろそろ時間ですよ。もうみな玉座の間に集まっています」
控えの間で正装に着替えた藍里を、同じように華美な法衣に身を包んだフェルドスパーが尋ねた。
これから、聖核を持つ、正統な王として、戴冠式が行われるのだ。
「何を見ていらっしゃるんです?」
複雑な装飾を施した鏡に、藍里は手を触れ、何やら熱心に覗き込んでいる。
フェルドスパーが後ろから伺い見ると、それは地球の光景のようだった。
モニターのようなものが映り、一人の女性の姿が見える。
「何です、これ」
「地球のテレビ番組だよ。妹が出ている」
クリスティラと地球では、時間の進み方が違う。
幼かった妹はもう自分の年を遙かに越え、既に成人しているようだった。
「よかった……。美姫……。夢を叶えたんだ」
「夢?」
「タレントになりたいって夢。小さい頃からのあいつの夢だったんだ。今バラエティ番組に出てる。けっこう売れっ子みたいだよ」
「そうですか……」
他の家族達の行く末も覗いて見た。
両親は、相変わらず平和に、平凡に暮らしているようだ。
兄の一哉は大学の教授になっているらしく、教卓で生徒たちに何やら講義している様子が映し出されていた。
もう生きる世界も、時間も違う。
二度と帰れないのもわかっている。
でも、藍里はこれだけは家族に言っておきたかった。
たとえ、声が届かなくてもかまわない。
鏡に両手をつき、額をあてる。
「俺はあなたたちが俺の家族だったことを絶対に忘れない。今まで育ててくれてありがとう。感謝しています。どうか幸せに」
そう言うと、藍里は顔をあげ、フェルドスパーへと腕を伸ばした。
恭しく祭司は王の手を取る。
鏡の中の妹が、何かの声に呼ばれたかのようにはっと顔をあげる。
そして、誰かを探すように慌ててあたりを見回すのを、既に控えの間を後にした藍里には、知るよしもなかった。
■ ■ ■
新しく放たれた扉をくぐり、藍里は敷き詰められた赤い絨毯を踏みしめ、王座へと向かう。
玉座の右にはエドルスティン、そして左にはコランダムがいる。
フェルドスパーに誘われるままに、藍里は王座への階段を今一段ずつ確実に踏みしめながら、登り始めた。
了
初めて出版社に投稿した作品です。
確か最終まで残ったような←覚えてないあたり。
フォルダの中に残っていたので供養。
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