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再誕の旋律  作者: うどんで小判
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第四章


 そこは球体の内部のような造りだった。

 周りは青色に発光し、壁には文様のような古代文字が浮かんでは消えていく。

 空中に現れたいくつものモニターには、この星の今の現状が映し出されている。

 崩壊した村、障気に包まれ、すでに視界が遮られた町。

 そして天を仰いで嘆く人々や、怒りで周りを破壊し始める人々。

 泣いている子供を抱いて途方にくれる若い母親。

 諦めたように崩壊した町に座り込む老人。

 そして一番左端の画面には、今、まさに村がひとつ陥没しようとしていた。

 この星のすべてを把握できる部屋。

 まさしくここはクリスティラの子宮だ。

 ここがすべてを生みだし、そして滅ぼしていく場所なのだ。

 王宮の地下深くに作られたこの部屋は、城壁からかなりの距離があるはずなのに、アイリーナは寸分違うこともなくこの場所に己とコランダムを移動させた。

 これが聖核の力なのか……。

 何度か足を踏み入れたことがあるこのクリスティラの核へと、自分が正確に長距離転送されてきた事実にコランダムは舌を巻いた。

「これはこれは、アイリーナ姫」

 モニターの前のパネルに指を這わせ、何やら打ち込んでいた男が、床まで引き摺る長いマントを揺らして立ち上がった。

 腰まで伸びる灰色の髪と金目、そして面立ちがフェルドスパーのそれとよく似ている。

 だが、彼よりも若干年下のようだ。

「わざわざお越しいただいて恐縮です、アイリーナ様」

「お前のために来たのではない。メノー・レ。思い上がるな」

 アイリーナが無表情に返す。

「でも我らのもとに来ていただけたということは、我らに賛同していただけたということなのでは?」

「調子に乗るな。私は誰にも命令されない」

 アイリーナはルビー色の瞳を眇め、メノー・レをきつくにらみつけると、傍らのコランダムに視線を向けた。

「疲れた。部屋を用意しろ」

 尊大な物言いは記憶の中の従兄妹とちっとも変わってはいない。

 コランダムは苦笑すると腰を折り、仰々しく礼をとった。

「仰せのままに。お姫様」

 当然のように差し出された手をとると、コランダムは核の近くに簡易的に作られた寝室へとアイリーナを通した。

「ここは城とは違うんだからな。お前を世話するのは俺しかいねーんだからあんまこきつかわないでくれよ」

「だったら構うな。構えと頼んだ覚えはない」

 寝台に座ったまま顔を背けアイリーナはどこか投げやりに言った。

「お前をほっとくなんて、んなことできねーだろ? 俺にはお前の力が必要なんだよ」

 アイリーナの足下に跪き、コランダムは従兄妹の手を取った。

「……お前も私を利用しようとするんだな」

 無感動な瞳をコランダムに向け、アイリーナは小さく呟いた。

「違う! これはお前のためでもあるんだ。アイリーナ」

「私はこの世界の未来など興味はない。私自身の未来などというものにも興味はない……」

 アイリーナは冷たく視線を細める。

「忘れたのか。私はもう眠りについた存在。既に死んだ存在なのだ。この世界の行く末などどうでもいい」

「アイリーナ……」

「出ていけ」

「アイリーナ! 聞いてくれ」

「出ていけと言った。ドアに叩きつけられたいのか?」

 彼女になら造作もないことだ。

 先ほどのエドルスティンへの仕打ちで証明済みだ。

 これ以上ここで詮のない問答を繰り返しても、アイリーナの意志は変わりそうもない。

頑ななまでの拒絶をそこに感じ、コランダムはため息をつきながら立ち上がった。

「とりあえず少し休めよ。疲れてんだろ。何かあったら呼べ。俺は隣の部屋にいるから」

 返事もせずに、アイリーナはコランダムに背を向けた。

 肩をすくめ、コランダムは無言で部屋を後にした。

 その足でまっすぐメノー・レのいる核へと向かう。

 メノー・レは変わらずモニターの前に座り、指を素早くパネルに会わせ、何やら記述を続けている。

「再誕の新しい構築文とやらはできたのかよ? わざわざ鍵を連れてきてやったんだからな。できませんじゃすまねえぞ」

「八割方といったところですか。後は核本体に導入するさいに、鍵を開く意志をアイリーナ様がもっていただかないとならないのですが、彼女は協力してくれそうですか?」

 端末を打ち込みながら、メノー・レが答える。

「そんなの待ってたら、再誕の前に世界が滅びるだろ。俺はそれでも構わないけどな」

「それはいけません。死んでしまっては、お母上の復讐にはならない。この世界を変え、その上で貴方は生きなければ」

 メノー・レは立ち上がり、大股で歩み寄ると、コランダムの肩に両手をかけた。

 真剣な金色の目が、コランダムを捕らえる。

「貴方はどうしても生きなければならない。貴方がこの世界の王となり、世界に平和をもたらす存在になるのですから」

「アイツも一緒じゃなきゃ意味がねえ」

 コランダムはちらりとアイリーナがいる部屋の方へと視線を向けた。

「もちろんです。アイリーナ様を聖核から解放すれば、アイリーナ様だとて、貴方のありがたさがわかるでしょう。貴方だけが本当にアイリーナ様を想い、気遣っておられたのだから」

「別に気遣ってはいなかったけど、哀れだとは思ってたな」

「兄上の言うことならば、アイリーナ様も素直に聞いて下さるでしょう。今少し、前世で傷ついた御心が癒されるのに時間がかかるかもしれませんが」

「努力はするさ。新しい構築文を星の中核へ流すのに、どうしてもアイツの聖核が必要なんだからな。それに、俺はアイツをまた不幸にしたいわけじゃない。たとえ同父の兄妹ほど濃くなくても、俺とアイツは紛れもなく血は繋がってるんだから」

「もちろんでございます。聖核のことはお願いいたします」

「ああ」

 頷く若い貴公子を見つめながら、メノー・レは微かに口元に笑みを浮かべた。




■  ■  ■




 地下道も全体の半分ほどは進んだのだろうか。

 行けども行けども見えない出口と、襲いかかって来る魔物たちに、エドルスティンたちはさすがに疲弊を隠せないでいた。

 特に、魔物よけの結界を貼りっぱなしのフェルドスパーは、軽口を叩きながらも、何度も足下をふらつかせ、その度にエドルスティンに支えられた。

「大丈夫かい? 少し結界を解く時間を長くしても……」

「有無を言わさずヒトの匂いを追って魔物が襲って来ますよ。っていうか情けない。このくらいの労働で足下がふらつくなんて、やっぱり年には勝てませんねえ」

 乱れた灰色の髪をかき上げながら、フェルドスパーは深く息をついた。

「オリオとライラは大丈夫かい?」

 大丈夫ですと答えるライラの言葉に被せるように、オリオが言い募った。

「ライラが先ほどの戦闘で魔物に怪我を……」

「なんだって?」

「ライラ、見せて」

 慌ててエドルスティンとクリソベリルが駈け寄る。

「たいしたこと……ないです」

 その割には肩にはべっとりと血が滲んでいる。

「ぜんぜんたいしたことだよ」

 心配げに眉を顰め、エドルスティンはライラの腕をまくり、傷の具合を調べる。

 痛みに頬を強ばらせながらも、健気にもライラは言い募った。

「私をおいて先に行ってください。一カ所に長く留まっていると、血の臭いで魔物が寄って来ます」

「何言ってるんです。子供をこんなところに一人でおいていけるわけないでしょう。ハイハイ役たたずはどいてどいて」

 フェルドスパーはエドルスティンを押しのけるとライラの傍らに膝を折り、掌を傷口に当てた。

「いけません祭司様。お力を使ってはまた……」

「子供が遠慮なんかするもんじゃない。それに、私を守るために、そこの体力バカが一生懸命働いてくれますから大丈夫ですよ」

 意地悪く笑いながら、エドルスティンへと顎をしゃくる。

「体力バカは酷いな」

 そう軽口を叩きながらも、フェルドスパーの回復術でライラの傷口がふさがっていくのをエドルスティンは真剣に見つめている。

「でも、思えばここに藍里がいなかったのはよかったのかもしれない。これだけ魔物が多くては……」

「戦闘要員じゃない藍里様を守って戦うのは難儀だったかもしれませんね。……ハイ、終わりました。痛みはどうです?」

「もう……痛くないです。ありがとうございます、祭司様」

「クーティ、ライラのことを頼む」

「お任せ下さい」

 エドルスティンの言葉に、クリソベリルは頭を下げる。

「さあ、行きますよ。ぐずぐずしてはいられない。今は一刻も早く藍里様を保護しなければ……。何もかもが間に合わなくなる」

 かなり身体が辛いだろうに、フェルドスパーは顔にも出さずに立ち上がる。

 一瞬、足下が少しふらついているように見えたが、表情は相変わらず飄々としている。

 意地でも弱みを見せたくはないのだろう。

 なんでもない風を装いながら前へと歩を進めていく。

「すまない、フェルド」

「なんですか、いきなり」

 驚いたようにフェルドスパーが視線を向けてくる。

「君には……。迷惑ばかりかけている」

「そう思うなら、何もかも終わった暁には、豪華温泉旅行でもプレゼントしてほしいですねえ。年寄りには温泉が一番ですから」

「ああ、約束する」

 生真面目な青年剣士の返事に、祭司は思わず苦笑を漏らした。

 



■  ■  ■




 暗闇の中で、ぼんやりとアイリーナはベッドに座り、宙を見つめていた。

 心の中はからっぽだ。

 何ももうほしくない。

 感じたくもない。

 知りたくもない、聞きたくも見たくもない。

 だから自ら死を選んだのに。

 なぜ、今、こうやって自分の意識はまだこの世界に留まっているんだろう。

 アイリーナ……。

 アイリーナ……!

 微かに遠くから、自分を呼ぶ声が聞こえる。

 アイリーナ! 聞こえるか? アイリーナ!

 違う、遠くからではない。

 自分の身の内から。頭の中から、その声は聞こえた。

「藍里……?」

 名前を呼ぶと、彼の姿が暗闇に浮き上がった。

 空間の中には、藍里と、アイリーナと、そして彼女が座るベッドしか見えない。

「よかった……、俺の声が聞こえて。もう話せないかと思ったよ」

 泣きそうな表情で藍里が歩み寄り、アイリーナの隣へと腰を下ろした。

「……すまない……。藍里」

「え?」

 長い髪で表情を隠しながら、アイリーナが呟く。

「これはお前の身体なのに……。勝手に使ってしまった。お前の意識を無理矢理押しこんで……」

「そんなこと……。だって俺は君でもあるんだろ?」

 アイリーナの細い手を取りながら、藍里は微笑んだ。

「でも……。お前の意志を無視したのは事実だ。だが……私はどうしてもあそこにいたくなかったんだ」

 クリソベリルを抱き起こすエドルスティンの姿。

 その光景は、死の間際に見たものとよく似ていた。

「アイリーナ、教えてくれよ。なぜ、君が自らの命を絶ったのか……。何が君を絶望に追い込んだのか……。俺は理解すべきなんだ。そうじゃなきゃ、永遠に君とひとつにはなれない」

「藍里……」

「アイリーナ、頼む」

 アイリーナはしなやかな腕を伸ばし、藍里の身体をひしと抱きしめた。

 二人の身体の実体が溶け、徐々にまばゆいばかりの光を出して粒子化していく。

アイリーナと藍里を形取っていた粒子が重なり合い、そしてひとつに混ざり合う。

 突如、藍里の脳裏に自分のものではない記憶が映像として流れ込んできた。

 まるで、テレビを見ているような感覚だ。

 その中には、今より若干若いエドルスティン、オリオとライラ、そしてクリソベリルもいる。

 間違いなくアイリーナの記憶だ。

 まるでその日その場にタイムスリップしたかのように、映像が目の前を流れていく。

 その日は結婚式の前日だった。

 アイリーナは高鳴る気持ちを抑えきれず、就寝する前に兄であるコランダムを尋ねていた。

 どうせベッドに入っても、興奮して眠れないのだから、暇つぶしに少し話し相手になってもらおうと思ったのだ。

 コランダムは当然のように自室にいた。

 だが、寝間着には着替えておらず、薄暗がりの中、ぼんやりと窓辺に腰を下ろし、外を見つめていた。

 いつもの軽薄な感じはなりをひそめ、どこかよそよそしい他人のような壁を感じ、アイリーナは訝しげに兄の名前を呼んだ。

「コランダム?」

「アイリーナ。明日他の男の嫁になろうっていう姫君が、いくら兄貴とはいえ、別の男の部屋を尋ねてくるのは感心しねーな」

「バカ言うな。何がオトコだ。お前は兄上だぞ」

 アイリーナは口を尖らせながら、勝手に部屋に入り、イスへと座った。

「なんか用か?」

「用ってわけじゃないが……。なんだ? 用がなきゃ来ちゃいけないのか?」

 コランダムは妹の方へ視線を向けることなく、静かに呟いた。

「俺の母親は、ずっとこうやって窓の外を見ていた。来る日も来る日も。死ぬまでずっとな」

「フィレイーナ様が?」

「なあ、アイリーナ。前王がなぜ戒律を破り、二人も后を娶ったかわかるか?」

 視線をアイリーナの方へやっと向け、コランダムが問いかける。

「……二人とも好きだったからじゃないのか?」

「……なるほどねえ。じゃあ、なぜ姉君の方だけを屋敷に閉じこめ、その存在も死んだことにしたんだと思う?」

「そんなの……わからない。お前はどう思うんだ?」

 アイリーナの問いには答えず、コランダムはただ肩をすくめて見せた。

「唯一わかるのは、前王がそれを望んだからなんだろうな。聖核がある者がこの世で一番偉い。どんな我が儘も許される。ほしいものは手に入り、望むことはかなえられる。人を踏みにじっても、どんな理不尽な願いでもな。なぜなら、聖核を持つ者だけがこの星の生き死にを決められるからだ」

「そう……なのか?」

「だけどな、ヒトの心だけはそうはいかねえ。たとえ望んでも、そいつの身体は手に入っても、心だけは自由にはならねえ。たとえ世界が滅んだって手に入らないものは入らない。それが人間の心ってもんだ」

 どこか冷たい視線をアイリーナに投げかけると、コランダムは再び窓の外へと顔を向けた。

「お前……さっきから何が言いたいんだ? 私に何か言いたいことがあるんだろうが、よくわからんぞ。言いたいことははっきり言え!」

 なんとなく兄の言葉に自分を否定するような不快なものを感じ取って、アイリーナは声を荒げた。

「言葉通りさ。お前もそうならないように気をつけな」

「私が人の心を踏みにじるようなことをするっていうのか?」

 険しいまなざしで、アイリーナは兄をにらみつけた。

「もちろん、お前がそんなことするとは思ってないさ。あの屋敷に閉じこめられていた俺を、救い出してくれたのはお前だ」

「お前の存在を知っていたらもっと早く解放してた」

「それも知ってる。恨んでなんかいないさ。感謝してる。だからこそ、お前には幸せになってほしい」

「なるだろ、これから」

 アイリーナの言葉に、コランダムは皮肉っぽく口の端をあげて見せた。

「そうだな、お前はある意味シアワセだよな」

「何?」

「お前のために誰かが泣くなんてことは思いつきもしねーんだろうし?」

「どういうことだ?」

 つとアイリーナの赤い瞳が眇められる。

「さて、どういうことでしょうね?」

 おどけたように言うと、それっきりコランダムはアイリーナの方を向かなかった。

「さっさと部屋戻んな、幸せな花嫁さん」

 ひらひらと手を振りながらも視線は窓の外を向いている。

「言われなくとも戻る!」

 憤慨して、アイリーナは乱暴にドアを閉めた。

 なんなんだ、あいつは!

 わけのわからない、思わせぶりな事を言う。

 まるでこの結婚が誰かを不幸にしているような口ぶりだ。

 そんなわけはない。

 自分たちは祝福されて結婚するのだ。

 アイリーナは部屋には戻らず、城の外へと出た。

 心が荒らんだまま、部屋には戻りたくなかった。

 頭を冷やす意味でも、少し庭でも散歩した方がいい。

 そう思って歩を進めた。

 だから、その場にアイリーナが通りかかったのは本当に偶然だった。

 だが、その偶然は悲劇を生んだ。

 誰かが泣きながら激昂している声が、庭園の中から聞こえてきた。

 聞き覚えのある声だ。

 クリソベリル?

 自分の侍女が、何を悲しんでいるのだろうか?

 声は進んでいくほどに、徐々にはっきりと聞こえてきた。

「もう……もう押さえられない……。自分の気持ちを偽れない! 私はエドルスティン様を……!」

 エドルスティン?

 訝しげに思いながら、アイリーナは、視界を遮るほど茎が伸び、咲き乱れている花壇を横切った。

 次の瞬間、開けた視界に信じられない光景が映った。

 固く抱きしめ合いながら、くちづけを交わす、侍女と婚約者の姿。

 コランダムの言葉が脳裏で響き渡る。

 聖核を持っているヤツは人を踏みにじっても……!

 アイリーナは言葉もなく、震える膝で一歩後ろに下がった。

 足下に転がった小枝が音を立てる。

 突如響いたその音に、恋人たちが身体を離す。

 そして、その視線の先には。

 絶望に身体を強ばらせる、アイリーナの姿があった。

 驚愕に目を見開いたエドルスティンが、婚約者の名前を呼ぶ前に、アイリーナは自身の身体をその場から消した。

 時空を曲げての瞬間転送。

 聖核を持つものだけができる、高等魔法。

 移動したその先は、幼い頃、よく三人で遊んだ城内に作られた小高い丘だ。

 花々が咲き乱れ、王都の先まで見渡せる、見晴らしのよい丘。

 そこで、アイリーナとエドルスティン、そしてクリソベリルは、物心ついたころから共に過ごし、かけっこをしたり、寝ころんだり、時には剣のけいこや、花冠を作ったりして遊んだのだ。

 その思い出の地で、アイリーナは一人地面に膝をついていた。

 頬を伝わる涙が雨のように地を濡らす。

 騙されていたのだ。

 愛されていると思ったのに。

 祝福されていると思ったのに。

 その実、裏で二人は知らない間に愛をはぐくんでいたのだ。

 忠実な侍女の振りをして、優しい婚約者の振りをして。

 二人して自分を謀っていたのだ。

 聖核を持つ自分が望むから、二人は愛し合いながらも、別れることを選んだというのか?

 いや、別れるつもりもなかったのかもしれない。

 自分と夫婦を演じるその裏で、二人はずっと恋人同士でいるつもりだったのかもしれない。

 エドルスティンは、私にくちづけをしたことなど一度もない……。

 アイリーナは二度と這い上がることができない絶望の闇へと深く落ちていった。

 思考は一気に死へと向かっていく。

 自分がいなくなっても、コランダムがいる。

 聖核はコランダムに移り、愛し合う二人は結ばれることができる。

 こんないいことはない。

 自分の存在だけが、この世の中で不幸をもたらす忌むべき者だったのだ。

 この世を守る勝利の女神だと言い聞かされて育ってきたのに。

 それはとんだ間違いだった。

 自分の存在だけが……皆を不幸にする。

 アイリーナは、護身用の剣を抜いた。

 そして、次の瞬間にはためらいもなく、己の剣で深々と胸をついた。

 明らかに死ぬために突き立てた剣。どんな回復術でも救えない致命傷。

 掠れていく意識の向こうに、エドルスティンの顔が見えた。

 必死に自分の名前を叫んでいる。

 だが、アイリーナはその腕を力なく押しのけようとした。

 今更触れてほしくなかった。

 名前を呼んでもほしくなかった。

 何もかももうどうでもいいのだから。

 婚約者の顔が闇の中に溶けて、そして消えた。

 記憶はそこでぷっつりと途切れている。

 アイリーナと藍里の意識が、徐々に放れていく。

 ゆっくりと顔をあげ、二人は視線を絡め合わせた。

「アイリーナ、ごめん。辛かっただろ?」

 眉を寄せ、悲痛な面持ちで藍里が囁いた。

 アイリーナは無言で首を振ったが、その頬には涙が流れていた。

 顔をあげ、アイリーナは気遣うように藍里の頬へと指先を伸ばした。

「藍里。お前と意識が混じり合った時、お前の中にも深い深い闇が見えた……。それなのにお前はそれに囚われなかったのだな」

「深い闇?」

 藍里が首をかしげる。

「人を信じられない気持ち、人に裏切られた寂しい気持ち、そんなものをお前から感じた」

 アイリーナの言葉に、藍里は儚げに笑みを浮かべて見せた。

「そう……そうだな。俺もずっと疑いや怒りや憎しみに淀んだ心のまま過ごして来たと思う」

「お前も?」

 アイリーナの目の奥に、藍里の姿が映る。

「アイリーナ、俺はこう思うんだ。人は誰でも自分の方からしか物事は見えない。自分の立場でしかものを考えられない。でも考え方を変えれば……」

 藍里はつと目を伏せた。

「俺は長い間、俺をないがしろにしていた親や兄妹を憎んでいた。憎んでいたと思ってた。でも……そうじゃなかった」

 アイリーナが微かに首を傾ける。

「彼らも決して俺を嫌ってたわけじゃないと思う。ただ実の子として疑ったこと、腫れ物に触るように扱ったこと。その時間が長すぎて、どうやって普通の家族になれるかどうかわからなくなってたんだ」

「普通の……?」

「俺のこと、ちゃんと子供として考えてくれてた。兄も、妹も……。じゃなければ、あんなに俺がいなくなったことを嘆いたりはしない……。自分たちを責めたりしない……」

 藍里の瞳に涙が滲んだ。

だが、それはこぼれる前に、藍里の手で乱暴に拭い払われた。

「なくさないとそれがわからなかった。俺も、家族も。たとえ俺の魂がここの王族のものだったとしても、あの人たちが家族だった事実に変わりはない」

「藍里……」

「だから、アイリーナも。見失っちゃいけない。俺は信じる。エドルスティンは君を愛していた。優しい人だから、クリソベリルの想いを邪険にできなかったのも想像できる。あらがえずに、その場の激情に流されたのかもしれない。でも……、俺は彼の言葉を信じるよ」

「藍里……」

「それより、何よりも大切なのは、君が彼をどう思ってるかなんだ」

 強い意志を宿した瞳がアイリーナを捕らえる。

「……藍里?」

「もう嫌いか? あいつのこと、嫌いになったのか? 君を愛していなければ、あいつのことなんかどうでもいいのか?」

「……私は……」

 握りしめた手に、涙がひとつふたつ落ちる。

 震える唇で、アイリーナは声を絞り出した。

「嫌いになんか……」

 そう、忘れることなんかできない。

 ずっとずっと一緒にいた。

 怒ったり笑ったり、泣いたり喧嘩したり、一緒に悲しんだり、喜んだり、大切な思い出を数え切れないほど積み重ねてきた。

 その婚約者を、忘れることなんかできない。

 だからこそつらい。

「だったらその気持ちまで殺すなよ」

 晴れやかに微笑みながら、藍里が言う。

 泣き疲れた子供のような無防備な目をアイリーナは向けてくる。

「騙されていたとしてもか?」

「騙されていたとしてもだよ」

 藍里はアイリーナをきつく抱きしめた。

「大丈夫だって。ちゃんと自分の目で、心で確かめろよ。君はそれができる。俺が協力してやる」

「藍里……」

 震える細い腕をあげると、アイリーナは自分の半身を抱きしめた。

 実体化していたアイリーナの身体が粒子状になり、藍里に同化していく。

 アイリーナの力が、まるで水が柔らかな土にしみこむように、藍里の中へととけ込んでいく。

 漲る聖核の力を実感しながら、藍里はぐっと胸の前で手を握りしめた。

 アイリーナ、俺が君の魂を悲しみから解放してやるよ、必ずだ。

 心の中の半身にそう語りかけると、藍里は立ち上がり、ドアの方へと歩を進めた。

 ここを出て最初にやることは既に心に決まっていた


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