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再誕の旋律  作者: うどんで小判
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第一章

 誰かが泣いていた。

 闇の中、背を向けたまま子供のように座り込み、両手で顔を覆っている。

 腰の先まで流れるくせのない長く美しい紫の髪。

 小刻みに震える華奢な肩。

 すすり泣く声はまだあどけない。

 声をかけようとしても、舌は石のように堅く、歩み寄りたくても、鉛を履いたように足は重く動かなくなる。

 まるで深海の中をもがくように少しずつ動いて近づこうとするのだが、その美しい髪に指先が触れる前にいつも夢は唐突に覚めた。

「またか……」

 麻生藍里は乾ききった口腔の不快感に眉を寄せ、低く呟いた。

 そんな悪夢を見たときは、決まって頭が疼き、脂汗が額からじっとりと滲み出て、体中に疲労感を感じた。

 その日もそんな朝だった。

 藍里はだるく重い身体をようやく起こし、クローゼットから高校の制服をとり出した。

 のろのろと着替え、階下へ降りると、兄の一哉と妹の美姫は既に食卓を囲んでいた。

 直前まで楽しげに会話をしていたのに、藍里の姿を見ると、まるで申し合わせたかのように口を噤む。

 いつものことだった。

 おはようと言えば、無視されることはなく、ちゃんと挨拶は返ってくるが、どこか空々しく、そして余所余所しい。

 そんな挨拶ばかり返されるようになって、いつのまにか藍里は自分から声をかけることはなくなっていた。

 藍里は無言のままテーブルにつき、まるで他人のようにぎこちない笑みを浮かべながら母親が並べる朝食に箸をつけた。

 家族の中で自分だけが、誰にも似ていない。

 単身で名古屋に赴任している父親も、味噌汁をよそっている母親も、そして藍里の姿を見たとたん黙り込んだ兄も妹もどこにも似ているところがない。

 だからといって、迫害されているわけでも、虐待されているわけでもない。

 ただ漠然とした疎外感があるだけだ。

 とても血が繋がっている家族とは思えないほどのよそよそしさ。

 幼い頃から家族の誰にも似ていないと周りの人間に言われ続けてきた。

 心なしか、両親の態度が他の兄妹に対するのと比べ、妙に冷たい事もうすうす感じてはいた。

 藍里は近所でも学校でも評判の美貌で、少女と見紛うほどの整った顔立ちをしている。

 色は白く、目はアーモンド型に形よくつり上がり、口元は小さく上品で、ほんのり赤い。

 髪は癖がなくさらりとしていて、不特定多数の男子生徒がよくする、襟足にかかるほどの長さに切りそろえられた平凡な髪型をしている。

 だが、それでも藍里の美しさは際だっていた。

 ある意味、人形のように精密な美貌と言えるだろう。

 その不思議な美しさは、学校でも密かにファンクラブが出来るほどだ。

 繁華街に出たときに、タレントにスカウトされたのも一度や二度ではない。

 だが、麻生家の人々は、みな凡庸で、目鼻立ちは小さくて薄く、のっぺりとした典型的な日本人の顔立ちをしていた。

 家族に似ていないことと美貌の賞賛はいつも一緒について回った。

 それは冗談のようでもあり、感嘆のようでもあり、時には非難のようにも聞こえた。

 幼いながらも、誰にも似ていない自分に疑問に思っていた藍里の耳元に意地悪く囁く声があった。

 法事で親戚一同が集まった夜、酒に酔った親戚の一人が、勢いにまかせて告げてしまったのだ。

 藍里の出生を疑った両親が、しかるべき機関に依頼してDNA鑑定を行ったということを。

 病院でまれにある、取り違えの事故があったかもしれないと両親は疑ったのである。

 もちろん、結果は間違いなく実の息子であるというものだった。

 確かにある時期を境に、急に両親の態度が妙に卑屈になったのを、なんとなく藍里は気づいていた。

 今まで冷淡にも思えた態度が、他人行儀はそのままに、息子の顔色を始終窺い、腫れ物に触るような態度へと変化した。

 そんな両親を訝しく思っていた藍里はそれで合点がついた。

 そして深く失望した。

 もう何も両親に、そして家族に期待することもなくなった。

「ごちそうさま」

 味気ない食事を終え、藍里はテーブルを立った。

 カバンを取り、兄妹を待たずに玄関を出る。

 兄の一哉は同じ高校、そして妹の美姫は同じ敷地内にたつ付属中学に通っている。

 だが三人が連れ立って学校に行くことは一度もなかった。

 そして、藍里はそれを寂しいとも思わなかった。

 住宅街を抜け、駅へ続く直線の大きな歩道を下っていく。 

 三ヶ月ほど前は、町はクリスマス一色だったのに、それが正月の飾りに代わり、今はバレンタイン用のピンクとブラウンの旗が店の脇にゆらゆらと揺れている。

 駅に近づくほどに、同じような制服を着ている学生も増えてくる。

 そんな学生たちに混じり、藍里もまた、口元をマフラーで隠し、コートのポケットに手をつっこんで無言で歩いていく。

 と、その時。

 木枯らしが乾いた頬を鋭く撫でていく。

 時は満ちた……。

 吹き上げる風の音とともに、耳元で囁くような声が聞こえた気がして、藍里は思わず振り返った。

 だが、やはりそこには、駅に向かって無言で歩く人々の姿しかない。

 立ち止まる藍里を訝しく思う者もいず、無情なまでにその背を追い越していく。

「気のせい? だよな?」

 思い直して、再び駅に向かって藍里は歩いて行く。

 だがその背を、確かに見つめていた者がいた。

 

 


■  ■  ■




 昼休みが終わり、クラスメイトの男子数人と連れだって、藍里は昼休みのグラウンドへと出た。

 階段の踊り場で一哉に会ったが、どちらも無言、そして無視だった。

「今のお前のにーちゃんだろ?」

 藍里の肩を叩き、邪気のない声でクラスメイトの一人が言う。

「ぜんぜん似てないのな」

「よく言われるよ」

「仲わりーの?」

「別に」

 さらりと受け流して、藍里は表情も変えず階段を下りていく。

 こんなことは日常茶飯事だ。

 余所余所しい態度は、端から見てもわかるものかもしれないが、取り繕うつもりもなかった。

 下校時間になると、どのクラブにも属していない藍里はのろのろと帰り支度をし、校門を出る。

 何事もなく、今日もまた授業が終わり、家路へとつく。

 隣にある中学校からも、ぞろぞろと帰宅につく学生が出てくる。

 その中に、妹の美姫の姿もあった。

 手にはなにやら雑誌が握られている。

 表紙にはアイドルタレントが微笑み、オーディションの文字がかろうじて見える。

「麻生さん!」

 美姫がクラスメイトらしい少女たちに囲まれに声をかけられているのが見えた。

「この前のオーディション、どうだったの?」

「もちろん受かった?」

 美姫は無言のまま俯いた。

「あれえ? 落ちたの?」

 わざとらしく少女の一人が声を張り上げる。

「そりゃそうだよね~。お兄さんみたいな美形ならともかく麻生さんじゃ……。おっとしっつれい~」

 悪意のある笑い声をあげて茶化しながら、少女たちが無慈悲に美姫を置き去りにして走り出す。

 藍里には気づかず、少女たちがくすくすと笑いながらその脇を通り抜けていく。

「だいたいあんな地味な顔して、タレントになりたいなんてどんだけ図々しいんだってーの」

「ブスなほど夢見がちなんじゃない?」

「だいたい美しい姫っていう名前も完璧名前負けじゃん?」

 すれ違いざまに聞こえた声に、藍里は微かに眉をひそめた。 

 美姫がタレントになりたがっているのは知っていた。

 そして、そのせいで、藍里の美貌にコンプレックスを持っているのも。

 かといって、こればかりは藍里にはどうしようもないことだ。

 クラスメイトに揶揄され、落胆する妹の姿を偶然目撃したバツの悪さに、声をかけることも背を向けることもできず途方に暮れて立ちすくんでいると、唇をかみしめたまま俯いていた美姫がつと顔をあげた。

 視線の先に兄の姿を見つけ、一瞬驚いたように目を見開き、そして次の瞬間には瞳を歪め、きつくにらみつけてきた。

「何見てるの?」

「いや。……美姫、お前、さっきの奴らは……」

「ほっといて。お兄ちゃんには関係ない」

 両手に持った雑誌を限界まで握りしめる。表紙で微笑むアイドル女優の顔に、醜い皺が寄る。

 いつでもそうだった。

 小さい頃から美貌の兄と比べられ、女の子なのに可哀想と意味深に笑い合う大人たち。

 藍里と美姫の顔が逆だったらよかったのにとも口さがない大人に影で言われたこともある。

 美姫は大嫌いだった。

 大人たちも、男のくせに美しい兄も。

「美姫」

「私に話しかけないでって言ってるでしょ!」

 周りの学生たちが、驚いたように視線を向けてくる。

「お兄ちゃんなんかいなくなればいい」

 全身から悪意を絞り出し、言葉にして吐き捨てると、美姫はそのまま大股で歩み出し、藍里の脇を通り過ぎた。

 投げかけられた言葉が、ナイフのように突き刺さり、胸の奥がズキリと痛む。

だが、藍里は小さく肩で息をつくと顔をあげ、何事もなかったかのようにゆっくりと歩み出した。

 いなくなればいい、か。

 その言葉を投げつけられたのは、何も初めてではない。

 自分の存在が、妹にとって疎ましいことも知っていた。

「だからと言って、死ぬわけにもいかないしな」

 乾いた声で呟くと、藍里は歩を家路から公園へと向けた。

 普段は近くの団地の子供たちが、母親に連れられて遊びに来ているはずなのだが、なぜか今日に限って公園には、人一人いなかった。

 乾いた風が時折思い出したように吹き抜け、木々を揺らしながら空へと昇っていく。

 藍里はベンチに座ってぼんやりと低い空を見上げた。

 家へ帰る気にはなれなかった。

 かといってどこに行く当てもない。

 このまま座っていても風邪を引くだけだ。

 帰りたくなくても、結局は家に戻るしかないのだ。

「帰るか」

 ため息をつきながら立ち上がったとたん、いきなり周りの空気が変わった。

 なにやら張り詰めた空間が藍里の周りに生まれ、まるで背中に何かがはい上がっていくような不快感を感じる。

 これは……。

 そう思った瞬間、突然目の前に黒い小さな点が生まれた。

 錯覚かと思う間もなく、それはまるで紙に落とした墨のように徐々に広がり、ブラックホールのような不気味な穴を開けていく。

「なんだこれ……」

 ぞわりと肌が粟立つ。

 穴の奥に何か蠢いているものが見え、その物体が徐々に姿を現すと同時に、藍里の膝ががくがくと震え出す。

 なんと表現していいのかわからなかった。

 人のものと同じくらいの大きさの、不気味な頭をいくつも持つ見たこともないような怪物。

 裂けた口からは緑色の唾液を垂らしている。

 それが、猫のように身を屈めたと思った次の瞬間、地を這うようなうなり声をあげて、藍里に飛びかかってきた。

 声にならない悲鳴をあげて、藍里は思わず身をすくめた。

 だが、想像したような衝撃はいつまで立っても襲ってこなかった。

 代わりに、断末魔のような獣の声があがる。

 おそるおそる目をあけると、藍里の前には二人の男が立っていて、その前には口から泡を出し、痙攣しながら倒れている怪物がいた。

「何……何これ」

「ディーウェと言う怪物だよ、アイリーナ」

 男の一人が振り返ってどこかぎこちない笑みを浮かべている。

「アイ……リーナ?」

 誰のことだ。

 いや、それよりこれはなんだ?

 映画のロケ?

 何かの番組なのか?

 見ると目の前に立つ二人の男もどう見ても普通の格好ではない。

 まるでRPGゲームから抜け出てきたような、奇天烈な格好をしている。

 さしずめ、片方は鎧のようなものをまとった剣士、片方は長いローブを羽織った魔法使いというとこだろうか。

 だが、退治された化け物は、どうみても作り物には見えない。

 かといって夢のわけでもない。

 どこにもTVカメラは回ってないし、自分もはっきりと覚醒している。

 どんなトリックを使っても、目の前に黒い異次元空間など作り出せるはずもないのだ。

「エドルスティン様、早くしないと人が来ますよ。ぐずぐずしてはいられない」

 もう一人の男が、急かしながらも、どこかこの状況をおもしろがっているかのような口調で言う。

「わかっている」

 エドルスティンと呼ばれた男はうなずき、振り返ると、藍里に向かって躊躇することなく手をさしのべた。

「帰ろう、アイリーナ」

「は?」

 帰るってどこへ?

 っていうかアイリーナって誰だよ。

「アンタは誰だ。何言ってんだ」

「残念ですが詳しく説明している暇はないんですよ。すべてはあちらに戻ってからご説明申し上げます」

「だからあちらってなんだよ。あんたたち誰なんだよ?」

「時間がないと言ったでしょう」

 柔らかく微笑みながら、どこか冷酷な瞳で片割れの男は言った。

 今まで見たこともない、金色の瞳だった。

「ただ、今あなたにとってはっきり言えるのは、我々がいなかったら、貴方は死んでいたということですよ」

 男の物言いに、藍里は思わず黙り込む。

「またあんな化け物が出てこないとも限りませんよ。でも私たちがいれば、貴方は安全です」

「フェルドスパー、そういうものの言い方は……」

「エド様、何度も言いますが、ゆっくりおしゃべりしている暇も、説得している暇もないんです」

「それは……わかっているけど」

「さあ、アイリーナ様」

「俺はアイリーナなんて奴じゃない」

「いいえ、貴方はアイリーナ様ですよ。といってもこれは今の貴方の名前じゃない。前世の名前です」

「前世?」

「ま、積もる話は後にして。とりあえず移動しましょう。よろしいですね?」

「よろしくなくてもきかない感じがぷんぷんするんだけど?」

 用心深く上目遣いで見つめる藍里に、フェルドスパーと呼ばれた男は、妙に人なつっこく、にっこりと微笑んだ。

「その通りです」 

 そう言うと、フェルドスパーは驚くほどの素早さで藍里の身体を横抱きにした。

「ちょっ! 何するんだ」

「移動です」

「移動?」

「アイリーナ、大丈夫だから。僕たちを信じて」

 どこか縋るような声で、エドルスティンという男が言い募ってくる。

「開きます」

 フェルドスパーの声とともに再び渦のような歪みが空間に生まれてくる。

「行きます」

 その声を合図に、フェルドスパーが、そして続いてエドルスティンがブラックホールへと飛び込む。

 竜巻の中に巻き込まれたような強風に煽られ、藍里は思わずきつく瞳を閉じた。

 魂がふっと天に昇るような、妙な浮遊感の中、まるで徹夜あけのような抗い難い睡魔に、深く意識が沈んでいった。

 



■  ■  ■



 

 漆黒の闇の中、再び紫の長い髪の少女の姿がぼんやりと浮かび上がって見えた。

背を向け、両手で顔を押さえてすすり泣いている。

すべてに絶望し、生きる望みさえないと。

そんなことを訴えかけているような悲しげな嗚咽。

君……。

藍里は声をかけようと必死に手を伸ばすが、少女の肩に触れることは出来ない。

その時、顔を覆っていた両手が徐に膝の上に落とされ、少女の頭がゆらりと動いた。

振り返る!

長い前髪の隙間から泪に濡れた瞳が、すんなりとした鼻が、そして形のよい赤い唇が見えたと思った瞬間、夢は唐突に終わった。

 気がつくと、藍里は柔らかなベッドに横たわっていた。

 だが、慣れ親しんだ自室のものとはちがう。

 窓は一切なく、壁というより布で囲まれた部屋のようだった。

 また……、あの夢か……。

 頭を振りながら身体を起こすと、布の一部がめくり上がり、エドルスティンと呼ばれた男が入ってきた。

 黒い瞳に肩の下まで伸ばした黒い髪。

 長身で肩から胸にかけて複雑な模様で覆われた鎧と着け、背中には黒く長いマントをまとっている。

 全身黒ずくめの上、切れ長で一瞬冷たそうに見える外見でありながらも、絶えず浮かべている優しげな笑顔のせいで、片割れの男よりは柔和に見えるのが不思議だった。

「目がさめたかい? 気分はどう? どこか痛むところとかないかな?」

「いや……」

「そう、よかった」

 柔らかく微笑み、エドルスティンの指が優しく藍里の髪を撫でる。

 その手を乱暴に振り払い、藍里は目の前の男をにらみつけた。

「アンタ何者なんだ。そしてここはどこなんだよ」

「ここは、王都から千フォール離れた、セルウェイという村だよ。千フォールはそうだね、キロで換算すると、二百キロ弱くらいかな」

「セルウェイ? なんだそりゃ。日本にそんな地名あるのかよ?」

 気色ばむ藍里に、エドルスティンは少し悲しげに瞳を細めた。

「日本どころか地球でもない。ここはクリスティラ」

「クリス……?」

「君の国、君の星だよ」

 そう告げられ、藍里は呆然とエドルスティンを見つめた。

「はあ?」

「見てごらん」

 そう言って出口を指さし、エドルスティンは藍里を促した。

 急いでベッドを降り、出口を塞いでいた布をまくりあげる。

「これ……は?」

 目の前に広がる世界は、藍里が見たこともないような色の空だった。

 赤くよどんだ空、その中に不気味に浮かぶ黒い斑のような雲、そして妙に乾いた冷たい空気。足下には水気のない乾いた赤い土が広がり、生い茂る草花はあからさまに覇気がなく、しおれかけている。

 生暖かく、不快な風が、藍里の頬を撫で、髪をかき上げていく。

「ここがクリスティラ。君が治める大地。長らく君の魂がこの星になかったせいで、この星は今死にかけている」

「え?」

 死にかけている? 俺がいなかったから?

「どういう意味だよ? わけ……わかんないんだけど?」

 人一人いなくなったからって星の命が危うくなるなんて聞いたことがない。

 その前にこの男はなんて言った?

 俺の星?

「順序立てて話した方がいいですよ、エド様」

 カサリと足下の枯れた草を踏みながら、無理矢理藍里を抱え込んだ男が現れた。

 腰まである長い灰色の髪、端正でありながら、冷酷そうな切れ長の金色の瞳。

 同じようにつり目できつい印象の顔だちでありながら柔和な笑みを浮かべているエドルスティンとはかなり雰囲気がちがう。

 それにエドルスティンよりはかなり年上だ。

「アンタは……」

「自己紹介がまだでしたね。私はフェルドスパー・レ・サードニックスと申します。王族に仕える祭司をしております。そしてこちらが、エドルスティン・オパリオス公。武芸に優れ、代々王をおそば近くでお守りする、栄えあるオパリオス家の総領で、前世のあなたの婚約者だったお方です」

「こん……やく?」

「そう。前世ではあなたは女性、この星の女王だったんですよ。まあ詳しい説明はテントの中でいたしましょう。王都に帰るまでは、しばらくはテント暮らしの不自由な思いをさせますがご辛抱願いますよ」

「ちょっと待ってくれ。ここは日本でも地球でもないっていうのか?」

「そうです。日本にも、そして地球にも見えないでしょう?」

 フェルドスパーは頷くと、藍里の肩に手を置き、優しく、だが強引にテントへと押しやった。




■  ■  ■




「この星の名は、クリスティラ。女神クリスティラの加護を受け、その血を受けた王族のみが治められる神の星と言われています」

 フェルドスパーは静かに語り始めた。

「あなたがおられた地球とは次元の違う世界、とご理解いただけたらと思います」

「次元が……?」

「そう、違う次元の同じような宇宙の星と思っていただければよろしいかと。祭司のみにつたわる秘術で異空間を繋げ、貴方の世界と我々の世界を繋ぐことが可能なのです。ただし、長い時間は無理ですが」

「はあ……」

 なんだかわけがわからない。

「SF小説のワープみたいなもん?」

「まあそんな感じです」

 薄い笑みを浮かべながらフェルドスパーは頷いた。

「俺がいなかったからこの星が滅びかけてるって言ったな? それはどういうことだ?」

「十七年前。といってもあなたの星の時間に換算しての話ですが……、この星では実際は二年ほどしか時間はたっていません。次元が違う世界の話ですから、時の流れの早さもちがうのです」

「十七年前……、君はあることがあって、命がつきた」

 エドルスティンが言葉を続けた。

「ある事……?」

「それは……」

「この星は、たった一人の王族によっていつも支えられています」

 エドルスティンの言葉を遮るように、フェルドスパーが口を開いた。

「彼らの魂には、聖核というものが刻まれていて、それを持つ者だけがこの星を治められる。天も地も、その者だけに従うのです。いなければ、すべてのものが弱体化し、いずれは滅びる」

「聖核……?」

「魂に刻まれているものだと言われてますので、実体はわかりません。聖核を持つ者の歌が、この世のすべてを協調させ、成長を促し、安寧をもたらす。ゆえに、あなたを失った我々は、一刻も早く、あなたを取り戻さねばならなかった。それも、赤子の姿ではなく、ある程度育ってもらわなければ意味がない。歌ってもらわなくちゃいけないわけですからね。私はあなたの魂をとらえ、異次元空間を通り、地球へと送りました。なるべく早く成長してもらうために」

「アンタが?」

「私は祭司ですから。異空間を行き来する能力は、祭司しか伝えられない秘術なのです」

「信じて……もらえるかな?」

 心配そうに、エドルスティンが藍里の顔をのぞき込んでくる。

「信じるも信じないも、ここは地球じゃないことはさすがに俺にだってわかる。夢でも、作り話でもないことも……。第一もう地球には帰れないんだろ?」

 藍里の問いに、フェルドスパーは小さく口の端をあげた。

「帰りたいんですか?」

 その質問には答えず、藍里は堅く口を結び、黙り込んだ。

「帰らずとも、様子は窺うことは出来ますよ? ごらんになりますか?」

 フェルドスパーの言葉に、藍里はしばらく躊躇した後、頷いた。

 たらいのようなものに水を張り巡らせ、フェルドスパーはその中にゆっくりと指を入れてかき混ぜ始めた。

 水がゆっくりと波打ち、渦を描き出す。

「契約を結びし水の女王よ、我が望むものを写せ」

 そう唱えると、指先を静かに出す。

 渦を描いていた波が消えると、水面に何か映像が映し出されてくる。

 そこは見紛うこともない、藍里の家だった。

 リビングにはみんなが集まり、一様に暗い顔をし、うなだれている。

 テーブルの上には、チラシが束になっておいてあり、よく見ると、それは藍里を探して欲しいというポスターだった。

 すっかり行方不明者扱いになっている。

 冷静に考えれば当たり前だ。何も言わずに姿を消したのだから。

 私のせいだ! 私がおにいちゃんにあんなことを言ったから!

 微かにむせびなく妹の声が聞こえる。

「美姫……」

 母親も顔を覆って号泣している。

 腹を痛めて産んだ子を、実の子ではないなどと疑った罰があたったのだと。

 父は眉間に皺を寄せ、兄は悲痛な面持ちで俯いている。

「なんだよ……、これ。なんで今になって……俺がいなくなって不幸だみたいな顔してるんだよ……」

 苦しげに叫びながら、藍里が水面に顔を寄せる。

「いなくなればよかったんじゃないのかよ?」

「さあ、もういいでしょう」

 フェルドスパーが再度水面に手を入れると、映像は無慈悲に渦の中に消えていく。

「いくら叫んでもご家族には聞こえませんよ」

 冷たくフェルドスパーが言い放つ。

「なあ、もう一度、……もう一度地球には戻れないのか?」

「戻る必要はないでしょう。そのうち彼らもあなたのことは諦めます。なんの手がかりもないのだから」

「でも、せめて失踪が妹のせいじゃないってことくらい伝えたいんだ」

「妹じゃないですよ」

 フェルドスパーが冷たく言い放った。

「彼らはあなたの家族でもない。そう言われて育ったんじゃないですか?」

「……それは」

 痛いところをつかれ、藍里は押し黙った。

 だが納得したわけではない。

 確かに、家族の中で疎外感はあった。だからといって、何も言わず失踪し、彼らに心配かけて平気でいられるほど、藍里は非情でもなかった。何よりも、あんなに自分がいなくなったことを嘆き悲しんでいるなど、思いもよらなかったのだ。

「いいじゃないですか。今頃心の底から反省しているでしょう。魂はあの世界のものではなくても、身体は紛れもなく、あの両親から作られたものだ。それなのに信じず、あなたを孤独にした。その罰みたいなもんでしょ」

「フェルド!」

 たしなめるように、エドルスティンが名前を呼んだが、フェルドスパーは視線も向けなかった。

「それに先ほども言いましたように、こちらとあちらの時間の流れは違う。そのうち忘れます。あなたの家族も、あなた自身もね。あなたはこちら側の人間なのだから。現金なものでね、初めてわかるものなのですよ。人というものは……。失ってみてその大切さがね」

「フェルド!」

 これ以上耐えられないとでも言うように、エドルスティンがますます声を荒げる。

「失礼。少ししゃべりすぎましたかね。外で頭を冷やして参ります」

 そう揶揄するように言うと、フェルドスパーは席をたち、テントの外へと消えた。

 フェルドスパーの言葉に衝撃を受けたのは、藍里ではなくエドルスティンの方だった。

 藍里に向けた言葉のはずなのに、まるで自分が投げかけられたかのように、小刻みに身体を震わせ、そして唇をかみしめて俯いた。

「エドルスティン? とか言ったよな。アンタ……どうかしたのか?」

 尋常じゃない反応に、藍里の眉が顰められる。

「大丈夫……ぼくは……なんでもないから……気にしないで」

 自身を落ち着かせるためか、大きく息を吐くと、エドルスティンはいつもの人好きのする笑みを浮かべた。

「ごめんね、アイリーナ。うまく機会が作れればまた君を地球へ連れていってあげることもできるだろうけど、それはフェルドしか出来ないし……。それに今は率先してやらなくちゃならないことがあるんだ。だから半ば強引に君を連れ戻すことになっちゃったんだけど……」

「半ばじゃなくて、完璧に強引だよ。で、俺は何をしたらいいんだ? それが終われば地球に帰れるんだな?」

「ずっとは無理だろうけど……。この星は君がいなくては生きていけないから……。でも好きなときに家族に会えるようにはなると思う。君がその気になれば……」

「その気になれば?」

「君は聖核を持つ王族だから、その力は祭司より上のはずだよ、アイリーナ。異空間の移動も可能だと思……」

「あのさあ」

 苛立った声をあげて、藍里はエドルスティンを遮った。

「あんたらナチュラルにアイリーナって呼んでるけど、俺の名前は藍里だから」

 エドルスティンの表情が瞬時に悲しげに歪んだ。

「悪いけど、勝手に知らない名前で呼ばれても困る。それは死んだ奴の名前なんだろ? それにここにいる限り、俺はアンタたちの言うことを聞いて、黙ってついて行くしかないわけだし。逃げ出したって、知らない土地で野垂れ死ぬしかないんだからな」

「藍里、僕たちは君の臣下なんだよ。祭司も騎士も、君を守るために存在していることを忘れないで欲しい。君こそこの星の王、僕たちの支配者なんだ」

「無理矢理連れてきて何言ってるんだよ」

「……そうだね、ごめん」

 再び悲しげに俯いたエドルスティンだったが、思い直したように顔をあげ、藍里にぎこちなくほほえみかけた。

「まずは王都に向かう。そこには君の兄君のコランダム・ジェダイドがいる」

「は? 兄?」

 藍里は呆れて肩をすくめた。

「兄貴がいるなら、俺が帰ってこなくてもよかったんじゃないの?」

「駄目なんだ。彼には聖核が浮かんで来なかった」

「聖核が?」

 エドルスティンが頷く。

「普通、跡取りの王族が亡くなれば、同じ王族の誰かに聖核が浮かぶ。だが妹である君が亡くなっても彼に聖核が浮かぶことはなかった。これがどういうことかわかるかい?」

「……いや?」

「コランダムは王家の血を受け継いでいないってことさ」

 訝しげに藍里が眉を寄せる。

「……でも兄なんだろ?」

「そう言われてるね」

「わけわかんね、どういうことだよ」

 藍里の問いに、エドルスティンはつと目を細めた。

「こんなことを言っては不敬にあたるが、先王は女神クリスティラの戒律を破っていた」

「クリスティラの戒律?」

「女神の教えでは、王族を始め、人はみな一夫一婦制。この星は女神の星だからね、妻を複数持つことは、女神の悋気の炎を受けることになる。だが先王はその誓約を破り后を二人娶った。双子の姉妹をね」

「双子?」

「一人は前世の君の母君、エリアトーナ・ロイダス様、そしてもう一人がフィレイーナ・ロイダス様、コランダムの母君だ」

「なんで双子をいっぺんに娶るんだよ」

「さあ……。どちらか一人を選ぶことはできなかったってことかな……」

「同じ顔の奥さんが二人いても仕方無いよーな気がするけど」

 身も蓋もない藍里の言い分に、エドルスティンは苦笑を浮かべた。

「まあ、それは亡くなった王にしか心中はわからないよ。同じ日に君たち兄妹は生まれ、エリアトーナ様は産後の肥立ちが悪く、すぐに亡くなった。そしてフィレイーナ様も日をおかずに亡くなられた、と聞いている」

「二人一緒に? この星の医療はどうなってんだよ」

「戒律を破った王への女神の罰だと言われているね」

「先王とやらは?」

「君が十歳になった時に、不慮の事故でお亡くなりになった。そして聖核が君に移り、君がこの星の女王となった」

「なのに、俺も死んだってわけ? どんだけ運が悪いんだよ、王族とやらは」

 藍里の問いに、エドルスティンは無言のままうつむいた。

「俺が死んだ理由は?」

「……君は……、十五の年に、自らの命を絶った」

 喉から絞り出すような重い声で言う。

「え?」

「自殺……したんだ」

「自殺? なぜ?」

「それは……」

 再びエドルスティンが苦しげに唇をかみしめる。

「ぼくが……」

 こじ開けるように言葉を発したとき、再び入り口の布がまくりあげられ、フェルドスパーが顔を出した。

「もうすぐ夜が明けます。食事をしたらテントをたたんで出発しますよ」

「出発?」

「王都にです」




■  ■  ■




 結局自分の前世の死因を聞けぬまま食事を終え、テントを出ると、外にはいくつか同じようなテントが張ってあることに気づいた。

 たぶん、エドルスティンたちのテントなのだろう。

 見知らぬ二人組が協力し合い、彼らのテントを手際よく畳んでいるのが見えた。

「あの人たちは?」

「ご安心下さい。彼らもあなたの従者ですよ。テントを畳んだら、ノーマを連れてきてくれる手はずになってます」

「ノーマ?」

「この星の主に乗り物に使っている動物ですよ。おとなしくて賢い動物です」

 しばらくすると、藍里と同じくらいの年齢の少年と少女が馬によく似た動物の手綱を引きながら、こちらに向かってくるのが見えた。

 藍里の前に出ると、無言のまま二人は頭を下げた。

「紹介しましょう。あなたの従者で、オリオとライラです」

 髪型と服装で男女とわかるが、近場で見ると、二人の顔は瓜二つだった。 

「そっくりだな」

「兄妹ですからね。若いですが、腕は確かです」

「アイリーナ様、お久しゅうございます」 

 兄妹は涙ぐみながら藍里を見上げると、胸の前を片手で押さえ、膝を折った。

「彼らは幼い頃からアイリーナ様の遊び相手兼従者だったんですよ」

「またお会いできて幸せです、アイリーナ様」

「今度こそ、お守り申し上げます、アイリーナ様」

 二人そろって深々と頭を下げる。

「ちょっと待ってくれ。今の俺は藍里って名前なんだ。あと『様』もいらない。藍里って呼んでくれ」

「藍里……?」

 きょとんとしながら、兄妹は顔を見合わせあう。

「藍里がいいと言ってるから、そうしてくれるかい?」

 エドルスティンの言葉に、戸惑いながらもオリオとライラは頷いた。

 荷物を二頭の馬に乗せ、フェルドスパーとエドルスティンもそれぞれノーマにまたがった。

乗馬の経験のない藍里はエドルスティンと相乗りをすることになった。

乗ってみるとその背はかなり高い。

落ちたら無事ではすまなそうだ。

 おっかなびっくり手綱をとると、後ろからエドルスティンが手を添え、支えてくれた。

「辛くなったらよりかかっていいからね」

 そうは言われても、生まれてこのかた他人と身体を密着する機会などなかった藍里には、まるでお姫様のように後ろから抱きしめられ支えられている状態は、妙に気恥ずかしく、居心地が悪かった。

 自分の中の動揺をごまかすように、藍里は周りの景色を見回した。

 夜が明けたとは聞いたが、それにしてはあまりに薄暗すぎる。

 人が生きていると言うことは、太陽に似た恒星がこの星の近くにあるということなのだろうが……。

「暗いな」

「障気が空を覆ってるからね。この赤いもやが障気だよ」

「障気?」

「この星の中心部に淀んでる粒子のことだよ。正常な状態であれば、大気中に舞い、人々に疲労軽減や精神の安定作用を与える聖なる粒子なんだけどね。星の生命力が弱り、汚れた粒子が浄化出来ないまま内部から吹き出しているからこんな色なんだ。浄化されてない粒子は、少量だけど毒性がある。大量に浴び続ければ、人体に影響が出てくるだろうし、このままでは障気の厚みがまして、天からの陽光を遮ってしまうことにもなる。今はまだかろうじてもっているが、この状態が続けば、どんな被害がでるか……」

「それで? 王都に行ったらどうすりゃいいんだ。その兄貴とやらと会えばいいのか?」

「とりあえずは、王城に戻って、地下の神殿で再誕の儀式を行います」

「再誕の儀式?」

 フェルドスパーの言葉に、藍里は首をかしげた。

「王家のものにしか出来ない、再誕の歌を女神に捧げるのです」

「ちょっとまてよ、俺、歌なんか」

 焦って藍里は声を荒げた。

「大丈夫、歌えるはずだよ。今はまだ思い出せないかもしれないけど」

 エドルスティンが優しく微笑む。

「あのさ、あんたら勝手に話を進めてるけど」

 藍里は目を眇め、前を進むフェルドスパーの背中へと視線を向けた。

「俺がその女王の生まれ変わりじゃなかったらどーすんの?」

「残念ですが、その可能性はないですね。あなたには確かに聖核が刻み込まれてますから」

「証拠あんのかよ」

「ありますよ」

 そう言うと、フェルドスパーは前方を指さした。

 そこは、たわわな果実が実った木が数本と、人工的に作られたものだろうか、大きな石が積み重ねて出来たオアシスがあった。

「あそこに何が?」

「とりあえず、非常食用に、果実をとっていきますかね。水も補給しましょう」

 そう言うと、手綱を振ってノーマの歩を早めた。

 エドルスティンも前にならう。

「ちょ、証拠はなんなんだよ」

「フェルドスパーは説明するより見た方が早いって言ってるんだよ」

 くすりと笑いながら、エドルスティンが宥める。

「見た方が?」

 意図が読めず混乱する藍里をエドルスティンが抱きかかえてノーマからおろす。

 手招きするフェルドスパーの傍らにたつと、彼は水面を指さした。

「ごらんなさい」

 言われるままにのぞき込むと、藍里は思わず息を呑んだ。

「なんだこれ」

 髪が紫色になっている。目も美しいルビーのような赤だ。

 日本人、いや、地球人にもありえない髪と目の色。

「いつの……まに」

「クリスティラの加護をうけた王族、つまり聖核を持つ王族はすべて紫の髪に赤い目です。例外はありません。同じ髪の色、同じ目の色の人間はこの星にはいません。あなただけです」

「はあ……」

 これが証拠……。

「じゃあ歌ってやつは?」

「歌えるはずなんですけどね、今すぐにでも。聖核を受けた時に歌も女神から授かりますから。聖核によって旋律も先代のものとはまったく違うはずです。覚えてませんか?」

「いや?」

「……そうですか」

「アンタは聞いたことないの?」

「聞いたことはありますが、お教えすることは出来ません。女神の歌は誰にでも歌えるものではないんです」

「そんな難しいの?」

「難しいとかそういう問題ではないんですがねえ。ほんとうに覚えてない?」

 念押しするようなフェルドスパーの問いに、藍里は困惑気味に頷いた。

 どこか解せない顔をしてはいたものの、フェルドスパーはそれ以上追求してこなかった。ただ、そのうち思い出すでしょうと楽観的に言っただけだった。

 歌と言われても。

 小さい頃習った童謡やら流行の歌手の歌やらそんなものしか思い浮かばない。

 まさかそんな歌で星の生命を救うことが出来るとは思えない。

「心配しないで。いろんなことがあったから、まだすべて記憶を取り戻してはいないんだよ。王城に帰れば思い出すこともあるさ」

 優しく藍里の肩に手を置きながら、エドルスティンが微笑む。

「それより、急ごう。今日は街の宿には泊まりたいからね。ここらへん一帯は魔物がたくさん出る草原だから、野宿は無理だし」

「魔物? 最初に襲ってきたようなのか?」

「え? うん。あれはどちらかというと見かけ倒しで弱い魔物ではあるんだけどね」

「弱い? あれが?」

 ふと思いついて、藍里が顔をあげる。

「あの魔物、もしかして誰かが俺を消すために送り込んだとか?」

「それはないですね」

 不気味なほどの満面の笑みでフェルドスパーが答える。

「なんで」

「だってあれは私たちが召還したものですから」

 思いがけない言葉に、藍里の思考が停止する。

「は?」

「だって危険な目に合わせないと、あなたは私たちと一緒に来てくれなかったでしょう? ですから」

 フェルドスパーはどこかわざとらしい媚びを含んだ声で言うと、似合わない可愛らしい仕草で両手を組み合わせた。

「わざと」

「そういうことです」

「藍里……、ごめん。でも決して危険な目に合わせるつもりはなかったんだ。ただ、あの時、いろいろと君に納得いくように説明する暇がなくて」

「それに、ありえない物を見せた方が、異世界から来たってわかってもらえますしねえ」

「信じ……られない……」

「ご……ごめんね。ごめんね……。そんな怒らないで」

 怒りで肩をふるわせる藍里を、エドルスティンがひたすら謝って宥めている。

 その様子を、オリオとライラは顔を見合わせ、笑いながら見つめていた。




■  ■  ■




 日が暮れる前に一行はある寂れた街へとたどり着いた。

 日没といっても、この世界での太陽にあたる星、デラノーヴァは完全には沈まないらしい。

 地球で言うところの白夜のような感じなのだろうと藍里は思った。

 白夜自体を藍里はテレビや雑誌で得た知識しかなかったが。

 通りを抜け、街の中心部と思われる広場に出たが、人影も少ない。

たまに通りすがる人々の表情は暗く、俯き加減だ。

「ずいぶん寂しい街なんだな。活気がないっていうか……。この星の街はみんなこうなのか?」

 外観は地球で言えばヨーロッパの田舎町に似ている。

 たまにすれ違う町の人々も、昔見た絵画に出てくる農民のような服装だ。

 男性はシャツにズボン、女性は、ふわりとした長いスカートをはくのが一般的のようだ。

 ほとんどの建物は煉瓦造りで、道もまた美しい模様を描いた石畳が続いている。

 だが、ここも赤い障気に包まれ、光が届ききらない、薄暗い空が広がっていた。

「二年前までは観光地としても栄えた街だったんですけどね。すっかり変わってしまいました」

「ここはセルヴァ・ゴレと言って、この国でもかなり大きい部類に入る町で、薬草の栽培が盛んな地域なんだ。町並みの美しさも有名なんだけど、肥えた土によってできる薬草は上質で、王族にも献上されていた。でも、最近の天候不良と日照不足で、すっかり薬草が育たなくなってしまい、経済的にも貧窮しているらしい」

 藍里の身体を支えながら、エドルスティンが説明する。

「薬だけじゃありません。野菜も果物も、それに伴い家畜も育たなくなっている。食料不足もまた深刻な問題です」

「俺が戻ってきたことでこれはすぐに解決するのか?」

 藍里の問いに、フェルドスパーは頷く。

「再誕の儀式を行えば、回復に向かうでしょう」

「二年の間、他に手だてはなかったのか?」

「女神の契約を受けている王族がいなければ、根本的解決にはなりません」

「コランダムっていう兄貴は?」

「彼には何の力もありません」

 吐き捨てるように言うと、フェルドスパーはノーマから降りた。

「今夜はここに泊まりましょう」

 そう言うと、ノーマの手綱をオリオに預け、無言のまま、複雑な模様の装飾が施された建物の中へと入って行く。

 エドルスティンもノーマから降りると、藍里に手を貸した。

 エドルスティンのノーマはライラが預かり、建物の裏へと引いていく。

「あれ、どうすんだ?」

「ノーマ用の宿舎に預けるんだ。どこの街にもある。ノーマは我々の生活に密着している動物だからね」

「この建物は?」

「一応セルヴァ・ゴレで一番いい宿なんだ。君を連れていながら、どんな宿でもいいってわけにはいかないでしょ?」

「別に俺は……」

「疲れたんじゃないのかい? こっちに来ていきなり慣れない乗り物で旅をすることになっちゃって」

疲れる暇も無い感じだけどな。

心の中で独りごちながら、藍里は促されるままに宿へと入る。

 信じられない出来事に遭遇し続けて、妙に頭が興奮しているのか、不思議なことに疲労感や睡魔は訪れてはいない。

 街で一番いいホテルの割には少し質素だが、中は古い煉瓦造りの落ち着いた作りになっていた。

 宿屋の主人に案内され、部屋に通されると、中は暖炉が燃え、床には絨毯代わりに毛皮がしきつめられていた。

 木で出来ているイスにもクッションのように毛皮が置かれ、まるで極寒の地に来たような錯覚さえ起こる。

「ここら辺ってよく毛皮が取れるのか?」

「オーファという獣の飼育も盛んなんだ。毛皮だけじゃなくて、食肉にもなる。最近は餌になる牧草の育ちが悪くて、かなり数が減ってしまったらしいけど」

「あなたのいた星で言うと、毛むくじゃらの牛ってとこですかね」

「じゃあ肉もうまいのか。すき焼きにして食うの?」

「まあそんなとこです」

 しばらくすると、仕事を終えたライラとオリオが部屋に顔を見せた。

 もう世話はいいから休むようにと、フェルドスパーは二人を隣の部屋へと控えさせた。

 先に風呂へと進められ、藍里はおそるおそるバスルームを覗いた。

 石で囲まれた湯船と、シャワーらしきものもある。

 一見こじんまりとした田舎の温泉のようだ。

「こっちの風呂ってほとんど日本のと変わらないのかな?」

「変わりませんよ。外で身体を洗って湯船で暖まるんです。水もお湯もここのレバーをひねれば出てきますよ」

 後ろからフェルドスパーが声をかけてくる。

「あんたらけっこうあっちの世界について詳しいんだな」

 感心したように藍里が言う。

「あなたの魂を守る地のことでしたからね。多少なりとも知識は持ってました。あなたが生まれてしばらくは、私たちも地球にいましたし、時々は様子を見にあちらへ渡っていました」

「へえ」

「お風呂の入り方がわからないなら、私が一緒に入りましょうか?」

「フェルド!」

 速攻エドルスティンの叱責が飛んでくる。

「なら、あなたが一緒に入ってあげたらどうです?」

「な……何を馬鹿な!」

 茶化すように言うフェルドスパーに、エドルスティンは大げさなほどに焦り、真っ赤になって口元を押さえている。

「別に恥ずかしがることはないんじゃないの? 男同士だろ?」

 訝しげに藍里が問うと、フェルドスパーは意地悪く笑った。

「エド様はこれでもあなたの婚約者だったので、いまだに割り切れないところがあるんじゃないですか? 純情ですよね」

「フェルド! 余計なことは言わなくていい!」

 可哀想なくらいに狼狽しているエドルスティンのことは無視し、藍里は先に風呂に入ることにした。

 思えば他人と風呂に入った経験などない。一人の方が気楽と言えば気楽だ。

 一日中ノーマに揺られた身体を洗い、湯船に浸かると、やっとひとここちついたような気がした。

 いまだにこの状況が、信じられない自分がいる。

 だが、嘘のような出来事でも、今自分の身に起こっているのは紛れもない現実だ。

 これから先のことは今考えても仕方がない。

 今できるのは、疲れた身体を癒し、明日に備えること。

 暖かな湯気が天井までゆったりと立ち登っていく。

 藍里は目を瞑り、力を抜いて身体を湯に任せた。

 ふと意識が遠のく。

 目の前に浮かぶのは、あの美しい紫の髪を持つ少女の姿だった。

 暗闇の中、端正な横顔が見える。

 だが、長い髪が覆っていて、見えるのは形のよい鼻と、赤い唇だけだった。

 もう少女は泣いてはおらず、無言のまま俯いている。

 君……。

 声をかけようと腕を伸ばすが、突然大きな音が鼓膜を振るわせ、驚きとともに身を起こした。

「何?」

 まるですぐ近くで雷がなったように感じたのに、実際は外から何やらぼそぼそと話し声がするだけだった。

 半分寝ている状態だったから変な風に音が聞こえたのか?

 藍里は素早く寝間着をまとうと、風呂場を出た。

「何かあったのか?」

 バスルームの隣にある寝室には、フェルドスパーの姿は見えなかった。

 むずかしい顔をして、エドルスティンが一人ベッド脇のイスに座っているだけだった。

 どうやら、声は部屋の中からではなく、外から聞こえているらしい。

 ぼそぼそとした声に時々激昂したような怒鳴り声も聞こえる。

 女や子供の泣き声もだ。

「少し面倒なことになったんだ」

「面倒なこと?」

「君の容姿が聖核を持つ王族のものであると、なぜか民たちに知られてしまっていてね。王族がここの宿に泊まっていることを知り、民が数十名宿の前に押しかけているらしい」

「はあ……?」

 エドルスティンの話に少し違和感を感じ、藍里は首を傾けた。

「自分の国の王族の容姿くらいみんな知ってるもんじゃないの? 俺の髪も目も特別な色なんだろ?」

「ここは地球と違ってテレビみたいなものはないからね。実際に姿を見たり聞いたりした者は皆無だと思う。この星の王族はその魂の特異性から言って、一生王城から出たりしないしね」

「へ?」

「まあ王城と言っても君が住んでいた街くらいの広さはあるから、閉じこめられてるって感じではないけどね」

「そんなもんなのか……」

「それより問題は……。民が君の髪や目の色を知ってしまっているってことだ。これは王城の限られた人間しか知らないはずで門外不出の極秘情報なんだけど……」

「そうなの?」

「前にも言ったように、この星は聖核を持っている者しか治められない。ゆえに聖核保持者を、もし誰かが圧倒的な暴力で支配しようとしたら? あるいは亡き者にしようとしたら……? 今回のように、君の魂を別の次元に飛ばす暇もなく、君の魂を見失ってしまったら? ……この星は遠くないうちに完全に死滅してしまうことになる。だからこそ、王族の容姿、そして秘めたる力のことは、代々王族に仕えている側近中の側近しか知らない」

「なのになぜか人々に知れ渡ってるってわけか。んで? 何を揉めてんの?」

「直談判で不満をぶつけに来たんだろうね。どの街も今は死にかけているから」

「俺……。出ていった方がいいの?」

「出ていっても何も出来ないよ。それより怒りに狂った民に何されるかわからない。今はフェルドスパーに任せておけばいい」

 そう言うと、エドルスティンはいたずらっぽく笑った。

「彼はこういうことには慣れてるよ。恙なくトラブルを収められると思う。ただ彼の悪い病気がでなければの話だけど」




■  ■  ■




「だから、ここで騒がれても困るわけです。王は異次元の国からお帰りでひどく疲れていらっしゃるのだから」

 気色ばんだ数十人の民を前にしても、フェルドスパーの飄々とした態度は変わらなかった。

 余裕な笑みを浮かべ、返ってこの状況をおもしろがっているように見える。

「でも、薬草が採れない故に、薬が作れず、子供が病に伏しているのです。このままでは死んでしまう!」

 中年の女性が涙を手で押さえながら叫ぶ。

「早く王になんとか手だてを!」

「第一王が不在だったから、こんなことになったって聞いたぞ。我々を捨て、異次元の国に逃げたから女神がお怒りなんだ」

「そうだそうだ!」

「王は星を枯らせた責任をとるべきだ!」

 激昂した民が拳を振り上げる。

「だから我々は今王都に向かっているわけです。この星を再誕する儀式を行うためにね。あなた方がここで騒ぎを起こし邪魔をすれば、それだけこの星の再誕に時間がかかるわけですよ」

 笑顔のままフェルドスパーが淡々と告げる。

「でも、娘はもう今にも死にそうなんです。後生です。王に拝謁を」

「王は医者じゃないですよ。会っても娘さんの病気を治すことなんか出来ません。病気を治すのは王ではなくて薬師でしょう」

「でもこんな天候で薬草が育たないんだ」

「だから、この状況を打開するために我々は王都に向かっているわけなんですけどね。何度話せばわかっていただけるやら」

 呆れながらフェルドスパーが肩をすくめた。

 だが、その甲斐のない押し問答を、フェルドスパーは実は楽しんでいる風でもあった。

 面倒は嫌いだが、遊べるトラブルは嫌いではない。

 このくらいの問題は、フェルドスパーにとっては子供の遊技のようなものだった。

「なんか村人たちをわざと挑発して、からかって遊んでるように見えるんだけど? あの人、物事を丸く収めようって気があるのか?」

「フェルドの悪い癖が出ちゃったみたいだね。やれやれ」

 宿のドアごしに、村人たちとのやりとりを伺っていた藍里とエドルスティンは呆れたようにため息をついた。

 エドルスティンは止めたのだが、どうしても藍里は民たちとフェルドスパーのやりとりが気になって、部屋を飛び出したのだ。

「まあ、民たちの嘆きもわかるけど……」

 エドルスティンはため息混じりに呟いた。

「彼らが知っていることと言えば、王族がこの世を治めているってことだけだから、今の状況はみな王のせいだと思ってしまってるんだ」

「聖核のこととかは?」

「知らない。君がいない間は代理の王が治めていたことすら知らないのかもしれない。僕らも王不在の間の混乱で、王都だけを治めるのが精一杯で、他の地域の様子まで見に行く暇がなかったからはっきりとは言えないけど」

「代理の王?」

「一応君がいなくなった後はコランダムが王位を継いでる。一応クリスティラ中に触れは出しているはずなんだけど、この混乱のせいで全ての町に届いてるわけではないのかもしれない」

「お粗末な情報伝達機能だな」

「地球と違って、ここはインターネットもない、古の神と魔法の国だからね。結局民たちは、普通に生活できれば誰が王になろうと直接関係はない。この星を治めるために、一人の人間が拘束され、毎日癒しの唄を歌っていたなんてことは知ったことでもないし、知る必要もないんだ」

 エドルスティンの言葉に、藍里の肩がぴくりと震えた。

 何か黒い感情が、身体の奥からあふれ出しそうになる。

 何だ?

 そう思う間もなく、一瞬のうちに、藍里の身体は何かに乗っ取られた。

 彼自身の意識は隅へと押しやられ、誰かの怒りと憎しみの感情にとらわれる。

 顔をあげた藍里の顔は、既に藍里の表情ではなかった。

「藍里?」

「嫌い」

 吐き捨てるように言う言葉は、藍里の声では発せられなかった。

 鈴の音を転がすような美しく、愛らしい声ではあったが、その言葉は酷くまがまがしいものだった。

「嫌い、みんな……大嫌い」

 エドルスティンの瞳が、驚愕のために限界まで見開かれる。

 乾いた唇から一人の名前が絞り出される。

「アイ……リーナ」

 ふわりと歩き出した藍里の後ろ姿に、かつての婚約者の姿が被って見える。

 止める間もなく、藍里はドアを開け、外へと歩き出す。

「アイリーナ!」

 突然姿を現した藍里に、さすがのフェルドスパーも驚愕の色を隠せなかった。

「藍里様、なぜ?」

 問いには答えず、藍里はフェルドスパーの脇をすり抜け、群衆の前に歩を進めた。

「王?」

「アンタが王様か?」

 民たちが一斉にたじろぐ。

「みんな……大嫌い」

 唇から漏れたのは少女の声だった。

 だが、愛らしさよりも、低く、強い感情を無理矢理抑えているせいか、まるで老女の声のように小刻みに震えている。

「当たり前のように摂取し、与えようともしない。感謝の心もない。道具のように人を扱って……命を削らせて……当然のように思っている」

 そう言うと、藍里は、いや、藍里に身体に乗り移っている誰かが顔をあげた。

 きついまなざしが人々をねめつける。

「私は神じゃない……。この星の奴隷だ!」

 その鋭いまなざしに、口調に、思わず民たちは後ずさった。

 次の瞬間。

 まるで落雷が目の前に落ちたような声量で、藍里が声を張り上げた。

 断末魔の叫びのような絶叫。

 思わずみな耳を押さえ、その場で蹲る。

 エドルスティンもフェルドスパーも、とっさに顔を背け、両耳を押さえた。

 ビリビリと建物の壁が震え、木々が突風にでも吹かれたように激しく揺さぶられる。

 脳の奥まで抉るような声は、長く尾を引きながら、それでも徐々おさまっていく。

 エドルスティンたちが恐る恐る目を開けると、天に向かって手をさしのべ、立ちすくんでいた藍里が、まるで魂が抜けたようにその場で崩れ落ちた。

「藍里!」

 思わずエドルスティンは駈け寄り、藍里の身体を抱き寄せた。

 顔色は死んだように蒼白で、ぐったりと身を任せている。

「エド、空をごらんなさい」

 フェルドスパーらしくない固い声に、エドルスティンは思わず顔をあげた。

「これは……」

 エドルスティンは我が目を疑った。

「障気がなくなっている?」

 衝撃に耐えられず地に伏していた住民たちも、そろそろと空を見上げる。

 空を覆っていたはずの赤黒い障気が、街の上だけ円を描くようにすっぽりとなくなっていて、薄い星の光がちりばめられた本来の藍色の空が見えている。

「こ……これは……」

 恐れおののきながら、民たちはお互いの顔を見合わせた。

 そして、目の前の、意識を失っている藍里へとゆっくりと視線を向けた。

 その表情が、徐々に喜びへと変わっていく。

「王よ、バンザイ!」

「王よ、永遠なれ」

 誰かが天に向かって叫び始めた。

 それが合図だった。

 手を取り合い、王をたたえる歓喜の声に街は満ちあふれる中、エドルスティンとフェルドスパーは無言のまま藍里を宿へと運び込んだ。

「酷い熱だ」

 ベッドに藍里を横たえ、エドルスティンが強ばった声で言う。

「いきなりの力の解放に身体がついていかないんでしょう。これでまた命を落とすようなことになったら……」

「本当にクリスティラは滅ぶ」

「これだから愚鈍な者たちは……。目先のことで一喜一憂してこの有様だ」

 外から聞こえてくる民たちの無遠慮な歓喜の声に、フェルドスパーはあからさまに眉を顰め口元を歪めた。

「一時障気を取り除いたからって何にもならない。再誕の儀式が遅れ、このまま放っておいたらまた障気が空を覆うだけです。ここまで死にかけた星は自力で再誕なんかできない。聖核がこの星にあればいいという時期はとっくに過ぎ去っている。再誕の儀式を行わなければ、この世界に戻った聖核は正しく機動せず、この星は今度こそ死ぬでしょう。もう一刻の猶予もないというのに」

「……宿の主人に言って、熱冷ましと滋養強壮の薬をもらってくるよ」

「それしかないでしょうね。急激な疲労からくる発熱に我々の回復術はきかない」

 階下に降りたエドルスティンがほどなく薬を手に戻ってきた。

 その頃には、さすがに外の騒ぎは収まり、おのおの家に引き取ったのか、静寂が訪れていた。

「外の者にも言って、この町で一番の薬をもらってきた。さすがに王が死んだら大変なことになるくらいは理解したみたいだ」

「ご苦労なことです」

 呆れきって、フェルドスパーは大げさに腕を広げた。

「藍里……」

 汗ばみ、荒い息を吐く藍里の耳元で、エドルスティンは優しく名前を呼ぶ。

 だが、意識は戻りそうもない。

 エドルスティンはしばらく逡巡していたが、思い切って小さな錠剤を藍里の唇に含ませ、口移しに水を流し込んだ。

 小さく喉が上下するのを見てとると、再び同じ動作を繰り返す。

「これで、少し熱が下がってくれるといいんだけど」

「まったくこんなところで足止めを食らってるわけにはいかないんですけどね。ここから王都まではどんなに急いでもまる二日はかかる。しかも儀式には準備も必要だっていうのに……」

 苛立ちを隠そうともせずに、フェルドスパーは吐き出した。

「一日遅れればそれだけこの星の死期が迫る。重症になればなるほど回復も遅れるというのに……」

「フェルド、あの歌は……、藍里ではなかったね」

 遮るように呟かれた相方の暗く沈んだ声に、フェルドスパーは口を噤んだ。

「さっき、藍里の姿に、アイリーナが重なって見えた」

「彼女がまだ藍里の魂に完全に融合していない証拠です。だから藍里自身は歌を覚えていなかったんでしょう。無理もない。彼女の死に様を考えれば……。安らかになど眠ってはいなかったはず」

「アイリーナの姿から、激しい怒気を感じたよ。深く根深い憎しみも……そして悲しみも……」

 藍里の頬を優しく撫で、乱れた前髪を払いながら、掠れた声でエドルスティンが言う。

「それでもアイリーナ様は歌を歌った。わざわざこの町を救うような歌を。悲しいかな、これが王族の本能なのでしょうかねえ」

「そうかな……」

 暗く沈んだ表情でエドルスティンが呟く。

「アイリーナはこの町を救おうとして歌ったわけではないんじゃないかな。あんなのは歌じゃない。……アイリーナの歌は……、もっと優しくて……たおやかで……聞いた人をすべて幸せにするような、慈悲に溢れたもので……」

 エドルスティンは眉を寄せ、きつく唇をかみしめた。

「あんな歌い方をすれば、自分の身体をもやられてしまうのがわかっていながら、わざとあんな風に無茶をしたんだ」

「己に巣くう憎しみにまかせて、ですか?」

「僕らみんなへの当てつけに思えたよ……。あの歌は復讐の歌だ。……自分を再び滅ぼして、この星を死滅させるための歌。彼女の恨みは果てしない。僕たちへの復讐。そして聖核を受け継いでしまった自分への復讐……」

 そのまま二人は重苦しく黙り込んだ。

 暖炉の中の薪が割れる乾いた音だけが聞こえている。

「彼女をあんな風にしたのは僕だ」

 深いため息をつきながら、エドルスティンは呟いた。

「許してもらおうなんて思っていない。でも……」

 額に浮いた藍里の汗を布で拭いながら、エドルスティンは小さく言った。

「今度こそ僕は彼女のそばを離れない。何があっても……。たとえこの命がつきても……」

 魂ごと、君のそばに……。

 アイリーナ……。

 いやだ……離せ……。触るな……。

 アイリーナの最期の言葉が蘇ってくる。

 血にまみれたアイリーナの身体を抱きしめたエドルスティンを、彼女はそう言って力のない腕で押しのけ、遠ざけたのだ。

「たとえ憎まれて、君に四肢を裂かれて殺されても、今度こそ……」

 あふれ出した泪が頬を流れる。

その泪が藍里の頬に落ちても、深い眠りに入ってしまった藍里の意識は戻らなかった。


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