第九話 魔王軍
「人の気配が感じられないだと?」
「はい。斥候から入った連絡によると、帝都周辺にもこれといった動きも見られず、それどころか兵の一人も確認が出来ないと――」
一体どういうことなのか? と魔王イヴが小首を傾げた。クルーガー王国を陥落させ、そこを拠点に更に戦力を整え六六六万の大群を率いて帝都までやってきた。
当然これだけの戦力である、帝国の今上皇帝デモンズ・エルム・ジェイソルの耳にもとっくに届いている筈であり、それ相応の対策を取ってくるであろうことは予測もついたのだが――
「相手からの降伏の意思表示などもないのか?」
こちらからもよく見える位置に白旗を上げておくなど、そういった可能性がないとも言い切れない。戦において負けなし、百戦錬磨の帝国軍であるが、戦線の要であるクルーガー王国が陥落し、要所である砦も次々と落とされており、今帝国に残っている兵の数は騎士も含めて六万六千程度であることが既に魔王の耳にも伝わっている。
戦力差が実に百倍、しかも魔王軍の兵は屈強な魔族を将とし、オーガやオークといった人間の数倍から数十倍の膂力を誇る魔物から地竜や飛竜にまたがりし暗黒騎士、それに魔王直下の三魔将が一人ネクロマンサーのヴェラや数多くの魔法に長けたワドナーのトロマが脇を固めている。
サイクロプスやジャイアントといった巨人族の戦士も戦いに参加している為、脆弱な人間からしてみれば数の差だけでは語れない恐ろしさがあってしかるべきなのである。
故に、無条件降伏もありえない話ではないと考えるイヴであるが――
「それが、全く降伏を示唆する様子も感じられないようなのです。いや、それどころか生きた人間の気配が全く感じられないと……」
思わず魔王は眉を顰めた。益々理由がわからないといった話であり、むしろそのことがより不気味にも感じられる。
「そんなのはただの小細工に決まってますわ」
すると、魔王の横に並んだ女――今上皇帝が娘であり、帝国の第一皇女たるバースディ・エルム・ジェイソルが微笑を浮かべ口にした。
ウェーブの掛かった金髪に、気の強そうな吊り目。年齢的には三十路も近いというのに全盛期から全く変化のない出来上がったプロポーションを誇る麗しの皇女である。
「……何故言い切れる?」
この魔族の中に似つかわしくない人間の皇女へ、試すように魔王イヴが尋ねる。
すると、ふふっ、と不敵な笑みを浮かべ。
「父は一度戦に出れば勇猛果敢に敵軍へ挑み、数多くの戦果を上げてきた――そう思われがちですが、あれの強さはそのような英雄譚のような美しいものばかりが要因ではございません。そもそもそれだけの戦歴を持つ帝国軍相手に、相手国が何も対策を考えず攻めてくることなどありえない。そう、いくら百戦錬磨の皇帝とはいえ、圧倒的に不利な状況で戦をせねばならなかったこととて数多くあります。そういった時、一体どうやって窮地を切り抜けたか――」
魔王は、一体どうしたというのだ? という様相でバースディに顔を向ける。
「父は、あれで結構ずる賢いところもあったのです。しかしそれは必ず帝国軍に勝利を収めさせるため、あれは勝ちに貪欲でした故、だからこそ勝利の為なら場合によっては卑怯と言われるようなことも平気で行いました。騙し討ちもお手の物、敢えてお父様自ら前に出て相手を挑発し、追ってきたところで霧の魔法により視界を奪い落とし穴に嵌めたり、戦力的に圧倒的に不利な状況においても人形を兵士の左右に備えさせ実際よりも多く見せてみたり、時には絶壁を背にした敵陣の後ろに回り込み、崖滑りからの奇襲を自ら行うなどの大胆さも兼ね添えておりました。つまりあれは正攻法ばかりではなく搦手にも長けていた……」
魔王は、ふむ、と一つ頷き。
「つまり、これは皇帝の企てによるものと言いたいのか?」
「はい、そのとおりでございますイヴ様。ですがこれは逆に言えばそれだけ追い詰められているという事――かつての戦いでもあれがこの手の方法を取るときは、失敗すれば一気に自軍が危機に瀕する可能性のあるものばかりでした。そういう意味では博打に近いことも勝利を得るためなら平気でやれる父でもありますが、それも判ってしまえばただの小細工」
「ふん、そうは言うが一体この状況でどんな手を打ってくると? 大体戦力的にはこちらが圧倒している。前がどれほどのものだったか知らないが、こちらには百倍の兵力があるのだ。何をやられたところで勝ちは揺るがないであろう」
すると全身これ筋肉といった屈強な身体と、そして牛の頭を持ちし魔族、魔王直属の部下であり三魔将が一人ミノタウロスのハチェットが言った。彼はミノタウロスの中でも特に希少なアステリオスという進化種である。
だがそんな彼をみやりながらバースディが肩を竦める。
「全くイヴ様のように素晴らしい魔王の、しかも三魔将といった光栄至極な称号を与えられているというのに、貴方は本当に脳みそが筋肉で出来ているようね」
「な、なんだと!」
怒鳴るハチェットであったが、くくっ、と魔王の含み笑いが聞こえてきたことで、むぐぅ、と唸り声を潜める。
「それでお前には皇帝の考えが読めるのか?」
「はい。父の事は娘であったこの私こそが最も理解していると言ってよいでしょう。それにあれの嫡女たる私は幼少の頃から数多くのことを学ばされました。その中には父の行った戦術すらも織り込まれており、数多くの武勇伝に近い話を包み隠さず教わってきたのです」
「なるほど、それ故の自信か。しかしそれだけ大事にされてきたにも関わらず、まさかその父を娘自ら裏切るとはな」
「……酷い人、私が裏切るきっかけを与えたのは貴方様ではありませんか。ですが、後悔はしておりません。大事にとは言っても、全ては政略結婚の為ですわ。その証拠に私は好きでもない男の下へ嫁がされたのです。本当に忌々しい――ですが、その檻から貴方様が解放してくれたのです」
「だから、私につくか」
「はい。私は決めましたの。籠の鳥から自由に愛を求める女となる道を」
どことなく蠱惑的な笑みを浮かべるバースディには微塵も後悔の念が感じられなかった。
「ふん、口だけでならなんとでも言えるさ」
「……貴方は、私が人間だからか、何をしてもお気に召さないようね」
「……ふん!」
ハチェットが威勢よく鼻息を吹き出すが、その牛頭に冷笑を向けた後、改めて彼女は魔王に説明を始めた。
「先程、ハチェット様が兵力に百倍の差があると言っておりましたが、あれは現状に関して言えば間違いともいえます」
「は? 何を言っているのだ。その話は元はといえばお前の持っていた情報が出元であろう」
怪訝そうに反論するハチェットに、確かに、とバースディが瞑目し答えるが。
「ですが、それと今では状況が違います。現状で言えばヘタすればその戦力差は六六六万対三千万になっているとも言えるでしょう」
「いっ! なんだそれは全然話が違うではないか! 貴様さては我々を謀ったのか!」
「謀るつもりならこんなことは話しませんよ。ですが私が以前話したのはあくまで帝国軍としての戦力。しかし帝都には三千万の臣民が暮らしています。それが全て敵として阻んでくるのであれば、その数の差は逆転致します」
は? とハチェットが目を丸くさせ、直後鼻息を盛大に吹き出しながら笑いあげた。
「馬鹿らしい! お前本気で言っているのか? そんなただ安穏と街で暮らしているだけの人間などいくら集まろうが烏合の衆。例え三千万であろうとなんならこの俺一人で捻り潰してくれるわ!」
「その単純な考えが羨ましいですわ」
「は? 魔王様! この女、やはりどうかしてます! やはり人間なんて……」
「まあ待て。バースディ、お前がただの思いつきでそのような事を言っているとは思えん。ただ、ハチェットの言うとおりただ街で暮らしていただけの人間が脅威になるとは思えんが、そのあたりはどう考えている?」
「はい、確かにイヴ様の懸念もわかります。それに流石に三千万というのは私も言い過ぎましたわ。ですが、低く見積もっても五百万ほどは民兵として駆りだされていると考えたほうがいいでしょう」
「だから、その民兵が何の脅威になるというのだ? 奴らにはとても民兵として育てる時間などなかったはず。個々に来るまでの調査でも民兵を訓練しているような様子は感じられなかったはずだ」
魔王軍も数にかまけてなにもしないでいる程愚かではない。魔族の中から偵察に適した物を選び、帝都の観察に向けていた。その情報を聞く限り、確かにハチェットの言うとおり民兵を鍛えているような様子はなかったのである。
「はい、仰るとおり、わざわざ鍛えるような真似はしないでしょう。ですがそんな事をしなくても戦力になるものはいます。鍛冶師や武器屋を営むものは武器に精通している場合も多く、教会の神官はある程度魔法も使えますし、狩人であれば弓も使えるでしょう」
「だからといって、そんな人間が五百万もいるわけがないだろう」
呆れ顔でハチェットが言った。確かに街中で元々戦えるものを掻き集めたとしても五万もいるか怪しいところである。
「戦えるものは僅かでもいいのですよ。彼らはただ残りの人間を指揮する役目を担えばいい。そして残りの兵に関しては戦いの経験がなくてもある程度丈夫なものであれば事足ります。なぜなら経験を補うのは訓練でなくても、魔法や魔法の道具でも可能だからです」
その発言に、なるほど、と魔王が頷き特進を示す。
「帝国軍には実力ある魔法部隊も存在します。その中には身体能力を強化する術に長けたものも多い。その力があれば一時的に民を強化することも可能。勿論それだけで全ての民を強化するのは不可能ですが、残りの人間に関しては魔法の道具を持たせることで力の足りなさを補わせる。帝都の規模であればそれぐらいの魔法道具を揃えることは不可能ではありません」
「ま、魔法道具だと? しかしそんなもので……」
「貴方は人間を馬鹿にしているのでご存じないのかもしれませんが、人間の作る魔法道具は決して侮れませんよ。魔族の使うものは剣や杖であり、その使用方法もある程度武術や魔法に精通している必要があるものばかりですが、人間の作る魔法道具は生活に役立つ物から比較的に簡単に扱える護身用まで様々。そして今回は護身用より更に強化改造されたものが民達にわけられているはず」
「……つまりお前はこう言いたいわけだな? 皇帝デモンズはまるで街から誰もが逃げ出したかのような状態に見せかけ、我ら魔王軍が乗り込んでくるのを待ち、のこのこやってきたところで叩く腹づもりだと」
「そのとおりでございます。しかも最初の段階では倒すより無力化を重点的に狙ってくるでしょう」
「なるほどな、そうすることで人質にもなりえるし、魔法による洗脳で傀儡にすることもあるえる……ふふ、これは迂闊に街には近づけぬか」
そう言いながらも、どこか楽しそうでもあるイヴであり――
「ですが、最初に言ったようにこんなものは判ってしまえば小細工に過ぎません。イヴ様が容赦なく殲滅を考えるのであればこの程度の罠、なんてことはございません」
「ふむ、やはりそうなるか。しかし本当にかつての故郷に容赦のないものだ」
「私の身も心も、その全てはイヴ様の物――ですから、どうか今イヴ様のお考えになった作戦が成功した暁には――前のように仮面を取って素顔を拝見させて下さい……」
「――判った、全てが終わったらな」
魔王イヴはそう言って、黒鉄の仮面に覆われた顔を裏切りの皇女バースディへと向けるのだった――
これより
魔王軍総勢六六六万VS殺人鬼(単騎)