第二話 雷轟冥士ダグラス
ダグラス・ケブルガイは突然の出来事に困惑しきっていた。
第三皇女であるプリンセスキャリーの行為には彼にも不安があった。
勇者召喚の魔法などは古代の伝承に残っていた程度のもので、何千年もの間それを実際に行おうなどとするものはいなかったのだ。
だがせまる魔王軍の脅威に、キャリー様は藁にもすがる思いでその術式を実行した。
ダグラスからしても成功すれば御の字ぐらいの気持ちであった。キャリー皇女に協力し魔力を注ぐ手伝いこそしたものの、恐らくその魔法は失敗に終わるだろうと考えてもいた。
だが魔法は成功した――かのように思えた。
術式が発動し魔法陣に浮かび上がる人影をその眼にした時、興奮さえ覚えたものだ。
だが実際に現れたそれは、彼の思い描く勇者とはかけ離れた存在であった。
顔を隠すように被せられたボロボロの布袋。視界を確保するためだけに開けられたふたつの闇穴。それが殊更不気味であった。
これが本当に勇者なのか? そんな疑問が頭を擡げたその時、その疑問は否定という形で回答を示した。
皇女が殺されたのである。信じがたい出来事であった。そしてその時は刹那であった。
更にその男はいつの間にか皇女の侍女であったミザリーの前にまで移動し、彼女の身体を左右に分断したのである。
本当に一瞬の出来事であった。数多の魔法を瞬時に展開できる程の頭脳を持った彼でさえ、思考が追いつかない程であった。
だが――
「ひっ、ひぃいいいい!」
「ば、化け物だぁああぁ!」
「こ、皇女様が殺された! み、ミザリー様まで! 失敗だ! 我らは勇者ではない! 悪魔をこの場に――」
「落ち着けぃいい!」
堰を切ったように悲鳴や泣き言を囀りだす部下たちに、ダグラスが叫びあげる。
その場がシーンと静まり返る。ダグラスから吹き溢れる魔力のソレは絶大だ。少しでも魔法を嗜んだものであれば、その力にあてられた瞬間に見が竦む。
だが――ダグラスは皆に感謝もした。おかげで自分も落ち着くことが出来たと。
「出口から近いものは今すぐ神殿を離れこの事をマイケル・ブギーマン将軍に伝えるのだ! 事は一刻を争う! さっさといけ!」
ダグラスの厳命に、入口前にいたふたりの神官が、は、はい! と言承けし弾かれるように飛び出していった。
「残ったものでこの悪魔を打ち倒すぞ! お前達は出来るだけ時間を稼げ! その間に私が魔法を完成させる!」
「ダグラス様が魔法を――」
「そうだダグラス様がいれば何も恐れる事はない!」
「雷轟冥士のダグラス様の魔法さえ決まれば、悪魔であろうと一溜りもないはず!」
先ほどまで怯えの色が隠せなかった彼の部下たちの瞳に光が戻る。
その姿に、フッ、と自虐的な笑みをダグラスは浮かべた。
(雷轟冥士か全く仰々しい二つ名だ)
そしてすぐさま術式を展開し、詠唱を開始する。
雷轟冥士ダグラス・ケブルガイ。かつてこの帝国に訪れた危機をたったひとりで乗り越えた雷槌の魔導師。
それは今から数年ほど前の事である。東方に存在したオーメン帝国がここエルム帝国に向けて進軍を開始した。
その時、ダグラスは国境沿いに領地を任された辺境伯の下に仕えていた。
だがその時の領地に存在する兵士の数は一万五千、それに対し帝国が送り出してきたのは騎士や魔導師も含め総勢五万の大軍勢である。
この戦い、誰もがエルム側の負けを信じて疑わなかった。狙われた領民ですら覚悟を決めて神に祈りを捧げた。
だがそこにひとりだけ諦めの悪い男がいた。それこそがダグラス・ケブルガイ。
そして彼はその絶大なる魔力をもって神の裁きがごとき雷槌の雨を、オーメン帝国の軍勢に降り注がせ、結果彼一人の手で五万いた軍勢をわずか五十名にまで減らしたのである。
そしてこの事がきっかけで彼は雷轟冥士の二つ名で呼ばれるようになり、皇帝直属の魔導師にまで上り詰めたのだ。
その雷轟冥士ダグラス・ケブルガイの詠唱が今まさに終わろうとしている。
たった一人で五万の軍勢をほぼ壊滅状態にまで追いやったその強大な魔法があれば、どんな相手でも恐れるに足りない筈――だが、彼の目には信じられない光景が繰り広げられていた。
「ば、馬鹿な、部下たちが――」
ダグラス程ではないにしても、この召喚の儀式に立ち会った部下たちは一流といっても差し支えないレベルの者たちだ。
だが、その部下が、今まさに彼の目の前で、勇者の代わりに召喚された化物の手で蹂躙されていた。
「ひ、ひぃいぃ、だ、ダグラス様、こいつは、こ、ぐごぉ――」
「い、いや、こないで、お願い、誰か助け、いやぁああああぁ!」
「馬鹿な! これだけの魔法を受けて、どうしてこいつは平気で、ダグラス様、早く魔法を、そうでなければ、あ、ぁああぁああ――」
ダグラスが部下として、そして弟子として可愛がっていた魔導師達の身体が、化物の手によって引き裂かれていく。あるものキャリーが愛用していたレイピアを投擲されその胸を穿たれ、ある者は手にした杖を奪われ頭蓋をぐちゃぐちゃに破壊され、ある者は自らが放った風の刃を弾き返され上下が離れ離れにされ、ある者はその細長い両足を掴まれ股を引き裂かれた――
累々と積み重なる遺骸――それをダグラスは涙を流しながら決して目をそらさず見据え続けた。
奥歯を噛み締め、怨嗟の念を紡ぐ詠唱に込め――そしていよいよ最後の一人が凶刃にかかりその首が引きちぎられたと同時に彼の術式は完成した。
だが、その時には既に化物の巨躯はダグラスの目の前にまで迫りつつある。
しかしダグラスは大事な部下を、愛する弟子を無慈悲に殺害した相手を見据え、その両手に雷の力を集束させた。
「喰らえ悪魔め! 我が最強の冥雷魔法、ダムネーション・ゲイボルグ」
両の掌を己が中心で重ね合わせ、集束した雷の力を開放する。その瞬間彼の両手は鋭い雷光の刃と化した。長さこそ五十センチメートル程度と決して長くはないが、その分圧倒的な魔力によってより鋭く、そしてより強大な電撃を内に秘め、雷の刃から紫電が迸る。
そして迫る化物へ彼が誇る雷刃が振り下ろされた。刃が肩口を刳り、大量の電撃が化物の身を蹂躙する。
(やった――仇は取ったぞ!)
心のなかでダグラスが歓喜した。これで死んでいった者たちも報われる――そう確信した。
だが――その直後屈強な右腕が進撃し、彼の頭を掴み、とんでもない握力で締め上げる。
「な、が、ば、馬鹿な、これだけの電撃を浴びて、まだ動けるだ、あ、あ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"あ"ぁ"あ"ぁ"あ"!」
そして――絶叫、ダグラスの体で彼が今放ったばかりの電撃が暴れまわる。殺人鬼の指は完全に彼の頭蓋にめり込み、そしてそこから己が受けた雷をそのまま流し返したのだ。
これを受け見事に感電したダグラスの身体は、殺人鬼の膂力で持ち上げられた状態でジタバタと暴れまわった。手の中に収まる顔が焦げ、煙が上がり皮膚が爛れ、目玉は蒸発、血液が沸騰し、まるでマグマのように肉肌が膨れ上がり、煮えたぎった血液が溢れだし、ローブを燃やし、そして終いには失禁し糸の切れた人形のように動かなくなった。
それを認め、殺人鬼は事切れたダグラスの骸をゴミくずのように放り投げた。
すっかり変わり果てたダグラスの肉体は地面に落下すると同時に腐った果実のようにぐしゃっと床に肉片をばらまいた。
そして部屋に残されたのは呼び出された殺人鬼がただ一人。命あるものは全て殺人鬼の手によって腐肉とかした。
殺人鬼は無情だ。殺人鬼にとって大事なのは命ある物を狩ることだ。それ以外に興味など無い。
つまり――既に殺人鬼にとってこの部屋に価値はない。狩る命の失せた空間など何の魅力も感じない。
故に殺人鬼は動きだす。その太い脚を動かし、見た目にはゆっくりとした足取りで、だがどんな獲物も逃さない足取りで、命の香りを頼りに神殿の外へと歩み出す――