第十八話 バースディの作戦
「まさか、三魔将と兵たちが全滅とはな――」
斥候として向かわせた部下の報告を受け、思わず魔王イヴが唸り声を上げた。鉄仮面で素顔は隠れているものの、きっと中では眉間に深い皺でも刻んでいることだろう。
「魔王様、申し上げにくいことではありますが、ここは一度退却を考慮されても宜しいかもしれません。相手はあまりに不気味すぎます」
魔王直属の護衛兵や大臣達が表情に影を落としながら進言した。正直帝国の百倍もの戦力を保持しながらたった一体の相手にその殆どを殺され、おめおめと逃げ帰ったなどと知れれば魔王の評価は当然ガタ落ちであり、魔国にて次なる王の座を狙う輩に付け入る隙を与えかねない。
しかしそれでもなお、この状況はあまりに不気味であり危険と判断したのであろう。
「全く、王の護衛を任されている魔族の重鎮達が揃いも揃って情けない姿ですわね」
しかしそれに異を唱えるものがいた。この魔王軍の中で唯一の人間である、裏切りのバースディである。
そんな彼女の様子に何人かの魔族が、チッ、と舌打ちした。人間でありながら魔王の傍に仕える事を許された(本人曰く魔王の正妻となる身とのことだが)この女のことをよく思っていない魔族は当然多い。
しかも彼女は人間をあっさり裏切り魔族側についた。そういう女は信用出来ないと重鎮の中には魔王へ直に進言するものも少なくなかった。
だが魔王イヴは帝国との戦においてバースディの情報は必要不可欠と窘め、荒ぶる魔族たちを抑えこんできた。
そうでなければこのような女などとっくに魔物の餌にされるか、もしくは苗床として一生飼い慣らされる哀れな家畜に成り果てていただろう。
「……お前は撤退には反対なのか?」
「当然です。これでは帝国の、つまりあの皇帝の思う壺ですわ」
「今更皇帝も糞もないだろう」
トラの頭をした重鎮の一人が顔を歪め述べる。これについては殆どの魔族の考えは一致していた。つまり魔王軍をここまで圧倒的な力で蹂躙した化物であれば、帝都などとっくに壊滅させてしまっているのだろうと。
「とんでもございません。私今回の件で一つ思い出しました。確か帝国には古い文献に勇者召喚の術式が残されていた筈。イヴ様、恐らくですが皇帝はこの勇者召喚を行い、そして――」
「それに成功させたと、そういうことか?」
魔族たちがどよめき始める。それもそのはずであり、その勇者召喚に関して言えば魔族の間でも有名な話であるからだ。何せその古い文献に記されていた勇者はかつての魔王を打ち倒したとされる伝説の勇者なのである。
「しかし――貴様は先程までこれは皇帝が我らをおびき出すための作戦に過ぎぬといっておったではないか! それ故に三魔将まで準備し貴様の言う反撃の作戦に乗ってやったというのに、舌の根も乾かぬうちにそのような事を!」
「あら? おかしな事を言われるのですね。私は間違ったことは言っておりませんよ。確かに皇帝は我々を帝都におびき寄せようとしたのです。そして伝説の勇者一人の力に委ねたのですよ。そして勇者ともなればその戦闘力は絶大。ですが街に余計な人々が残っていてはその力を存分に発揮できない。だからこそ――」
「帝都に全く人の気配がなかったと?」
仮面の下から魔王が確認すると、こくりと首肯するバースディであり。
「しかし、本来ならばおびき寄せて市街で決着をつけるつもりだったのでしょうが、三魔将が余計な攻撃を特に確認もせずに仕掛けたばかりに作戦を変更し、あちらから打ってきたといったところなのでしょう」
「いや、だからそれは貴様の作戦で――」
「確かに私は助言こそ致しましたが、あくまで助言。そこから先の戦術を考えるのは三魔将や貴方達みたいに本陣でどかっと鎮座している皆様のお仕事ではございませんか? 自分たちの詰めが甘かったのを安易に私への責任転換で逃れようなど、あまりに愚かですわよ」
周囲の魔族たちは強く歯噛みし、拳を握りしめ怒りに震えていた。だが魔王の手前、ここで暴力に訴えるわけにもいかない。
「だがバースディよ。その伝説の勇者によって我らの兵力がかなり削られているのは確かだ。六六六万いたはずの戦力が、既に残り五十万にまでなってしまったのだからな」
「そのとおりだ! 魔王様、ここはやはり無謀な真似はお止めになり、勇気ある撤退を――」
「馬鹿なことを言うものではありませんわ! ここで撤退などしては国に戻ってからもいい笑いものです。魔王イヴ様の評価も地に落ちますわ!」
魔族の目つきが酷く険しい。正直このまま撤退すればこのようなビッチどうとでも出来るのだぞ、と心内で思っている魔族も多そうだ。
「だが、現に勇者の手で我らは危殆に瀕しているのだぞ! この状況をどう考えるつもりだ!」
「危殆と言ってもまだ五十万も兵が残っております」
「貴様何を世迷い言を! 我々の軍は既にたった一人の相手に六百十六万も兵が死んでおるのだぞ。おまけに三魔将も打ち倒された! そのような相手、五十万程度でどうなると――」
「その勇者さえどうにかしてしまえば良い話ですわ」
吠える重鎮に言葉を潜らせ、不敵な笑みを零しバースディが言う。
「……それはつまり勇者を何とかするすべがあるという事か?」
「あらあら、魔王様ともあろう御方がそのような事を――むしろ簡単なことではございませんか。勇者召喚の術式があるのであれば、当然還送用の術式があることは自明の理」
「還送の術式だと? しかしそのようなもの一体どこにあるというのだ!」
バースディが自分の考えを述べると、魔王軍の一人が声を荒げた。確かに言うだけなら簡単だが、その術式が判らなければ意味が無い。
「ふふっ、それは勿論ここですわ」
しかしバースディは己の頭をトントンっと人差し指で叩き自信ありげに口にした。
「ほう、お主は還送の術式を知っているのか?」
「はい、たまたまですが。今は亡き王国にて愚かな男の書斎にて見つけた文献に記されておりました。どうやら召喚と還送の術式は別々の書物で記載を分けられていたようです。それを一度読んでおりますので」
「しかし……一度ぐらい読んだからといって事細かに記憶しているものでもないだろう」
「ふふっ、こうみえて私記憶力はいいのですよ? 一度見たものは全て私の頭に記憶され決して忘れることはありません。術式とて陣形も含めて全て覚えております。私、絶対忘れないですから」
ほう、と魔王が口にし。
「それは大したものだな。しかし、成功するものなのか?」
「召喚術が失敗していたのなら、ただのお伽噺とも思いましたが、しかし成功し現に勇者が現れたのであれば、成功する確率は高いと思われます」
そう言って恭しく頭を下げるバースディ。しかし魔族たちの表情は厳しい。
「そのようなものをぶっつけ本番で行い失敗したらどうするつもりだ? やはりここは――」
だが、その時魔物たちの声が重鎮たちの耳を貫いた。
「大変です! 敵が既に本陣の目の前まで迫っております! このままでは時期到達されるかと!」
「ば、馬鹿な! いくらなんでも早すぎる! 守りにつかせていた魔物は、魔族の隊長達はどうした!?」
「す、全て、全て殺されました! 全滅です! 現場はそれはもう酷い有様で……正直鬼畜の所業としか思えない状態です!」
そ、そこまでなのか――と呻くように重鎮達が口にする。
「これはもう決まりですわね。イヴ様、どうかここは私めに指揮権を」
「は? 何を言っているのだ! 人間ごときが偉そうに!」
「ですが、還送の術式を覚えているのは私だけですわ。それとも他に何か手があるとでも?」
むぐぐぅ、と悔しそうに呻きつつ、結局彼女の意見に同意した。今から逃げようにも敵はすぐそこまで迫っている。寧ろこの状況で撤退を行うほうが敵に背を向ける分危険が伴う。
ならば、と苦渋の決断といったところであろう。そして裏切りのバースディの指揮の下、急ピッチで魔法陣の準備が進められた――




