第十五話 ヴェラの誤算
帝国には大剣の一振りで千人を斬り殺すという豪腕の騎士が存在すると話に聞いていたが、迫る殺人鬼はそれどころではない。一振りで千程度であればまだなんとかなったかもしれないが、殺人鬼の一振りはあっさりと屍の壁を瓦解し突破してくる。
ヴェラとの距離は確実に近づいてきていた。もはやアンデッドだけではどうしようもないのは火を見るより明らかであった。
だが、それでもヴェラには後退の二文字はあり得ない。ここでもし後退してしまえば何れはハチェットの軍が待機する場所まで押し戻される。
別にハチェットを頼るのが嫌なのではない。そこまで後退するということは魔王の本陣まで殺人鬼が到達する確率が上がるということだ。
ヴェラは何よりも魔王の命を第一に考えなければいけない。ならば――ここは奥の手を使ってでも殺人鬼をここで食い止める。
もしそれが失敗したならば――ハチェットに望むのは魔王への報告。そして全軍の撤退だ。単騎でここまで、そう魔王軍の実に半分の軍勢を相手にしても疲れも見せずダメージすら与えられないこんな化物、もしヴェラの奥の手で駄目ならまともに相手をしては魔王さまとてどうなるか判らない。
だから――ハチェットも間違いなく今のヴェラの戦いを部下などを通して見ている。ならばいくら脳筋でも判るはず。ここで自分が死ぬようなことがもしあったなら、下手な色気など出さずにとにかく魔王を守りながら落ち延びて欲しい――
そんな願いを巡らせていると、遂に殺人鬼が視認できる位置まで近づいてきた。アンデッドではもう歯がたたないのは明らかだった。最早壁にすらなっていなかった。
だからこそ確実にここで殺さなければいけない。あれは妙な袋を頭にかぶせているが、袋に穿たれた二つの穴の奥では、不気味な光がギョロギョロとうごめいている。
ならば――生きてはいる。どんな形であれ、あれには命があるはずだ。
ならば、と殺人鬼との間合いを測る。射程を確認する。そして一歩、また一歩と近づき――その足がヴェラの制空圏に入ったその時、彼女は己の左目を隠していた黒髪を大きく掻き上げた。
そこには大きな大きな眼球がこびり付いていた。美しい蠱惑的な右目とは異なり、剥き出しのままのギョロギョロとした眼球が外に向けて突き出していた。
そして右目の倍はありそうな悍ましい眼球の目玉がぎょろりと動き、殺人鬼の姿を視界にとらえたその瞬間――漆黒の光が溢れだしそして殺人鬼の身体が黒い靄に包まれた。
「……【ロスト・アイズ】この目を見たものは死に、そして灰となる――」
語る、その効果を。ヴェラは掻き上げた髪を戻し、元の妖艶さを取り戻し、斜に構えながら言った。
黒い霧に包まれたなら、もう助かることはない。ヴェラのロスト・アイズを受けて助かったものなどこれまでもいなかった。
杖を使ったアンデッドの再生と違い、大量の魔力を消費するという欠点はあるものの、個が相手ならば絶対死を与えるこの眼は確かに最強にして最恐。
そう、いくら規格外な化物でも、これで間違いなく死が訪れて――などこなかった。そう死んでなどいない。その光景にヴェラは左目に負けないほどに右の瞳を見開く。
霧に包まれたまま、殺人鬼は近づいてきていた。そうまるで意に介さず。死にもせず灰にもならず、ヴェラとの距離を一歩また一歩と詰めていく。
そしてその間に霧もすっかり霧散した。信じられないといった様相で迫る殺人鬼を見据え続ける。
だが、当然だ。生あれば殺人鬼はその生命を摘むまで決して諦めはしない。倒れもしない。ましてや死などもってのほか。殺人鬼の動力源は目の前にならぶ生命体であり、同時にあふれる殺意である。そして殺すべき獲物がいるかぎり、殺意があるかぎり、殺人鬼は決して死なない。止まらない。諦めない。貪欲に、とにかく貪欲に、その生命を貪る。
「……でも、まだ、まだ終らない! 終わらせない!」
殺人鬼を見据える瞳に力を込め、再びヴェラは杖を振るい、アンデッドの再生を試みようとする。たとえ無駄と判っていても。ただの悪あがきと知っていても――そう、魔王のために、せめて一矢報いなければ。
「ごふっ!?」
否! そんものは殺人鬼の前では矮小な決意でしかなかった。いくら意地を張ろうが、覚悟を決めようが、殺人鬼のあふれる殺意の前では全てが無に帰す。
ヴェラが杖を利用し魔法を行使しようとしたその時、その一瞬で、殺人鬼はヴェラへと肉薄し、そして彼女の持つ冥腐の杖をその小さな口の奥へと、咽喉へと、己の怪力をもって一気に突っ込んだ。
杖の先端はあまりの強引さに胃にまで達する勢いであった。ヴェラの右の黒目が思わずグルンっと上を向き、喉からは嗚咽がもれ、吐瀉物も溢れ出てくる。
だが殺人鬼の狙いはそれだけではない。そう、既に魔法は行使されていた。ヴェラのアンデッドリターンは杖の先から再生したアンデッドを勢い良く吐き出していく。つまり――
「ぐぼぉおぉお、うぐぉお、おええぇええぇ、い"い"い"ヤ"あ"ぁ"ぁ"あ"――」
ただ苦しいだけというものではない。目に涙を溜め、地獄にでも落とされたかのような嗚咽。
そして、同時にヴェラのお腹がみるみるうちに膨張していく。あまりの勢いにローブも中のドレスも裂け、更に腹は臨月の妊婦のごとく膨れ上がっていく。
しかもその腹の内側には確かに何か蠢くものがあった。お腹の内側から手形が浮かび上がっていた。
そう、長くて硬いソレは彼女の喉奥にまで殺人鬼の手でぶち込まれた。そして既に発動した魔法は杖を媒介にしている為、彼女の意思を持ってしても止められない。
つまり、再生したアンデッドが杖から飛び出し、そして彼女の胃から。お腹から、中には本物の出産のごとく場所すらも利用して、まさに母体から生まれ落ちる赤子の如く、死者の群れがヴェラの内側を突き破り外へと飛び出したのである。
「あ、あぁあ、い、やぁあ、私を、食べないでぇえぇええぇえ――」
こうして再生を遂げたアンデッドであったが、それと同時に殺人鬼が力を込め杖をへし折ってしまった。
それによりアンデッドを制御する力が弱まり、溢れでたアンデッド達がヴェラへと群がっていった。驚いたことに彼女の意識はまだあったのだが、それがヴェラにとって最悪な結果を招くこととなった。
暴走した不死の軍団が、まだ息のある自らの将に手を伸ばし、その柔らかい肉をむしゃむしゃと貪っていく。彼女が殺人鬼を倒すための手段とした眼も抜き取られた。綺麗だった肌は鮮血に染まり、破れたお腹から腸を引きずり出し、内臓に食らいついていく。
だが、殺人鬼はそれを見ているだけでは終わらない。殺人鬼にとってはアンデッドとて殺すべき生者だ。故にヴェラの柔らかそうな肉を喰らい続けるアンデッドへ次々と手にかけていく。
食事にありついたばかりのアンデッドを破壊すると中からは消化されていない肉片が地面にばらまかれていく。
こうして全てのアンデッドを手に掛けた時、散らばった肉や骨が死者のものなのか、己が使役した死体達に貪り食われ、痛い痛いと泣き叫んでいた女のものなのかは既に判別がつかなかった。
ただひとつ、喰われずに残った頭だけが絶望の表情を貼り付けたまま、殺人鬼へとその顔を向けていた。妖艶さ漂う美しきネクロマンサーの姿はそこにはもうない。顎の骨がむき出しになっているし、脳も半分ほどが外に飛び出している。
その頭を――邪魔だと言わんばかりに殺人鬼が踏み潰した。グチョっとなんとも締りのない音にまぎれて脳漿が周囲に飛び散った。
しかし殺人鬼はそこからは一顧だにせず、さらなる獲物目掛けて突き進むのみである――




