うたたね時間旅行
1
ちょろちょろと、水の音がする。
流れているのか?
湧き出ているのか?
それとも、蛇口がキチンと締まっていないだけなのか?
音だけでは分からなかった。
心地良い音というわけじゃない。
不快なわけでもない。
何の感情も湧いてはこない。当たり前だが、音、そのものに感情が無いのだ。
ただ、ちょろちょろと水の音がする。
ただ、それだけ……
水の音が、何かの音と混ざり始めた。
そのまま、その別の音の中に溶け込んでゆく。俺は耳を澄ます。その音は音楽だった。
この曲は、確か……
ああ、そうだ。『タイムマシンにおねがい』って曲だ。
子供の頃に好きだったアニメの主題歌で――
でも、実際には俺が生まれる前の曲で――
それは大人になってから知ったんだけど――
あのアニメ、クラスじゃ俺くらいしか見てなかったんだよなぁ――
タイトル、なんだっけ?
思い出せない。あんなに好きだったのに……
「まさか、再放送…?」
懐かしさに駆られ、俺はふと目を開けた。やはりその曲は、点けっ放しのテレビから流れ出ていたものだった。しかし、寝起きの俺の目はぼんやりとしていて、テレビが一体何を映し出しているのかハッキリ捉えてはくれなかった。
出勤直前。俺は、うたた寝の最中だった。
今日は遅番、仕事は十三時からだ。
今は多分、昼の十二時半くらい。
遅番の日だからと言って簡単に生活リズムを変えられるような器用さは、三十歳を目前に迎えた俺の体はすでに失っていた。早番だろうが遅番だろうが公休日だろうが、目は勝手に七時前に開いてしまう。また、早番だろうが遅番だろうが公休日だろうが、昼の十二時頃になると決まって睡魔に襲われる。つまりは昼寝の時間だ。睡眠時間は約二○分。これも生活リズム。だが、職場は家の目の前だから十分前に出れば余裕で間に合う。
寝起きでぼんやりした頭を抱え、俺はぬくんでいたコタツから体を起こす。
「携帯は……」
と、時間を見ようと携帯を探した。が、無い。アラームを仕掛けて枕元に置いたはずなんだけど……
「忘れてポケットに入れっぱなしだったか…?」
大して気にする事も無く、俺は未だぼんやりした頭のままノロノロと仕事へと行く準備を始めた。時間は――まあ、大丈夫だろう。ここ数年、俺がこの生活リズムを崩した事など無いのだから。
窓から見える空は真っ暗。今にも雨が降り出しそうだった。
「降られると自転車が面倒だな。トラックが戻ってくるのも遅くなるし、残業になるし……」
窓に目を向け、一人ごちる。と、ゴチャゴチャだった頭の中は仕事一色に染め上がってゆく。もう、テレビが何を映し出しているかなど気にもならず、俺はリモコンを持ち上げて、目も向けずにテレビを切って仕事に出かけた。
空模様を気にしながら俺は自転車に乗り、職場を目指す。
三分も走れば、職場は目の前だ。
白くて、やたらとデッカイ建物が見える。
大手運送会社の物流センター。だが、ここは以前、何も無いただの空き地だった。最初はマンションでも建つのかと思っていたのだが、まさか自分の職場になろうとは夢にも思わなかった。まあ、この土地はずっと遊んでいたわけだし、遊ばせているのなら何か建てた方が金にはなる。
でも、俺に言わせてもらえば、この土地は遊んだままにしてもらいたかった。学校帰り、立ち入り禁止の看板もなんのそので柵を乗り越えて、ランドセルも背負ったまま友達とケイドロとかやって遊んだ子供の頃の遊び場が無くなってしまうのはやはり悲しい。なんだか思い出を侵略されてしまったような気分だ。
しかし、それも時代の流れ、時の流れというものなのだろう。時間の流れは、人の感傷などシカトして、目の前の風景を刻一刻と変化させながら、ただ無感情に流れてゆく。そう、今日のうたた寝の夢の中で聞いた、あの水の音みたいに……
――それにしても静かだった。
この辺りは民家が多いが、一応準工業地帯だ。近くには国道も通っているし、その国道へと抜ける車も多い。昔はデコボコで酷かったが、舗装が直されてから車の量は尚更増えた。ところが、さっきから車どころか人すら見かけない。日曜だってもう少し賑やかだ。
「まだ、夢の中みたいだ……」
そんな奇妙な気分に駆られたが、気にしていてもしょうがない。仕事は目の前だ。頭を切り替えよう。
センターの正面玄関の門を抜け、横に設置された守衛室に向かっていつものように「おはようございます」と声を出す。
が、守衛は居なかった。
「見回りか?」
守衛はいつも二人居るのだが、二人とも見回りとは珍しい。まあ、俺が気にしてもしょうがないが。
俺はいつものように側の駐輪場に自転車を止めて、物流センター内へと向かう。
辺りは、更に静まり返っていた。トラックを一台も見かけないのだ。この物流センターにトラックが一台も停まっていないなど初めての事だ。さすがに不安になった。
「今日って休みだったか? いや、まさかな……」
いずれにしろ中に入れば分かる事だ。
俺はセンター内に足を踏み入れた。が……
「なんだこりゃぁ……」
事務所内、倉庫内、廊下、トイレ、休憩所、それらの何処にも人影を見る事が出来なかった。まるでホラーゲームにでも出てきそうなゴーストタウンのよう……
困惑せずにはいられなかった。
「休みならセンター自体が締め切られているはずだし、だいいち門が閉まってる……おーいッ!」
と、大声で呼び掛けてみたが、やはり返事は無い。
「まいったな……」
俺は頭を掻きながら、とりあえずセンターを出て家に戻ることにした。そうすれば何か分かるという訳でもないが、今はそれしか思いつかなかった。
駐輪場に着いた俺は、再び自転車に鍵を差してまたがり、センターの門を潜る。
と、その瞬間、俺は愕然となった。さっきまで見ていた町並みとはまるで違っていたのだ。まず、道の舗装が直されておらずデコボコになっている。
「これは…?」
茫然と見渡しながら、ふと振り返る。と、俺の職場である物流センターまでが跡形も無く消え去り、立ち入り禁止の立て看板が立つ、ただの空き地に変わっていたのだ。
「まるで、子供の頃の風景だ……」
茫然としたまま、俺は自転車ごとその場に倒れこんだ。いや、茫然としていた事が原因じゃない。突然、地面が足から離れたのだ。
「いてて……」
と、地面に打った足をさすりながら、側に駐車していた車のボンネットに手を掛けて立ち上がる。同時に、フロントガラスに自分の姿が映った。
その姿は、十歳くらいの子供の頃の姿だった……
声も無く立ち尽くす俺。
不意に、雨が降り出した。徐々に雨脚が速まる。
空き地からは、子供達の笑い声。
突然、何かの衝突音。
グルグルと、頭が回り始める。
俺は、もう一度倒れこんだ……
携帯のアラームがやかましく鳴り響いた。
開けた目に飛び込んできたのは、見慣れた天井のシミ。マイホーム購入と潤いのある老後を目指してパート勤めをする将来設計がしっかり出来た嫁と、今頃は保育園のベビーベッドですやすやと寝ているであろう今年一歳になった一人娘の三人で暮らすアパートの天井。
点けっ放しのテレビからは黄色い笑い声が流れ出ている。『笑っていいとも』がやっていた。
枕元で鳴り響く携帯のアラームを止めて時刻を確認する。十二時三十分。
どうやら俺は、夢の中で夢を見ていたらしい。
「疲れているのかな……」
そんな台詞を溜め息と共に吐き出し、俺はテレビを消すと、コタツから出て部屋の窓を開けた。
澄み渡った真っ青な空。
冬の寒風が流れ込み、コタツで暖まっていた俺の体を一気に冷やす。うたた寝で霞の掛かっていた頭は、この青空のように冴え渡った。
「仕事に行かなけりゃ……」
窓を閉める。
玄関に向かい、くたびれた運動靴を履く。
家を出る。
それは確かに現実だった。でも、頭の中では『タイムマシンにおねがい』がリピートし続けていた。
「トモヒサ、お前、相当疲れてんなぁ!」
薄汚れた作業ズボンで何の遠慮も無く家に上がり込んで来たマコトは、ビールグラスに注いでやった安焼酎のロックを美味そうにグビリと一口飲み、その大きな体を震わせた後、豪快な笑い声と共に俺にそんな言葉を言ったのだった。
「やっぱそうなのかなぁ……」
俺は、湯飲みに注がれている焼酎のお茶割りをチビリと一口飲み、多少の落ち込みを見せつつ呟いた。
マコトとは幼馴染みで、今は職場の同僚だ。子供の頃からそうなのだが、コイツはこづかいが無くなると必ず俺を頼って家に来る。子供の頃は菓子を出せだのジュースを飲ませろだの。大人になったら酒を飲ませろだの飯を食わせろだの。
しかし、ちゃんと恩も返してくれる。仕事ではマコトに随分と助けられているし、今の嫁を紹介してくれたのもマコトだ。悩みがあったら、どんな事だって相談に乗ってくれる憎めないヤツでもある。
もっとも、その憎めないヤツは、今日のうたた寝で見た奇妙な夢に、自分は疲れているのかと、少なからずショックを受けて相談した俺を憎たらしく笑い飛ばすのだったが……
「そんな、笑うなよ……」
「わるいわるい」
溜め息と共に不機嫌な顔を見せた俺に、マコトは苦笑で答え、そのまま言葉を続けた。
「……んまあ、ショックなのはわかるけどよ、俺達だってもう三十路手前なんだ。仕事だってハードだしな、疲れなんて残って当たり前なんだよ」
「嫌なもんだな、歳を取ってゆくっていうのは。知らない内に、どんどん何かが失われていくような気がする……」
子供の頃、残したい物も残したくない物も全てを袋に詰められ、俺の意思などお構いなしに母親にゴミに出された事があった。歳を取るというのは、そんな気分に駆られる。体力が落ちた事がショックだったわけじゃない。知らない内に何かが失われていた、それがショックだった。
しかしマコトは、そんな俺をまたもや笑い飛ばしたのだった。
「バッカだな、お前わ。失くしていく積み重ねがあるからこそ今があるんじゃねえか。今日は終わるけど明日は来るんだよ」
と、そこに、嫁のエミが晩メシであるトンカツとブロッコリーサラダを手に居間に入ってきながら驚きの声を上げた。
「うわぁ、マコトのくせに超良いこと言ってる」
「マコトのくせにってなんだよ。トモヒサ、お前の女房、失礼だな」
トモヒサは口を尖らして俺に言い、そんな様子に俺は思わず笑いを零した。エミも料理をコタツの上に並べながら楽しそうに笑っている。
が、エミはふと料理を並べる手を止めると、俺に目を細めて言うのだった。
「……もっとも、私と、そこのベビーベッドで幸せそうに寝ているヒナタっていう愛娘との今が間違った未来だと思うのなら、話は別だけどね」
俺はお茶割りをグイッと呑み、答えた。
「そんなわけないだろ」
「それなら、つまらない事にうじうじ悩まないの」
そう言いながらエミは、俺の頭をポンポンと叩き、また台所へと戻った。
俺は、部屋の角に設置してあるベビーベッドに目をやった。一歳になった娘のヒナタはキティちゃんの絵柄が入ったピンク色の毛布に包まれて本当に幸せそうな顔で寝ている。
――間違いない。きっと俺は幸せだ。
喉の奥を詰まらせるような不安を抑え付けて、俺は自分にそう言い聞かせた。
「いやぁ、旨かった!、トモヒサ、やっぱりお前は幸せ者だな!」
味噌汁を最後の一滴まで飲み干して我が家のトンカツ定食を完食したマコトは、毎度のセリフを声高らかに言う。そう、言う言葉は毎度同じ。しかし、おざなりに聞こえないのがまた不思議なもので――
聞き慣れ過ぎているせいか?
それとも、うちで食事を取った後のマコトの顔が、本当に幸せそうに見えるからか?
いや、どっちもなのだろう。
そんなマコトに、エミは呆れた顔を向けた。
「友達の嫁を褒めてるヒマがあるなら、早く自分の嫁を探したら?」
「んまあ、その内な……」
マコトはうつむき加減に頭を掻いた。珍しく物思いにふけったような表情だった。
「なんだよマコト、何か思うところがあるのか?」
だが、マコトは何も答えず、ビールグラスの焼酎を飲み干すと、おもむろに立ち上がった。
「さてと、そろそろおいとまするか……」
「そっか――じゃあまた明日な」
と、俺は立ち上がったマコトを見上げる。だが、マコトは珍しい事を言い出すのだった。
「トモヒサ、悪いけど家まで送ってくれ。ちょっと呑みすぎた……」
「はあ? 呑み過ぎたって……マコトの家、ここから歩いて一○分も掛からないだろ」
「いいから、いいから。たまには付き合えよ――エミちゃん、旦那ちょっと借りてくよ」
「どうぞぉー」と、台所で洗い物をしながらエミが声を上げる。
「よし、行こうぜ」
「お、おい…!」
俺はマコトに腕を引っ張られ、強引に連れ出された。
星の瞬く澄んだ夜空には、細い月が浮かんでいた。時折吹く寒風が肌に突き刺さる。いきなり連れ出されたものだから上着を羽織るヒマも無かった。
「さみーよ、マコト」
「わりいわりい」
言葉とは裏腹に、マコトに悪びれた様子はまったく無い。縮こまる俺を見てケタケタ笑っている。
「あっ、なんなら俺の上着、貸してやろうか?」
「そんな小汚いドカジャン着るくらいなら寒いままの方がまだマシだよ」
呆れる俺に、マコトはまたケタケタと笑った。でも、その笑顔は本当に楽しそうで、子供の頃から何も変わってなく、俺もつい釣られて笑ってしまった。
俺とマコトの笑い声が、夜空の下で木霊した。
「お互い、本当に変わらないよな。きっと、俺とマコトって死ぬまでこんな感じなんだろうな」
だが、マコトは不意に笑うのを止め、足を止めた。
「いや、変わるさ……」
「えっ?」
足を止めたマコトに振り返る俺。どこか、思い詰めたような顔をしていた。マコトは、口を重たそうに開きながらも、何かを決意したかのように俺に言うのだった。
「上原チイコ、知ってるよな……」
「どうしたんだよ、突然。知ってるも何も……」
知っている、というより、憶えている、と言った方が正しい。二十代も後半になれば忘れられない恋愛の一つくらいはある。俺にとっての上原チイコは、そういった女性だった。
俺より二つ年下の、背か小さくて、口数も少なかったけど、優しくて、一緒に居られるだけで幸せを感じられた。遠い昔の事のようで、昨日の事のように思い出せる、そんな思い出の女性……
「もう何年も経ってるけど、あれから上原とは、どうなったんだ?」
「そうか……マコトはチイちゃんとほとんど関わってなかったから、俺もあまり話した事なかったよな」
あまり話したくもないが……
「大晦日の日に会う約束をしたんだよ。でも、擦れ違った。それっきりだよ」
「それ以来、連絡は取ってないのか?」
「取れるわけないだろ。どこに居るかも分からないのに……」
「そっか――まあ、良かった……」
「良かったってなんだよ。ヒデェなぁ」
「だってお前、今もし上原と連絡が取れるとしたら、今の家庭ぶっ壊しかねないだろ?」
否定できなかった……
「ほらみろ。だから良かったんだよ」
確かに、言う通りかもしれない……
「トモヒサ、今のお前は誰が見たって幸せなんだ。だから、おかしなこと考えんなよ」
俺の目を真っ直ぐに見詰め、いつになく真剣な顔を作るマコト。俺は思わず苦笑を浮かべて答えた。
「まったく、どうしたんだよ、さっきから――まさか、それを言う為に俺を連れ出したのか?」
「エミちゃんの前で上原の話をするわけにもいかないだろ。それに……」
「それに?」
「トモヒサさ、さっきエミちゃんに、今の未来が間違った未来なら――って、言われた時、そんなわけないって答えながらも思い詰めたような顔してただろ。頭に上原の事が過ぎったんじゃないのか?」
図星だった。俺はまた苦笑を浮かべた。
「まったく、付き合いが長いと隠し事の一つも出来ないな」
「当然だろ。俺はトモヒサの無二の親友なんだから」
「恥ずかしい事、言うなよ……」
俺は呆れるように言い、マコトは、ニッ、と満面の笑みを浮かべた。それから、俺達はまた笑い合った。子供の頃と何も変わらない、相変わらずのマコトの笑顔がそこにあった。
2
まただ。また、水の音が聞こえてきた。
何の感情も無い、ただ流れ落ちるだけの水音。
どうやら俺は、またうたた寝をしているらしい。こんな夢ばかり……本当に俺は疲れているみたいだ。
――それにしても、やたらと眩しいな。うちはこんなに日当たりが良かったか?
ふと、目を開ける。と、そこに広がっていた光景は……
「手洗い場…?」
整然と並んだ蛇口。それには全て赤い網に入った石鹸がぶら下げられている。廊下の窓から差し込む日の光は暑く、照り返しでそこはキラキラと光っていた。
間違いなくその場所は、小学校の廊下の手洗い場だった。それも、俺が通っていた小学校の……
「なんだよ、これ……」
その光景は、夢とは思えないほど具体的すぎて、現実感を伴っていた。この前と同じだ。俺は思わず頭を抱えた。
と、その手がやたらと小さい。どうやら俺は、また十歳くらいの子供の頃の姿になっているらしい。しかも、肩に掛かるこの重み。今回はランドセル付きのようだ。
「マジかよ……」
こんなリアルな子供の頃の夢を見るなんて、俺はそんなに今が嫌なのか?
俺は、溜め息と共に手洗い場に両手を付いてうな垂れた。と、その時――
「おい、倉島。何やってんだ、行くぞ!」
俺を呼ぶ声が聞こえた。振り向けば、そこには木村、北原、青木という、小学四年の時に同じクラスだった友達の姿があった。教室から出てきた三人はランドセルを背負ったまま廊下を駆け抜け、階段を駆け下りて行く。
こんなどうしようもない夢を見ている事も忘れ、俺は懐かしさに駆られた。この三人とは中学が違ったから懐かしさは尚更だった。しかし、この場面には見覚えがあった。
「これって、確かあの事があった日じゃ……」
いや、この情景を忘れるはずも無い。
『ウサギ事件』
今でも俺はその事を鮮明に思い出せた。それは、物を知らない子供の他愛も無い遊び――でも、笑い事では済まされない、そんな事件だったからだ。
「倉島! 早く来いよ!」
北原が一人戻ってきて、俺の腕を引っ張った。
まいった。あの時と同じじゃないか。いや、夢の中で記憶が繰り返されているだけなんだから当然と言えば当然なんだが……
この時、本当は俺は「いやだ」って言いたかったんだ。だけど、北原とも木村とも青木とも、この頃はよく遊んでいて、だから、付き合わなきゃ嫌われるような気がして言い出せなかったんだ。もし、言い出せていれば、あんな想いをせずに済んだのに。そして今も、夢の中だって言うのに言い出せないでいる……
俺は北原に腕を引かれたまま階段を駆け下りて行く。こいつらが目指している場所は分かっている。校庭の隅に設置されたウサギの飼育小屋だ。
「でも木村、あのウサギが本当にそんなにジャンプするのかな? アイツ、いっつも寝てばっかじゃん」
早足で飼育小屋へと向かう中、北原がそう口を開いた。だが、そんな疑う言葉とは裏腹に、その目は何か期待に輝いていた。
「でも、飯沼が言ってたじゃん。三メートルは飛んだってさ。俺は飛ぶと思うよ」
「うわぁ、やっぱ飛ぶのかな。スゲェな!」
期待通りの答えに、北原は飛び跳ねて喜ぶ。そこに青木が伏せ目がちに言った。
「でもさ、勝手に飼育小屋とか入って先生に怒られないかな…?」
「大丈夫だよ」と、笑いながら木村が答えると、北原も笑いながら続く。
「そうだよ。それに青木だってあのウサギが超ジャンプするところ見てみたいだろ?」
途端、青木も「見たい見たい!」と、期待に目を輝かせて声を上げた。そのまま三人は無邪気に笑い合った。もっとも、結末を知っている俺としては、顔をほころばせる事すら出来なかったが……
……まったく、今思えば何ともバカな話だ。これは言ってみれば都市伝説とか学校の七不思議とか、そういった類の話だった。
発端は飼育委員の飯沼だった。飯沼がウサギのエサを取り替えていた時、たまたまそのウサギの真後ろでウサギのエサを入れる缶を落としてしまった。すると、さっきまで寝ていたそのウサギは飛び起きて――
「スッゲェんだ! スッゲェジャンプしたんだよ! 三メートルは飛んだんだぜ!」
と、言う事をクラス中の人間に言って回った。
三メートル? 飼育小屋の高さなどせいぜい二メートルがいいとこだ。子供の距離感なんていいかげんなものだ。
しかしその話は、毎日ヒマを持て余し刺激を求め続ける小四男子達のハートを見事キャッチした。俺達を含めた数組の男子グループは騒ぎ立て、そんな中、俺達のグループは木村が放課後に確かめに行こうと言い出したのだった。
正直言えば、その時は俺も期待に胸を躍らせていたし、子供だったから鵜呑みもしていた。引っ掛かっていたのは、ウサギを驚かせるという行為がウサギを虐めているみたいで嫌だったからだ。でも、仲間が盛り上がってしまえばそんな事も忘れてしまう。あの時の俺がそうだった。でもそれは、今からやろうとしている好意がどんな結果をもたらすか想像もしていなかったからだ。分かっていたら俺は、たとえ石に噛り付いてでも行かなかった……
「おっ、ウサギのやつ、相変わらず寝てるな」
飼育小屋に着き、木村がしめしめという顔を作る。北原と青木もイタズラ小僧らしい顔をして必死に笑いを堪えている。三人の後ろで俺だけがシケた顔を作った。
二人の期待を背に、木村は扉にそっと手を掛けて中に入ると、ウサギの後ろに回り、パン! と、手を叩いた。
――が、ウサギは跳ね上がらなかった。体をビクリと震わせて、そのままノロノロと俺達から逃げただけ。そうだ。跳ね上がるわけがない。こいつには、もうそんな力は残って無いのだから……
「あれ? おっかしいなぁ。音が小さかったかな? ほらっ、跳べ! 跳べ!」
そう騒ぎながら木村は何度も手を叩く。そんな木村に続いて北原と青木も騒ぎ始めた。
「倉島、前からも手叩いてみろよ!」
そういや、そんな事を言われたんだっけかな。前で騒ごうが後ろで騒ごうが無駄だっていうのに……
それでも俺は、記憶に従ってウサギの前に回った。どうせ記憶だ、夢だ。逆らったって仕方がない。
――が、前に回ると、俺は記憶に従う事が出来なかった。ウサギと目が合い、思わず立ち尽くしてしまったのだ。真っ赤なビー玉みたいな瞳が、小刻みに震えている。真っ白な綿毛みたいな体も震わせていた。
あの時はウサギの目の前でバカみたいに騒いだが――そんな事、出来るわけがなかった。
「ごめん……」
気か付けば、俺はそう呟きながらウサギの頭を撫でようとしていた。しかし――
「イテッ!」
と、俺は思わず声を上げて出した手を引っ込めた。ウサギが俺の手に噛み付いたのだ。何か、やり返されたような気分だった……
「なに倉島、手出してんだよ。そいつすぐに噛み付くんだぜ」
俺を指差して北原が笑った。そうだ、そうだった。すっかり忘れていた。北原に続いて木村と青木も同じような事を言って俺を笑った。何か無性に腹は立ったが、こいつらがウサギを脅かすのを止める切っ掛けを作る事は出来たようだ。
「それにしてもウサギ、全然跳ばないな。飯沼の奴、ウソばっかじゃんか」
ウサギを見下ろしながら、木村が満面に不満の表情を露にした。
「明日、飯沼に言ってやろうぜ」
と、北原もウサギを見下ろして不満を漏らす。それに青木も頷く。三人の目は、壊れたおもちゃを見る目だった。
「もういいや。帰ろうぜ」
北原がつまらなそうに言い、木村と青木もそれに続いて飼育小屋を出た。しかし、俺だけは動く事が出来なかった。もう動こうとしないウサギと同じように……
「おーい、倉島。行くぞー」
飼育小屋で蹲る俺に北原が声を掛ける。俺は首を横に振った。
「俺、もう少しウサギ見てるよ」
「変なヤツー」と、北原が笑い、
「また噛み付かれるなよー」と、木村が言うと北原と青木は顔を合わせて笑った。明日にはどういう事になるかも知らないで無邪気なもんだ。
三人は、そんな無邪気な笑い声と俺を残して帰っていった。
俺は再びウサギに視線を落とした。ウサギは、まだその赤いビー玉みたいな瞳と白い綿毛みたいな体を小刻みに震わせている。怯えている。
率直に言えば、このウサギはもうすぐ死ぬ。原因はストレスであり、言うまでも無く、そのストレスの原因を作ったのは俺達を含めた男子生徒だ。
俺達がここに来る以前に、すでにここには何人もの男子生徒達がやってきていて、ウサギを驚かし続けていたのだ。それは、昼休みの頃から始まっていたらしく、放課後にも何人も来て、後で聞いた話だと俺達が最後だったらしい。
昼休み、放課後と引っ切り無しに脅かされ続ければウサギの方は堪ったものじゃない。ウサギという動物はたださえ臆病でストレスに弱いって聞くし、さらに言えばこのウサギは結構な歳なのだ。死んで当たり前だろう。この翌日、俺達男子は全員、担任にこっぴどく怒られ、学級会が開かれ、朝礼では校長の長話が更に長くなり、先生達は職員会議を開いて、ついでに言えば、俺は母親に小一時間説教をくらったわけだが……
「さて、どうしたもんか……」
どうにかして助けられないものか? と俺は考えていた。たかが夢だ。夢の中で助けたところで現実が、過去が変わるわけじゃない。しかし、されど夢。現実通りでは夢見が悪い。
「……まずは、安心させてやるか」
怯えているなら安心させてやるしかない。単純な考え方だが、それしか方法も思いつかなかった。
「今度は噛み付くなよ……」
と、俺はウサギへそっと両手を伸ばし、抱き上げると自分の膝の上に乗せた。すぐに逃げ出されるかと思ったが、意外にもウサギはおとなしく俺の膝の上でじっとしていた。
いや、もう逃げ出す力も無いだけか……
膝からダイレクトにウサギの震えが伝わってくる。
「大丈夫だ。もう怯えなくていいんだよ」
そう言いながら俺はウサギの耳を優しく撫で続けた。ウサギは耳や頭を撫でられるのを好むらしい。以前、嫁と娘と一緒に行った動物公園の飼育員がそう教えてくれた。
ウサギは震え続けた。それはそうだろう。今日一日散々脅かされ続けたんだ。とても人間なんて信用出来るわけがない。だが、それでも俺は撫で続けた。
――どれくらい撫で続けただろう。夢の中で時間を感じるのも妙な話だが、多分三十分くらいは撫で続けている。
と、不意にウサギの震えが止まった。ただ、おとなしく俺に撫で続けられている。猫みたいに喉を鳴らすわけでもなければ、犬みたいに尻尾を振るわけでもないから何とも言えないが、だけど、何となく安心してくれたのではないかという事だけは伝わってきた。いや、あくまでも勘なんだが……
確かめるつもりで、俺はエサ箱の中に入っていたキャベツに手を伸ばし、それを与えてみた。と、ウサギはそれを食べてくれた。嬉しそうに。これも勘ではあるが……
しかし、食べ終わった途端、ウサギは俺の膝から飛び出してエサ箱のキャベツを食べ始めたのだった。ようやく調子を取り戻してくれたようだ。これは勘じゃない。この勢いの良い食べ方。誰が見たって分かる。
「ふう。とりあえず一安心か」
気が付くと、さっきまでの晴天がウソのように空は灰色に染まり、雨が降り出してきていた。徐々に雨脚は速まってゆく。
「夕立か……」
呟いて灰色の空を見上げた時、ふと記憶が蘇った。
「そっか。マコトの姿が見えないから気になってたけど、考えてみたら俺、この時にはまだマコトの事知らないんだっけか。アイツ、クラス違ったし……本当だったら、この後あの三人と空き地に出かけて、そこでマコトと初めて出会うんだったよな……」
ちょろちょろと、水の音がした。雨が雨どいを伝い、流れ落ちる音だ。ああ、この音は、この前うたた寝の中で聞いた音――
記憶が、意識の奥の奥から浮かび上がってくる感覚を覚えた。
「ちょっと待てよ、俺って……」
言いようの無い違和感が襲った。
次の瞬間には、意識が飛んでいた。
ふと、目を開けると、テレビでは『笑っていいとも』がやっていた。同時に枕元の携帯のアラームが鳴り響く。
十二時三十分。いつもの時間だ。
携帯のアラームを止めて、俺はコタツから這い出て、ゆっくりと体を起こした。何か、本当に奇妙な夢だった。だいたい夢の中で夢だと気付きながら行動するなど生まれて初めてだ。小学校の懐かしい匂いや、飼育小屋の匂いが未だに鼻腔の奥に張り付いている。
「なんてリアルさだよ……」
コタツに肘を付き、俺はぼんやりした頭を抱えた。
――途端、
「痛ッ…!」
突然、指先に痛みが走った。そこは、ウサギに噛まれた所。だが、何も無い。しかし、痛みだけは寸分たがわず同じだった。
「どうなってんだよ……って、まさか…!」
そんな夢みたいな話、と俺は何度も首を振ったが、痛みだけは紛れも無い現実だった。
3
「なあマコト。ウサギ事件の事って覚えてるか?」
「はあ…?」
職場である物流センター倉庫内。フォークリフトやトラックのバックブザー、コンベアの金属音で騒然とする中、俺は少し大きな声を出してマコトに聞いた。だが、トラックから下ろされる荷物をコンベアに流しながらマコトは訳のわからない顔を作るのだった。
「なんだよそれ?」
「ほら、小学生の時だよ。飼育委員の飯沼って奴がウサギが三メートルもジャンプしたとか言って……」
「ああ、アレか」
「思い出したか…!」
「何となくな。でもアレって、トモヒサでのクラスの話だったろ? だから、あんまり覚えてねぇ――おっ、トモヒサ、向こうにトラック入ったぞ」
「ああ、分かった。俺が回るよ」
そのまま俺は流されるように仕事に従事し、結局、今日から早番のマコトは俺より先に仕事を上がってしまい、俺は一番聞きたかった事を聞く事が出来なかった。
俺の記憶通り、ウサギは死んだのか?
それとも……
「どうしたの? 仕事から帰ってくるなり押入れのものなんて引っ張り出して」
「うん、ちょっとね……」
仕事が終わった後も、俺の中のモヤモヤした気持ちは消える事はなかった。それどころか、余計に酷くなっている。やはり、どうしても確かめずにはいられなかった。一応、もう一度聞き直そうとマコトには電話したのだが、何度かけてもアイツは携帯に出なかった。大方、またいつものように飲み屋にでも居て気付かないのだろう。もっとも、あの口振りでは覚えているかどうかも怪しい。だが、それなら、あの時の当事者達に聞くのが一番だと俺は考えた。出掛かりは、小学校の卒業アルバムだ。確か、最後のページには同窓会名簿が載っているはずだった。
「変なパパだねー」
と、必死に押入れを引っ掻き回す俺の後ろで嫁のエミが娘のヒナタを抱いてあやしている。ヒナタのキャッ、キャッ、という楽しそうな笑い声が聞こえてきたが、多分エミは、大分訝しんだ顔を向けている事だろう。
「ま、探し物が終わったらちゃんと片付けといてね」
「うん、分かってる」
俺は振り返りもせずに答え、エミは呆れたような溜め息と共に隣の居間へと戻っていった。と――
「あった…!」
ようやく見付かった。俺は早速最後の方のページを開き、名前を探す。まずは木村だ。アイツが言い出しっぺだったし、ウサギ事件の事は確実に憶えているはずだ。俺はすぐに携帯を取り出して電話を掛けた。が――
『お客様のお掛けになった電話番号は、現在使われておりません。もう一度お掛け直しになるか……』
そりゃそうだ。小学校を卒業してもう何年になると思っているんだ。連絡先が変わっていない方が珍しい。同窓会だって一度として開かれた事なんて無いわけだし……
「それじゃ、北原だ。北原なら……」
アイツんちは確か持ち家のはずだったし、引っ越してはいないだろう……
……と、思ったのだが、受話器の向こう側からは、全く知らない他人の名前を告げられた。俺はすぐに謝って電話を切ると、再度番号を確認する。やはり、間違ってはない。どうやら北原も、もうこの町には居ないらしい。
何か、取り残されたような気分だった。確かに同じこの町に住んでいたはずなのに、家だって知らないわけじゃないのに、気付かない内に居なくなっている。俺は、結婚を機に実家は出たが、この町には住んでいるっていうのに……
やはり時間というものは、人の感傷などシカトして無感情に風景を変化させてしまうものらしい。
「この分じゃ、青木も無理かな……」
もしかしたら、今この町に住んでいる同級生はマコトだけなのかもしれない、そんな不安に駆られながらも、俺は名簿から青木の番号を探し、電話を掛ける。
「あ……突然のお電話すみません。自分は倉島と言う者ですが……」
『倉島…? 倉島って、あの倉島?』
「青木か!」
俺は思わず飛び上がった。半分以上諦めていた分、驚きも尚更だった。
『マジかよ! 懐かしいなぁ! 小学校以来じゃねぇかッ!』
どうやら向こうも驚いたなんてものじゃないらしい。興奮してバンバン床を叩く音が聞こえる。
「しかし、俺から電話掛けといて言うのもなんだけど、よく俺の名前憶えていたな?」
『忘れるわけないだろう。小四の時、一緒にウサギの事で怒られた仲じゃねえか。今でも憶えてるよ』
俺は思わず声を上げた。
「ウサギ事件の事、憶えてるのか!」
『当たり前だろ、あんなショッキングな事』
ショッキング……
「……あのさ、青木。一つ聞きたいんだけど、あのウサギって、どうなったんだっけ…?」
『えーっ! 忘れたのかよ。死んじゃったじゃねえか、あのウサギ』
やっぱりか……
『だから俺達、怒られたんじゃねーか』
「そっか……そ、そうだったよな……」
俺は一体何を期待していたんだろう……
――もしかしたら自分は、うたた寝している間に過去に飛び、その過去を変えてきたのかもしれない。
俺は何をトチ狂った事を思っていたんだ。そんな事、あるわけないじゃないか。指先が痛むのは、ただの思い過ごしだ。あまりにもリアルな夢だったからだ。なのに、その気になって……バカらしい……
『……もっとも、俺もウサギ事件の事を憶えているのは、その後に起こった事がやたらと印象に残ってるからなんだけどな。あの事のせいでウサギ事件どころじゃなくなったからな』
「あの事? あの事って…?」
『それも忘れてんのかよ。あの事って言ったら、ほら、アレだよ』
「だからなんだよ?」
『だからさ……あれ? なんだっけ?』
「おいおい……」
『おかしいなぁ。ウサギ事件なんかより、よっぽど印象に残ってるのに……』
「しょうがねぇ――」
――いや、待てよ。確かに青木の言う通りだ。何かあった。いや、しかしなんだったか……
なんだ、この妙な違和感は?
『あっ! でも俺、これは憶えてるぜ。倉島が飼育小屋でウサギに指噛まれた事』
!
「俺が? 指を…!」
『ほらっ、やっぱり忘れてたな。次の日の学校でもそうだっただろ。俺が、昨日噛まれた指、大丈夫だったか?って聞いたら、倉島、絆創膏までしといて何で怪我したか憶えてねーんだもん。それで、俺は北原や木村と倉島がボケたって言って笑ってたんだ』
再び、指先の傷が疼いた……
なんだ……これ……記憶が混濁している……
ああ、そうだ。思い出した。俺は確かに木村、北原、青木の三人に笑われた。三人が訳の分からない事を言い出したからだ。俺はウサギに噛まれてなんてないのに、何処で怪我したかも憶えてないのに、三人はウサギに噛まれたと……
今、俺の記憶の中にあるウサギに噛まれた記憶は、今日うたた寝で見た夢の記憶だ。あの時の俺は、ウサギには噛まれていない…!
『なんだよ倉島。そんな事も忘れちったのか?』
「い、いや、今思い出したよ……」
混濁している記憶を抑え付けて、俺は青木と話を合わせた。
それから俺と青木との会話は小学校の思い出話から離れ、今仕事は何だとか、生活はどうだとか、そんな話へと流れていった。
なんでも青木は、中学に上がると音楽に目覚めたらしく、地道な活動が実って今度晴れてメジャーデビューが決まったらしい。その時ばかりは俺の混乱していた頭の中も吹き飛び、思わず興奮しながら絶対にCDを買うと約束した。ちなみに俺は、結婚して子供も居る事を伝えると、その歳でもう落ち着いちまったのかと笑われた。
「そうだな……青木の人生は華やかそうだもんな。羨ましいよ」
「その分、苦労も多いけどな。俺は、倉島が凄く幸せそうに見えるぜ」
俺は、何となく皮肉な笑いを零した。
そうして俺達の十何年振りの会話は、今度飲みに行く約束をして締めくくられた。
「本当に、懐かしかったな……」
自然と顔がほころび、つい気持ちが口をつく。まだ同じ町に住んでいるっていうのに、一度も会う事無く十年以上も関わる事が無かったなんて、なんだか奇妙な話だ。人間関係なんて、縁遠くなってしまえばこんなものなのだろう。
そこに現実の距離が加われば、それは尚更……
――上原チイコ。
縁遠くなり、距離まで開いてしまった彼女。俺が彼女に会えるなんて事は、きっと永久に無いだろう。
「だけど、この力を使えば……」
俺は間違いなく、わずかではあるが、それでも確実に過去を変えたのだから…!
4
透き通るような冬の夜空に、少し欠けた月が静かに輝いていた。
風も無い、穏やかな夜。
ベランダに出て、俺はいつもの安焼酎のお茶割りを飲みながら、エミがヒナタを身ごもって以来止めていた煙草をふかしていた。煙草に火を点けるのは二年振りだ。
――戦闘機の絵が刻まれたZippoライター。
これを手に取るのも……
絵柄はこすれ、所々色も剥げた、すっかり年季の入ってしまったそのZippoを俺は月明かりに照らし、じっと見詰めた。
時刻は十一時を回っていた。エミとヒナタは、もうすでに夢の中だ。
俺がうたた寝で見る夢とは違う、まともな夢の中。
俺は確かに過去を変えた。混濁したこの記憶と、今も痛む指先が何よりの証拠だ。
過去を変えられると気付いた時、真っ先に思い浮かんだのは、上原チイコとの過去だった。
「チイちゃんか……」
言葉にするだけで懐かしく、その響きは耳の奥で何度もこだました。
俺と上原チイコとの出会いは、劇的なものでもなければ、運命を感じさせるようなものでもない。どこにでも転がっている、本当に単純なものだった。
今から八年前。切っ掛けは職場だった。事務のアルバイトで入社してきた彼女と俺は、仕事の事も含めて会話をする機会が多かった。口数の少ない彼女ではあったが、話しづらいわけでもなく、気付くと、いつの間にか上司に私語が多いと注意されるほどよく話す間柄になっていた。その内、段々と仕事以外でもメールしたり電話したりするようになり、俺と彼女の距離はどんどん縮まっていった。
それでも俺達が、付き合う、という事はなかった。お互い付き合っている相手も居なかったが、そういう気持ちにもなれなかったのだ。楽しく話せる楽しい友達、俺達はそれで満足していた。
今思えば、お互いが踏み出せなかっただけだったのだろう。どちらかが踏み出して、この関係が壊れるのが怖かったんだ。仲が良くなりすぎてしまったんだ。
だが、クリスマスが迫ったある日の事だった。買い物に出かけた先で、たまたま女物のピアスが俺の目に止まった。と、俺は彼女がピアスをしていた事を思い出し、俺はチイちゃんへのクリスマスプレゼントとしてそれを買って帰った。
――ほんの気まぐれ。
――友達へのクリスマスプレゼント。
そんな軽い気持ちだったが、俺からピアスを受け取った彼女は、予想以上の喜び方を見せてくれた。知り合ってから三ヶ月以上経っていたが、子供みたいに喜ぶあんな無邪気な笑顔を、俺はその時始めて見た。その笑顔に、俺はようやく気付かされた。自分が上原チイコを愛している事に。
「ありがとう。私、ちゃんとお礼するよ」
「じゃあ、一緒に初日の出を見に行かないか?」
彼女は笑顔で頷いてくれた。俺はそこできちんと言うつもりだった。付き合ってくれ、と……
だが、それが全ての間違いだった。
待ち合わせ場所は新宿。JRから小田急線への連絡口。マヌケな話だ。俺はそれしか彼女に伝えなかった。小田急の連絡口は二箇所あるっていうのに。
でも、その時の俺は西口の連絡口しか知らなかった。そこしかないと思っていた。そして、彼女は南口の連絡口しか知らなかった。俺達は、別々の場所でお互いを待ち続けてしまった。
一時間半待って、チイちゃんからの携帯も鳴らず、俺はフラれたものと思い込んで家に帰った。自分が家に携帯を忘れてきていた事に気付いたのは、家に戻ってからだった。本当にマヌケな話だ。
なんであの時、自分から連絡を取ろうとしなかった? どうして他の場所に探しに行かなかった?
一人で盛り上がって、舞い上がって、いつまでも来ないチイちゃんに気が動転して、そういった頭すら回らなかったんだ。どこまでもマヌケな話……
家に置き去りとなっていた俺の携帯には、チイちゃんからの着信が何十件と入っていた。
『今どこにいるの?』
『まだ遅れるの?』
『携帯出てよ……』
彼女が残した留守電は、そんな言葉の繰り返しだった。そして、最後に入っていた言葉は……
『酷いよ、からかうなんて……』
俺は何度も彼女に電話をしたが、決して出てくれなかった。
年が明けて、仕事は始まったが職場にチイちゃんは現れなかった。上司に聞くと、朝の内に連絡が入り、彼女が辞めると伝えてきた事を知らされた。
誤解を解けないまま落胆して家に帰ると、俺宛に一通の小包が届いていた。差出人はチイちゃんからだった。俺は無我夢中で中身を開けた。と、中に入っていたのは、戦闘機の絵柄が刻まれたZippoライターだった。それはきっと、あの日、俺に渡そうとしていたお返しのプレゼントだと、俺はすぐに分かった。以前、俺は会社の同僚達とZippoの話で盛り上がり、戦闘機の柄の物を探しているけど見付からない、という話をした事があったのだ。その時、近くにはチイちゃんも居た。
チイちゃんも俺を見ていてくれたんだ……
俺は、そのZippoライターを握り締め、生まれて初めて恋愛ってものに涙を流した。
その後も俺は何度もチイちゃんに連絡をしたが繋がらず、思い切って彼女が住むマンションまで行ってみたが、そこはすでに引き払われていた。すぐに彼女の携帯も使われなくなり、もう行方は分からなかった……
「……だけど、あの過去に飛べば、もう一度チイちゃんに会える。過去を変えられる……」
もちろん、行きたい過去に飛べる確証は無い。どうして過去に飛ぶなんて事が出来てしまうのか、その理由も理屈も全く判らないのだから当然だ。しかし、行ける気はする。
――が、迷いもあった。
「本当に過去を変えていいのか…?」
今という現実に満足していないわけじゃない。エミだって愛しているし、ヒナタだって目の中に入れても痛くないくらい可愛い。自分では分からないが、青木が言うように俺は幸せに見えるのだろう。
過去を変えたらどうなる?
今を失ってしまう不安に押し潰されそうになる。
だが、胸が張り裂けるほどに愛した女性との過去の失敗を正せるかもしれない、そんな希望が身を焦がす。
俺は、Zippoを握り締めた手で頭を抱えた。
「どうすりゃいいんだ……」
「悩んだって無駄だぜ。トモヒサに過去を変える事は出来ねぇよ」
「マコト…?」
突然、背後から上がった声。振り返ると、部屋の中にはマコトが立っていた。
「おまえ、いつの間に…!」
「おかしな事は考えんな。失くしていく積み重ねがあるからこそ今がある。今日は終わるけど明日は来るって、教えてやったろ?」
「何言って……」
と、マコトの方に歩み寄ろうとした瞬間、踏み出した足が思わずすくむ。突然、あらゆる記憶が濁流となって押し寄せ、俺の頭の中で渦を巻く。記憶の混濁が恐ろしい勢いで俺を襲った。
「なんだよ、これ……」
絶えられず、思わず膝を付く。マコトはしゃがみ込み、そんな俺に苦笑を浮かべる。
「しょうがねぇな、ベランダに座り込んでうたた寝しちまうなんて。こんな寒空の下で、風邪ひくぞ」
そうか……俺はいつの間にか寝てたのか……
あれ? なんだ……なんだこの記憶……
「気が付いたか?」
ようやく記憶の混乱が収まり、俺は顔を上げる。目の前には、体の大きい、子供のような満面の笑みを浮かべた――
「おまえ、誰だ…?」
見ず知らずの男。俺は、こんな男を知らない。
「加賀マコトだよ」
「そんなわけない。俺が知っている加賀マコトは、加賀マコトは……」
いや、正確には、知っているが知らない……
「小学四年の時、空き地に突っ込んできたトラックに轢かれて死んだはずだ…!」
それだけじゃない。
「加賀マコトとは、親友でもなんでもなかった。加賀マコトが死んだと聞かされた時ですら、俺は顔と名前が一致しなかった。それでも俺がこの名前を憶えているのは、ウサギ事件の直後だったからだ」
俺と青木がどうしても思い出せなかった、ウサギ事件以上に印象深かった出来事とは、この事だ。
「ウサギの事で説教された次の日、朝礼で隣のクラスの加賀マコトという生徒が事故で亡くなった事を聞かされた。場所は俺が今勤めている物流センターが出来る前の空き地。当時、下校途中に寄って遊んでいくのが流行っていたあの場所だ。俺の聞いた話じゃ、あの日、あの空き地には加賀マコトを含む数名の生徒が遊んでいた。そこに、突然の夕立。遊んでいた生徒達は慌てて帰ろうと柵を乗り越えた。その時、雨とあの悪路にタイヤを滑らせたトラックが突っ込んできた。運悪くそのトラックに巻き込まれ、命を落としたのが加賀マコトだ」
雨……雨音……雨どいを伝って、ちょろちょろと流れ落ちる水の音……
そうだ。俺はあの日、家でいつものあのアニメを見ていたんだ。あの水の音は、家の雨どいから雨水が流れ落ちていた音だ。
ウサギの飼育小屋から帰る時、俺は三人に空き地に寄っていこうと誘われた。でも、今日は見たいアニメがあるから帰ると言って俺は断ったんだ。そうしたら、ウサギの話がウソだった事にテンションを落としていたあの三人も、俺の言葉を切っ掛けに今日のところは帰るかって話になったんだ。でも……
「……なんでだ? なんで俺は今まで加賀マコトと幼なじみだと思っていたんだ? なんだ、この記憶は……」
「そっちの記憶は、俺が改変した時間軸の記憶だよ」
再び頭を抱えていた俺に、加賀マコトと名乗る男は、その大柄な体には似つかわしくない物静かな口調で言うのだった。
「人生は選択の連続だって、誰の言葉だったかな? あれな、本当なんだよ……」
訳が分からず、俺は顔を上げる。と、加賀マコトは、薄い笑みに申し訳なさそうな表情を重ねていた。
「すまなかったな、トモヒサ、混乱させちまって。ここで会えば、多分、元の時間軸の記憶が蘇るとは思っていたけどな」
「時間軸? なんだよそれ……」
「そうだよな……」と、苦笑を浮かべる加賀マコトは、そのままあぐらをかいて俺を見据えた。
「まず、自分がどこに居るか分かってるか?」
「うたた寝の最中で、また過去に飛んでるのは分かるよ。一目瞭然だからな……」
いつの間にか、周りの景色は俺の実家の部屋になっていた。結婚する前のだ。
「ここは、今のトモヒサの時間より八年前。今日は十二月三十一日、大晦日だ」
「やっぱりか……俺は、飛べたんだな……」
「行く気か? 上原のところ」
「正直、まだ迷ってる……」
「まっ、どっちにしろ、おまえには過去は変えられねぇけどな」
「えっ? でも俺……」
「ウサギに噛まれた事か? でもおまえ、それで何か変わったか? 今のおまえの人格や状況に、何か変化をもたらしたか? 結局ウサギは死んでいたわけだし、ちょっと不思議な記憶が増えただけの話だ。それもいつか忘れていくだろう。そんな程度で過去を変えたと言えると思うか?」
「確かに……」
「ちょっと指をケガした、小石を蹴飛ばした、そんな程度であれば時間軸には干渉しない。まあ俺としては、そのままただのうたた寝にしといてもらっていた方が都合が――」
訳が分からない。いい加減、イライラしてきた。
「だから! 何言ってるか分からねぇよ! 時間軸ってのはなんだよ! 改変したってなんだ! だいたい死んだはずの加賀マコトがどうしてここにいる! どうして面識の無かったアンタと俺が親友になってる! この二つの記憶は一体なんだ!」
「まあ、落ち着けよ。ちゃんと説明してやるから」
加賀マコトは、また呆れたように笑う。
「いいか。つまりな、人生は選択の連続だっていう話はしたよな。その選択によって時間軸ってのはいくつにも分かれる。可能性の世界が出来るんだ。もっと分かりやすく言えば、似て異なる世界、パラレルワールドってやつだ」
「アンタは、そこから来たって言うのか?」
「そうだ。もう一つの記憶の中にもあるだろ。ウサギの後、空き地に行く方を選択した記憶が」
俺は、空き地で始めて加賀マコトと出会い、クラスじゃ俺しか見ていなかったあのアニメをマコトも見てるって話になって、意気投合して、もうすぐ始まるって言って二人で慌てて帰ったんだ。俺とマコトの付き合いはそこから始まった――そうだ、これがもう一つの記憶だ。
「あの時、俺はトモヒサに出会わなきゃ死んでいた。トモヒサは俺の命の恩人なんだよ」
「つまり、マコトは俺に命を助けられた時間軸から来たってわけか……でも、どうして…?」
と、途端にマコトは真剣に顔になり、重たそうに告げたのだった。
「それは、トモヒサと同じ未来を歩みたかったからだ……」
「どういう事だよ……」
「俺の時間軸じゃ、トモヒサ、おまえは死ぬからだ」
俺は絶句した。別の時間軸とやらの話とはいえ、自分が死ぬ事を聞かされていい気分はしなかった。
「なんだよそれ……ちゃんと説明しろよ……」
「原因は、上原チイコだ」
「ちょっと待て! なんでそこでチイちゃんの名前が出てくるんだよ!」
信じがたい話に俺は思わず立ち上がる。しかし、マコトは真剣な眼差しのまま俺を見上げ、更に重たく語るのだった。
「俺が生きる時間軸じゃ、俺はおまえから上原を奪っちまうんだよ……」
「なっ…!」
「大晦日にトモヒサは上原に告白する。でも、上原はすぐに返事を出さず、その事を俺に相談してきた。それで、何度か相談されている内に、気が付いたらお互い好きになっていた。よくある話だよ。でもトモヒサは、笑ってそれを許してくれた。親友のマコトになら任せられるって。だけど、ショックは相当だった。話をしたその夜に、おまえは一人で浴びるほど飲んで、帰りにホームから落ちて死んじまった……」
何て言っていいか……言葉が出ない……
「俺は何十回、何百回とトモヒサの事を助けようとした。でも、ダメだった。俺が上原と付き合わないようにしても、結局おまえは知る事になって、俺は怒られて上原と付き合うように言われる。そして、おまえは死ぬ。何度繰り返してもダメだった。時間軸なんてどうにでも改変出来るはずの俺が、おまえを助ける事だけはどうしても出来ないんだよ!」
マコトは、声を荒げ、拳を握った。
「もうトモヒサを助ける方法は一つしかなかった。それは、俺とトモヒサが出会わなきゃいい……」
「だけど、それじゃ……」
「ああそうだ。それじゃ意味が無い。そこで俺は考えたんだ。トモヒサと上原との事が過ぎ去った、本来俺が存在しない時間軸に飛んだらどうかってな。つまり、この時間軸の事だ。もちろん怖かったさ。そんな事をしたら俺という存在そのものが消滅する可能性だってあった。でも、それしか思いつかなかった。そして、結果は違った」
「どういう……」
「俺という存在が、この時間軸を大きく改変したんだ。俺が生きて、トモヒサも生きて、上原は関わっていない、望み通りの時間軸になったんただよ」
マコトは、ニコリと笑った。
「でもな、この時間軸に来た時、ちゃんと存在している自分を見た時、初めは何が起こったのか全く理解出来なかった。ただ、隣には未来のトモヒサが居た。仕事から帰る道で『どうせ給料前で金無いんだろ。うちにメシ食いに来いよ』って笑うトモヒサが居た。嬉しくて、泣くのを堪えるのが大変だったよ。そして、その時に全てを理解したんだ」
「じゃあまさか、俺がマコトと出会ったのは……」
「そうだ。おまえが俺にうたた寝で奇妙な夢を見たって話をした日だ。信じられないだろうが、おまえはその時初めて俺と出会ったんだよ」
「本当かよ……」
「ただ、おまえが語るうたた寝の話には実際青ざめたけどな。まさか、俺がこの時間軸に来た影響が、こんな形で出るとは思わなかった。恐らく、トモヒサが最初に飛んだ過去は、俺が事故にあった日だ。あの日は俺の生死を分けた分岐点、時間軸の分岐点になっているからな。俺が来た影響で引き寄せられたんだ。ウサギ事件の日に飛んだのも同じ理由だ。そして今、この過去に飛んだのは、トモヒサにとっての大きな分岐点になっているからだ」
「俺の…?」
「まあ、色々と予想外だったが、それでも、やっと辿り着いたんだよ。トモヒサと生きれる未来に……」
と、マコトは両手を付き、頭を床につけて、叫ぶように声を上げた。
「だから頼む! 上原チイコに会いに行くのは止めてくれ! おまえが上原に会えば、この時間軸は元に戻っちまう!」
「元に戻る…?」
「本来のおまえの過去も、この大晦日に上原に告白出来てるんだよ……」
「…!」
「この時間軸じゃ、俺と上原にはほとんど関わりが無いように改変された。俺が深く関わっていたらおまえは必ず死ぬからだ。でも、ここにはおまえが生きている未来がある。すでに形成されている。上原に会いに行けば、どういう結果を招くか、分かるかトモヒサ……」
「よくSF物とかで聞く、タイムパラドックスとかいうやつか? 時間の意思は、それを正そうとするとかなんとか……」
「時間に意思なんてものはねぇよ。時間は、ただの自然現象だ。だが、自然現象だからこそ、元の形に戻されれば余計なものは排除される。つまり、俺がこの時間軸に来た事によって大きく改変された部分は、また元に戻せば逆の事が起こるだけだ。俺は、この時間軸から排除される」
「排除って……じゃあマコトは…!」
「心配すんな。別に死ぬわけじゃない。俺は強制的に自分の時間軸に戻されるだけだ。またここに戻る事だって出来る。でもな……」
マコトは、握った拳を床に叩きつけながら叫んだ。
「もう嫌なんだよ、同じ事を繰り返すのは! 戻ってきたって、またこの場面に来るだけだ! それでおまえを止められるまで何度も繰り返せって言うのか! また何度も親友との別れを体験しろって言うのか! 何度も何度も何度も! そんな事はもう充分に経験した! 沢山だ! 勘弁してくれ!俺は一番の友達と、ただずっと笑っていたいだけなのに…!」
マコトは蹲り、肩を震わせていた。
――何か、妙な気分だった。目の前の加賀マコトという男。そいつは本来知らないはずなのに、それなのに親友だなんて、本当に妙だ。失敗した日も、怒られた日も、ハメ外して遊んだ日も、ずっと一緒で、ずっと一緒に笑ってきた。そんな過去がある。記憶がある。加賀マコトって奴は、きっと一生の友達っていうやつなんだろう。そんな友達は、きっと生涯に一人現れるかどうかだ。
俺はきっと、何物にも替えがたい幸運を手に入れたんだ。
「なあマコト――」
だけど俺は……
「――俺、やっぱチイちゃんに会いに行くよ」
本来の時間軸に戻す事を告げた。
「な……なんでだよ!」
叫んで顔を上げたマコトの顔は、涙に濡れていた。
「なんで、俺の時間軸のトモヒサと同じ事言うんだよ! アイツもそうだった! いくら俺が頼んでもやっぱり上原に会いに行った! 上原を選んだ! 思い切って時間軸の事を話した事もあったさ! でも駄目だった! こんな時間軸なんてバカな話をバカみたいに信じたくせに上原を選ぶんだ! 『死んだって構わないって思うくらい俺はチイちゃんの事が好きなんだ』ってカッコつけて! 『いざって時はマコトが助けてくれるって信じてるよ』なんて言いやがって! それが出来ねぇから上原を選ぶなって言ってんのに…!」
「なあマコト、俺さ……」
「そうだ! トモヒト、おまえさっき青木の人生を羨ましいって言ってたよな? 俺はおまえが時間軸を元に戻しちまわねぇようにずっと見張ってたから知ってんだ。あんな人生を望むなら俺が変えて――」
「マコト!」
俺は声を上げ、マコトの言葉を遮った。それから膝を付き、マコトと目線を合わせた。
「なあマコト、正直に言うよ。俺は今でも上原チイコの事が好きだ。もちろんエミは優しいし、俺を愛してくれているのは分かる。俺だってエミを愛している。でも、どうしてもチイちゃんの事が忘れられないんだ。こんな気持ちのままじゃエミにだって悪い。だから、この気持ちに決着をつけたいんだよ。分かってくれ、マコト」
「分からねぇよ……」
「マコト……」
「分からねぇよ! 今のおまえの時間からしたらここは八年前だ。そんな八年も前の事なんて忘れちまえよ! おまえにはエミちゃんが居る、ヒナタちゃんが居る、暖かい家庭がある、充分じゃねぇか! それのどこが不満だって言うんだよ!」
「不満だなんて言ってない! ただ気持ちの収まりが…!」
「そうかよそうかよ! だったらいい事を教えてやるよ! トモヒサは知らねぇだろうが、上原は翻訳の仕事をするのが夢だったんだ。その為の留学準備もこの時にはすでに整っていた。上原のマンションが引き払われていたのはそのせいだ。おまえの事をどうしても嫌いになれなかったアイツはZippoをおまえに送り、留学を早めて日本を離れる事でおまえを忘れたんだ。でもな、そこに俺が絡むと、おまえと上原の話はこんな綺麗な失恋のお話じゃなくなるんだよ」
嫌な予感がした。耳を塞ぎたい気分だった……
「俺の時間軸じゃな、上原は俺にこう言ったんだよ――
『私ね、翻訳の仕事に就くのが夢なの。その為のアメリカへの留学準備も整ってるの。だから、倉島君の気持ちは凄く嬉しい。本当だったら私だって付き合いたい。でも、今は自分の目標に集中したいの』
初めはけなげだと思ったよ。でもな……
『だけど…! 相手が加賀君なら私、留学するの止める! 私、ずっと加賀君を見てた!』
アイツはトモヒサの気持ちを分かっていて、いざとなったら自分のエゴを押し通そうとしたんだ! あのZippoだって、ただ人づてに聞いて選んだだけだ! トモヒサの事なんて見ちゃいなかった! アイツは、おまえより俺の方を深く愛したんだよ! そういう女なんだよ!」
「でも、それは…!」
「違う時間軸だからとか言うなよ。上原チイコは上原チイコ、本質は何も変わらねぇ同一人物だ」
カッ、と頭に血が上った。気が付けば俺は、マコトの胸倉を掴んでいた。
「殴りたきゃ殴れよ。事実は何も変わらねぇ……」
俺は拳を振り上げる――が、殴れなかった。もう一つの記憶が、俺に教えたからだ。
「マコトの考えなんて分かるよ。俺は、おまえの親友なんだから……」
どんな酷い事を言ってでも俺を止めたい、たとえケンカになっても、親友って言葉一つでまたすぐに元に戻れる、きっとマコトはそう思ってる。なぜなら、俺とマコトは、一緒に笑ってきたのと同じくらいケンカもして、仲直りもしてきたんだから……
「マコト、おまえは酷い奴だよ……」
「………………」
「でも俺、やっぱり行くよ。行かせてくれ。チイちゃんの本心がどうだって構わない。誰かを好きになるって、そういう事だと思ってるから……」
俺は、手を付いて崩れ落ちた。
と、マコトからは、大きな溜め息が一つ漏れた。
「トモヒサなら、そう言うと思ってたよ」
「すまない、マコト……」
「謝るなよ。元はと言えば、この時間軸を変えちまった俺が悪いんだから」
そう言いながら、マコトは俺の肩を掴み、顔を上げさせた。
「さあ立てよ。少し時間を早めて、俺が上原の所まで送ってやるから」
俺は頷き、立ち上がる。が、今になって俺は不安になった。チイちゃんの本心がどうだって構わないとか啖呵を切っといて、情けなくなる……
「なあマコト、行く前に一つ聞きたいんだが、さっきマコトがした話って……」
「実は俺がおまえを止める為のウソなんじゃないのか?って聞きたいのか? 残念ながら本当だ」
「……やっぱりおまえは酷い奴だよ」
今更だが、コイツを殴りたくなってきた……
そんな俺の気持ちなど知ってか知らずか、マコトは、ニッ、と満面の笑みを浮かべると、大笑いした。子供の頃と何も変わらない、相変わらずの笑顔。だから俺も、一緒になって笑い合った。
「じゃあ行くぜ、トモヒサ」
5
ふと気付くと、そこは新宿駅だった。初詣や初日の出を見に行く人々でごった返す新宿駅南口の小田急線連絡口。その中に、チイちゃんの姿はあった。
「さあ行けよ、トモヒサ。元気でな」
だが、俺の足はすぐに動かなかった。もう一つの記憶が、マコトと共に過ごした記憶が俺の足を躊躇させた。
「俺が行ったら、マコトは消えるんだよな……」
「ああ、そうだ」と、マコトは笑顔で答えた。
「でも心配すんな。時間軸が元に戻れば、記憶も元に戻る。俺の事はキレイサッパリ忘れるから」
そして、笑顔を苦笑に変える。
「まったくな、時間ってのは無情なもんだよ。何でもかんでも奪っていっちまう……」
「本当に、悪い……」
「だから謝るなってばよ。それに俺は、諦めたわけじゃねぇしな」
「そうなのか!」
「失くしていく積み重ねがあるからこそ今がある、今日は終わるけど明日は来る、なんて偉そうな事言っといて、失う事を一番恐れているのは俺なんだ。だから、今度は恐れねぇ。『いざって時はマコトが助けてくれるって信じてるよ』そう言った親友の言葉に、俺はひたすら応えてやろうと思う。多分、まだ手はあるはずなんだ。おまえが死ぬ運命だったウサギを助けたみたいにな」
「えっ? でもあのウサギは――」
「ちゃんと生きてるよ。別の時間軸でな」
「そうだったのか……」
「因みに言うと、あのウサギのジャンプの話も本当なんだぜ」
「はぁ?」
「三メートルとまではいかねぇけどな。でも一メートル以上はジャンプするんだ。それで大騒ぎになってな、学校には取材陣が押しかけて俺達の小学校は一躍有名になるんだよ。でも、そこまで過去が変わっちまうと、時間軸に影響が出るから新しく形成される。だからこの時間軸じゃ死んだ事になってんだ」
「そうか……」
「話はここまでだ。早く行け」
「いや、その前に一つ……さっき、ここは俺の分岐点だって言ってたけど、あれは……」
「それは、元の時間に戻れば分かるよ。もっとも、おまえが気付く事もねえか……」
「意味分かんねぇよ」
「いいから行けよ。上原、半ベソかき始めてんぞ」
俺はすぐに構内の時計を見る。待ち合わせより、もう三十分も過ぎていた。
「……でも、まだ聞きたい事が――」
だが、そこでマコトは声を上げた。
「おーい! チイちゃん!」
チイちゃんは、俺だと思って辺りを見回している。
「マコト…!」
と、振り返ると、マコトの体は透き通っていた。
「じゃあな、お別れだ」
子供みたいな笑顔を浮かべるマコト。更に透き通っていきながら、その姿は徐々に変わって行く。
「そうか……だから……」
その姿に、俺は全てを理解した。
「なんで俺には出来なくて、自分には時間を変えられるってマコトが言った理由がやっと分かったよ。俺には確定した過去でも、マコトにとってここは……」
「不確定の未来だからな。いくらでも改変できる」
マコトの姿は、十歳の少年の姿だった。コイツは、こんな歳で何度も親友と呼ぶ俺と別れてきたんだ。何度も、俺の死に様を見てきたんだ。辛いなんてものじゃなかったはずだ。そんな歳で……
だが、マコトは言う。
「俺は大丈夫だ」
そうして、また満面の笑みでニッと笑う。その笑顔に、俺はようやく思い出した。
「あのアニメのタイトル、やっと思い出したよ。マコトって、確か当時はマー坊って呼ばれてて、それがまた変化して……」
「自分のアダ名とタイトルが同じだったからさ、俺があのアニメを見始めた切っ掛けだよ」
俺達は、声を揃えて言った。
「「まぼろしまぼちゃん!」」
同時に、マコトは消えていった。
「倉島くん!」
懐かしい、俺を呼ぶ声が聞こえた。振り返れば、そこには八年振りに見るチイちゃんの姿があった。
「もう遅いよ! 私、からかわれたのかと……」
「ごめん、遅くなった……」
涙を滲ませるチイちゃんに、俺はそう謝る。と、涙を拭う彼女は、不思議そうに言った。
「なんで、倉島くんまで泣いてるの…?」
色んな気持ちが込み上げてきて、色々と絡まって、どうしていいか……でも、アイツは譲ってくれたんだ。俺にこの想いを遂げさせる為に……
「チイちゃん、俺はチイちゃんの事が――」
知らぬ間に、手に持った煙草が一センチほど灰になっていた。どうやら俺は、こんなベランダに座り込んで数分の間うたた寝をしていたらしい。
「さぶっ」と呟き、俺は家の中に入ろうとした。と、同時にポケットの携帯が鳴った。着信は、上原チイコからだった。
『ごめん、倉島くん、寝てた?』
その瞬間だった。頭の中が真っ白に突き抜けた。
――どうやら少しくらいは時間にも情があったみたいだぞ、マコト。憶えてるよ、おまえの事。そして、全部分かったよ。分岐点の意味が……
『寝てたならまた明日かけ直すよ?』
「いや、大丈夫だよ」
俺は笑顔で答える。
「どうせ、また翻訳原稿に煮詰まってんだろ」
『はは、よく分かるね』
「いつもの事じゃん。気晴らしに俺を利用するのはさ。金が無い時も、飯を食わせろだの酒を飲ませろだのと俺を利用するんだから」
『それは、ほら、あれだよ。それだけじゃないよ。私が紹介したエミって言う可愛いお嫁さんと、ヒナタちゃんって言う可愛い赤ちゃんと、仲良くやってるかなって、見に行ってるんだよ』
「よく言うよ……あっ、そういえば、前から聞こうと思ってたんだけど、昔俺にくれたZippo。あれ俺が欲しがってたやつだけど、あれってやっぱり少しは俺の事見ててくれたの?」
『違う違う。たまたま人から聞いたの。それで、いい事聞いたな、ちょうどお返しにいいやって』
「やっぱりか……やっぱ君は酷い女だよ」
『何言ってのよ。私が三年の留学から帰ってきて、向こうで知り合ったエミを紹介した途端、エミに乗り換えちゃってさ。あれだけ私の事好きだって言って、待ってるって言ってたくせに』
「チイちゃん、待たなくていいって言ったじゃん」
『そうだっけ? ハハ、まあいいじゃん。男女の関係にならなかったおかげで私達、今じゃ無二の親友になってんだから』
「恥ずかしい事、言うなよ……」
俺は、きっと幸運なんだと思う。上原チイコっていう生涯に一人現れるかどうかの一生の親友がいるんだから。
了