第五話
ポーーン
それは後ろから肩を叩くように。大理石の床の上へ一歩踏み出し、立てた足音のように。
ピアノの音だ。自分はふと立ち止まった。
バイトも終わって夜九時半、狭い歩道の上。楽器屋も側に無い寂しい道だ。初めて通った時と少しも変わらない。
今度は道の端で耳を澄ませて、もう一度音が鳴るのを待った。
ポーーン ポポポポーーン
後ろから、続けざまに静かなメロディが流れる。でも「月光ソナタ」とは違った。たどたどしく、しかし懐かしい感じがする。窓から中を覗くと、小さなメモ用紙が置かれていた。端の方がふやけて、摘むと破けてしまった。黒いインクも滲んでいる。
「あなたのおともだちがきたの
れんしゅう きいてもらったの
そのひと いろいろしゃべってたの
もうこられなくなる?」
「ごめん。残念だけど、四月からはもう行けない」
懐かしき愛の歌を奏でるピアニストに、自分は極力冷静に告げた。頼りないメロディがはたと止まった。
「大学に行かなくちゃいけないんだ。バイトしに通う暇もなくなるんだよ。もうこっちには来られない」
張り詰めた時間が流れている。自分の後ろを通行人達が忙しそうに通っていく。
「でも」弁解するように、
「約束する。毎週二回、辞める日が来るまで、絶対にここに聴きに来る。この時間が好きだから、君の弾くピアノも、大好きだから」
恥ずかしい。つい大声になってしまった。夜風がからかうように火照った顔を撫でた。
やや開いた窓の隙間から、クリーム色のメモ用紙がひらりと落ちてきた。自分は慌てて手をお椀にして受け止める。
「うれしい ありがとう」
メッセージをポケットに仕舞おうとしたとき、再びピアニストが練習を始めたのが判った。自分は黙って、それを見守っていた。
象牙色のピアノで奏でられる「Love's old sweet song」は、来る度に滑らかになっていく。夜の九時半が来たのを告げる、真心こもった時報は。我が事のように嬉しくてたまらないが、後何回聴けるだろうと寂しさも募る。
ピアニストの方から来る手紙も、ボリュームのあるものになった。嬉しさと興奮が爆発しているのが、目に見えて解る。
「このうた だいすき やさしい きもちになる」
自分も同じ気持ちだよ。
「またきて つぎはもっと うまくなってるから」
バイトが無くたって来たいくらいだ。その曲が完成したら、マスターの気持ちもきっと君に伝わるだろうし。
お月様の色のメモ用紙を受け取る度に、自分は思うのだった。
〈つづく〉