第四話
バイトからの帰り道、いつものガラス窓が少し開いていた。「月光ソナタ」がやや弱々しく響く。ピアニストもこの間の話を聞いていたのだろうか。
「マスターの事?」自分は訊いた。演奏が途中で止められる。
「これから良くなるさ。こんな部外者が言うのもなんだけど、きっと何もかも上手くいくって信じてる。
そうだ、こないだ言ってたリクエスト、持ってきたよ。『Love's old sweet song』って歌なんだけど、弾いてみてほしいな」
返事は何もなかった。暫くしてから、再び同じメロディが、最初から弾きなおされ始めた。
何度も弾かれた曲に拍手をして、またね、と言って自分は立ち去った。贈り物を気に入ってくれると良いけど。
風変わりなニュースというのは、人が思うよりずっと早く伝わるものだ。
週があけて次のバイトの日、先輩と昼休みを一緒に過ごした日があった。その時になんと、あの象牙色のピアノの話を持ち出されたのである。
「ここら辺に住んでる友達でさ、独りでに音楽を奏でるピアノの噂をした奴がいるんだ。毎晩午後九時半になると『月光ソナタ』を奏でだすって。変わった話だよな」
「……自分、聴いた事あるんですけど」
「実はオレもさ。こないだそいつに誘われて、噂を確かめに行ったんだ」
ところが、先輩が聴いたのは「月光ソナタ」ではなかった。思ったほど上手くもなかったという。
「あの曲何ていうんだろうな。すげぇ何かこう、穏やかな雰囲気でさ。でもちょっと所々痞えてたみたいだった」
お前タイトル判る?と、鼻歌まで歌ってくれた。自分は知っていた。それが先週、見えないピアニストへ送った楽譜のメロディだという事を。
自分が選んだ、マスターの口ずさんでいた、あの歌を練習していたに違いない。
「『Love's old sweet song』っていうんですよ、それ」
「何?らゔず……?」
先輩は今一つ飲み込めていない様子だ。
「懐かしき愛の歌、ってところですかね。うちにCDあるんで、今度聴いてみます?」
「じゃあ、辞める前に貸してくれるか。もうすぐ来られなくなるんだろ」
もうすぐ。そう聞いてどきりとした。もう四月からは、今よりずっと忙しくなる。小遣い稼ぎをしている暇は無い。
そしてバイトが終われば、もうこっちの電車を使うこともなくなる。
はい、と言いながら何度も目をパチパチさせた。急に鼻をかみたくなった。
先輩は萎れた花を見る時みたいな顔をしていた。
〈つづく〉