第三話
「いつもありがとう」
「きょうはなにがあったの」
見えないピアニストから度々送られてくるメモは、いつしか自分の財布の中にいっぱいになった。
小さめの封筒を探さないと。それならちょうどよく仕舞える筈だ。丸いビーズめいた文字列を眺めて、自分は思った。
あの象牙色の楽器が奏でる「月光ソナタ」を初めて聴いたときから、もう半年近く経っていた。
「あなたのえらんだうたがひきたい」
窓と枠の間に、挟まっていた小さな紙切れ。内緒話でもするように、ひときわ小さな字で書かれていた。
自分は首を捻った。この人は、「月光ソナタ」しか今まで弾いていない。何故かは知らないが、他の曲は一度もだ。だけど自分にチョイスを任せてくれるとは。
どんな曲が良いだろう?
「次に来るまでに考えておくね」
ポロロン。返事の代わりに、音の粒が見送った。
風の強いある日の事だった。
歯医者の用事が済んだ後、どういうわけか無性に、あのピアノと一緒にご飯が食べたくなった。それで例の食事処へ行った。
マスターも内装も、前と何一つ変わっていなかった。ただ、変に色褪せた雰囲気が仄かに漂っている。見た目には同じようで、どこか違う風に感じられるのだ。
「あれ、マスターどうしたんだい」
自分の代わりに尋ねたのは、隣に座っていたサラリーマン風の男だった。
「随分落ち込んでいるように見えるぜ。前に君と来た時より」
それに答えたのは、彼の妻だろうか。長い髪の毛を一つに束ねた女性。
「心配なんですって。入院してる娘さんと、会ってきたみたいなんだけど」
自分はカウンター席でホットサンドを食べ食べ、この夫婦の話にこっそり耳を傾けた。
その娘さんは眠り続けているそうだ。三年前、店への帰路を急いでいた時、車に撥ねられて以来、ずっと。
「月光ソナタ」が大好きだったそうだ。よく聴いていて、自分で弾くことも多かったらしい。
「もしかしたら、このまま死んでしまうかもしれないんですって。可哀想にねぇ……あら」
不意に、女性が顔を上げた。ゆったりしたピアノの音だ。店のBGMに流れてきたのは、「Love's old sweet song」のメロディ。自分の好きな歌だ。
マスターが小声で歌詞を口ずさんでいる。溜まった涙で、落ちくぼんだ目がキラリと光った。
それで自分は決めた。
見えないピアニストへ送るには、きっとこの歌が良い。
お金を払って店を出た後、自分はその足で近所の楽器屋へ赴き、ピアノ用楽譜を買った。家にちょうどお月様色の色紙もあったので、自己流で包んだ。バイト帰りに渡すことにしよう。
「おいおい、何だよそれ?ガールフレンドに贈り物かい」
鞄からのぞいていた包みを見て、先輩が冗談めかして言った。
「多分、そうなるのかもしれませんね」
言葉通りの意味でなら。敢えて否定はしなかった。
〈つづく〉