第二話
その日、自動ピアノは音を外した。
いつも通り、バイトから帰り駅へ行こうとしたある夜のことだった。
象牙色のピアノは気をとりなおしたように、「月光ソナタ」を最初から弾き始めた。けれど、すぐ同じところで音を止めてしまう。それが何度も繰り返された。はじめはテープの調子が悪いんだと思っていた。
そうじゃない事は、自分にも直ぐ見てとれた。
バァン!
突如、ピアノが大きく鳴った。誰かが癇癪を起こして、鍵盤をぶっ叩いたように。それからまた、今度はゆっくり慎重に、「月光ソナタ」を奏でだす。
「大丈夫?」
自分は窓の外から、見えない誰かさんに声をかけた。聞こえないかもしれないけど。誰かさんは徐に手(?)を止めた。
「落ち着くんだ。慣れてた事が上手くいかないことなんて、いくらでもあるさ。休んで、間隔をあけてから弾き直せば、きっと大丈夫だよ」
ちゃんと伝わっただろうか?自分は心配だった。訳のわからない大きな何かが、静かに崩れ去ってしまうかもしれなかった。
暫しの沈黙が続く。再び、窓の隙間から音の粒が丁寧に溢れだした。
ふと時計を見ると、とっくに10時。しまった、長居しすぎたみたいだ。
「それじゃあ、またね」
自分は手を振って、夜の闇に飛び込んだ。
見えないピアニストの存在を知ったあとでも、自分の生活は何でもない、平穏なものだった。しかし転機というのは突然訪れるものだ。
自分が歯医者へ行った時のこと。初めてかかる場所で、どんな所かと思っていたら、何と驚いたことにバイト先の近くだった。
(休みの日に来ると、いつもの道も違って見えるなぁ)
デンタルフロスを白衣の女医にかけられながら、自分は思った。
ん、違う? そうだ、あのピアノがある店は、どうなっているだろう。案外繁盛してたりして。後で行ってみようかな。
あれこれ考えを巡らせていると、もう診療は済んでしまった。30分何も飲み食いしないよう言われたが、象牙色のピアノに見惚れ聞き惚れていれば、すぐ済むかもしれない。
いつもの狭い道路を通ると、あの窓が現れた。見えないピアニストと自分の唯一の交流手段だ。
正面入口から入って、中をぐるりと見渡す。食事処のようで、意外に広い。ついでにお昼ご飯も食べていくことにしよう。
客席から一段程高い所にピアノがあった。演奏はされていない。
「随分立派なピアノですね」
自分は何気ないふりをして、初老のマスターに言った。
「綺麗でしょう。今はもう殆どディスプレイ扱いですが」
マスターは恥ずかしそうに笑う。
「あれが演奏されてる所を見た事があるって、知り合いから聞いたことがあるんです」
美しい音色だったって。自分は嘘をついた。事実を知ってか知らずか、彼はやや喜んだように見えた。
「そうですか……私は触った事も無いから、誰かが残って弾いているんでしょうね」
ここで彼は言葉を切り、
「それなら、そのお知り合いにこれを渡して頂けますか。鍵盤に挟まっていて」
ポケットから一枚の紙切れを出した。たどたどしい字で、今彼が言ったのと同じ文面が表に書かれている。開いたところには、
「いつもきいてくれてありがとう」
小さな丸い字でそう書いてあった。自分はそれを貰ってから、付箋を一枚めくって、
「此方こそ、素敵な演奏を有り難う」
と書いた。これからは窓際に置いてほしい旨も添えた。
お腹も心もいっぱいにして、自分は幸福な気持ちで店を出た。
〈つづく〉