第一話
ポーーン
それは後ろから肩を叩くように。大理石の床の上へ一歩踏み出し、立てた足音のように。
ピアノの音だ。自分はふと立ち止まった。でもどこから?
バイトも終わって夜9時半、狭い歩道の上。楽器屋も側に無い寂しい道だ。そもそもここの近道は今日初めて通るから、どんな店があるかとか知らないんだけど。
ストリートミュージシャンだって、まさか路上でピアノは弾くまい。
今度は道の端で耳を澄ませて、もう一度音が鳴るのを待った。
ポーーン ポポポポーーン
後ろから、続けざまに静かなメロディが流れる。凭れかかっていた壁越しに。脇のガラス窓の隙間から中を覗くと、喫茶店めいたカウンターの奥に、ピアノがあるのが見えた。自動オルガンってやつか。多分誰かがスイッチを切り忘れたんだ。
ピアノの音色が滑らかに耳を抜けていく。自分の好きな「月光ソナタ」のワンフレーズだ。自動だから上手いのは解っている。でも雑音飛び交うこの街中、美しい音楽に出会うと、足を止めずにはいられない。
メロディが止んだとき、自分は思わず手を叩いてしまっていた。
「それじゃ、お疲れさん。暗いから気をつけてな」
「ハイ。有り難うございます」
自分は先輩に深々と頭を下げた。週2のバイトはつまらなくないし、先輩も良い人ばかりだが、やや帰りが遅くなるのが困ったところだ。終わった頃には、もう時計の2本の針は直角になっていた。
早めの電車で帰る為、今日も此間見つけた近道を通る事に決めた。細い道をせかせか通る最中、肩に食い込む鞄の紐を整えたくなった。道の端にそれて担ぎなおすと、
ポーーン
前と同じ、自動ピアノの音がした。窓からそっと覗くと、象牙色に輝く大きなピアノがあるばかりだった。
今夜も、音符達が穏やかに行進するのが聴こえる。ただ、この日は心なしか歩調が早いみたいだ。自分の拍動に、ピアノが合わせているよう。
メロディの行列がいなくなると、
「素晴らしかったよ」
自分は周りに聞こえないように賛辞を投げかけた。
それからも、あの「月光ソナタ」が聴きたくて、自分はしばしば近道を通った。バイトで疲れた体に、午後9時半を知らせる合図はいつも癒しをくれたのだった。
だけど、この話は勿論それだけじゃ済まない。そうでなけりゃ今この場所で言ってないから。
〈つづく〉