チェンジアップ
薬袋が投げたボールはプロ野球選手もびっくりなほど急角度の落差でストンと落ちた。
その清々しいまでの落ち方は、まるでドラマやバラエティなどで目にするズボンが脱げ落ちる光景を彷彿とさせた。
「ストライクっ!」
マウンドからバッターの足元にある五角形のホームベースまでは約十八メートル。
薬袋のボールはその約十二メートル手前、つまるところ六メートルほどしか飛んでいない。
その六メートルの距離に至るまでの落差もさながら、周りの期待の落差も結構なほどであった。
まるで肩すかしといえばいいのか、野球で言うなら空振りが適切か。
但しボールが届かないのであれば、空振りしようもないのだが。
「ちなみにストライクをコールするのはお前じゃないから」
僕の背中に立つアンパイアはさすがにボールが届かなかったことは想定していなかったらしい。
果たしてこれがインプレーなのかどうかも分からない。
「もうちょい手前で投げろ。あと下から投げろ」
ボールを拾いにいくついでに、僕は薬袋へホームベースへ近づくように指示をする。
というかボールは薬袋の方が近いのに、何故僕が拾っているのだろう。
周りからはバッターちゃんと振ってけなんて野次が飛んでいるが、これはバッターの方が可哀想である。
「私思ったんですが、バウンドしてストライクゾーンを通ったら、これってストライクになるんですか?」
「そんな技できないから、気にせず投げなさい」
薬袋のふとした疑問を躱しつつ、僕はホームベースの向こうへと戻る。
改めて腰を落とすと、慣れない姿勢なのか身体が節々から奇妙な軋んだ音を鳴らす。
これを六回までやるのはかなりの苦行とみた。
そして投手が薬袋というのももう絶望だ。
いったい何点獲られるだろうかと頭の中で計算しながら僕はミットを構えた。
構えたって、構えたところに来るはずもない。
ただその構えるという姿勢が大事なわけであって、薬袋はそれを見て投球動作へと移る。
何の漫画の真似かはさておき、つま先を大きく空に向かって上げて振りかぶる。
そして足を付いたと同時に、それでもまだ投げない。
「ほっ」
ボーリングの要領で投げたボールはいい塩梅でバッターの膝元よりも若干低めを通過する。
ボールの軌跡にミットを合わせた瞬間に、左上の視界から鈍い金属バットが通りかかる。
鈍い音を残してボールは前へとはじかれる。結果はサードゴロ。
さっきの野次が効いたのか、結構際どいところを打ちに来てくれたのが幸いした。
「設楽さん!見ましたか私のチェンジアップを!」
チェンジアップではなくボークだ。販促投球で本来ならボールである。
― チェンジアップ
九州では六月の梅雨を超えて、あっという間に猛暑へと移り変わった。
梅雨の影響で気温が下がり、今年の夏もまだまだ先だと感じた矢先にひりつくような太陽光線が待っていた。
「というわけで、学部対抗の野球大会を行うことになりました」
どうして行うことになったのかの過程をすっ飛ばした接続詞を使って教授の説明は終わった。
毎年こういったイベントを避けつつあった僕は内心では野球に決まった過程はさておき、休むための理由を考え始めていた。
たいてい一人暮らしの場合は、実家に帰省するというのが一番無難な回答であり、わざわざ架空の親戚を殺して休みを取るなどといったことはしない。
「ちなみに今年の主将は設楽君です」
「あの、実家に帰らせて下さい」
「日時も聞いてもないのに断るの? いつ帰るんだい?」
「野球がある日です」
「いっそ清々しいな君は。ただ残念ながら推薦者がいてだな」
ふむ、と一呼吸おいて教授はバインダーに挟まれた資料を取り出した。
どうやら参加名簿である。
「野球大会では往々にして女性が投手をやるんだけど、毎年勧誘に困っているんだ」
「えぇ、まぁ、女性少ないですしね」
それに大学生にもなってスポーツをしようという女子がこの大学にいるだろうか。
「それに君はもう少し他人と交流した方がいい」
「ネットを介して数千人もの人と交流してますけど」
「そりゃ交流とは言わん。交信だ」
まぁそりゃそうだ。
インターネットを通じて行う交流のほとんどは一対他であることの方が多い。
不特定多数に送られた言葉は受け手が如何様にもできる。
強制されない返答に、無責任な発言もできる。
所詮は誰か特定に向けた言葉ではないのだ。
「でだ、今年はやけに投手がすんなりと決まってな。ただし条件を出されてな」
「年俸一億くらいですかね」
「そんなにお金があるなら、もう働いとらん」
「あれま」
その回答はやや意外なものではあったが、その条件とやらを突きつけた女子学生も相当肝が据わっている。
「所詮はお遊びなんだから気楽にやりなさい」
「もう僕が出ることは決定なんですね」
「そうじゃな。なに、その女子学生とやらはもう結婚を決めているらしくてな」
「へぇ、そりゃいいじゃないですか。その旦那とやらにキャッチャーやらせましょうよ」
むしろそいつの条件がそれじゃないだろうか。よく投手と捕手は夫婦だと例えられるし。
「勘がいいな、その子もバッテリーは夫婦でやりたいと言っててな」
「へぇ」
「是非、設楽君にボールを受けてほしいと言ってたのだよ」
ちょっと待て。
「あの、そいつの名前教えてもらっていいですか」
「ん、君も知っているだろう。薬袋君だよ。あの背の小さい子」
とんでもない爆弾を研究室に持ってきてくれたものだ。
確かに話の内容からして薬袋が言いそうなことではあった。
今思えば薬袋しか言いそうにないような気がする。
「君ら結婚してなかったのかい?」
まずは教授の誤解を解くことから始めなければならないようだ。
それに僕が捕手をやるのならば、薬袋が夫で僕が妻だ。性別が逆転している。
こういうことに限っては直球で来るから困る。
そもそも変化球ですら投げれないけども。
―
三回を過ぎてスコアレスのまま四回の表へと入った。
思った以上に得点が入らない。
それは三回の裏の打席に立ってようやく理由が分かった。
とにかく投手が女性で距離が近いのだ。
近場で投げられる違和感と、一番の理由が当ててしまうのではないかという危機感だろう。
バッターは引っ張って打つしかなく、次第と守りもレフト寄りへと変わっていく。
薬袋の反則投球もとりあえず黙認されている。
正式な大会でもなく、いわば交流会みたいなものなのでルールもあまり厳密ではない。
「ほっ」
更に無得点に貢献しているのが、あまりにもストライクゾーンが広いことだ。
ワンバウンドにならなければ、ほとんどストライクになる。
まぁ女性が投手をやっている時点で、そういった暗黙の了解もあるのだろう。
逆にボールを見逃すと、バットを振れという野次が飛ぶ。
薬袋も運動音痴なのが逆に幸いして、ボールにまとまりがなくいい意味でコースが散っている。
途切れ途切れに安打を打たれながらも、何とか無失点で抑えている。
対する相手チームも同じようなもので、レフト寄りに野球経験者を配置し失点を防いでいる。
全員が早打ちするおかげか、十球そこらで攻撃が終わることがほとんどだ。
「ほっ」
掛け声とともに放たれたボールはまたしてもバットに捉えられる。
しかし飛ぶ方向が分かってればどんなにいい当たりでも守ることはできるもので、二塁手がレフト方向の外野に回り、センターからレフトに三名守備を置いている。
奇しくもそのセカンドが打球を処理して、攻守交代。
もはやセカンドではないのだが。
「いや、暑いですね」
「ほんとに」
ベンチに戻ると置いてあるミネラルウォーターに手を伸ばす。
もはや自販機で買ったときの冷たさは消え、あるのはベンチ内で温められた常温の水である。
「よくベンチを温めるっていいますね」
「それ物理的な温度じゃないから」
物理的な温度ってどういうことだろう。
暑さのせいで、指摘まで緩くなっている。
グラウンドにはかすかに見える陽炎と、向こうベンチが気怠く守備へ向かう姿が見て取れた。
「まさかこんなにハードだったなんて」
「薬袋が投手を引き受けなければ、俺だってこんなところ来なかった」
「まぁ、バッテリーは夫婦だっていいますし」
「ほんとそれを理由に引き受けたなら、尊敬するよ」
割と不思議に思っていたのだが、薬袋はスポーツ好きなんだろうか。
チェンジアップを知っていたくらいだし。
「ってか、こんな時も本読んでいるのかよ」
「いえ、野球規則の本です」
「ルールブックかよ。しかも買ったのか」
薬袋が手に持つ本は、野球規則の本だった。
まるで学生手帳の拡大版みたいなもので、思っていた以上に分厚い。
プロ野球選手やアンパイアはこれを全部頭に入れて試合をしているのだろうか。
「買ったのではなく、そこに置いてあったのを読んでいるだけです」
自チームの攻撃には全く興味が無いらしい。
勝とうが負けようが、どちらでもいい。僕も攻撃には無関心だった。
守備に限っていえば、あの炎天下の中に座らされるのだから多少なりとも守備時間は縮めたい。
「いろいろと抜け目なくルールが作られているんですね」
「そりゃな」
むしろ穴だらけだったら、収拾がつかなくなる。
「にしたって、ここまでの熱さは予想してなかったな」
「えぇ、私もです。もう雨天コールドゲームにしましょう」
「コールドというよりも、五回が終わらないとゲームが成立しないから中止になるんじゃないのか?」
「あぁ、そうですね。でもこのゲーム最終回が六回なんでどうなるんでしょう」
「ま、どちらにしろこの天気じゃそんな心配も不要だけどな」
僕はまっさらな青空を眺めながら呟く。
「そうですね。エースピッチャーは大変ですね」
エースというよりも、登板できる投手が一人しかいないだけなんだけど。
四回の裏の攻防も結果的には両チームとも得点なしとなった。
ランナーは溜まるが得点圏になると途端に打てなくなる。
とりあえず試合ができればいいという緩い大会にも関わらず、四回終って無得点の均衡したゲームともあって両チームとも緊張感を増してきたように思える。
薬袋は五回の表のマウンドへ向かう。
後になって思えば、捕手を務めた僕が気付くべきだったと思う。
改心の当たりだった。目の覚めるような甲高いバッド音と共にボールは弾け飛ぶ。
一瞬の間にボールは消えて、レフト方向へと飛んでいく。
「これは決まったな」
フェンスを悠々と超えて、ホームラン。
ワンアウトを取って、安心したつかの間だった。
向こうベンチからも驚きの声とともに、さすが元野球部という野次が飛んでいる。
元野球部なら仕方ない。先ほどの打席もヒットを打っていたし。
それ以上に薬袋のコントロールが安定してきたのも原因のひとつかも知れない。
初回に比べると慣れてきたのか、ボールのばらつきが無くなってきていた。
そのため、どのボールもストライクゾーンに入ってきて、打者の打ち易いコースとなってしまった。
薬袋の手先の起用さが今回ばかりは逆に作用してしまったというところか。
打者がホームインし、チョークでスコアボードに一点が刻まれる。
「相手は元野球部らしいし、仕方ないな」
マウンドに向かい薬袋に声をかける。
「しっかし飛びましたね。バントホームランもあそこまで飛ぶのでしょうか?」
「何故、バントホームランを知っている」
しかも現実ではどう考えたって不可能だ。
「うーん、投げるのが安定しちゃったからですかねぇ」
「気づいてたのか」
「えぇ、でも感覚っていうものは掴んでしまうと、離すことって難しいんですよねぇ」
「面白いこと言うな」
「でもそうでしょう、一度自転車に乗れてしまうと、乗れなかったときの感覚って忘れてしまいますよね」
薬袋のその例えは十分に理解できるものだった。
「というわけで、リードお願いしますね」
その手に余るぶかぶかのグローブで薬袋は僕の右腕を叩く。
「野球やったことないから、配球なんてできないぞ」
「同じコースに投げなければいいんじゃないですか?」
「そうするか」
野球経験者が聞くと、呆れるような会話かもしれない。
僕はホームベースに戻り、次のバッターと対峙する。
まずはインコースへと構え、薬袋が投げる。
構えたところよりも若干打者よりになっているが概ね狙った所には投げれるようだ。
しかし痛打。
三遊間をボールは一瞬で通り過ぎ、シングルヒットとなった。
単純思考とばかりに次は外角に構えるも、これもヒット。
これで得点圏にランナーが進んだ。
そりゃそうだろう、素人の配球なんて結局のところ大した影響が出るわけではない。
こうなると打者が打ち損じることを願うしかない。
「タイム」
すると薬袋が挙手をしてタイムを宣言する。
審判もタイムを認め、バッターボックスに立っていた打者は打席を外す。
僕はキャッチャマスクを外してマウンドへと向かう。
「どうした?」
「設楽さん、上から投げていいですか?」
「上? ストライク入らないだろう」
オーバースローのことを言っているのだろうけど、試合開始の一投目を見た誰もがそう思っただろう。
ストライクが入らなければ試合にならない。
いや、本当にそうだろうか。
「いや、上から投げろ。任せたぞ、エース」
僕は左手にはめたグローブで見ないの左肩を軽く叩く。
「えぇ、目指せ完全試合です」
「もう完全試合は無理だ」
ヒットは初回から打たれ、完全試合は潰えている。
ランナーは一二塁のまま、審判からプレイのコールが宣言される。
薬袋はグローブで口元を隠し、小刻みに首を振っている。
「いや、サインなんてないから。はよ投げろ」
どうしてこういう無駄な知識は持っているのだろうか。
突然のオーバースローに相手ベンチは若干のどよめきが起こる。
砲丸投げを彷彿とさせる投球は、リリースポイントが高い分、落差も激しい。
バッターに届くか届かないかの位置でボールはバウンドし、ツーバウンドしてキャッチャーミットに収まる。
ボールカウントが一つ増える。
周囲からはバットを振れと野次が飛ぶ。
二球目、今度はかなり高めだ。バッターの肩付近のボール。
鈍い音と共に、ボールはサード方面へと転がる。サードがベースを踏み、ファーストへ転送する。
これでスリーアウト、攻守交替。
「ナイスボール」
ベンチに戻る際に声をかける。
「あまり褒められてる気はしませんがね」
コントロールが安定してきたことによってストライクゾーンに入る確率も高くなり、打ちごろの球も多くなりヒットを打たれる。
しかし初回時点の薬袋の投球は頭上を通過したり、ベース上でボールが跳ねるなど完全に不安定だった。
また周囲からの野次もあってバッターは焦り、悪球に手を出してしまう。
コントロールできるのであれば、コントロールできない投げ方をすればいい。
「それでも打たれる可能性はありますけどね」
「まぁな」
「そもそもストライクに入れればいいものではなくて、バッターをアウトにするのが目的ですから」
薬袋の言うとおり、極論全てボール球でもいいのだ。
「これで私もメジャー入りですね」
「マイナーにも入れないだろ」
水分補給をしつつ、炎天下で戦うチームメイトを眺める。
キャプテンと指名されたにもかかわらず、ノーサインで進行する。
選手交代も全員が出れるように予め予定を立てておいたので問題なしだ。
守備位置についてはグラウンドに立ってから、自由に選択させた。
一番からの良い打順にもかかわらず、ヒットが出たり、アウトになったりの繰り返し。
「設楽さんが適当に打順を決めたのが敗因ですね」
「面倒だったから、エクセルのフィルタ使ってソートした打順だからな」
「エクセル打線。名前だけかっこいいですね」
「名前だけな」
確か第一条件は年齢で、第二条件を名前順でソートした気がする。
ちなみに僕と薬袋は一試合丸々出るため、八番と九番に設定した。
「もっとこう、野球経験者で打順固めればよかったですね」
「名簿には経験ありとか書いてないしな。むしろ未経験者歓迎って感じだったし」
「求人情報じゃないんですから」
「しかし見事に経験ありなしで交互に組まれてるな」
「設楽さんと私は両方未経験ですけどね。あらら」
薬袋の目線の先には一塁手前で惜しくもアウトになるチームメイトの姿があった。
これで五回の裏が終わり、最終イニングに入る。
「降雨で、ノーゲームは無くなってしまいましたね」
「いや、もう負けでいいから雨降ってほしいよ」
正直なところ、太陽が燦燦と照りつくすグラウンドには出たくない。
チームメイトも最後の守りに向けて緩慢な動作で自身の守備位置に移動する。
ちなみに同点の場合は、九対九のじゃんけん大会と成り下がる。
「ほりゃ」
謎の掛け声と共に第一球。いい塩梅で打ちにくそうなコースへボールは飛ぶ。
鈍い音と共に、ボールは三塁手前のフライとなる。
先ほどちょうど上位打線を超えたので、最終回はわりと安心して見ていられる。
結局ツーアウトからヒットを許したものの、後続を断って攻守交替。
後攻である僕たちのチームの同じく下位打線である六番バッターからの攻撃だ。
「あれ、これ設楽さんが最後のバッターじゃないですかね?」
「誰かがヒットで出てくれると願いたい」
「それだと私じゃないですか」
どちらもヒットが打てない前提での話だけど。
先頭バッターはまさかの空振り三振に終わり、七番バッターが打席に向かう。
「あぁ、でも彼は野球上手そうですね」
「確かに、期待できそう」
七番バッターは打席の地面を均し、バットを天高く立てて構える。
「あれは、神主打法」
「だから、なんでちょいちょい野球知識を披露してるんだよ」
薬袋の偏った知識に突っ込みつつも、かなり打ちそうな予感がする。
「あっ」
フルスイングに反して小さな打球音を鳴らし、ホームベースの真上に飛んだ。
結果はキャッチャーフライ。
「さて、設楽さんどこかに食べに行きませんかね」
「まだ終わってねーよ。荷物まとめんな」
そそくさと荷物をまとめようとする薬袋を止めて、僕はバッターボックスへ向かう。
「よくヒーローが言いますよね、『終わらせてやる、このふざけた戦いを』って」
「ふざけてねーし、それ負けてるから」
もしも奇跡的にホームランを打ったとしても、同点。
つまり薬袋に打席が回るため、終わることはできない。
「それでもまぁ、少しくらいは打っておかないとな」
打席に立って正面の投手と対峙する。
やはりこの至近距離で投げられると、当ててしまうのではないかという不安を掻き立てられる。
一投目は、膝下やや低め。
「ストライク!」
周囲からは野次が飛ぶが気にしない。
こういった大会でなければ完全なボールだが、なんとなくキャッチャーまで届いたらストライクという風潮が出来上がりつつある。
僕はもう一度バットを構える。
二球目はボール。ベース付近でバウンド。
これにも野次が飛ぶ。何でだ。
三球目、ちょうどベルト付近のボールだ。
やはり我慢して正解だった。薬袋同様相手投手も素人だが、徐々にコントロールが安定してきた。
そしてストライクを取るためにど真ん中を目指してボールを投げる。
そこを逆手に取った。
甲高い金属音を鳴らして、ボールは二塁手の頭を悠々と超える。
僕はボールの行方を見つつも、一塁ベースを踏み抜き二塁へと向かう。
が、相手チームもレフト方向に経験者を置いていたこともあって、三塁には進めない。
「終わったな」
次の打者は薬袋だ。
ここで代打を出せればよかったのだが、チーム全員を出場させるため早めに交代は使い切ってしまった。
バッターボックスへ向かう薬袋を見ると、目線があった。
「裏切り者」
半眼にしてぼやいた口元から読み取ってみた。
結果的に薬袋が最終バッターになってしまった。
バッターボックスに立った薬袋は、先ほどの七番バッターの真似をしているのか地面を片足で均し始める。
そしてバットを片手で持ってレフト方向へ向ける。
予告ホームランである。
「バックスクリーンに突っ込んでやります」
ちなみにバックスクリーンはセンター方向だし、対する相手は超前進守備である。
予告ホームランに威圧されたのか、二球続けてボールとなる。
ちなみにこのゲームは四死球はなく、カウントが振り出しに戻る特別ルールだ。
割と投手に有利なゲーム設定ではある。
三球目はど真ん中。金属音が鳴り、僕はスタートを切る。
三塁線に転がったボールはラインを割ってファール。
もう少し前進されていたらフェアゾーンで捕球されアウトになっていただろう。
相手守備はさらにじりじりと前進する。
盗塁禁止のため、ランナー二塁にもかかわらず二塁手も超前進守備に参加している。
まるでここにランナーがいるのを忘れているような状態だ。
四球目はベース付近でバウンドしボール。
そして五球目はやや高めのボールだったが、ストライク。これでフルカウント。
ちらりと薬袋の目線が僕に何かを訴える。
もしも意図的にこのカウントを作り出したのだとしたら。
最後の一球の投球動作に入った瞬間、僕はスタートを切る。
盗塁は禁止されているが、ヒットエンドランは禁止されていない。
対する薬袋はバントの構えを見せる、それに釣られ前進守備を敷いたメンバーは更にホームへと近づく。
が、薬袋は一旦バットを引いてそこからフルスイングをする。
乾いた金属音と共にボールは前進守備を敷いた一塁手の後方へと飛ぶ。
「うまい」
周囲からは驚きの声が上がり、今日一番の歓声が聞こえる。
ヒットゾーンにボールが飛ばないのであれば、ヒットゾーンを作ればいい。
一塁手の後方へボールが跳ねたのを見届けたときには三塁ベースを蹴っていた。
捕手は立ったまま一塁方向を見ていて、バックホームされる気配はない。
ホームベースをしっかりと踏み抜いてこれで同点。
「ゲームセット!」
「えっ」
主審は高らかにゲーム終了の宣言を行なう。
自然と目線は一塁へ移ると、そこには一塁ベース直前で転んだ薬袋がいた。
「大丈夫か?」
慌てて薬袋の方へ走るが、どうにも地面に寝そべって万歳しているようにしか見えない。
「大丈夫だ、問題ない」
どうやら軽口を言えるくらいには回復しているらしい。
それでもすぐに起き上がらないのは、試合に対して未練からくるものなのか。
「ほら、立てるか」
「大丈夫だ、問題ない」
「問題あるから言ってんだ。整列するぞ」
薬袋の両手を握って引っ張り起こす。
「自分の走力は計算に入れてませんでした」
「そか」
下はジャージを履いていたので擦り傷とかはなさそうだ。
僕はそっけなく応えると、薬袋を連れて既に整列されたチームの元へ戻る。
負けてしまったが、それでも周囲からの疎らな拍手が少しだけ何か救われたような気がした。
それは薬袋の激走についてか、それとも投球についてか、それとも別の何かか。
「礼」
審判の声を皮切りに帽子を取って挨拶を交わす。
「みんなご苦労さん」
ベンチにはいつの間にか教授の姿があった。
そういえばここのグラウンドはちょうど教授の窓から見えるのか。
きっとクーラーの効いた部屋で観戦して、頃合を見て降りてきたのだろう。
「一応参加費があるけど、こうしよう。みんなで焼肉でも食べに行こうか」
その一声に盛り上がり、それぞれ仲間内で好き勝手な希望を提案し始める。
どう考えたって定額の食べ放題に決まっている。
「じゃあ、僕はこれで」
盛り上がる中、僕は教授へ声をかける。
「何を言ってるんだい、君は主将だろう?」
「いえ、試合はもう終わったので」
「あきらめたら、そこで試合終了だよ?」
「随分古いネタをご存知で。というか試合終了ですけど」
滅多に聞かない教授の冗談に驚きつつも、僕は反論してみる。
「試合が終わったらチームは解散かい? そういうチームじゃないんだよ、うちは」
「そうですか、そのチームの主将は初めてそれを知りましたが」
「そうだね。初めて言ったからね」
教授はグラウンドを眺めてそっけなく答える。
「じゃあ、仕方ないですね」
僕は溜息をついて今もなお盛り上がるチームメイトを眺める。
負けたにもかかわらず、それでもここまで盛り上がるのは何故なのだろうか。
単に勝っても負けても変わらないただの試合だからだろうか?
「さっき薬袋君が、ストライクを取ることじゃなくてアウトを取ることが目的って言ったよね。そういうことだよ」
「どういうことですか」
「ほっほっほ」
わざとらしい笑いを残して、チームメイトの輪の中へ向かう。
試合に勝つことが目的ではなく、もっと別のところにチームを組んだ目的があるのならば。
僕もまた本質を理解していないままということになる。
「設楽さん、肉ですよ肉!ニクパですよ!」
輪の中から出てきた薬袋が興奮した様子で謎の言葉を連呼する。
「ニクパってなんだよ」
どうやら転んだ痛みはもうないらしい。
「設楽さん、帰るなんてもったいないですよ。それに私が行くのですから、設楽さんも行くのですよ」
「行く理由はないのだが」
「帰る理由もありません」
強引に腕を組まれ、輪になって焼き肉店に向かうグループの後ろを追走する形となる。
「それに、何故ならバッテリーですからね」
バッテリーのくせして、それなのに言葉のキャッチボールはどうにもうまくいかないものだ。
焼き肉の席にて乾杯の音頭を皮切りに、チームは今日の試合の事や普段の学科の話に花を咲かせる。
年代は違えど受ける講義や教授はそれほど変わっていない為、共通の話題としては適しているのだろう。
幸い全員が二十歳を過ぎていたので、アルコールが会話の潤滑油となっていたことは想像に難くない。
「そういえば、チェンジアップなんて言葉よく知ってたな」
僕の真横でビールを飲む薬袋に話かける。
この容姿でお酒を飲んでいるところを見ると、多少なりとも捕まってしまうのではないかとの不安が過る。もちろん店舗からは年齢確認を受けたので、薬袋は運転免許書を出して二十歳ということを証明したが、確認したときに店員に一瞬の間があったことは忘れられない。
「えぇ、一通り調べましたから。それにチェンジアップって変化球って分類ですが、実際のところ打者のタイミングをずらすためのボールってのが好きになりました」
確かにチェンジアップとは速球と同じ投げ方をして、球速を落とすというボールであって右へ左へ曲がる変化球とは多少毛並みは違うかもしれない。
「確かにそれなら投げられなくもないけどな」
でも元々薬袋の速球自体ホームベースへ届かないのだから、これ以上遅くもできなかったのだけど。
僕や薬袋はプロではないから、変化球なんてボールは投げられない。
「ま、悪くないかな」
僕は盛り上がる一同を眺めて、誰にも聞こえないような声で呟く。
それはまるで薬袋の一投目と同じように誰にも届くことはなく、誰もいない地面に着地して消えて行った。
言葉というのはボールと同じで、誰かに対して狙って投げなければ伝わらないものである。でも僕はプロではないから、針の糸を通すほどの繊細な会話や、あっと驚くような希望に溢れた話題を提供することはできない。
そっと対岸の様子を伺いながら、不器用でも真っ直ぐに言葉を投げることしかできないのだ。
「いやー、始めての共同作業でしたね」
「共同っていうのか、あれ」
意思疎通はおろか、サイン交換すらしていなかったが。
「まぁ、細かいことはいいですよ。一緒にできたことに価値がありますから」
ビールを飲みきった後に薬袋は満足そうに語る。
その真っ直ぐな言葉を躱すように、僕は手元にあったビールで喉を潤す。
投げる側がそうであるように、受ける側もプロではないのだ。
だから、やはり真っ直ぐくらいがちょうどいいのかもしれない。