表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

「風邪、引いちゃいますよ」


 ほんの数時間前まで晴れ渡っていた午後の空は、雨雲を伴って夕方へと変化していた。本来見えるはずの黄昏色の空はみるみる内に食い尽くされ、そうして降り出した雨によって瞬く間にできた水溜まりに映るのは、無感情な灰色ばかりだった。アスファルトに雨粒が跳ね返るたびに雨脚は強さを増しているような気がして、傘を持つ手に力が入る。不規則に傘を叩いて反響する雨音をBGMにして、ゆっくりと帰り道を歩いていた。


 それは偶然と呼んでいいのだろうか。その日少しだけ遠回りの帰り道を歩いていたのは、雨の帰り道をもう少し味わっていたかったとか、なんとなく歩きたかったとか、そんな一時の気まぐれだったし、大きくなったせいで何故だか入りづらくなっていた公園に、無人の今なら誰にも咎められること無く入れる気がして立ち寄ったのもまた、移り気によるものだった。しかし何故だかそれが、誰かの導きであったような気がしてならないのだ。


 そこはそれなりに大きな公園で、取り囲むように木々が植えられ、割と豊富な種類の遊具が園内に点在するような形で設置されている。案の定、人は誰もいなかった。

 自分と、一人の少女以外は。

 錆び付いた金属が動く音が、明らかに強まっている雨音を潜り抜けて耳元まで届いてきた。足を向けるとそこには一人の少女が、傘も差さずにブランコに揺られていた。俯き、どこを見てるのかもわからないような表情で、ただただ揺られているのだ。全部を諦めているような、そんな悲しく無感情な顔だった。


「風邪、引いちゃいますよ」


 気がついたら、声を掛けていた。


「良いんです、どうせ変わりませんから」


 俯いたまま、少女は言った。深く暗く沈んだ声は、雨音に飲まれて今にも掻き消されそうだった。


「傘、お貸しします」

「良いんです、どうせ変わりませんから」


 先ほどと全く同じ言葉。同じく、消え入りそうな声。鉄鎖を掴む腕に力は無く、前後に揺られる身体は重く重く沈み込んでいるようだった。


「そうですか。……じゃあ、一緒に濡れて良いですか?」


 少しの間が空いてから、少女は口を開いた。


「何も……変わりませんよ」


 その言葉だけで十分だった。それを肯定の意味に捉え、傘を畳まずにその場に投げ捨てて、雨に濡れる。主を失った黒色の傘は、置き去りにされてどこか寂しそうに見えた。


「良いんです。何か変わりそうな気がするんで」


 そういうと彼女の隣のブランコに腰掛けた。生まれる沈黙。聞こえるのは、身体を濡らす雨音と錆び付いたブランコの音のみで、それ以外はまるで存在していないようだった。

 それでも自然に、口から溢れる言葉があった。


「雨は、嫌いじゃないんです。なんかこう、穏やかにしてくれるので」


 言葉は、返って来ない。それでも、話し続ける。決して彼女は聞いていないわけではないと感じられたからだ。


「嫌な事も悩み事も全部洗い流してくれるような、そんな温かみがある気がするんです。温かみとか言う割には、風邪は引くんですけどね」


 軽い冗談を交えながら。努めて優しく。


「だから、こうやってびしょ濡れになるのも、きっと悪いことじゃないですよね」


 それで一区切りだった。世界はまた、雨音と彼女のブランコの音に支配される。

 そうして長い長い無言の末、少女はか細い声で呟いた。


「……ねえ、あなたは悩み事なんて無さそうなのに、どうして……?」


 これから告げるそれが彼女に取っての最良の言葉では無いことはわかっていたが、できる限り明るい雰囲気を作るために、少しの気取った科白を振る舞う。


「強いていうなら、女の子がこんなところで雨に濡れながら悩んでいるのが、悩み事ですよ」


「……バカみたい」


 そう言うとそれっきり彼女はまた黙り込んでしまった。再び沈黙が流れる。


 身体はもうすでに、これ以上吸う水が無い程になっていた。だが、重くまとわりついているはずの洋服を煩わしいとはこれっぽっちも思わなかった。


 横目で少女を見る。耳元で二つに縛った黒髪。大きくない背丈。これ以上濡れ様のないラフな服装。可愛らしい顔立ちに、似合わない陰鬱な表情。俯いた目は最初見た時よりも焦点が合っているように思える。それが、今現在判る少女の外見的特徴の全てであった。


 ただ座りながら雨を感じていると突然、強い風が後ろから吹き抜けて投げ捨てた傘が何処かへと吹き飛ばそうになった。仕方なくブランコから降りてそれを拾い、畳んで傍に置いて再び座り直す。ようやく、濡れた地面を蹴ってブランコを漕ぎ出す。軋むような鉄の音が二つ。雨音の中に響き始めた。



 どれほどの時間が経っただろうか。夕方が雨雲を引き連れて行っているかのように、夜の訪れが次第に雨脚を弱める。空が全てを流し尽くした時、残っているのは二つの音だけだった。微かに見える星々の下で、たった二つだけだった。


「そろそろ、帰りましょうか」


 勢いをつけてブランコから飛び降り、振り返って手を差し出した。俯いたままの、少女に向かって。

 髪と服の袖から雫が二滴垂れた。それを合図とするかのように、ゆっくり、本当にゆっくり少女が顔を上げる。初めて合う目線。上目遣いで此方の瞳を覗き込む彼女の中には、まだ躊躇いが残っているのがわかった。

 微かに揺れた少女の黒髪からも雫が垂れ落ちる。今度はそれを合図として、語りかける。


「全部全部、洗い流しちゃいましたから。きっと、大丈夫です」


 その言葉を信じてくれたのだろうか。少女は鉄鎖を握っていた両の手を離した。その手は一度膝の上に置かれる。それから少し間を置いて、ゆっくりと立ち上がると、


 手を取ってくれたのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ