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後編

 その後、城に帰ってすぐにダレンと別れた。私はイーレン第一隊の隊長の部屋で、暫く事情聴取のようなものに付き合わされた。さっきのあの男は、どうやら本当に毒草の密売人だったらしい。但しブローカーのようなもので、彼を一人捕まえたところで、何の意味も無いのだとか。

 最近王都の裏通りで毒草の取引が頻繁に行われているという情報を手に入れたイーレン第一隊は、魔術警備隊クルシュと協力して、その毒草の入手元を突き止めるために男を泳がせていたらしい。ところがそこに何も知らないルカが現れ──毒草の売買現場を目撃し、男に詰め寄ってしまったばっかりに──これまでの計画はすべて水疱に帰してしまった。あの男に毒草を売りつけていた人物は当然、もう逃げてしまった後だろう。

 どうやらルカは正義感の塊みたいなところがあるようで、時折こうやって、勝手に突っ走っては怒られているらしい。ことの顛末を語り終えた後、懇々と説教を受け続けるルカの隣で、私は所在無く座っていた。

 もう私への聞き取りは終わったはずなのに、一向に解放される気配が無い。さすがに、私だけ先に部屋に帰っていいですか、だなんて聞きにくい。私は隊長とジークに怒られてしょんぼりしているルカを、横目でそっと盗み見た。伏せられた眸を縁取る睫はとても長くて、髪と同じ蜂蜜色だ。頼りなげでその可憐な姿を見ていると、昨日までルカに対して抱いていた嫉妬心のことなんか忘れて、大丈夫だよって頭を撫で撫でしてあげたくなってしまう。女の私でもこうなんだから、ジークから見れば相当可愛いに決まっている。そりゃあ、毎日のように纏わりついて来られても、笑顔で頭を撫でてしまうというものだろう。

 私にも、このくらいの可愛らしさがあれば良かったのに。

 思わずため息を吐いて目線を前に戻すと、こちらを見ていたジークと目が合った。私はびっくりして、反射的に目を逸らす。ジークは何か言いたげな様子に見えたけれど、きっと気のせいだろう。

 ジークは最初に一言二言、ルカに苦言を呈しただけで、後はずっと黙り込んでしまっている。私とジークは、懇々と続く隊長のルカへの説教をただ静かに聞いていた。

 なんだか落ち着かないし、いたたまれない。

 第一隊の隊長は、私を叱ったりはしなかった。正直、最初はそのことにほっとしたのだけれど──無言でジークと向かい合って座っているこの状況から解放されるのなら、ルカと一緒に説教を受ける方が幾らかマシかもしれなかった。

 私がもぞもぞと座り直していると、ジークの隣に座っていた隊長が口を開いた。

「ナーシャ、長くなってしまってすまないな。ルカにはまだ話があるから、先に退出してくれて構わないぞ。色々とありがとう」

 私がそわそわしていることに気付かれてしまったのかもしれない。申し訳ないような恥ずかしいような、なんとも言えない気持ちになったけれど、私は有り難く退出させてもらうことにした。

「あ、ありがとうございます」

 ほっとして立ち上がると、隊長はにっこりと笑みを浮べて、隣に座るジークを見遣った。

「ジーク、部屋まで送ってやってくれ」

 私はぎょっとして、顔の前で大きく手を振った。

「いえ! 一人で大丈夫です。お気遣い頂いて、ありがとうございます」

「いやいや、そういうわけにはいかないだろう。こんな時間まで拘束していたのはこっちなんだから、遠慮しなくていい」

 こんな時間って言っても、晩御飯の時間を少し過ぎたくらいのものだ。

 隊長はにこにこと笑っているけれど、私は遠慮しているわけじゃなくて、ジークと二人きりになるのを避けたいだけだ。このまま押し問答をしていたら丸め込まれるのは目に見えているから、私は本当に大丈夫です、と言ってドアの方へと向かった。そうしたら、ジークが立ち上がって私の後をついてきた。私はびっくりして、小さく頭を振って見せたけれど、ジークは何も言わず私を部屋の外に追いやった。

「ねえ、ジーク。私一人で帰れるから、大丈夫だよ」

 部屋を出たところで、声を潜めてそう告げると、ジークは微かに頭を振った。

「いいから、ちょっとついてこい」

 そう言うなり私の腕を掴んで、足早に歩き出す。ジークは何故か、私の寝泊りしている部屋とは違う方向へ進み出した。一体、どこへ行くつもりなのだろう。

 この間、練習場の帰りに迎えに来てくれた日よりも、私の腕を掴む力は強い。思いっきり腕を振ったところで、きっと振り払えやしないだろう。

 だけど私は、そのことを嬉しいと思ってしまった。私の意志じゃなくて、ジークの意志で一緒にいられることが、嬉しくてたまらなかったのだ。

 二人きりになるのは避けたいとか、そんな風に思っていたはずなのに──なんだかんだ言っても、やっぱりジークと一緒にいたいと思ってしまう。

 さっき拒絶されたばかりなのに。

 好きになればなるほど辛くなるだけだって、もう分かっているはずなのに。

 歩いている間、ジークは一度も振り返らなかった。私はずっと、斜め前を歩くジークの背中を見つめていた。いつの間にかすっかり大きく、遠くなってしまったジークの背中を、泣きたくなるような思いで見つめていた。


 暫くしてジークが立ち止まったのは、ジークの部屋の前だった。もうとっくにイーレン第一隊の副隊長にまで上り詰めているジークは、自分の部屋を持っているのだ。

 ジークの部屋を訪れたのは、これが初めてだった。

 ジークはドアを開けると、ずんずんと中に入っていく。私は恐る恐るその後に続いた。

「座ってろ」

 ジークは私にそう声を掛けて、そのまま部屋の奥へと消える。私は少し悩んだけれど、結局、言われた通りにソファに腰を下ろした。辺りをきょろきょろとせわしなく見回してみる。意外と言うかジークらしいと言うべきか、部屋は綺麗に片付けられていた。必要最低限のものしかない、って感じだ。

 辺りを見回していたら、ジークは直ぐに帰って来た。その手には、温かいリューペを持っている。

「わ、懐かしい……!」

 私が幼いとき、大好きだった飲み物だ。お母さんに怒られた後とか、私が泣いているときによくジークが作ってくれた覚えがある。ジークは持ってきたカップを、テーブルの上に置いた。

「熱いから、気をつけろよ」

「ありがとう。……あの、ジークのは?」

 一杯しかないけど、ジークは飲まないのかな。そう思って問い掛けたら、ジークは苦笑染みた笑みを浮かべた。

「飲むわけないだろ、そんなあまったるいもん」

 小さい頃は、一緒に飲んでたのにな。

「さすがのナーシャももう、一人で飲むのはやだ、なんて言わないよな?」

「へ?」

 どういう意味だろう、と思って聞き返したら、ジークは呆れたような表情を浮かべた。

「昔、お前の分だけ入れてやったら”一人はやだ”とかなんとか言って、俺にも同じものを飲むことを強要してただろ」

 ええっ、そんなことしてたっけ。……ううん、全く身に覚えが無い。私にリューペを入れてくれるときは、ジークはいつも二杯入れてくれていたから、私はてっきりジークもリューペが好きなのかと思っていた。

 まさか私の所為だったなんて。

 私はリューペの入ったカップを手に取った。ふぅふぅと息を吹きかけて、そっと口に含んだ。懐かしい甘さが口の中に広がる。

 幼い頃は本当に好きだったけれど、今ではもうすっかり飲まなくなってしまった飲み物。だけどジークは、私が今もリューペを好んでいると思っているのかな。

 こういう些細なことすらも、私たちの間に横たわる空白の十年を思い起こさせる。

 ジークがリューペを入れてくれたことが嬉しいのに──、何故だか胸が切なくなる。

「で」

 ジークはおもむろに、私の隣に腰掛けた。ソファがぐっと沈み込んで、それだけでどきりとする。

「ちょっとは反省したのか?」

 すぐ隣にジークが座っていると思うと、顔を上げられない。私はリューペを、俯き加減にふぅふぅと冷ました。

 幼い頃なら隣に座ったところで何とも思わなかったのに、今の私は大げさなくらいに、ジークを意識してしまう。

「な、何が?」

 緊張しているのを気取られないようにしないと。そうは思いながらも、答える声がどこかぎこちなくなってしまう。

「何が、じゃないだろ。自分の無鉄砲な行動についてだよ」

 些かむっとしたような声と共に、ジークが身を乗り出してくる。ま、まさか、今更説教が始まるのだろうか。私は思わずソファの上で後ずさった。

「おい、何逃げてるんだよ」

「逃げてないよ」

 リューペのカップをテーブルに置いて、恐る恐る顔を上げる。思っていたよりもすぐ傍にジークの顔があって、私は小さく息を呑んだ。

「近い!」

「ナーシャが逃げるからだろ」

「……っ、それ以上近づいたら、魔法発動させるからね!」

 恥ずかしさの余り、咄嗟に手を翳してそう告げた。ジークは素直に身を引いてくれるかと思いきや、うんざりしたかのように深い息を吐いた。

「お前……全然懲りてないのな」

 低い声だった。そんな風に、苛立ったような声を向けられたのは初めてだった。戸惑ってたじろいだその瞬間、翳していた両手首をぐっと掴まれる。あっと言う間に視界が反転して、背中がぼふっとソファにあたった。

「ちょ、ちょっと!」

 至近距離からじっと見下ろされる状況に、一気に頬が熱くなっていく。

「どうした。魔法、発動させてみろよ」

 私の顔を見下ろしながら、ジークは意地悪な笑みを浮かべている。手を押さえつけられているから、魔法を発動することなんて出来る訳がないのに。

「じゃあ、の、退いてよ!」

「断る」

 ジークは私を見下ろしたままで、ふいに眉を歪めた。ジークの表情が、少し悲しげなものに変わる。

 なんだかその表情を見ているだけで、胸がぐっと苦しくなって、私は押し黙った。

「お前の脅しなんか、全然脅しにもなってないんだよ。こんな風に押さえつけられたら、もう何も出来ないだろ? 頼むから──もう絶対、一人で勝手に暴走しないって約束してくれ」

 少し掠れた声が、囁くように言葉を紡ぐ。私はただ、じっとジークを見上げていた。

 胸が、苦しい。どうして、そんなに悲しげな顔で私を見下ろすの? 私のこと、心配しているみたいな顔をするの。ジークがそんな風だから、馬鹿な私は懲りもせず、もしかしたらって勘違いしそうになってしまう。もしかしたら、ジークも私のこと好きでいてくれてるんじゃないかって。

 さっきみたいに、はっきり拒絶してくれたらいいのに。頼られるのは迷惑だって、言ってくれたらいいのに。

 拒絶したかと思えば、こうやって私のことを心配している素振りを見せる。本当に、ジークの気持ちが分からない。一体何を考えているんだろう。

 ジークの心の中を覘けたらいいのに。そうしたら、ジークの気持ちが分かるかもしれないのに……。だけどそんなことは到底不可能だから──だから結局私はまた、自分に都合の良い勘違いをしてしまいそうになる。ジークの陰りを帯びた瞳を見つめていたら、まるで自分が大切に想われているかのような錯覚をしてしまうのだ。

 そんな訳、無いのに。

「泣くなよ……」

 ジークは少し困ったような顔で、私を見下ろしてくる。泣いてなんていないのに。それとも私は、今にも泣きそうな顔をして見えるのだろうか。

「ごめん、ね」

 迷惑をかけて、ごめんなさい。あなたを好きになって、諦め切れなくて、ごめんなさい。──十年前、酷いことを言って、ごめんなさい。

 私はぎゅっと目を瞑った。謝ったって、十年前に言った言葉は取り消せない。私が勝手に期待したところで、ジークが私を好きになってくれることなんて、現実にありはしないのだ。

 自業自得だ。

 分かってる。でも、苦しくてたまらない。

 こんなに近くに居るのに。吐く息がかかりそうなほど、近くにジークがいるのに。なのに、心はとても遠い。ジークはいつか、私じゃない他の女の人と付き合って、結婚してしまうんだ。

 溢れてきた涙を拭いたくて、身を捩ったその瞬間、私のポケットからころり、と何かが転げ落ちた。カーペットの上に落ちたそれを見て、ジークが小さく息を呑む。

「お前、それ」

 驚いた声を上げたジークを突き飛ばすと、私は素早く起き上がってそれを拾った。私が毎日魔力を注ぎ込んで作っている指輪。あげる予定なんてないのに、ご丁寧にイニシャルまで刻んである。見られてないよね? 流石に今の一瞬で、中のイニシャルまでは見えなかったよね? 手のひらの中に指輪を隠してはっと振り返ったら、ジークはソファの上から、じっと私を見下ろしていた。

「なるほどな」

 ジークはまるで冷笑するように笑って、前髪をくしゃりとかきあげた。私から目線を逸らして、小さく息を吐く。

「じ、ジーク? あの、見た?」

 まさか、指輪のイニシャル、見られた? 恐る恐る問い掛けると、ジークは唇の端を片側だけ吊り上げて、小さく笑った。

「見たよ。当たり前だろ」

 その見たっていうのは、イニシャルのことなの? 不安になってジークを見上げるけれど、その紫紺の瞳からは感情を読み取ることが出来ない。

「ダレンに貰ったのか?」

 ジークはなんてことないようにそう言った。私はその言葉の意味が理解できなくて、ぽかんとしてジークを見上げた。

「お前の夢だったもんな、護りの指輪、貰うのは。……良かったな」

 私はその言葉にぎょっとした。どうしてジーク、私が護りの指輪を欲しがっていたことを知っているの!?

「な、なな、な、なんで知ってるの?」

 戸惑う私を、ジークは怪訝そうに見下ろした。

「なんでって、ダレン以外にいないだろ?」

 私はぶんぶんと頭を振った。私が気にしているのは、そこじゃない!

「そうじゃなくて! 私が指輪を欲しがってたこと、どうして知ってるの!?」

 ジークは微かに驚いたように、目を見開いた。

「お前、小さい頃”大きくなったら指輪ちょうだい、ナーシャにプロポーズしてね”って、口癖みたいに言ってたこと、覚えてないのか?」

 私はその言葉に愕然として、馬鹿みたいに口を開けて、ジークを見上げた。

 指輪が欲しかったことは勿論覚えている。ジークに指輪を貰いたいと思っていたことも、覚えている。だけど、それを直接ジークに伝えた覚えはまるで無かった。私自身は、脳内でこっそり夢見ているだけのつもりだったのだ。

 なのに幼い頃の私は、自分で思っていたよりもおしゃべりだったらしい。私は羞恥のあまり、顔が赤くなっていくのを感じた。

「そ、そんなこと言ってた?」

「言ってたよ」

 ジークは苦笑を浮かべてみせると、話題をそこで打ち切るように、おもむろに立ち上がった。

「……部屋まで送る」

 強引にここまで連れて来たのは、ジークの方なのに。話が終わったら、さっさと帰れということなのだろうか。向けられた言葉に寂しさを覚えながらも、私は立ち上がって、小さく頭を振った。

「ううん、一人で帰れるよ。ありがとう」

 そのまま部屋の入り口まで行こうとしたら、ふいに、腕を掴まれる。強い力だったから、私が手のひらに握りこんでいた指輪が、ころころと地面に転がり落ちた。

「あっ」

 慌てて拾い上げようと思ったけれど、腕を強く掴まれたままだから、拾えない。

「ちょっと、ジーク、なに? 離してよ」

 ジークは黙って指輪を見下ろしている。中のイニシャルまで見えるんじゃないかと、気が気じゃない。すぐに腕を振り払おうとするけど、びくともしない。

「そんなに大事なんだな」

 ジークは少し寂しそうに笑うと、私の腕から手を離した。そのまま指輪を拾い上げて、私の手のひらに載せる。私は慌ててその指輪を手の中に隠した。

「……もし俺に魔力が有ったら、お前は今も──」

 何かを言いかけたジークは、そこでぴたりと言葉を止める。

「ジーク?」

「なんでもない。……気をつけて帰れよ」

 ジークは私からふいと目を逸らすと、ドアを開けて、部屋の外へと促した。送ってくれなくていい、と言ったのは私だけど、ジークは送ってくれないみたいだ。

 少し残念な気持ちで、俯いた。こんなの私の、我侭だ。そう分かってはいるけど、落ち込んでしまう。ジークは一体何を言いかけたんだろう。さっきから、様子が変だ。指輪を見てから様子がおかしい。もしかして、やっぱり本当は指輪の中のイニシャル、見ちゃったのかな。

 そう思って、私は指輪を握り締めた手をそっと見下ろした。「ナーシャからジークへ」という意味の刻印を入れてある。ジークのイニシャルはなかなか珍しいから、もし見られていたのなら、私がジークに宛てて作ったものだって、きっと気付かれているだろう。

 そう思ったら、急にいたたまれなくなった。

 ジークは、この指輪を見て、どう思ったのかな。気持ち悪いって、思ったのかな。だから急に様子が変になったの?

 顔色を伺うように、恐る恐るジークを見上げた瞬間、私は小さく息を呑んだ。ジークは、じっと私を見下ろしていた。その紫紺の瞳の奥に、何か強い感情の揺らぎが見えた気がした。

 何故だかどきりとしたその瞬間、開かれていたドアが乱暴に閉じられる。あれ、と思ったときには、すぐ目の前にジークの端整な顔があって──唇に、柔らかなぬくもりが触れた。

「ん!」

 びっくりして後ずさるけれど、すぐに背中がドアに当たった。触れ合った唇は一瞬で離されて、ジークはただじっと見下ろすように私を見つめている。

「な、何、するの……っ」

 どうして? どうしてキスされたの? びっくりして、ドキドキして、だけどそれ以上に悲しくて、頭の中がぐちゃぐちゃになる。

 私のことなんてなんとも思ってないくせに。

 なんでキスなんかするの!?

 ジークが何を考えているのか、全然分からない。

「……さいってい!」

 私は反射的に、ジークの頬を思いっきりはたいた。手加減なんか出来なかったから、とても痛そうな音が響いた。だけど、謝ることなんて出来なかった。

 どうして、どうしてこんなことするの!? 私の気持ちを振り回して、楽しいの!? 両目からぽろぽろと涙が零れ落ちるのを、止められない。せめてその涙を見られないように俯くと、怒りを込めて、両手で力いっぱいジークの胸を叩いた。胸が苦しくて張り裂けそうだ。苦しくて苦しくて、たまらない。なんでそんな思わせぶりなことをするの!?

「私のこと好きでもなんでもないくせに!!!」

 悲痛な思いで叫んだその瞬間、胸を叩いていた両手を拘束された。はっとして顔を上げる。ジークは私の両手首を掴んだ状態で、眉根をぎゅっと寄せて、私を見下ろしていた。

「好きだよ」

 囁くような声が落とされた。

「お前が好きだ」

 掠れた声が、するりと耳に入り込んでくる。私は一瞬その言葉を聞き流しそうになったけれど、すぐにはっとなって、息を呑んだ。

 今、なんて言った?

 ジークが、私を、好き?

「嘘だ!」

 気付いたら、私は大きな声で叫んでいた。

「は?」

 ふいを突かれたように、ジークは驚いたような声を上げた。それから、些かむっとしたような表情を浮かべる。だけど私は、負けじとジークを睨みつけた。

「なんでそんな嘘つくの!? 信じらんない!」

 口では強気で言い返すものの、頬を伝っていく涙は一向に止まってくれない。ぼろぼろと零れ落ちていく涙を拭うことも出来ず、私は涙でぐちゃぐちゃになった顔でジークを見上げた。むっとしたような表情を浮べていたはずのジークは、なんだか困ったような顔をして私を見下ろしていた。

「だから、なんで嘘って決め付けてるんだよ」

 ジークは困惑したようにそう言うと、私の左腕を掴んでいた手を離して、私の頬を指で拭い始める。私はその手を振り払うように、顔を背けた。

「だって……っ、頼ってくるなって言ったじゃない……!」

 私は目を逸らしているのに、ジークの視線を感じていたたまれない。

「いつ俺が、そんなこと言ったよ」

 困惑と苛立ちの入り混じったような声にちょっと怯みそうになったけれど、私は思い切って顔を上げた。

「言ったじゃない。何かあったらダレンを呼べって、俺には繋いでくるなって!」

 どうしようと思ったとき、真っ先にジークを頼った私を、突き放したのはジークの方だ。何かあったら俺じゃ無くてダレンを呼べ、と。私のことを好きだというのが本当なら、そんなことを言う訳が無い。

 私の言葉に、ジークは明らかに狼狽した様子だった。紫紺の瞳を揺らめかせると、私の手首を掴む手に力を込めた。

「っ、あれはそういう意味じゃない」

「だったらどういう意味だって言うのよ!」

 かっとなった私が叫ぶように言ったら、ジークは一転して、冷ややかな笑みを浮かべた。

「……俺には転移魔法は使えないんだ。お前が助けを求めて来たって、すぐには行ってやれない」

 伏せるように、目が逸らされる。

「さっきだって、ナーシャの無事を確認するまで、生きた心地がしなかった。……お前が俺を頼ってくれたのは嬉しかったよ。でも、それでお前が危険な目に遭う位なら──最初から、ダレンを頼ってくれた方がいい。その方が安心できる」

 ジークはどこか悟り切ったような声音で、静かに言った。それから、自嘲するみたいふっと笑った。

 私は愕然として、ただただじっとジークを見上げた。

 どこか寂しげに目を伏せるジークの姿が、幼い頃、突き飛ばしてしまった時の表情と重なる。どこか陰のあるその表情に、どきりとした。私はまた、余計なことを言って、ジークを傷つけてしまったのだろうか。

 ジークは、私のことが嫌いで拒絶した訳じゃなかったというの? ジークは、私のことを心配してくれていたの……?

 その言葉の意味を理解した瞬間、じわじわと胸の奥が熱くなっていく。嬉しいような苦しいような、不思議な感覚が私の胸を締め付ける。

 ジークは私のことを、見捨てた訳じゃ無かったんだ。幼い頃、酷い言葉を向けた可愛げの無い幼馴染のことを、今でも心配してくれていたんだ。

 結局、向けられている優しさに気付かずに、私が勝手に一人で拗ねていただけなんだ。そう思い至った瞬間、自分が情けなくなって、私は深く俯いた。

「……ごめん、なさい」

 するり、と口から謝罪の言葉が滑り出た。頬を拭うジークの指が、一瞬強張る。

「あのね……十年前、ひどいことを言ったこと、ずっと謝りたかった」

 魔法が使えないジークなんて大嫌い、と叫んだ時のことを思い出して、私は小さな声で言った。

「ごめんね」

 謝って許されることではない。だけど、ずっと謝りたかった。

 もう一度謝って、思い切って顔を上げた。ジークは小さく笑って私を見下ろしていた。

「いいよもう、そんな昔のこと」

 私は頭を振った。

「ずっとちゃんと謝りたかったの。ジークのこと嫌いなんて心にも無いこと言ったこと、後悔してた。私、ジークのこと好きだったよ」

 あの頃も今も、ジークのことを嫌いになったことなんて、一度もありはしないのだ。

「好きだった、か」

 ジークは何故か苦笑いを浮かべた。

「魔法が使えなくたって──ジークは強いじゃない。さっき、助けに来てくれて嬉しかった」

 ありがとう、と小さな声で告げる。拘束の緩んだジークの手を思い切って振り払うと、私はジークにしがみついた。幼い頃甘えていたときみたいに、ぎゅっと強い力を込める。

 突き放されるかな、って思った。もう子どもじゃないから、こんな風に抱きついたら何か言われるかもしれないと思った。だけど私の予想に反して、強い力で抱き締められる。まるで逃げられなくするみたいに、背中に回された腕に力が込められる。

 ちょっと痛いくらいなのに、何故だかそれが嬉しくて──、私はジークの肩に顔を埋めた。深く息を吸うと、懐かしいジークの匂いが鼻腔をくすぐる。小さい頃から大好きだった、おひさまみたいな匂い。

 ジークが好きだ。

 おひさまみたいな懐かしい匂いも、私を包み込んでくれる優しい体温も、頭を撫でてくれる大きな手も、全部大好きだ。

 苦笑しながらも、結局いつも私を甘やかしてくれるジークが好きだった。私を見下ろす優しい目が好きだった。

 でも、好きというそのたった二文字を、口にすることが出来ない。

「……なあ、やっぱり今も、護りの指輪が無いと駄目なのか?」

 触れ合った身体から、ジークの低い声が響いてくる。

「え?」

「お前が欲しがってた指輪、俺には作ってやれないって分かってる。でも俺、やっぱりお前のことが好きだよ」

 囁くような掠れた声が、耳朶に触れる。どきりとしたその瞬間、背中に回されていた腕が離された。恐る恐る、顔を上げる。ジークは紫紺の瞳を細めて、私を見下ろしていた。

 ジークが私のことを好きって、本当なのかな?

 幼い頃は、我侭放題で沢山の迷惑を掛けた。挙句には魔法使いになれずショックを受ける彼にひどい言葉をぶつけ──、大人になって再会しても素直になれなくて、可愛げの無いことばかり言っていた気がする。

 そんな私のことが好きだなんて、本当にそんなことがあるのかな?

 ジークの言葉が嬉しいはずなのに、まるで実感が湧いてこない。心のどこかで、ジークが私のことを好きだなんて、そんなことある訳ないって思っている。

「本当……?」

 思い切って聞き返した声は、自分で思っていたよりも小さい声だった。私はジークを見上げて、問い掛けた。

「自分で言うのもなんだけど、私って幼い頃からずっとジークに迷惑掛けっぱなしの我侭放題で、好かれる要素なんて無かったと思うんだけど……」

 思わずそう漏らしたら、ジークは驚いた様子で瞳を数回しばたたいた。

「我侭の自覚はあったんだ」

 少しむっとしてジークを見上げたら、ジークは小さく笑った。

「嘘だよ。──確かにナーシャはガキの頃から思い込みは激しいし、すぐ泣くし面倒くさい奴だったけど、でも、俺にとっては大切な存在だったよ。お前はいつも真っ先に俺に抱きついてきて、遊んでくれとせがんできた。あんな風に無邪気に慕われたのは初めてだったから、嬉しかったんだ」

 至近距離から落とされる声は、ひどく優しい。

「懐いてくるお前が可愛かった。お前に護りの指輪を強請られた時も、別に俺はまんざらでもなかった。大人になったら作ってやろうって思ってたよ」

 無理だったけどな、とジークは苦笑を浮かべた。

 私はただただ、ジークの透き通るような紫紺の瞳を見上げていた。

 ジークが私のことを好きって、本当なのかな……?

 にわかには信じられなかったその言葉を、信じても良いのだろうかと思った瞬間、急に胸がいっぱいになる。何故だか胸が詰まりそうな程苦しくなって、私は掠れた声で呟いた。

「これ、あげる」

 唐突に、指輪を握り込んだ手を、ジークに向かって差し出した。

「ナーシャ?」

 戸惑ったような声が降って来る。私はそれを無視して、手をさらに突き出した。

「あげる!」

「は?」

 ジークは怪訝そうに私を見下ろしている。

 子どもみたいなことをしているとは自分でも思ったけれど、他になんて言えばいいのか、分からなかった。

「あげる!」

 半ば強引にジークの手を開き、指輪を握らせる。手のひらに転がされたそれを見て、ジークが困惑したように息を吐く。

「これを俺に渡して、どうしろって言うんだよ」

 多分、ジークは私がジークのために用意した指輪だってことに、気が付いていない。だからこんな、怪訝そうな態度なんだろう。

「だから、あげるってば。ちゃんと見て」

 ジークはきゅっと眉根を寄せながらも、指輪を見下ろして──それから、はっとしたように息を呑んだ。

「待て、これ」

 紫紺色の瞳が、驚きを乗せて私を見下ろす。ジークは幾らか戸惑った様子で、その瞳を数度、しばたたいた。

「ナーシャが作った、のか……?」

 まさかと言ったような声音で向けられた問いかけに、私はこくんと頷く。

 口を開くのには、勇気が言った。

 ずっと伝えることは無いだろうと思っていた言葉を──想いを、私は小さな声で紡いだ。

「私も、ジークのこと、……好きだよ」

 言い終わるのと同時に、私はもう一度ジークにぎゅっとしがみついた。恥ずかしくて、ジークの顔を見られなかったのだ。

「ずっと……好きだったの」

 ジークの肩口に顔を埋めて、くぐもった声で呟いた瞬間、再び強く抱き締められた。

「ナーシャ」

 低い声が耳元で私の名前を呼ぶ。それだけで、鼓動が大きく跳ね上がる。

「嘘じゃない、よな」

「こんな嘘、つかないよ。……指輪は私があげるから、いいの。ジークに魔力が無くても、私が護ってあげるもん」

 涙混じりの鼻声でそう伝えたら、何故だかふっと笑われた。

「それはえらく、頼もしいな」

 なんだか馬鹿にされているような気がして、私は唇を尖らせた。文句を言おうと顔を上げたものの、ジークの顔を見たらもう何も言えなくなってしまった。

 ジークは紫紺の瞳を優しく細めて、私を見下ろしていた。まるで愛おしいものを見るような目線に、途端にいたたまれなくなる。なんだか心臓を鷲掴みにされたみたいに、胸がきゅっと苦しくなる。

「ナーシャ、目、瞑って」

 低く優しい声が、囁くように言葉を紡ぐ。

 言いたいことは色々あったはずなのに──、大好きな優しい瞳を見つめていたら、何も言えなくなる。

 それでも、素直に目を瞑ることは出来なかった。少しの躊躇いの後、私は小さく口を開く。

 嫌だよ、とか、なんで、とか。

 あまのじゃくな私が発そうとした言葉は、重ねられた唇に塞がれた。

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