中編-2
練習場から送って貰ったあの日以来、私はジークを見かけても避けるのをやめた。足は無意識のうちにジークを避けそうになるけれど、何とかそれを堪えてジークの隣を通り過ぎる。
「おはよう」
なんてことないようにそう声を掛けると、ジークは私の頭をぽんと撫でて「おはよう」と挨拶を返してくれる。
でも、私たちの関係はそれだけだ。
あれ以来、ジークに魔石を繋ぐことは無かったし、ジークの方から繋いでくることも無かった。思えば、ジークは私が魔石を持っていることくらい知っていたはずなのだから、今までだっていつでも連絡を繋げたはずなのだ。
それでも、ジークが私に魔石を繋いできたことなんて一度も無かった。
つまり、ジークにとって私の存在なんてものは、それだけ取るに足らないものだってことなんだろう。
晩御飯を食べ損ねる程遅くなることは無くなったけれど、私は相変わらず遅くまで、練習場で魔法の練習を続けていた。
早く、王都を離れたい。ジークの傍を離れたい。
ジークの姿を見かける度、切なくてたまらなくなる。ルカに笑いかける優しい表情に気付く度、胸が苦しくてたまらなくなる。
こんな不毛な気持ち、消えてなくなっちゃえばいいのに。
私は胸の痛みに蓋をして、必死で気付かない振りをして日々を過ごしていた。
そうして迎えたある休みの日のこと、私は買い物でもしようと思って、王都の市へと向かった。特に目的は無いけれど、市には色々なものが並べてあって、見て歩くだけでも楽しいのだ。気分転換に丁度良いだろう。そう思って出てきたのに──広場の噴水の縁に腰掛けて、私は小さくため息を吐いた。
おいしそうなフルーツにも、可愛らしいクリスタルの砂時計にも心が動かなくて、何も欲しいと思えなかった。あてもなく歩いて広場までやってきた私は、そこに腰掛けたまま、通り過ぎて行く人々をぼんやりと眺めていた。辺りには、子どもたちの楽しげな笑い声が響いている。兄らしき少年を引っ張るようにして駆けて行く女の子の姿を見て、ふと、幼い頃の自分を思い出した。
私もよくああやって、ジークの腕を引っ張って、遊びに行こうとせがんだっけ。
今にして思えば、五つも年上のジークは、私と遊ぶのなんて楽しくなかっただろう。それでもジークは遊びに行こうと腕を引く私を、撥ね付けたことは一度も無かった。近所のフルーツ売りのところから、花畑や丘の上にだって、どこにでも付き合ってくれた。
「懐かしいなぁ」
思わずそう呟いて、小さく笑った。幼い頃の私は本当にジークにべったりだったなあと思い出す。ジークの優しい笑顔が大好きだった。繋がれた手のひらの温もりが大好きだった。
今となってはすべて、手の届かないものになってしまったけれど。
……時々、詮無いことを考える。
私があの時、ジークにあんな言葉をぶつけたりしなければ。
落ち込んでいたであろうジークの気持ちに、寄り添うことが出来る人間だったなら──そうしたら、未来は変わっていたのかな。
そうしたら私は、今も変わらずジークの傍にいられたのかな。
幼く我侭だった過去の自分を悔やんでも、時間は戻らない。あの日、私は酷い言葉を投げつけて、ジークを突き飛ばした。私はそんな嫌な人間で、それがすべてだ。
そう分かっているのに、同じことを何度も考えてしまう。その頻度が最近、増えているような気がする。幼い頃、ジークが私に向けてくれていたような優しい笑みを、ルカに向けている姿を見てしまった所為だろうか。
馬鹿みたい。
いつまでもこんな風に一人でうじうじして、ほんと、馬鹿みたい。いい加減諦めればいいのに。自分の未練がましさが、本当に嫌になる。
──やめやめ。
もう帰ろう。帰って魔法の練習でもしよう。こういうときは何も考えず、練習に打ち込むのが一番だ。
緩慢な動作で立ち上がった私は、王城に向かって歩き出した。いつの間にか辺りは夕闇に包まれている。何もしていないのに、あっという間に一日が終わっちゃった。なんだかちょっと勿体無いことしちゃったな。
そんなことを考えながら、人気の少なくなった通りをのんびりと歩いていた私は、視界の端を通り過ぎた鮮やかな蜂蜜色の髪に気を取られ、勢い良く振り返った。
彼女は私に気付く様子も無く、足早に通り過ぎて行く。──当たり前だ。彼女は私のことなんて知らないのだから。私は去って行った少女の後姿をじっと見つめた。
肩の上で揺れる、蜂蜜色の髪。ちらりと見えた横顔は、やっぱり凄く可愛かった。
間違いない。
やっぱり、ルカだ。最近よくジークと一緒にいる、騎士見習いの女の子。あの子も今日はお休みだったのかな。それにしても、あんな男の子みたいな恰好をして、こんな時間からどこに行くつもりなんだろう。もう夜になるっていうのに……。
いつの間にか立ち止まっていた私は、ルカが角を曲がって去って行ったことに気付いて、ぎょっとした。
あの角の向こうは、所謂裏通りだ。裏通りは、夜になると人々がお酒や賭け事に興じるような場所で、治安はあまり良くない。男の人ならともかく──あんな可愛い女の子が、一人で行くような場所じゃない。私だって、実際に足を踏み入れたことは無いのだ。
ルカは一体あんなところに、何をしに行くんだろう。
私には関係が無いし、放っておくべきだ。ルカだって裏通りの治安が良くないことくらい知っているはずなのだから、わざわざ止める必要なんて無い。
そうは思ったけれど、だけどやっぱり気になる。危険だと分かっていて、見過ごすことなんて出来ない。ルカを追いかけよう……っ。
私は慌ててルカの後を追い掛けたけれど、角を曲がろうとした途端、不穏な声が飛んで来て、思わずそこで足を止めた。
「何言ってやがんだ、クソガキが!」
しゃがれた男の声に、どこか幼さの残る声が反発する。
「さっきポケットから出すところを、僕は確かに見たんだ!」
何だか、言い争っているみたいだ。私は恐る恐る、角の向こうに顔だけを覗かせた。道の先に、ルカと背の高い男が向かい合うようにして立っていた。私よりもずっと年上であろう男は、どこか危ない目つきをしている。それなのに、私の目にはルカの方から食って掛かっているように見えた。睨みつけられているのに、ルカに怯むような様子は無い。だけど、こっそり覗いている私の方が竦み上がりそうだ。
「だったらなんだってんだよ!」
男は苛立ったような声でそう言うと、ルカの方へと足を一歩踏み出した。
ど、どうしよう。なんだか今にもルカに殴りかかりそうな雰囲気だ。あの男は一体誰? 一体ルカは何をしているの!?
相手の男はおおよそ穏やかには見えないし、このままじゃルカが危ない。どうにかしなきゃ……! でも、私が仲裁に入ったところでどうにかできるとも思えない。一体何を言い争っているのか分からないけれど、誰かを呼んだ方がいいに決まっている。
誰かに助けを──そう思ったとき、ぱっと私の頭に浮かんだのはジークだった。私は胸につけたブローチの魔石をぎゅっと掴んだ。急く気持ちでジークに繋ごうとしたその瞬間、とうとう男がルカに掴みかかって、思いっきり突き飛ばした。ルカは壁に背中を打ちつけて、痛みに顔を顰める。へたりこむルカに向かって、男がさらに一歩足を踏み出した。
駄目だ! ジークを呼んでいる暇なんてない。私がなんとかしなきゃ! 私は慌てて建物の影から飛び出すと、その男に向かって両手を翳した。
「βБπЯυ!」
見習い魔術師には肩に刻まれた刻印の制限があるから、攻撃魔法は使えない。放ったのは目くらましのような光魔法だったけれど、効果はあったようだ。ルカを見下ろしていた男は、その眩しさから逃れようと目蓋を手で覆った。私は慌ててルカに駆け寄ると、呆気に取られたような顔をしているルカの腕を掴んだ。強引に腕を引いて立ち上がらせると、表通りの方へと駆け出す。
けれど──次の瞬間にはもう、私は反対側の腕を掴まれていた。立ち直った男が、私の腕を掴んでいたのだ。私は咄嗟にルカを背中に庇った。
「へっ、えらく小さなナイト様が飛び出してきたもんだ」
男は下卑た笑いを浮べると、じり、と一歩私に近づく。私はルカの腕を掴んでいた手を離して、男に向かって翳した。
「そ、それ以上近づいたら、撃つわよ!」
「へーえ。どんな魔法を撃つんだ?」
余裕しゃくしゃくの笑みだ。そう思った瞬間、翳している方の腕を、ぎゅっと掴まれる。びっくりして咄嗟に振り払おうとしたけれど、びくともしない。男は私の両腕を掴んだ状態で、ぐっと顔を近づけてきた。
「あんた、結構可愛い顔してるなあ」
近い! お酒臭い息が顔にかかって、気持ちが悪い。背筋がぞぞっと凍えて、私は思いっきり顔を背けた。こんな男、魔法さえ使えたら吹き飛ばしてやるのに! そうは思いながらも、腕を拘束されているから何も出来ない。
男は私の背後をちらりと見て、何故だか薄く笑った。
「あんたが庇ってやったガキ、さっさと逃げてったぞ」
私ががっかりすると思って言ったのかもしれない。だけど、私はその言葉にほっとした。ルカ、逃げられたんだ。目の前のことにいっぱいいっぱいになっていたから、気が付かなかった。
けれど──、そんな安堵は長くは続かなかった。何せ、私はまだ両腕を掴まれて、顔を覗き込まれているままなのだ。
誰か、気付いてくれないかな。
そうは思うけど、辺りに人通りは無い。もう少し奥に行けば酒場があって、そこには人もいるんだろうけど……。ここには、私とこの男の二人しかいない。私を助けてくれるものは、何も無いのだ。腕を掴まれている以上、魔法は使えない。
どうしたらいいんだろう。一体どうやって、逃げたらいいの?
我に返った途端、じわじわと恐怖が押し寄せてくる。
大声を出せば、誰か気付いてくれるかもしれない。そう思うのに、まるで出し方を忘れたみたいに、声なんて出てこない。
どうしよう。一体どうしたらいい? どうしたらいいの?
どうしよう。どうしよう、ジーク。助けてよ……っ。
私は気付いたら、心の中でジークに助けを求めていた。そんなの聞こえるわけも無いのに、そうすることしかできなかった。
さっきも今も、私の頭に浮かぶのはジークのことばかりだ。十年も傍を離れていたのに、それでもやっぱり、いざというときにはジークを頼ってしまう。
こんなところに、ジークが来てくれる訳がないのに。
大体、自分から首を突っ込んでおいて、助けてだなんて情けないにも程がある。
ほんと、私、馬鹿だなあ。
なんだか諦めの境地で、内心で自嘲したその瞬間──、ぴたり、と空気が凍りついた。時間が止まったみたいに、男の動きが止まる。私は恐る恐る首を動かして、小さく息を呑んだ。
──一瞬、見間違いかと思った。私の願望が見せる、幻かと思った。
私の腕を掴んでいる男のすぐ後ろに、いつの間にかジークが立っていたのだ。ジークは紫紺の瞳を冷ややかに細めて、抜き身の剣の切っ先を、男の首筋に突きつけている。ジークのそんな冷たい表情を見たのは初めてだった。
「両手を上げて、そいつから離れろ」
男は一気に酔いが醒めたような唖然とした顔で、ただただ突きつけられた剣先を見つめている。
「……早くしろ。切り殺されたいのか」
氷よりも冷たい声にびくっと肩を震わせた男は、素直に両手を挙げて、じりじりと私から離れた。ジークは素早く剣を仕舞ったかと思うと、男を一気に投げ飛ばした。受身なんて取る間も無かった男は、頭を勢いよく地面に打ち付けて、そのまま気を失ったようだ。ジークは素早く取り出したロープで、男の身柄を拘束する。それから、魔石を使って誰かに連絡を取り始めた。
い、一体何が起こっているの? 突然の出来事に理解が追いつかない。私は呆気にとられたように、ただ立ち尽くしてその様子を見つめているしかなかった。
やがて、連絡を終えたジークが、私の方を振り返った。ジークは眉間に皺を寄せて、不機嫌そうな表情で私を見下ろしていた。
もしかしたら──、ううん、もしかしなくても、絶対怒ってる。
そう思ったのに。
ジークと目が合った瞬間、なんだか胸がいっぱいになって、気が付いたら私の足は地面を蹴っていた。
「……っ!」
ジークは驚いた様子だったけれど、それでもしっかりと私の身体を受け止めてくれた。あたたかな体温にほっとして、私は強くしがみついた。
ジークの体温を、懐かしい匂いを感じた瞬間、一気に安堵に包まれて、瞳の奥が熱くなる。紫紺の瞳を見開いていたジークは、その目をふっと優しく細めて、指先で眦を拭ってくれた。
「泣くなよ。……もう大丈夫だから」
優しい声音だった。そんな言葉を掛けられたのも随分と久し振りで、尚更に胸がいっぱいになって、次々と涙が溢れ出す。
「うん……」
私はジークにぎゅっとしがみ付いた。
「怖かったな」
囁くように向けられた言葉は、幼子を宥めるような口調だった。だけど何故だかそれが嬉しくて、私は黙ってジークの肩口に顔を埋めた。
怖かった。
そうだよ、すっごく怖かった。
両手を掴まれて、魔法を封じられて……何も出来なかった。顔を近づけられて、ぞっとした。お酒臭い息が顔に落ちてきて、気持ちが悪かった。本当に、すっごくすっごく怖かった。
だけど、ジークに抱き締められていると思ったら、さっきまでの恐怖が嘘みたいに消えていく。優しい体温に包まれているだけで、気持ちが落ち着いていく。
──ジークの傍にいるだけで、こんなにも安心できる。
「あー……、お取り込み中のところ悪いけど、さっさと帰るぞ」
ふいに呆れたような声が降ってきて、私ははっとしてジークから離れた。声のした方を見ると、ジークと同じイーレンの制服を着た男性が──イーレン第一隊の隊長が、苦笑を浮かべて私たちのことを見下ろしていた。
い、いつからいたの!? ぎょっとして辺りを見回したら、いつの間にかイーレンの、恐らく第一隊の人が四人程集まっていた。みんながみんな私たちの方を見ているわけじゃなかったけど、途端に恥ずかしくなって、私は赤くなった顔を隠すように俯いた。
「ああ」
ところが、ジークは恥ずかしがる様子も無く、平然と頷いている。
なんで、ジーク、平然としてるんだろう。ジークは私のこと──なんとも思ってないから、平気なのかな。
私だけが意識してるから、こんなに恥ずかしいのかな。そう思った瞬間、胸がじくじくと痛み出した。
「帰ろう」
私の内心なんか知る由も無く、振り返ったジークが手を差し出してくる。私は一瞬迷ったけれど、結局その手をきゅっと掴んだ。
「あっ、ねえ、ジーク」
それから急に思い出して、彼の手を引いた。
「何だよ」
「ここへ来る時、ルカを見た? ルカ、ちゃんと逃げられたかな」
私の問い掛けに、ジークは何故だか呆れたような微苦笑を浮べた。
「さっき保護したよ。後ろにいるだろ」
ジークが指差した方向を見ると、イーレンの騎士二人に囲まれるようにして、ルカが立っていた。ルカもちゃんと無事だったみたいだ。ほっとした私は、思わずルカに手を振る。私の方を見たルカは、何故だかびっくりしたように目を見開いて、小さく頭を下げた。な、なんで手を振り返してくれないんだろう。
心の距離を感じてしょんぼりする私をよそに、ジークは私の手を引いて、歩き出した。
「ねえ、一体何が起こったの?」
歩きながらそう問い掛けたら、ジークはちらりと私を一瞥して、苦笑混じりに言った。
「それを聞きたいのは俺の方だよ。何があった? ──なんでお前がルカと一緒にいたんだ?」
「え……っと」
一瞬悩んだけれど、私はすべて正直に話すことにした。
「お城に帰ろうと思って歩いてたら、裏通りの方に向かって行くルカを見かけて、気になったから後を追いかけたの。そうしたら、知らない男とルカが口論し始めて、男がルカを突き飛ばしたから……危ないと思って、助けようとしたんだけど」
「逆に捕まったんだな」
私の言葉尻を引き継ぐようにして、ジークは呆れたように言った。なんだか棘のある言い方にちょっとむっとしたけれど、事実は事実だったので、私は小さく頷いた。
わざとらしく嘆息したジークは、私の頭を軽く小突いた。
「このお転婆娘が」
「いった!」
別に痛くはなかったけど、私は思わずそう言って、繋いでいない方の手で頭を押さえた。
「自分から事件に巻き込まれるやつがあるかよ」
「だ、だって、あのままじゃルカが危ないって思ったんだもん」
私が反論すると、ジークは呆れたように鼻を鳴らした。
「自分の身も自分で守れない奴がなに言ってんだか」
その言葉は的を射ていた。だからこそむっとして、私は反射的に大きな声を出した。
「そんなこと言ったって、あの場には私しかいなかったんだもん、私が助けに入るしかないじゃない」
大きくなった私の声につられるように、ジークの声音も厳しくなる。
「誰か呼べば良かっただろ」
「だってルカは今にも殴られそうな状況だったんだよ!? そんな状況で呼んだって間に合わないじゃん!」
「お前はそれでも魔術師か! ダレンなら転移魔法ですぐに来るだろ」
その言葉に、私ははっとして息を呑んだ。
考えつかなかったけれど、そういえば、そうだ。見習いの指導教官であるダレンは、確か転移魔法の使用許可を持っていたはずだ。ダレンを呼んだらすぐに来てくれたかもしれない。
ダレンは普段お世話になっている指導教官なのに、あの時、何故だかダレンに連絡を取ろうとは思いつかなかった。同じように転移魔法の使用許可を持っているはずのお父さんのことでさえ、何故だか頭に浮かんでこなかったのだ。
「しょ、しょうがないじゃん! あのとき咄嗟に頭に浮かんだのがジークだけだったんだもん!」
思わずそう言い返したら、ジークは何故だかぎょっとしたように紫紺の瞳を見開いた。
「お前、それで俺に繋いできたのか?」
「え?」
「さっき、一瞬だけ魔石を繋いできただろ」
さっきっていうのは、もしかして、ジークに助けを求めようとしてブローチを握ったときのことだろうか。すぐに手を離したから、繋がらなかったと思い込んでいたんだけれど。
「う、うん。呼んでる場合じゃないって思ったから、すぐに解いたんだけど……もしかして、繋がってた?」
「……ああ」
ジークは斜めに視線を落とすようにして、何故だか地面を睨みつけている。なんだか様子が変だ。そう思って一瞬躊躇ったけれど、私はすぐに我慢できなくなって口を開いた。聞きたいことがいっぱいありすぎて、黙っていられなかったのだ。
「ねえそれより、あの男は一体誰なの? ルカは何であの男を追いかけていたの? それに、ジークはどうしてここに来てくれたの?」
矢継ぎ早に問い掛けた私に、ジークはうんざりしたような目を向けつつも、きちんと答えてくれた。
「いっぺんに色々聞くなよ。……あの男は毒草の密売人だ」
「え?」
毒草っていうのはまさか、調合次第で人を死に至らしめる薬も作れるという──、危険だからという理由で、国で栽培を禁止されている薬草のことだろうか。そんなものの存在自体が作り話みたいなものだと思っていたから、私はびっくりして目を見開いた。
「で、俺がここに来たのは、お前が意味深な連絡よこしたからだよ」
ジークは小さく息を吐いた。
「魔石の繋がりが一瞬で解けたのが気になったから、お前の魔石の気配を辿ったんだ。丁度近くにいたからお前を探していたら、ルカが走ってきて、お前の所まで案内してくれた」
そうだったんだ。ジークは、一瞬で解けた連絡を気にして、わざわざ私を探しに来てくれたんだ。それに、ルカは逃げた訳じゃなくて、イーレンの人たちを呼びに行ってくれていたんだ……。
「ジーク、ありがとう」
後でルカにもお礼を言わないと。そう思いながら、私がジークに向かって頭を下げたら、ジークはきょとんとしたように瞳をしばたたいた。
「は?」
何が、とでも言いたげだ。
「えっと、助けてくれたから」
私がそう付け足したら、ジークは何故だか苦笑いを浮べた。
「こっちこそ、ありがとうな。──ルカを守ろうとしてくれて」
繋いでいる方と反対の手が、私の頭をぽんぽんと撫でる。その手のぬくもりも、優しい手つきも嬉しいはずなのに、私の心は鈍く痛んだ。
どうしてルカを庇ったことに対して、ジークがお礼を言うの?
ルカは騎士見習いだし、ジークにとっては後輩のようなものなのだから、お礼を言ったっておかしくない。きっとそうだ。そうやって自分を納得させようと試みるのに、なんだか胸がズキズキと痛み出す。もやもやしたものが、私の心を覆い尽くす。
たったそれだけのことでまた泣きそうになって、私は深く俯いた。
「……でもさ」
ふいに、ジークは静かな口調で言った。
「もしまたこんなことがあったとしても、もう首突っ込んだりするなよ」
「え?」
突然の言葉に、私は呆然とジークを見上げた。怒っているのかな、って思ったけれど、ジークはなんだか真剣な目をして、私をじっと見下ろしていた。
「危ないと思ったら、すぐ誰かを呼べ。間に合いそうに無いと思っても、自分でどうにかしようとするな」
お前じゃ役に立たない、って、そう言われているみたいだと思った。だけど事実だったから、私は小さく頷いた。
「わかった」
「それから、そういうときはダレンを呼べ。……俺に繋いでくるな」
ジークは私から目を逸らして、素気無く言った。私はその言葉をすぐには理解できなくて、ただ呆けたように問い返した。
「え……?」
俺に繋いでくるな、っていうのは、どういう、こと? ……迷惑だ、って、こと?
なんだかんだ言っても、ジークはいつも優しかった。うんざりするような素振りを見せることはあっても、それでも決して私を拒絶したりはしなかった。
「なん、で……?」
到底その言葉を信じ切れなくて、呟くように問うた私を、ジークはちらりと一瞥した。
「なんでって……、お前の教官は、俺じゃ無くてダレンだ。いざというときには、ダレンを頼るのが自然だろ」
見えないナイフで、ざくりと胸を貫かれたようだった。
これは、明確な拒絶だ。
頼るな、と。
俺を頼ってくるなと、ジークはそう言っているのだ。
「わか、った……」
私は小さな声でそう返して、俯いた。
ジークは何も間違ったことは言っていない。私が魔術師見習いである以上、教官であるダレンを頼る方が自然なのだ。同じ魔術師として、状況に応じて適切な判断を下してくれる可能性が高い。
なのに、ジークに「俺に繋いでくるな」と言われたことで、胸がズキズキと痛み出す。幼い頃からずっと頼りにしていたジークに、伸ばした手を振り払われたような気分だった。
ううん、事実、振り払われたのだ。
かつてのジークなら、こんなことは決して言わなかった。この間、練習場の帰りに迎えに来てくれた時みたいに──、いつだって優しくしてくれた。幼い頃のジークなら、「何かあったらすぐに俺を呼べよ」って、言ってくれただろう。
私、もしかして、今でもそんな優しい言葉を貰えるんじゃないかって、勘違いしてたのかな。ジークがあまりにも優しいから、十年前のことはもう忘れてくれたんじゃないかって、都合良く解釈していたのかな。
あの頃と同じでいられる訳がないのに。
今まで、ジークに拒絶されたことなんて、一度だって無かった。だけど、私には文句を言う資格なんて無い。最初に手酷い言葉を投げつけて、拒絶したのは私の方なのだ。
ジークに昔と同じような優しさを求める方が、おかしい。
「……っ」
あの時、私の言葉で、ジークもこんな風に傷ついたのかな。そう考えたら、胸の奥が鈍く痛んだ。
まだ幼かったジークをこんな風に傷つけた私を、ジークが好きになんてなる訳が無い。そんなこと、分かりきっていることなのに。分かっているつもりだったのに、なのに、まだ心の奥底では、都合の良い夢を見てたのかな。
本当に、馬鹿みたい。なんて厚かましいんだろう。
情けないことに、また涙が零れそうになって、私は深く俯いた。胸が苦しくて、瞳の奥が熱くて堪らなくなる。まだ頬に残る涙の上を、新しい涙が伝っていく。ぽた、ぽたと、地面に水が落ちた。泣いていることに、気付かれたかもしれない。いたたまれなくなってより深く俯いた私の頭に、ジークの手が載せられた。ぽん、ぽんと頭を撫でる手つきが優しすぎて、胸が締め付けられるように苦しくなる。
「ナーシャ。もう大丈夫だから……、泣くなよ」
さっきのことを思い出して、泣いていると思ったみたいだ。
ジークって、ほんと、酷い。自分が泣かせただなんて、これっぽっちも思ってないみたい。酷い、酷いよ。本当に。
拒絶するくせに、どうして優しくするの。頼るなと言ったその口で、優しい言葉を口にするジークの気持ちが分からない。
分かるのはただ、この想いは決して報われないってことだけだ。
なんで、なんでジークのことなんか、好きになっちゃったんだろう。
こんなにも好きなのに、好きでたまらないのに──気持ちはずっと、一方通行のまま。だけどそれも全部、自業自得だ。
止まらない涙を手の甲で拭っていたら、困惑したような声が降ってきた。
「泣くなって……」
そんなこと言われても、止められるものならもう止めている。早く泣き止もうと顔をごしごし拭いていたら、ふいに、繋いだ手に力が込められた。繋いだ手のひらから、ジークのぬくもりが伝わってくる。大きくて硬い、男の人の手だ。小さい頃の、柔らかくてふにふにした、お餅みたいな手とは全然違う。
繋いだ手のひらは温かいのに。そのぬくもりは、あの頃と何も変わらないのに。あの頃と同じように手を繋いで歩いているのに──それなのに、ジークが遠い。
すぐ隣を歩いているのに、私たちの間には、見えない壁があるみたい。
拒絶するくらいなら、優しくしないで欲しいのに。ジークが優しくするから、いつまでも諦め切れないんだよ。
繋いだ手を強く握り返そうとしたその瞬間、前方にふっと、淡い光を纏ったダレンが姿を現した。あの淡い光は、転移魔法の残滓だろう。
どうしてここに、ダレンが? もしかして誰かが呼んだのかな。そういえば、さっき男をロープで縛り上げた後、ジークは誰かに魔石を繋いでいたけれど……もしかしてあの時、ダレンを呼んでいたのかな。
「ナーシャ」
ダレンが私を呼んだ。やっぱり、私を引き取りに来たんだ。ジークはダレンに私を押し付けるつもりなんだ。そう思った瞬間、胸がまたズキリと痛んだ。だけど私は胸の痛みに蓋をして、ジークと繋いだ手を離して、ダレンに駆け寄った。
「教官!」
本当は、繋いだ手を離したくなかった。もう二度と触れることはないだろうそのぬくもりを、離すのが嫌だった。だけど、ジークの方から離されるのが怖かったから、自分から離したのだ。
傍に駆け寄って行った瞬間、ダレンに思いっきりでこぴんされた。
「あだっ」
「勝手な判断で行動するなって、いつも言ってるだろうが!」
ダレンが怒っている。うう、そういえばいつも、そんなことを言われていたような気がする。
「イーレンの第一隊が近くにいなかったらどうなってたと思う!? もうちょっと危機感持てよ!」
肩を掴んで、ぐらぐらと揺さぶられる。
「痛い、痛いです、ダレン教官」
冗談抜きで痛い。ダレンってば本気で力入れてる。そう思った瞬間、ジークがやんわりとダレンの腕を掴んだ。
「それくらいで勘弁してやってくれ。もう十分、説教した後だから」
どこか素気無い声が、ダレンに向かって向けられる。素気無いと感じたのは、気のせいかもしれない。だけど、見上げたジークの表情は少し不機嫌そうに見えた。
言うほど説教をされた覚えも無い。もしかして、私を庇ってくれたのかな。そう思ったら、また胸がじりじりと疼いた。
ほら、まただ。
さっき、もう頼るなって言ったくせに──なのにまた、こうやって私を甘やかす。
優しくしたり、突き放したり。再会してからずっと、ジークに振り回されてばっかりだ。ジークの考えていることが、私には全然分からない。
「そうか? すまなかったな。ナーシャを護ってくれて、ありがとう」
ダレンはまるで私の兄か何かのように、そんなことを言う。ジークが苦笑を浮かべる気配がした。
「いや。こっちも見習いを一人、助けられてる。お互い様だ」
何気無く言ったであろうその一言にさえ、明確に線を引かれたような気分だった。お前はこっち側じゃない、俺にお前を守る義理は無いと、そういう風に聞こえる。
私の被害妄想でもなんでもなく、実際そうなのかもしれない。私がジークを頼るのは不自然なのだ。ジークは私の兄でも無ければ恋人でも無いし、指導教官でも無いのだから。私たちは、もはや他人でしかないのだ──。
そのことに気付いた瞬間、頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。私とジークの間には、もう何の繋がりも無いのだということに、今更ながら気付いてしまったのだ。私たちの間には、親同士が親しくて、かつては幼馴染だったという、もはや切れたも同然の糸しか存在していない──。
いつまでもその糸に縋る私を、これまでジークが見捨てずにいてくれただけのことだったのだ。
「ナーシャを引き取りたいんだけど、いいかな? 話したいこともあるし」
ダレンはそう言った。ジークが私を一瞥する。見上げていた私と目が合うと、ジークはふいと目を逸らした。
「……ああ」
腕を掴んで、ダレンに引き渡される。まるで犯罪者のようだ。そう思いながら、ダレンに頭を下げた。
「勝手な事して、すみませんでした」
「いや、もう、無事だったからいいよ」
ダレンはそう言ってふっと笑った。それから、頭をわしわしと掴まれる。撫でているつもりなのかもしれないけど、ダレンの乱暴な撫で方は、掴んでいるという表現がぴったりだ。落ち着いた雰囲気に反して、ダレンは結構──ジークよりもうんとガサツだ。
ダレンと私はジークたちイーレンから離れて歩き出した。同じ場所に向かっているはずなのに、どうして距離を作るのかな。そう思っていたら、ダレンが耳元で囁くように言った。
「ナーシャの好きな奴って、ジークだろ」
私はびっくりして、勢い良くダレンを見上げた。
「な、な、な、なんで!? なんでですか」
なんでばれたの!?
「さっきの見てたら分かるよ。でも、なんだ。俺てっきりナーシャの片思いなのかと思ってたけど、そういう感じでもないな」
ダレンの悪戯っぽい笑みに、私はびっくりして言葉を失った。そういう感じでもないって、どういう意味だろう。まさか、ジークの方も私のことを好きなんじゃないかってこと?
何をどう見たらそんな結論になったんだろう。一瞬そう思ってから、ダレンは過去のことを何も知らないのだから、私たちの関係なんて分かる訳がないか、と思い直す。
「いいえ、片思いです。ジークにとって、私はそういう対象じゃないんです。……ずっと前に、酷いことを言っちゃったから」
自分の勝手な願いが叶わなくなったからって、駄々を捏ねて、一番ショックを受けているはずのジークに酷い言葉を向けた。
あの時のことをジークが忘れてくれているだなんて、そんなことある訳が無いのだ。忘れられるわけがない。私なら絶対、一生根に持つ。
そうだよ。拒絶されて当然なんだ。ジークが優しすぎるから、愚かな勘違いをしていた。あんな風に優しくしてもらえるだけでも、私はもう十分すぎるほど恵まれていたんだ。
そう思った瞬間、ぽろり、と涙が零れ落ちた。
「ちょ、泣くなよ」
驚いたような言葉に続いて、背中をぽんぽんと叩かれる。
「何を言ったか知らないけど、ジークはそんなに気にしてないんじゃないかと思うけどな」
ダレンは慰めようとして言ってくれているのだろうけれど、私はぶんぶんと頭を振った。
「そんなはず、ないです。だって、あれ以来、目も合わせてくれなくなったから。十年くらいずっと、口もきいてなかったから」
それまでずっと親しくしていたのに、あの日以来一気に疎遠になってしまった。自業自得だけれど、ジークの瞳が私を映してくれなくなって、悲しくてたまらなかった。
それに──さっき、明確に拒絶されたのだ。”もう俺を頼るな”って。そのことを思い出しただけで、また一気に涙腺が緩くなる。
ダレンはもう何も言わずに、黙って頭を撫でてくれた。だけどやっぱりその手つきは乱暴で、私の髪は、すっかりぐしゃぐしゃになってしまった。