森の彼方の国
鬱蒼と生い茂る広大な森。時折吹き抜ける風でざわざわと木々が揺れる。針葉樹の隙間から差し込んでくる青白い月の光に、一人の男の姿が照らし出される。夜特有の静謐な空気の中、闇に溶け込むようにその男は立っていた。
「このあたり、か」
漆黒の髪と眼をした男は煙草を吸いながら独りごちる。東洋風の顔立ちは、この近辺では非常に珍しいものだ。細面の顔に上品そうな黒縁の眼鏡を掛けているが、その奥の瞳はある種の剣呑さを湛えている。膝丈の長さの黒の外套を羽織り、手には小さな革製のトランクを提げていた。男は腕時計の文字盤に視線を落とす。時刻は夜中の十二時。奴等の活動する時間帯だ。胸中でそう呟いた後に、男は遠くのほうに目をやった。そこには来る者を拒むような重厚な雰囲気で古城が深い森の真ん中に佇んでいる。厚い石の壁と小さな窓は、ロマネスク様式独特のものだ。
――私の予想が正しければ、ここは奴等の通り道になるはずだが。
黒髪の男はそう思いながら、煙草の煙を吐き出す。くすんだ色をした煙が宙に消えていくのを眺めつつ、彼は他に何をするでもなく、そこに立っている。しばらくすると、何か生き物の気配がした。彼は木の陰に身を潜める。
黒髪の男の斜め上あたり、木の枝の間をすごいスピードで走る影が横切った。枝から枝へ。機敏な動きでその影は移動していく。その影が少し離れたのを確認してから、男はそれを走って追いかける。おそらく、普通ならあれに追い付くことは不可能だ。だが、もしあれが獲物を見つけたなら――
「きゃああああ!」
次の瞬間、甲高い悲鳴が周囲の静けさを破って響き渡った。黒髪の男は走る。森を抜けてすぐのところで、彼は目標を発見した。
そこにいたのは一人の男と女だ。いや、狩人と獲物と言ったほうが正しいか。その狩人はこの世のものとも思えぬほど繊細で整った顔立ちをしていた。青白い肌に灰色の髪。特筆すべきなのはその鮮やかな真紅の瞳だ。そう、まるで奴等の食糧そのもののような――
「私の食事の邪魔をするのなら、容赦はしない」
灰色の髪の男は追ってきた人物に気付くと、刺すように敵意の篭った視線を向けた。
「邪魔をして悪かったな。お前に用があったもので」
叩きつけられた殺気をあっさりと受け流して、黒髪の男はきわめて穏やかに答えた。
灰色の髪の男は訝しげに黒髪の男を見た。今まで、自分を追ってきた人間達は、自分を見るや否や、問答無用で攻撃してきたものだ。彼はそれを仕方がないことだと割り切っていた。狩る者と狩られる者。食物連鎖の上位に位置する者が、下位の者に畏怖されるのは、自然の摂理というものだ。しかし、この男は、自分を排除するために攻撃するでもなく、恐れて震えるでもなく、同等の相手と接するように話し掛けてくる。
「用、とは何だ」
「もし、お前の食事が終わったら、その女を引き渡してもらえないだろうか。生死は問わない」
灰色の髪の男は、忌々しげに眉を顰めた。
「そんなことをして、私に何のメリットがある」
それを聞いた黒髪の男は、手に持っていたトランクを開けて、中身を示した。そこにぎっしりと詰まっていたのは血液製剤。
「これをやる。お前は吸血鬼の中でもそれほど好戦的ではないと聞いた。その女も、別にお前の眷属にするつもりではないのだろう」
灰色の髪の男は、恐怖のあまり地面に蹲っている食糧、もとい長い金の髪をした女を見やる。まあ美人とも言えなくもないが、自分はそういう相手に困っている訳でもない。
「分かった。取引だな」
交渉が成立したことを確認するように、黒髪の男はうっすらと笑う。それから足元にトランクを置くと、くるりと踵を返した。
「じゃあ、ごゆっくり。事が済んだらその女をそこに置いておいてくれ」
その場に取り残された灰色の髪の男は、金髪の女の首筋にゆっくりと鋭い牙を突き立てた。
*
半刻ほどして、黒髪の男は、先程の場所に戻ってくる。灰色の髪の男は、もうそこにはいない。地面に倒れ伏しているのは金髪の女。黒髪の男は、金髪の女に近付いていき、その身体を仰向けになるようにして転がしてから、柄に赤い石の嵌った小さな短剣と液体の入った小壜を懐から取り出す。そして、短剣で女の手首に傷を付け、そこに小壜の中の液体を垂らすと、小さく呟いた。
「闇夜を支配する王よ。この石の魔力を代償として、彼の者を甦らせよ」
黒髪の男の声に応えて、短剣の柄に嵌っている赤い石と、女の手首に垂らした液体が発光する。そうして、待つこと数分。
「んっ……」
金髪の女は、呻き声を上げる。数回瞬きをしてから、首を動かして、その紺碧の瞳を黒髪の男のほうへと向けた。それから。
「きゃああああああああ!」
先程彼女が上げたものよりも数段大きな叫び声が、闇の中に響き渡った。
黒髪の男は、不機嫌そうな顔をして金髪の女を見やる。
「失礼な奴だな。お前が失血死しそうな所を助けてやったというのに」
金髪の女は慌てて上体を起こすと、息を荒げて叫んだ。
「あんた、さっきあたしを見捨てたでしょ! ああいう状況に出くわしたら、か弱い女性を助けるのが、普通の男でしょうに!」
黒髪の男は鋭い目付きで金髪の女の顔を覗き込む。
「何故、私がお前のために命を捨てなければならん。こんな時間にこんな所をうろついているほうが悪い。奴等に襲ってくれといっているようなものだ」
金髪の女は一瞬黙り込む。束の間の沈黙の後、わずかに俯いて弁解するように言った。
「そりゃあ、あたしも悪かったわよ。しょうがないじゃない、姪の世話してたら遅くなっちゃったんだから」
そして、顔を上げると、ものすごい目付きで、黒髪の男を睨み付けた。
「でも! あそこで助けないなんて、人間としてなんか間違ってる! 鬼畜よ、鬼畜。それにあんたなんかあいつと取引とか言ってなかった?」
金髪の女はそこに至って、初めて顔色を青ざめさせる。彼女は自らの首筋に手を這わせた。そこには何かに噛みつかれたような傷跡がある。
「ああーっ!」
「何だ、いちいち五月蝿い奴だな」
呆れた面持ちで、黒髪の男は金髪の女を眺めた。
「あたし、あいつに噛まれたんだった! あたしもあいつらの仲間になるんだわ。これじゃあお嫁に行けない」
金髪の女は顔色を白黒させる。その様を、黒髪の男は莫迦にしたような目で見つめた。
「莫迦か、お前は。無知にもほどがある。蚊に噛まれたからといってマラリアになるとは限らないように、吸血鬼に噛まれたからといって、吸血鬼になる訳ではない。あの灰色の髪の吸血鬼は、お前を眷属にする気などなかった」
金髪の女はそれを聞いて少し落ち着いたようだった。そして問う。
「本当に?」
「本当だ」
黒髪の男は頷く。
「そう言えば、あんた、あいつに私を引き渡して欲しいとか言ってたわね。もしかして、あんた、あたしに何かした?」
「ああ」
短く返ってくるのは、肯定の返事。
金髪の女は再び顔色を変えて怒鳴る。
「何をしたのよ、何を! 白状なさい!」
「簡単な蘇生魔術だ。非常に残念なことだが、あの吸血鬼は案外紳士だったようだな。お前を完全に殺すほどには、血を吸わなかったようだ」
淡々と言う黒髪の男。その様子を見た金髪の女は憤然と叫ぶ。
「何よ、その言い草は! あんたはあたしが殺されていたほうが良かったって訳? 何て奴なの」
「その通りだ。せっかく労せずして新鮮な死体が手に入ると思ったのに」
いかにもがっかりしたように黒髪の男はわざとらしく溜め息を吐く。
「あんた、一体何者なの。さっき、魔術とか言ってなかった?」
金髪の女は、漆黒の男の目を真っ直ぐに見返して聞いた。
黒髪の男は、そこでようやく自らの失言に気付いたようだった。眉を顰めて頭を掻く。
「しまったな。まあ、吸血鬼の存在を知っている人間相手なら構わないか。私はただの通りすがりの魔術師だ」
金髪の女はぽかんと口を開けて黒髪の男を見た。
*
ルーマニアはトランシルヴァニア地方。カルパティア山脈を望むこの地は、吸血鬼伝説で有名な地である。かつてこの地を治めたワラキア公ヴラド・ツェペシュが、そのあまりの残酷さのために、吸血鬼ではないかと言われたためだ。実際、彼が吸血鬼であったかどうかは今となっては分からない。ただ、彼の愛称ドラキュラは、吸血鬼を示す名前として、広く知られている。そして、現代を生きる魔術師達の間では、この地は地上最強の陸戦生物、吸血鬼が未だに棲まう地だとされているのだ。先程の黒髪の男と金髪の女が出会ったのはそんなトランシルヴァニア地方にある村、ネグラブンゲット村の外れであった。
夜道を歩く黒髪の男は忌々しげに後ろを見やる。金髪の女が後を付いて来ているのだ。彼女は知らない相手に付いていってはいけないと学校では習わなかったのだろうか。そんなだから、吸血鬼に襲われるのだ。黒髪の男が宿に足を踏み入れると、金髪の女も後に続いた。
黒髪の男は振り向いて金髪の女に小さな声で囁く。
「何か私に用があるのなら、部屋で話を聞こう。ここでは迷惑になる」
「分かったわ」
金髪の女は頷き、その後は黙って黒髪の男に付いて歩く。そうして、黒髪の男と金髪の女は、宿の一室に入っていった。
黒髪の男は、外套を脱いでベッドに座り、金髪の女に、鏡台の前の椅子に座るように促す。そうして、彼は口を開いた。
「で、一体何の用なんだ」
「あんたには責任をとってもらいたいのよ!」
金髪の女は勢い良く言った。
「責任?」
黒髪の男は訝しげに首を傾げる。自分は彼女に何かしただろうか。
「あんた、あたしに得体の知れない魔術をかけたんでしょう? その責任よ、責任」
黒髪の男は金髪の女を見て嘆息する。自分が何もしなければ、彼女はあそこで出血多量で死んでいただろう。いくら、あの灰色の髪の吸血鬼が手加減をしたとしても、あのまま放っておかれては確実に死ぬ。むしろ、彼女には感謝して欲しいくらいだ。だいたい恨むのなら、彼女が血を吸われる前に助けなかったことを恨むべきなのである。全く論点がずれている。
「責任? 私にそんなものはない。もし百歩譲って私に責任があるとして、私にどうしろっていうんだ」
「最近、この辺りで、吸血鬼の被害が多発しているの!」
黒髪の男は呆れ顔で金髪の女を見た。この女は真性の阿呆だ。それを知っていてなお、こんな夜中に外出したというのか。常軌を逸している。
「それで?」
黒髪の男は眼鏡を弄りながら、尋ねてみた。何となくその先の話の予測はついたが。
「あたしはあんたに吸血鬼退治を手伝って欲しいの!」
叫ぶ金髪の女に、黒髪の男は、冷ややかな視線を向ける。
「お前はミナ・ハーカーでも気取るつもりか」
ミナ・ハーカー。言うまでもなく、かの有名な『吸血鬼ドラキュラ』のヒロインである。
「ええ。悪い?」
金髪の女は挑発するような上目遣いをして、腰に手を当てた。
「さしずめあんたはヴァン・ヘルシング教授ってところね」
どこか疲れた声色をして、黒髪の男は呟く。
「私は博士ではあるが、教授ではない」
それを聞いた金髪の女は意外そうに目を見開いた。
「あんた、博士なの? 魔術師っていうのは皆インテリなのかしら」
黒髪の男は首を振ってそれを否定する。
「いや。私が例外的存在なだけだ」
「へえ。でも吸血鬼退治にぴったりな感じよね。で、手伝ってくれるでしょう?」
金髪の女は、問うように黒髪の男の目を覗き込んだ。
「お前はせっかく拾った命をまた捨てる気か? あの灰色の髪の吸血鬼は当分人は襲うまい。あれだけの血液製剤を持っていったからな」
黒髪の男は金髪の女の目を真っ直ぐに見返した。
「吸血鬼は、たぶん、あいつだけじゃないわ。今までの吸血鬼の目撃情報は灰色の髪ではなかったの。それにやり口はもっと残虐」
「なら、なおさらだ。そんなたちの悪い相手とあえて関わることはない。ただの人間が、吸血鬼に敵うと思うのか? 魔術師ですら、特級魔導師でないと敵わないというのに」
「特級魔導師? 何それ」
金髪の女は疑問をそのまま口に出す。黒髪の男は一つ息を吐いてからそれに答えた。
「魔術師の階級のことだ。魔術師は十二の位階に分類される。その上から三番目までが、特級魔導師と呼ばれる」
「じゃあ、あんたは? 魔術師としてはどうなのよ」
「II。上から二番目だ」
心なしか、金髪の女の紺碧の瞳が楽しそうに煌めいた。
「じゃあ、全然大丈夫じゃない」
黒髪の男は金髪の女に剣呑な視線を向ける。
「私は無駄な戦いは嫌いなんだ。それに私の魔術は基本的には戦いに向いていない」
金髪の女は訝しげに眉根を寄せると、椅子から立ち上がって黒髪の男ににじり寄った。そして聞く。
「じゃあ、あんたの得意な魔術ってのは何なのさ」
「私は死霊術師だ。だから、死霊術を使う」
金髪の女は、何か不気味なものを見るような目で黒髪の男を眺めた。ああ、またか。黒髪の男はそう思った。こういう視線には慣れている。おそらく、魔術師の中で最も蔑まれるのは、嫉妬と揶揄を込めて合法的魔術師とも呼ばれる祓魔師達でもなく、宣教師の到来により、かつての力を失ったケルトの楢の賢者、ドルイド達でもなく。死体や死霊を操る忌まわしき存在、死霊術師であると、常々彼は思ってきた。IIにまで上り詰めても、未だに一部の魔術師からは、白い目で見られるのだ。彼は小さく溜め息を吐く。彼女も、これ以上は自分には関わりたがらないだろう。彼がそう考えつつ金髪の女を見ると。
「うーん。まあそれくらい悪役っぽい魔術師なら極悪吸血鬼に対抗できるかも。なるほど、それでさっきあたしの死体を欲しがってた訳ね」
金髪の女は何やら一人で納得してうんうん頷いている。
「おい。誰が悪役だ。というか何故私がそんな極悪吸血鬼と戦わねばならん。そんなのはお断りだ」
黒髪の男は、不満そうな顔で金髪の女を睨み付けた。
金髪の女は、その視線を平然と受け止めてにやりと笑う。
「あたしはあんたが首を縦に振るまであんたに付きまとうわよ。覚悟なさい!」
黒髪の男は心底うんざりした顔をした。彼女は地獄の底まで付いて来そうな勢いである。ある種の諦念が彼の心をよぎった。
「仕方がない。吸血鬼事件の調査の協力はするが、戦うとなれば話は別だ。極悪吸血鬼に出くわしたら、私は全力で逃げるぞ」
「そう。まあいいわ。譲歩を引き出せただけでも満足しなければね。そう言えば、名前、言っていなかったわよね。あたしの名前はラルカ・ツァラよ。あんたは?」
金髪の女は、にっこりと笑って手を差し伸べる。
「私の名は西武明だ」
黒髪の男は、実に嫌そうにその手を取った。
*
「さて、何から始めたらいいかしらね」
翌朝。宿から外に出ると、すっかり高くなった日差しが、村全体を照らす。辺りを吹き抜ける爽やかな風に長い金髪を靡かせながら、ラルカは話を切り出した。結局ラルカは朝まで武明の部屋にいたのである。お蔭で宿の主人に変な勘繰りをされたが。
「お前は何も考えずに私に協力を求めたのか」
武明は、不機嫌な顔をして、ラルカの顔を眺めやる。
「悪かったわね。まさかあたしもいきなり吸血鬼に襲われたり、変な魔術師に出くわしたりするなんて思っていなかったのよ」
「変な魔術師は余計だが。昨日お前は吸血鬼の目撃情報について語ってなかったか?」
その質問に、ラルカは少し表情を曇らせて答えた。
「ええ。今月に入って三件ほど。被害者は全員女性で、喉に喰い破られたような傷痕があった。体中血塗れで倒れていたらしいわ。吸血鬼を見た者は、それは漆黒の髪と赤い目をしていたと言っている。どう考えても私を襲った吸血鬼とは違うわ」
予想通りの答えに、武明は同意するように頷いて見せる。
「それは当然だろうな。昨日お前を襲った吸血鬼は理性的なことで有名な奴だ」
ラルカは驚いたようにその紺碧の瞳を大きく見開かせた。
「あれで理性的なの? 驚きだわ」
「あれは魔術師の間では灰髪のイオン・エリアーデという名で知られている吸血鬼だ。あの森の奥の城に住んでいて、吸血する際にも、彼にとって最低限の血液しか摂取しない。お前が生きていたのもそのためだろう。大人しいからヴァチカンの討伐リストにも載ってない」
「ヴァチカンって吸血鬼退治してるの? もしかして祓魔師?」
「まあ、そうだな」
武明はラルカの言を肯定する。
「で、これからどうするの?」
ラルカが武明に聞くと、武明はにやりと笑ってこう答えた。
「蛇の道は蛇だな。一番手っ取り早いのは、イオン・エリアーデに話を聞きに行くことだ」
「ええっ?」
ラルカは驚愕のあまり叫んだ。それから早口で武明に向かって捲くし立てる。
「昨日あたしを襲ってきたあの吸血鬼が、とても話の分かる相手だとは思えないわ」
「吸血鬼は、氏族と呼ばれる独特の血縁関係を重んじている。氏族とはすなわち、同じ吸血鬼から血を与えられて転化した吸血鬼の集まりのことだ。だいたい、奴等はだいたい同じ地域に住むから、その吸血鬼がこの辺りに出没するのなら、そいつは、イオン・エリアーデと同じ氏族に属する可能性が高い。そうでない場合でも、その吸血鬼は彼の氏族の縄張りを侵していることになる訳だから、何か知っているかもしれない。お前が嫌なら無理にとは言わないが」
武明が意地の悪い笑みを浮かべると、ラルカは憤然として言い切った。
「当然行くわよ。あの吸血鬼は幽霊でもなんでもない。実際に存在しているのよ。そんなの怖くないわ!」
――存在するならばそれが何であれ畏怖の対象にはならない、か。同感だな。
武明は口の端を歪めて笑う。それを不思議そうにラルカは見つめた。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。日が暮れるまでにイオン・エリアーデの城に辿り着くぞ。夜は奴等の独壇場だが、昼間はそうでもないからな」
武明はそう言って、森の方角に歩を進める。ラルカは慌てて武明の後ろに付いて行った。
*
深い森の中をラルカと武明の二人は歩く。昼間にも関わらず、森の中は薄暗かった。時折鳥の囀る甲高い声が辺りに響き渡る。森特有のつんとする匂いに思わず顔を顰めながら、武明は進む。その後をラルカが続いた。二人はひたすら黙って道無き道を行く。しばらくして沈黙に耐えかねたのか、武明は口を開いた。
「ラルカ。何でお前は吸血鬼を退治しようと思った? あれは人間の手に負える相手ではない。そもそもお前は昨日吸血鬼に噛まれたんだ。普通の人間なら今頃がたがた震えて家に閉じこもっているところだぞ」
「吸血鬼のせいで、友達が死んだの。マリアっていってとてもいい子だったのよ。いつもあたしの子供じみた我が儘に付き合ってくれて……。それが先月、吸血鬼に襲われたの。彼女の死に様はとても酷いものだったの。喉の血管は思いっきり喰い破られていたわ。そこだけじゃなくて、身体中に傷跡があったの。吸血鬼の歯の痕だけじゃなかった。まるでいたぶって殺したかのようだった」
そこで悔しそうに視線を下に向けて、ラルカは強く唇を噛んだ。
「許せなかったのよ! もし奴等があたしを狙ってきたら、返り討ちにしてやろうと思ってた。でも実際襲われたときは手足が震えて何もできなかった。それがまた悔しくて……」
ラルカはそこで言葉を切ると、ぽろぽろと涙をこぼす。それを見た武明は慌てて宥めるように言った。
「おい、頼むから泣くな。これから私達は吸血鬼に会いに行くんだぞ。奴等に隙を見せる訳にはいかないだろう」
ラルカは目に涙を溜めながら唇で笑みを形作る。
「ふふ、変な慰めかたね」
「私は別に慰めてなんかないぞ」
武明はそう言って、ラルカの顔から目線を逸らした。それから身を翻すと、足早に山歩きを再開する。ラルカはその後ろ姿をしばらく見つめてから、ゆっくりと歩き始めた。
*
森を抜けて、ようやく二人の頭上に光が差す。切り立った崖の上。そこにそびえ立っていたのは、城壁に囲まれた人を寄せ付けないような雰囲気の城だった。吸血鬼の根城を目前にして、ラルカは少しばかり緊張していた。城門までは、石畳の長い道が続く。その道をしばらく歩けば、城門はすぐそこだ。背の高い門が二人の眼前に立ちはだかるようにして現われた。武明は呼び鈴の紐を引っ張って、鳴らす。ゴーンと鐘の音が空間に響いた。それに応えるように門が鈍い音を立てて開いていく。二人が城門の奥の、城の入り口の扉の前に立つと、それもまた自動的に開いた。
「どういうことかしら」
ラルカは不思議そうに首を捻る。
「奴等は基本的に夜行性だからな。物語みたいに、太陽の光にあたると灰になる訳ではないが、やはり昼間に外に出るのは億劫なんだろう。開けてくれたということは入れ、ということだ」
武明は何の躊躇いもなく、城内に足を踏み入れる。入ってすぐ、ホールの天井には、豪奢なシャンデリアが掛かっていた。そこの右側の扉がまた自動的に開く。次の部屋は通路のように縦に細長い部屋だ。先程と同じようなシャンデリアが天井にいくつも並ぶ。部屋の左右の窓側には、テーブルと椅子が一つずつ並んでいた。その次の扉もまた勝手に開く。次の部屋は、まるで図書館のように天井まで本がぎっしりと詰まっていた。そこを通りすぎて、次の扉をくぐると。そこには灰色の髪の男が立っていた。
その部屋は小さく、家具はソファーと机とベッドしかない。おそらく、この吸血鬼がいつも過ごしている部屋なのだろう。机の上には大量の本が積み上げてあった。
「ようこそ、我が城へ。昨日は馳走になったな」
真紅の瞳を細めて、その男はラルカを見つめた。全く忌々しいほどの美貌だ。吸血鬼というものはどうしてこんなに綺麗なのだろうか。ラルカは心の中でそう思う。
「さて、どういう用件だ。まさか私に血を提供してくれる訳ではないだろう?」
灰色の髪の男が尋ねると、ラルカは勢い良く口を開いた。
「イオン・エリアーデ! 聞きたいことがあるの。あんたはあたしの村の人間の血を吸って殺したの?」
「おやおや。私の名を知っているのか。人に物を尋ねるときは、まず自分の名を先に名乗るのが礼儀だと思うが」
灰色の髪の吸血鬼、イオンは首を傾げてラルカのほうを眺める。それを真っ直ぐに睨み返しながら、ラルカは答えた。
「あたしは、ラルカ・ツァラよ。こっちは……」
ラルカが言い掛けたのを遮って、武明が短く自己紹介をした。
「西武明だ」
イオンはそこで初めて気付いた、というように目を瞬かせると、武明のほうに視線をやる。
「お前は昨日の男か。どうしてその女に付き合っているんだ?」
「成り行きだ」
武明は不機嫌そうな表情で、苦々しげに答えた。
「ラルカとか言ったか。私が村の人間を殺していたら、どうするんだ? 私を殺すのか?」
イオンは唇を歪ませて、ラルカのほうを見る。まるでできるものならやってみろ、と言わんばかりに。
「ええ。悪い? あたしの友達が殺されたのよ。文句は言わせないわ」
ラルカはそう言って、長い金髪をかき上げ、自らの耳に手をやった。そこにあるのは、銀製のイヤリング。
「強がりを言うな。その程度の銀で私を殺せるとでも思っているのか? 貴様等はいつもそうだ。敵いもしないくせに挑んでくる。お蔭でこちらは無駄な殺生をする羽目になる」
イオンは視線を下に落とすと、忌々しげに吐き捨てた。その様子を見てラルカは目を見開く。今こいつは何て言った? 無駄な殺生? きわめて人間的な台詞だ。こいつではないだろう、という予想はついていたが、驚きである。
「あんたがやったんじゃないのね」
確認するようにラルカが問うと、イオンは頷いた。
「ああ。大体私が証拠を残すようなへまをすると思うのか」
血相を変えてラルカはイオンを睨み付ける。
「あんたは死体を埋めたりするの!」
イオンはどこかうんざりしたような顔で、否定の言葉を口にした。
「違う。死人を出したら、記憶操作にも歪みが出て、面倒なことになる」
「記憶操作?」
その単語を訝しく思ったラルカは疑問の声を上げる。
「あのな。自分で言うのもなんだが私は吸血鬼の中でも変わりものだ。人里離れたこの地で、このような目立つ城に住んでいる。この城から一番近くのあの村で、吸血鬼による死人が出てみろ。すぐにヴァチカンで討伐隊が組織されて、狙われることになるだろう。できればそれは避けたい。だから、私は人間の血は吸うが、その後でちゃんと治療して、記憶操作することにしている。貴重な食糧を自ら壊してどうするんだ」
ラルカは呆然とした。食糧扱いにはむっとしたが。吸血鬼ってこんなんだったっけ? 隣を見れば、武明も同じような表情をしている。それから、ふと不思議に思った。
――あれ? あたしのときは何もせず放っておいたような。
「何であたしのときは何もしなかったの?」
「その男が、貴様を引き渡せと言ったからだ。生死を問わない、と言ったから、吸血鬼に血を吸われた人間を何かの人体実験に使うのだと思った。余計なことをしなくても、その男がきちんと始末を付けてくれるだろうと考えたんだが」
――もしかして、あたしが死に掛けたのって。いや、もしかしなくても。
「あんたのせいか!」
ラルカは憤然と叫び、その拳で武明の顔を殴った。思いっきり。衝撃で武明の眼鏡のフレームが歪む。
「いくら魔術師でも、灰髪のイオン・エリアーデがこういう奴だっていうのは分からないだろう」
武明は眼鏡のフレームを弄りながら、涙目になって弁解するが。
「やっぱり、あんたには責任を取ってもらうわ。覚悟なさい」
地の底から響くような低い声で、ラルカは武明を脅迫した。
「イオン。村の人間を殺した吸血鬼に心あたりはない? 漆黒の髪に赤い目の吸血鬼ってことなんだけど」
ラルカの言葉に、イオンは一瞬驚いたような顔をする。そして憎々しげに顔を歪めた。
「それは、おそらくジョシュア・バートリだ。私達の間では、蒐集家の名で知られている。奇妙な物を蒐集するのが趣味の男で、残忍なことで有名だ。まさかこんな僻地にまで現れるとは」
「そいつがどこにいるのか、分からない?」
「さあな。だが、奴が住んでいるのは、ここから、三十キロほど離れたところだ」
「それはどこなのよ、一体」
ラルカが表情を険しくさせて問い詰めると。
「ブラショフだ。あの都市のど真ん中に、奴は居を構えている」
イオンはきっぱりとした口調で言い放った。
*
ブラショフ。トランシルヴァニア地方の南東部に位置する、この地域の主要都市である。かつてドイツ人が入植してできた街であり、そのためか、中世ドイツの街並みが今でも残っているところだ。
「おい。まさか、ブラショフまで吸血鬼を倒しに行くつもりじゃないだろうな」
武明はラルカをうんざりした面持ちで見やる。聞かなくとも返事は分かっていたが。
「もちろんよ。私が死に掛けたのはあんたのせいなんだから、あんたには極悪吸血鬼と戦ってもらうわよ」
強い口調で武明に言うラルカ。武明はどこか疲れたように溜め息を吐く。
そんな二人の様子を傍で見ていたイオンが口を挟んだ。
「貴様等はジョシュア・バートリを倒しにいくつもりか」
「ええ、そうよ」
挑発的な目線で、ラルカがイオンに応える。
「奴は人間の敵う相手ではないぞ。返り討ちに遭うのが落ちだ。それでも行くのか」
「あんたは敵わないからといって戦わなければならない相手から尻尾を巻いて逃げるのかしら」
ラルカは顔を上げると、毅然とした光を目に湛えて、イオンを鋭く睨み付ける。
その様子を、イオンはしばらくの間黙って見ていた。考え込むような表情で腕を組み、狭い部屋の中を歩き回る。それから、おもむろに口を開いた。
「私も付いて行こう」
そう言った灰髪の吸血鬼を、武明とラルカは唖然と見つめ返す。
「どういうつもりだ」
怪訝に思った武明はイオンに聞いた。ラルカはまだ驚愕で固まっている。
「その女が気に入った、ということだ。ジョシュア・バートリみたいな外道に殺されるには勿体無い。だいたい、奴に私の領域を侵されたのに黙っているのは業腹だしな」
その言葉を聞いたラルカは目を瞬かせて、イオンの真紅の瞳を見つめた。
「もし、あんたがジョシュア・バートリを倒せたら、あたしは喜んであんたに献血するわよ」
「そいつはありがたい」
イオンはにやりと口元に笑みを浮かべた。
*
結局、ラルカと武明の二人は夕方までイオンの城に滞在した。転移魔術を使えば、ブラショフまですぐだと、イオンが主張したためだ。彼は吸血鬼なので、日の出ているうちは、あまり活動する気にはなれないのかもしれないが。
イオンは客間の床に血で魔法円を描いている。武明はそれを興味深く眺めていた。吸血鬼の使う魔術は血の魔術と呼ばれていて、普通の人間の扱う魔術とは違う。吸血鬼の血に宿る強大な魔力を用いて、世界の理に直接働きかけるもの、らしい。話には聞いていたが、実際に見るのは初めてだ。
「この魔法円って、ブラショフのどこに転移するんだ?」
「直接、旧市街にあるジョシュア・バートリの屋敷の庭に転移する」
「おい、そんなことが可能なのか?」
武明は思わず驚きの声を上げた。人間の魔術師が扱う転移魔術は、非常に便利な反面、大きな制約がある。転移元と転移先の両方に魔術師がいて、同時に魔術師が魔法円を作動させなければならない、という制約だ。離れた空間を直接繋ぐ、という無茶なことをやる訳だから、空間の安定性のためには必要なことだった。武明が自宅のあるイングランドからルーマニアに転移魔術で来たときには、ブカレストにいる魔術師にわざわざ頼んでこちらに跳んできたのだ。吸血鬼の使う血の魔術にはそういう制約はないのだろうか。
「当然だ。私達不死者の魔術を人間の扱う魔術と一緒にしてもらっては困る」
「滅茶苦茶だな」
武明は小さく呻いた。今から自分はこいつの同類と戦う訳だ。できることなら全力で逃げ出したいが、ラルカがそれを許さないだろう。
「さて、準備完了だ。貴様、ラルカを呼んでこい」
灰髪の吸血鬼が、非常に偉そうに武明に命令する。
――いつの間にか名前で呼んでるし。
イオンは随分とラルカのことを気に入ったようである。眷属にされなければいいが。武明は心の中でそう思いつつ、ラルカを呼びに行った。夕暮れの光の下、彼女は緑の生い茂る城の中庭を散策していた。近付く武明に気が付いて、ラルカが顔を上げる。
「準備できたの?」
「ああ、もう行けるそうだ」
武明がそう答えると、ラルカは鮮やかに笑った。
――今から死地に向かうのに、変な奴だ。
「お前は、怖くないのか? 今から向かうのは、イオンの奴と違って、極悪吸血鬼のところだ。あっさり殺されるかもしれないんだぞ」
武明の質問にラルカは穏やかに微笑んで見せた。
「怖くないと言ったら嘘になる。でもやっと友達の無念が晴らせると思うと嬉しい。それに心強い味方が二人もついてる。この僥倖をあたしは神に感謝したいの。きっと上手くいくわ」
一瞬、武明はその笑みに見惚れた。光輝く太陽のような笑み。ラルカが急に自分とは違う世界の住人に見えた。それから何となく照れ臭くなって、武明はラルカの顔から目を逸らす。
「そうか。では行くぞ」
武明は踵を返し、足早に客間へと戻る。その後を、ゆっくりとラルカが追った。
*
血で描かれた魔法円に光が満ち、転移魔術が発動する。身体が浮き上がるような独特の感覚の後、周囲の風景が一瞬にして移り変わる。豪奢な城の居間から、緑溢れる屋敷の裏庭へ。
――確かに成功したようだ。これが吸血鬼の転移魔術か。
武明は胸中で感嘆する。ラルカは慣れない転移魔術にびっくりしたようで、裏庭の芝生に座り込んで目を白黒させていた。イオンは屋敷の表側へと、慣れた様子で歩いて行く。
「おい、待てよ」
武明は、ラルカの手を取って立ち上がらせ、慌ててイオンの後を追う。
三人を阻んだのは、屋敷の玄関の扉だ。
「さて、どうしようか」
イオンが武明とラルカの二人を振り返って聞いた。
ラルカは不敵に笑って答える。
「当然、ぶち破るのよ!」
「了解」
イオンはそれに笑い返し、早口で呪文を詠唱した。
「我が血に内在する力よ。ここに顕現し、我が望みを叶えよ」
その声に応えて、轟音が夜の闇を引き裂く。巻き起こされた衝撃波で、扉はぼろぼろになり、無残な姿を晒した。
イオンが先頭に立って、屋敷の中に足を踏み入れる。その後を、武明とラルカの二人が続いた。屋敷の中は薄暗く、目が慣れるのに数秒かかる。ぼやけていた視界がはっきりと像を結んでから、何となく辺りを見回すと、驚くべきものが目に入った。屋敷の天井にひしめきあう、蝙蝠の群れ。
「きゃああああ!」
叫び声を上げたのはラルカだ。それを合図にしたように、蝙蝠の大群が三人に襲いかかった。
「炎よ」
イオンが呟くと、燃え盛る大きな火の球が、蝙蝠達に向けて飛んでいく。だが、蝙蝠の数があまりに多く、それだけでは対処しきれない。
武明は懐から短剣を取り出し、庇うようにラルカの前に立ち、飛来する蝙蝠を短剣で追い払う。その様子を見たラルカは、落ち着きを取り戻し、手刀で蝙蝠を叩き落としていく。目を丸くして、武明はラルカのほうを見た。
「おい、お前……」
「蝙蝠ぐらい、どうってことないわ」
にっこりと笑うラルカ。それを横目に見ながらイオンが呪文を詠唱する。
「血の盟約によりて、我に力を。破砕せよ」
辺りに派手な爆裂音が響き、蝙蝠達はばたばたと、三人の足元に落ちた。先程までの喧騒が嘘のようだ。
「随分とべたな歓迎ね」
ラルカが吐き捨てるように口にした。
すると。ぱちぱちぱちとどこからか拍手の音が聞こえた。三人が顔を上げると、屋敷に入ってすぐの、階段の踊り場に黒髪の男が立っていた。顔の造作は、あたかも神の手による彫像のような完璧さだ。血の色を思わせる真紅の目が爛々と輝いて三人のほうを見つめた。
「見事だね。しかし、どういう風の吹き回しかな。あの偏屈者で知られた灰髪のイオン・エリアーデが人間とつるむなんて」
「どうもこうもない。私の領域で好き勝手やったのは貴様だろう、ジョシュア・バートリ」
イオンはものすごい目付きで黒髪の吸血鬼、ジョシュアを睨み付ける。
「誇り高き不死者の風上にも置けないんじゃないか、イオン。君の氏族の長が聞いたら大層嘆くだろうな」
ジョシュアはからかうように笑う。それを聞いたイオンはさらに殺気立った視線を向けた。
「貴様の戯言はどうでもいい。私は貴様を消しにきた」
それを見たジョシュアは、面白そうに口元に笑みを浮べる。
「こっちの金髪の女性は美人だね。僕のコレクションに加えてもいいかもしれない。そっちの人間の魔術師もなかなか興味深いな。ふむ、僕はこの二人の相手をすることにするよ。イオン、君は厄介だから、しばらくあっちで僕の眷属と戦っているといい」
そう言うや否やジョシュアは高らかに唱えた。
「血の盟約によりて、空間を歪曲させ、場を遮断せよ」
それに応えて、イオンの周囲の空間がぐにゃりと歪んだと思うと、次の瞬間、イオンの姿は虚空に消え去っていた。
「なっ……」
ラルカは驚いてジョシュアを見つめる。そして声を荒げて問い詰めた。
「イオンに何をしたの!」
ジョシュアはいたって穏やかな口調で答えた。
「君はこういった魔術を見たことが無いのかな。魔力の感じは、普通の人間みたいだものね」
そう言ってからすっと真紅の目を細める。
「君を殺すのは簡単そうだ」
その瞬間、まるで空気が震動しているのかと錯覚させるような殺気が空間を支配した。あまりの圧迫感に、ラルカの膝ががたがたと震える。
武明はすっとラルカの前に立ち、ジョシュアを剣呑な目付きで睨んだ。
「私の存在を忘れてもらっては困るな」
「君は魔術師みたいだね。どうやって僕を楽しませてくれるのかな」
ジョシュアは自らの殺気にも動じない武明を興味深そうに見た。武明は懐から短剣を取り出して、ゆっくりと一つずつ区切って単語を呟く。
「Alpha、Zeta、Omega、Thav、Azoth。Alpha、Zeta、Aleph、Zeta、El、Azazel」
続けて、彼は叫ぶ。
「全ての始まりにして終わりなるもの。万物の根源にして終焉たるもの。『偉大で素晴らしきエル』の名を冠する強きもの、ここに。来たれ! アザゼル!」
武明の声に応えて、短剣の柄に嵌った赤い石が強く輝いた。光が収まったとき、そこに佇んでいたのは十二枚の羽根を持った墜天使。焔を全身に纏ったその墜天使は、威圧感を持った漆黒の瞳で武明のほうを見つめた。
「久しぶりだな、武明」
「ああ。早速悪いが頼みがある。あの吸血鬼を倒してくれないか」
「承知した」
墜天使は右腕を上げて掌をジョシュアに向け、叫んだ。
「NIISA! PRGEL TELOCH!」
その声に応えて、巨大な火の玉が、ジョシュアのほうにものすごい速度で飛んでいくが、それはジョシュアの眼前で、見えない壁に阻まれたかのようにかき消えた。
「ははっ! その階級の悪魔を喚起するなんて大した召喚術師じゃないか。でもね、この程度で調子に乗ってもらっては困るよ」
そう言うと、ジョシュアは雰囲気を一変させた。鋭利な刃物のような殺気が空間を支配する。
「人間如きが」
呪文さえ無く、手を動かしただけで、虚空から黒い球形の闇が現れる。それは霧状に広がり、焔の堕天使アザゼルに向かっていく。アザゼルは呪文を唱えて、それを防ごうとする。
「BRANSG」
光の盾が、ラルカと武明、アザゼルを包む。光が消えると同時に闇の霧も消えたが、次の瞬間三人の後ろから、風の刃が襲った。
「イージスの盾よ!」
武明は慌てて叫び、間一髪でその刃を無効化する。ラルカが、はっとして振り向くと。そこには、全く生気の感じられない男が立っていた。ちぢれた黒髪は重病の末期患者のような蒼白な顔に貼りつき、くぼんだ眼窩の奥に嵌った目は、鉛を思わせる鈍い輝きを放っている。
「ゾンビ……」
ラルカが掠れた声で呻く。それはどう見ても物語に出てくる有名なアンデッドに酷似していた。
その声を聞いたジョシュアは機嫌を損ねたようだった。
「僕の作品をそんな下等なものと一緒にしないでもらえるかな。彼はまぎれもない僕等不死者の眷属だよ。転化する際に思考を奪った吸血鬼さ。戦闘能力は僕等にひけをとらないよ。三対一なんてだいたい卑怯じゃないか」
それから彼は小さな声で囁く。
「血の盟約によりて、我が元に来たれ」
それに応えて、ジョシュアの前の空間の裂け目から、先程と同じようなもの達が、次から次へと沸いてくる。それが三人の周りを囲み、じりじりと距離を詰める。
「さあ、どうする? 彼等の相手をするのは、僕等の相手をするのとほとんど変わらないよ。人間如きにどうこうできるとは思えないけど」
ジョシュアは勝ち誇ったように言い放つ。
「ど、どうするのよ」
ラルカは冷や汗をかきながら、前に立つ武明のほうを見る。ラルカの位置からは、彼の表情は見えない。だが、肩を震わせている様子からすると、彼も動揺しているのだろうか。
「くくくっ」
初めは小さな声だった。だが、それは次第に大きくなっていく。
「くくくっ、ふふふふ、ふはははははははっ!」
武明は哂っていた。その様子をラルカは呆然とつっ立ったまま眺めている。彼は頭がおかしくなったのではないか? ラルカを不安が襲った。
「何だ。恐怖のあまり、発狂したのか。つまらないな」
ジョシュアはそう言って自らの眷属に命令を下す。
「やれ」
ゾンビにも似た吸血鬼の集団が、三人のほうへと近付いてくる。
「BRAN――」
アザゼルの呪文を遮るように、武明は有無を言わせぬ口調でこう言った。
「アザゼル。ラルカ。お前達は下がれ」
そこに込められた鬼気に、ラルカはぞっとする。気付けば身体は素早く武明の言葉に従っていた。
「闇夜を支配する王よ。彼の者達に祝福を。其の代価は未来永劫続く苦痛」
その途端、三人を襲おうとしたモノ達は動きを止める。そして突如人形のようにぎくしゃくとした動きで踵を返し、主に牙を剥いた。
「なっ? 死霊術?」
ここに至って、これまで余裕を見せていたジョシュアが初めて顔色を変える。自らの忠実な下僕が突然裏切ったのだから、当然か。吸血鬼の集団が次々と彼を襲う。その攻撃をことごとくジョシュアは素早い動きで躱す。そうして呟いた。
「土は土に、灰は灰に、塵は塵に。消えろ」
それだけで、吸血鬼の集団は、砂の塊へと姿を変えた。さらさらと、その砂はジョシュアの足元に零れ落ちる。ジョシュアはそれを踵で踏み付けた後、射殺しそうな視線で、武明を見た。
「僕の作品を、よくも壊してくれたな」
「壊したのはお前だろう。あれを作品などとよくも言えたものだ。私の美学に反する。エレガントじゃない。第一、新鮮さが足りない。死霊術師相手に、あんなものを出すなんて、阿呆じゃないのか。血の魔力があの程度しかなければ、あれは私にとってはただの死体だ」
そのやり取りをラルカはどことなく変だと思いつつ眺めている。あれでは、まるで武明のほうが悪役ではないか。そう考えてから、自らが武明のことを悪役っぽい魔術師と言ったことを思い出して、少し可笑しくなった。
「君は殺す!」
凄まじい形相でジョシュアは武明を睨み付けた。空間全体に凶悪な殺気が満ちる。そして、短く言った。
「動くな」
ラルカは驚愕する。身体を動かそうとしても、動かないのだ。隣のアザゼルも、また武明も同様のようだった。
ジョシュアが一歩、また一歩、三人のほうに近付いてくる。彼だけがその空間内で自由に動けるのだった。そのとき、ジョシュアの後ろから声が響いた。
「随分と舐めた真似をしてくれたじゃないか、ジョシュア」
立っていたのは灰髪の吸血鬼、イオン・エリアーデだ。彼は、一気に距離を詰め、ジョシュアに肉薄した。
「弾けろ」
爆発音が響く。イオンの魔術が背後からジョシュアの身体を穿った。ジョシュアは胸を押さえて蹲る。吸血鬼の力の源、血が彼の手を染めていた。
「く、そ……」
呪縛が解けた武明とアザゼルは、相次いで呪文を詠唱し、ジョシュアに追い討ちをかける。
「煉獄の炎よ。盟約に従いて彼の者を滅却せよ!」
「NIISA! AVAVAGO PERIPSOL!」
炎と雷撃が、次々とジョシュアを襲う。彼は苦悶の表情で、床に手を付いた。
「どうせ、死ぬのなら、君達も道連れだ。忌まわしき、古に刻まれし、呪いよ。我が、血液と身体と魂魄を捧げん。変質せよ」
黒髪の吸血鬼はその姿を変える。どろり、と人型であったものは溶けていく。そして球状になった。暗い闇の塊に。
そうしてそれはまず一番近くにいたイオンを襲った。
「……っ!」
イオンはバックステップを踏み、辛うじてそれを躱す。
それはイオンのすぐ横を掠った。それから地面に落ちる。するとそこにあった蝙蝠達の死体は、瞬く間に消え去った。跳ねるようにして次に触れたのは天井のシャンデリアだ。それも、黒い塊に呑まれて消えた。
「喰っているのか……?」
武明は喘ぐような声を漏らした。それは、触れたものを全て飲み込んでだんだん大きくなっている。
「貴様等は、逃げろ」
イオンはその黒い塊から視線を外さずに、後ろの三人に向かって忠告した。
「何か手はあるの、イオン」
ラルカは強い視線でイオンを見つめ返す。
「まさかあれを一人で何とかする気じゃないでしょうね」
「あれを空間牢に閉じ込めて、空間ごと破砕する。血の盟約によりて、空間を檻として彼の者を閉じ込めよ」
イオンの呪文に応え、黒い塊の周囲の空間が歪む。黒い塊が空間の狭間に消えたのを見てから、彼は力ある言葉を唱えた。
「破砕せよ!」
それで、全ては済むはずだった。だが、しばらくすると、いたる所の空間に裂け目が出来て、黒い霧が漏れ出ている。それは瞬く間に凝集していき、元の形状を取り戻した。
「……なっ」
顔を驚愕の色に染めて、イオンが呻く。
「そんな、どうすればいいの……?」
ラルカは呆然としてその様を見つめていた。それは周りのものを巻き込んで、ゆっくりとこちらに近付いて来る。
「イオン!」
じりじりと後退りつつ、武明はイオンに向かって懇願する。
「私とあいつを一緒に空間隔離してくれ!」
アザゼルは、武明を苦虫を噛み潰したような顔で眺めた。
「まさか、あれをやるつもりか? いつまでも正気でいられると思うのか」
「ここで何もしなければ、どちらにせよ、死ぬ」
武明は真剣な表情をして、アザゼルに頼み込んだ。
「もしものときは、お前が私を止めてくれ」
二人の会話を聞いたイオンが、怪訝そうに武明に問う。
「あいつをどうにかできるのか?」
「ああ。おそらくは」
武明はイオンの言を肯定するように大きく頷く。
「頼む、やってくれ」
それに応えて、イオンは呪文を唱えた。
「血の盟約によりて、空間を歪曲させ、場を遮断せよ」
そうして、武明と黒い塊は、その場から消えた。
*
閉ざされた空間で、武明は眼前に迫る黒い塊を見つめていた。
――これに呑みこまれれば、確実に死ぬだろうな。
冷静にそんなことを考える。けれども、何故か自分の目の前にいる存在には恐怖を感じなかった。本当に怖いのは、あんなものじゃない。本当に怖いのは――
武明は、アザゼルを呼び出したときのように、懐から短剣を取り出し、単語を一つずつ区切って発音していく。
「Alpha、Zeta、Omega、Thav、Azoth。Alpha、Zeta、Aleph、Thav、Omega、Thav――」
黒い塊が武明に触れる。それに自分が侵されていくのを感じながら、武明は静かに呟く。
「全ての始まりにして終わりなるもの。万物の根源にして終焉たるもの。形無く、知られざるもの。其は果てしなき魔王」
ずぶずぶと、武明の身体を黒い塊が覆い尽くす。それをまるで他人事のように醒めた視線で武明は見ていた。
どくん。心臓の音がやけに近くに聞こえる。
自分という存在が侵食され、不確かになっていく。外側からではなく、内側から。意識が闇に沈んでいく。深い闇の奥底へと。そこは一切光の射さぬ、無明の空間。もはや彼は自分がどうなっているのか分からなかった。自分と世界との境界が曖昧になる。心の内側から、圧迫感を持ってそれはやって来て、自分と溶け合おうとする。
どくん。自分と世界が入れ替わるような感覚。どこからか、か細い音色が、耳元で幻聴のように鳴りはじめた。混沌の波が何がしかのメロディーを奏でるように、規則正しく意識に語りかける。
――ああ、そうか。
唐突に武明は理解した。これこそが世界の根源。これこそが世界の理。これこそが深淵の向こう側。自分の周りを包む黒い塊が妙に愛しく、懐かしいものだと感じる。その不可思議な愛着心は、彼の心の奥深くの、決して普段は暴かれることのない感情を呼び起こした。
――世界とはこんなにも美しく、素晴らしく、愛しい。
我知らず武明の口から声が漏れ出でる。
「ああ、そうだな。だから、完膚なきまでに捻じ曲げよう。叩き潰そう。ぶち壊そう。――そして滅びよう、共に」
どくん。今度こそ、彼の意識は完璧に闇と同化した。
*
武明は自分の周りの黒い塊にゆっくりと手をかざす。それにはもはや感情などないはずであったが、慌てて逃げ出すように、武明から距離を取った。黒い塊の周囲の空間が波打つように揺らめく。
「逃げるのか」
武明は言った。それがどこの時空間まで逃げようが、今の彼には関係ない。今や世界は彼の手の内にある。消えた黒い塊を追って、武明は空間を跳んだ。
一気に黒い塊のすぐ側まで転移し、その内部に躊躇うことなく手を伸ばす。
――これがあの吸血鬼の変質したものなら、呪いの核があるはずだ。
武明は黒い塊の内にひときわ黒く輝く物体を見た。ところどころ赤い線が入っている、偏方二十四面の結晶体。
彼はそれを無造作に掴み、引きずり出そうとする。黒い塊は彼の腕に押し寄せ、それを止めようとするが。
――そんなもので。
武明は結晶体を掴んだまま、勢い良く腕を引き抜いた。そしてそれを手に持ち、黒い塊の上へと飛ぶ。
黒い塊は、それを取り返そうと、その形を変えて、うねうねとした触手を何本も武明のほうへと伸ばした。それを見ながら武明は唄うように呟く。
「止まれ。汝はいかにも美しい」
その声に応えて、触手は動きを止める。武明はそれにそっと近付き、指先で触れる。すると、触手は武明の触れたところから、さらさらと、砂のように崩れていった。まるで、長い間風雨に晒された岩石が風化するかのように。それはゆっくりと全体へと広がり、黒い塊だったものははらはらと武明の周りを舞い散る。武明はその様をうっとりしたようにしばらく見つめていた。それから手に持っていた結晶体を懐に収め、空間を跳躍した。
*
武明が黒い塊と異空間に消えてから、半刻ほど経つ。すでに日は西の空に落ちて、辺りは夜の闇に包まれている。ぽつぽつと白い灯りが街を仄かに照らし出していく時間帯であった。そんな中、三人はジョシュア・バートリの屋敷の裏庭で武明を待っている。
ラルカが不安げな面持ちで、夜空を見上げながら呟いた。
「彼、本当に大丈夫かしら」
裏庭の芝生に腰を下ろしていたイオンが、その問いにそっけなく答える。
「どうにかできるって言ったのはあいつだ。そんなこと知るか」
アザゼルは苛立たしげに眉間に皺を寄せながら、辺りを歩きまわっている。その様子を眺めて、ラルカがアザゼルに尋ねようと口を開きかけたちょうどそのとき。
空気が震動した。上空に異変が起こりつつあった。頭上からのしかかってくるのは、息苦しいほどの圧迫感だった。薄暗い闇の中にもかかわらず、空間がひび割れ、その隙間から黒いものが渦巻いて、だんだんと広がっていくのが見える。
「な、何よ」
ラルカが動揺して、思わずうわずった声を上げた。
「失敗したのか」
イオンが顔を顰めて立ち上がり、アザゼルに問うような視線を向ける。
「違う。暴走してるんだ、あいつが。お前達は下がれ」
焔の堕天使は虚空を深刻な表情で見つめながら、鋭い声を発した。
空間の裂け目から、武明が現れる。彼は翼がないのにもかかわらず、体重を全く感じさせない動作で、ふわりと地上に降り立った。それを剣呑に睨み付けるアザゼル。
「アザゼル。まだ、足りないんだ」
武明は穏やかに笑った。ラルカはそれに猛烈な違和感を感じる。会ってわずか一日しか経ってないが、彼はあのような笑みを浮かべるタイプの人間ではない、と思った。苦笑や冷笑や嘲笑ならともかく。何の邪気もない、笑み。
「NIISA! NAPEA!」
アザゼルの声に応えて、虚空から細い刀身をした、一振りの剣が現れる。そして、一気に距離を詰め、武明の首筋に剣を突き付けた。武明はその剣にそっと触れる。それだけで、剣は粘土細工のようにぐにゃりと曲がった。
それを傍目で見ていたイオンの背に、ぞくりと戦慄が走った。彼が一体何をしたのかは分からないが、あれはもう人間の範疇を超えている。
アザゼルは剣を捨て、一旦後ろに飛び退り、距離を取る。そして大きな声で叫んだ。
「自由なる意思! 思い出せ。お前がどんな思いで自らにその魔法名を付けたのか!」
続けて、手を天高く掲げると、呪文を詠唱する。
「NIISA! NAPEAI ZONG!」
無数の風の刃が武明を襲う。それは武明の前で全て軌道を変えたが、一瞬だけ彼に隙ができる。アザゼルはわずかなその隙を逃さずに、地を蹴って武明に近付くと、その顔面を思いっきり殴った。
「いい加減、正気に戻れ! この阿呆が!」
武明の眼鏡が勢いよく割れる。彼は顔を押さえて呻いた。
「うっ……」
それから武明はゆっくりと顔をあげてアザゼルのほうを見る。焦点の定まっていなかった黒瞳に、理性の色が戻ったのを確認すると、アザゼルは深く溜め息を吐いた。
「やっと戻ったか」
「すまない、悪かった」
壊れた眼鏡を外しながら、武明は謝罪する。
「全く手間のかかる」
アザゼルは武明に向かって、不機嫌そうな表情で文句を言った。
「何だかよく分からないが、無事に終わったようだな」
イオンはその二人の様子を見て嘆息する。軽く頭を振ると、すたすたとジョシュア・バートリの屋敷の入口へと向かった。
「イオン! どこ行くのよ」
ラルカがその後ろ姿へと、訝しげに声を掛ける。イオンは振り向かずに返事をして、扉に手を掛けた。
「調べ物だ。ジョシュアにはいろいろ私達氏族のものを盗られたからな。出来れば取り返しておきたい」
「待ってよ! 転移魔術で送ってもらわないと困るんだから、あたしはあんたについていくわよ」
急いでラルカはイオンの後を追う。武明とアザゼルもその後に続いた。
*
イオンが向かったのは屋敷の二階にある一室だった。落ち着いた薄茶系統で纏められた内装は、おそらく屋敷の主であった者の趣味であろう。部屋にある調度品は、ちょっと見ただけでも、高級なものと知れた。そんな部屋の中央を占めているのは、大きなガラス張りのショーケースだ。その中には様々なものが陳列されている。一番多いのは銃器や剣などの武器だった。その次に多いのはアクセサリーだ。
それを物珍しそうにラルカはきょろきょろと眺めていた。慣れた手付きで、イオンは器用に魔術で鍵を外していく。ラルカはショーケースの中のものを手に取ろうとするが、武明が鋭い声でそれを制止した。
「むやみに触るな。あの吸血鬼の集めていたアイテムだ。どんな魔術が掛けられているか分かったものじゃない」
「分かったわよ」
ラルカは唇を尖らせて、不服げに壁へと寄りかかる。するとどこかで、かちり、と音がした。
「えっ?」
ラルカの凭れていた壁が、くるりと回る。その後ろには、どうやらもう一つ部屋があるようだった。
「隠し部屋か」
イオンが作業の手を止めて呟いた。それから躊躇うことなく隠し部屋へと入って行く。その部屋の中は真っ暗で、目を凝らしても、全く何も見えない。
「静かなる炎よ。道標となって我が行く手を照らせ」
武明が魔術で指の先に明かりを灯す。橙色の光に照らし出されたのは鉄で出来た大小様々の檻だった。檻の中には、鼠や猫といった小動物から豹や虎といった大型動物までいる。
「ねえ、早くこっちに来て!」
ラルカが奥のほうで大きな声を上げた。
「どうした?」
訝しんだイオンがラルカへと近付いていく。そして、ラルカの眼前にあるものを見た彼は、いかにも不愉快そうに眉間に皺を寄せた。その檻の中にいたのは、ぼろきれを身に纏った八歳くらいのやせ細った少年だ。夜闇を思わせる鮮やかな黒髪に黒瞳をしている。彼はどことなく東洋風の顔立ちをしていた。
「彼は、人間なの?」
ラルカは、顔を顰めてイオンに尋ねた。
「私達の眷属でないことは確かだ。血にそれほどの魔力を感じない」
武明は視線だけで、彼の横で腕を組んで静かに佇んでいるアザゼルに問う。彼はしげしげとその少年を観察して言った。
「精霊でも悪魔でも天使でもないな。おそらく、普通の人間だ」
武明は首を傾げる。
「何故こんな所に」
「ねえ、名前はなんていうの?」
ラルカは少年に問うが、彼は何も答えようとはせず、ただただ首を振るばかりだ。
そのとき、階下で音がした。
「何かしら」
不審に思ったラルカが疑問の声を上げる。
「随分と派手にやったからな。貴様が」
そこで一旦言葉を切ると、イオンは武明を一瞥して、皮肉っぽく口元を歪ませた。
「魔術関係者が嗅ぎ付けてもおかしくはない。とにかく私が様子を見てこよう」
そう言い残すと、彼は隣の部屋に戻り、足早に階段を下りる。他の三人も隣の部屋の出窓からそっと外の様子を窺った。
壊された玄関の扉の前に立っていたのは二人組である。
黒い法衣を身に纏い、首からロザリオを提げるのは茶色の髪と眼をした青年だ。もう一人は灰色の髪に青い眼をした、幼い少年だった。
イオンはその二人を威圧するように睨み付ける。
「貴様等は魔術師だな。ヴァチカンの祓魔師か」
茶色の髪の青年は向けられた殺気を全く意に介さずに、飄々とした様子で頷いた。そして、笑みを浮かべながら、聞く。
「あなたはジョシュア・バートリですか」
イオンはせせら笑って答えた。
「莫迦め、ジョシュア・バートリは死んだわ」
「じゃあ、あなたは何者ですか? ここは彼の家のはずですが」
更に問いを重ねた青年に、イオンは唾棄するように言葉を発する。
「ジョシュアを殺しにきたのなら、もう用はないはずだろう、祓魔師」
「そうですが、もしあなたが凶悪な吸血鬼ならば、殺さなければなりませんので」
茶色の髪の青年は丁寧な物腰で、あくまでも穏やかに物騒な台詞を吐いた。
「私の名はイオン・エリアーデだ。貴様等の記憶に残るような悪事は今までやったことはないと思うがな」
「ああ。あの有名な灰髪の吸血鬼ですか。ではあなたに免じて一度ここは退きましょう。私の名はルカ・ゼッレフェッリ。以後お見知りおきを」
胸に手を当てて、慇懃に一礼すると、ルカと名乗った青年は少年を連れて退き下がった。
*
「殺さなくていいのか、ルカ。あいつは吸血鬼だろ」
屋敷の門の前で、灰色の髪の少年はルカに尋ねた。
「構いませんよ、ナイジェル。彼はあまり吸血鬼の中では危険ではないほうです。それにここは東方正教の信仰篤い地域。無用な諍いは起こしたくありません」
ナイジェルと呼ばれた少年はつまらなさそうな表情で、足元へと視線を落とす。
「悪魔の気配がしたから、楽しめると思ったのに」
ルカは噛んで含めるようにして、ナイジェルへと言い聞かせる。
「吸血鬼と悪魔を同時に相手をするなんて、無茶もいいところですよ。それに向こうはこちらが手を出さなければ何もするつもりはないようですね」
「ちぇっ」
窘められたナイジェルは、口を尖らせて、そっぽを向く。
そうして、二人の祓魔師はその場から去って行った。
*
武明は祓魔師の存在に気付いた時点で、アザゼルへ帰るようにと促した。彼等が悪魔の気配に敏感なのは良く知られていることだ。痛くもない腹を探られては敵わない。祓魔師達が存外あっさり退いたのを見て、武明は拍子抜けする。
「祓魔師達は帰ったぞ」
イオンがゆっくりと階段を上り、部屋の中へと戻って来た。
「貴様、あの悪魔を返したのか」
武明はイオンに向かって軽く頷いて見せる。
「ああ。他の魔術師がまた何か嗅ぎ付けてやってくるかもしれない。用を済ませて早く帰ろう」
「ねえ、あの子どうするの? このままにしておく訳にはいかないでしょう」
「そうだな。どうしようか」
ラルカに問われた武明は、顎に手を当てて思案するように首を捻った。
「空間ごとこの二つの部屋を私の城に転移させることにしよう。動物達を見殺しにするのも忍びないしな」
イオンが、至極当たり前のように言い放つのを聞いて、武明は嘆息する。
「それも不死者とやらの転移魔術か」
「そうだ。ここにちょうど使える魔法具があるから、行きよりも早いぞ」
イオンはショーケースから、水晶の首飾りと、金色のナイフを取り出した。彼はナイフで自分の指先に傷を付け、傷口から染み出た血を首飾りの水晶に垂らす。
「我が血に内在する力よ。空間の理を破り千里の道を繋げ」
力ある言葉に応えて、立っていられないほどの揺れがその空間を襲った。ラルカはショーケースの縁を掴んで、体重を支えている。数秒間続いた震動が収まってから、ラルカが部屋の扉を開けると、そこはイオンの城の書斎だった。
「どうなってるのよ、これ! 何かに化かされたような気分だわ」
「中庭のところに転移させた。少し庭が狭くなったが、まあどうせ使っていないから、構わないだろう」
「そうだ! さっきの子」
突然思い出したように、ラルカは隠し部屋のほうへ走っていく。武明とイオンは彼女の後に続いて、隠し部屋に踏み入れた。イオンが魔術を用いて、黒髪の少年の入っている檻を開ける。黒髪の少年はおずおずと檻の中から外に出てきた。
「安心して。怖くないわ」
そう言ってラルカが手を差し伸べるが、黒髪の少年は、その瞳に怯えた色を湛えると、体を震わせて、ゆっくりと後退さる。そして、少年は武明のほうへと駆け寄り、腕を掴んだ。
「なっ……」
少年の思っても見なかった行動に武明は面食らい、慌てて引き剥がそうとするが、何故か少年は離れようとしない。意外に強い少年の指の力で、外套を掴まれた形になった彼は、文句を言おうと口を開きかけたが、潤むような黒瞳を向けられて、思わず口を噤んでしまう。
「どうやら随分と懐かれたようだな」
その様子を見たイオンはしみじみと呟いた。
「その少年、貴様が引き取ったらどうだ」
「そうね。こうして見るとまるで親子みたい。そうしなさいよ」
ラルカはうんうんと頷きながらイオンに同意する。
「何で、私がそんなことしなければならないんだ」
武明は呻きながら反論する。真剣な表情をして、ラルカはイオンのほうを指差した。
「吸血鬼に子育てさせるなんて、情操教育に悪いわ。大体年を取らないでしょう、イオンは」
「お前がやればいいだろう、ラルカ」
武明はうんざりしたような声色で、ラルカに言い返す。
「もし何かあったら、あたしには対処できない。この子はあの極悪吸血鬼のコレクションだった子よ。普通の子供とは思えないわ」
「アザゼルは普通の人間だと言ったぞ」
「彼は精霊でも悪魔でも天使でもないって言っただけじゃない。他の何かである可能性は否定できないわ。あなたが引き取りなさい」
ラルカは有無を言わさぬ口調で言い放つと、目尻を吊り上げて、武明を睨み付ける。武明はどこか疲れたように、わずかに肩を竦めた。
*
結局、ラルカの再三の説得(というかむしろ脅迫)により、黒髪の少年は武明が引き取ることになった。その後武明はイオンの城に数日滞在する羽目になった。彼はジョシュア・バートリが飼っていた動物達を逃がすのを無理矢理二人に手伝わされたのだ。それからやっと転移魔術でロンドンに戻ることができた彼は、自宅で久方ぶりの自由を謳歌していた。
「おい、お前。いい加減喋らないのか」
武明は目の前の黒髪の少年に辛抱強く話し掛ける。彼はこの数日間一言も喋らなかった。武明はジョシュア・バートリの屋敷で何かショックなことでもあったのだろうと想像する。こういう場合は、気長に接しなければならないのだ、おそらく。
武明がそんなことを考えていると、がちゃりと玄関のドアが開いた。
そこに立っていたのは、真紅のワンピースが印象深い、赤銅色の髪をした女だ。
「やあ、異常愛博士。久しいな」
「人を変な名前で呼ぶな、メリル・シェーラザード。だいたい、人の家に入るときは呼び鈴くらい鳴らせ」
不機嫌さを隠そうともせずに、武明は不満を漏らした。
メリルと呼ばれた女は苦笑して答える。
「君がドアに鍵を掛けていないのが悪い。ルーマニアで死体の代わりに子供を拾ってきたんだって? 魔術組合中が噂してるぞ。死者の恋人がおかしくなった、天変地異の前触れだって」
死者の恋人とは魔術師仲間の間での武明の通り名である。武明はこの名をあまり気に入ってはいなかった。これではまるで死体愛好家みたいではないか。いかにも嫌そうな顔をして武明はぼやく。
「メリル。お前は私をからかいにわざわざここまで来たのか」
「いや。先程魔術組合本部で君を探していた二人組を見かけてな。魔術師ではないみたいなので入り口で止められていたが。私が住所を教えたからもうすぐここに来るはずだ」
何となく猛烈に不吉な予感がする。
「おい、まさか――」
玄関のドアが再び開く。そこにいたのは彼の予想通りの人物だ。ここ数日ですっかり馴染み深くなった金髪の女と、灰髪の吸血鬼だった。
「やっほー、遊びに来たわよ」
ラルカ・ツァラはきわめて能天気な口調で言った。
「何しに来たんだ、お前等は。それにどうしてイオンまでここにいる」
「ラルカがその少年を心配してな。私に転移魔術を頼んだという訳だ。私も前々からロンドンに来てみたいと思っていたんだ。チャリング・クロスの古書街に興味があったしな」
いけしゃあしゃあと言い放つイオン・エリアーデ。
――吸血鬼の分際で、真っ昼間から出歩くな。
武明は眉間を押さえると、声を限りに怒鳴り声を上げる。
「ツァリーナ・キャサリン号に乗ってトランシルヴァニアに今すぐ帰れ! ここは十九世紀末のロンドンじゃないんだぞ」
「何冷たいこと言ってるのよ。友達がせっかく遊びに来たのに」
ラルカは武明を呆れた顔で眺めると、彼の肩に手を乗せた。
「今日はロンドンの観光地を色々案内してもらうからね」
武明はうんざりとして二人を見る。心休まるときは当分来ないらしい。あの黒髪の少年だけでも手一杯だというのに。武明は盛大に溜め息を吐いた。
注:この物語はフィクションです。作中に登場する吸血鬼ハンター(?)N氏は作者のキャラクターとは一切関係ありません(汗)。