花嫁を置いて逃げた殿下はもう知りません。私は自分で幸せを選びますので。
2026/09/25、私まえばるが原作を務めました『最強魔術師の溺愛才女』の②巻が発売になります!やまくだり。先生の美麗漫画をご堪能ください。というわけで魔術師×弟子バディものの短編です。お楽しみいただけましたら幸いです。
婚約破棄すらうやむやにして、殿下が逃げた。
私リジェリア・ラドリア24歳は花嫁衣装のまま、控え室で呆然と夕日を眺めていた。
――五年前、式をのらりくらりと『遊学の事情』と称してすっぽかした婚約者、ギルバート・ナイジェル・ノーング第二王子殿下との、二度目こその挙式の日だった。
王家内務局長官が、私に申し訳なさそうに頭を下げる。
「申し訳ございません。リジェリア侯爵令嬢。また改めて婚礼の場を設けます」
「あと何年、待てばいいのですか」
彼に言っても仕方がないのに、私は思わずぽつりと呟いた。
彼は私に謝っているのではない。王家ひいては国家の体面として、侯爵家に長官が謝罪に来ているという「形」のためにやってきているのだ。
彼を罵れば私の品位が落ちるし、泣けば私が可哀想な存在になる。
私が泣こうがわめこうが、状況は何も覆らない。こちらは立場の弱い侯爵家の娘。私は王子と婚約解消する権利もなければ、訴える権利すらない。
「失礼いたしました。……仕方ないことは存じております。帰り支度をしましょう」
そう言うしかない立場に、私は置かれているのだった。
◇◇◇
ギルバートカスクソ王子はカスのクソだ。
ご令嬢だからそういう言い方は慎みください? 心の中だけだから許して欲しい。
ギルバートカスクソ王子と私の婚約は成り行きで決まった。私は所詮、たまたま当時王子と釣り合う貴族女性で健康な人がいなかったので、都合がよかっただけの令嬢だ。魔力量も膨大だったので、王族に囲いたい優良な母体候補でもあった。
ちょうど私と同じ世代は『国を乱す悪女が生まれる星の巡り』と言われた時期で、格式ある貴族家ほど産み控えがされていた。私は父が高齢であることが影響し、少しでも多く子どもを残したいと願った結果身ごもられた娘だった。
15歳で貴族学園卒業した後は、ずっと王宮のなかでひたすら妃教育の日々。
とはいえ5歳年上のギルバートカスクソ王子は美貌の末っ子ということもあってか幼い頃から甘やかされまくって育てられ、虚言癖に放浪癖、女遊びは激しいわ思いつきで行動しては飽きっぽいわ、悪乗りの度が越えてもヘラヘラとしているわで、王子という身の上にいなければ許されないような最悪の王子だった。
しかしいわゆる「身内」には無駄に優しく大きな顔をしたり、民衆の前でいい顔をするのは非常に得意だったので、美貌も相まってそれなりの人気を博していた。
そんな民衆からの熱心な手紙を「俺よめねーよ」と鼻紙にしていた姿をみていて、私は自分の人生の『終わり』を感じたものだった。
ともあれ私の婚約者は彼で、彼が遊学から帰ってきたら結婚することが決まっていた。
あれこれと準備を進め、内心少女らしい淡い夢も抱きながら19歳になり。
ついに式当日。
ギルバートカスクソ王子は――式場に訪れなかった。
「は?」
「申し訳ございません! 申し訳ございません! 王子殿下からの連絡が突然途絶えまして……!」
式は結局延期になり、その後数ヶ月後に「色々と事情があって」とギルバートカスクソ王子からの手紙を携え、その事情を伝える侍従が遊学先から戻ってきた。
両家一同と私の前に立ち、侍従は憂鬱そうだった。
「……内容は殿下のお言葉をそのままお伝えしますね」
そう念を押して、侍従は続けた。
「殿下は遊学先で落馬から人々を救い、その救援活動の疲労骨折で全身が骨折し、その間も大学での研究を進めていたものの新種のスライムに美女が襲われているのを身を挺して庇い、彼女が無傷であることを彼女の実家に送り届けて訴え証明し、彼女が無事に結婚できることを見届け、自分の研究に戻ろうとした矢先、橋が次々と崩落し、道が裂け、海が割れ、困難に見舞われていたためリジェリア嬢との挙式に間に合わなかったとのことです」
その話を聞いて呆然とするラドリア侯爵家。しかし王族は溜息をつく。
父が訊ねた。
「では忙しいということだが、今回の婚約はどうなるのでしょうか」
父はおそらく、婚約解消の旨を促したのだろう。彼のほうがそこまでして結婚式に来なかったというならば、もう婚約解消をされるものだと思うのが普通だ。
しかし侍従は汗をながら頭を下げた。
「……いえ、殿下は『絶対帰ってくるから、婚約破棄はしない』とのことで……」
王族がそう言うのなら、それを拒絶はできない。
王子と私の婚約はそのまま継続となり、半年後、また結婚式をするということで話がまとまった。
そこからまた半年。王子は『婚約破棄はしない、待っていて欲しい』と手紙をだした。
そこからまた半年。カス王子は連絡すらよこさなくなった。
そこからまた、半年。ボケナス王子はついに王家の手紙さえ受け取らなくなった。
手詰まりである。
半年、半年、半年、そして一年、一年、また一年。
王子が生きているという報告は入るもののそれだけで、私はずっと放置された。
そしてわたしは24歳。ついに最後のチャンスとしての結婚式が、昨日行われたものだった。
◇◇◇
「連絡くらいよこせよ、あのクソ馬鹿王子ーーーーーーっ!!!!」
私は魔術訓練場で魔術を爆発させ、叫んだ。
私はすっかり行き遅れになった。どこかにおつとめも無理だ。貴婦人の社交サロンにだって入れない。王子をすてて新しい男、なんてもってのほかだ。
だって「第二王子の婚約者」という肩書きがなまじ剥がれないものだから。
全てから浮いたままなにもできない、宙ぶらりんの行き遅れができあがった。
「ほんっと! 人の人生をっ! なんだと思ってんの! あのカス王子! クソ! 手紙で鼻水ぶーっとかんでるときにっ! あの顔が一生見られないくらいぶん殴ってりゃよかったわっ! ほんと、ほんとっ!ひとをっ! 人生をっ! 責任を! な・め・ん・なーーーーーーーーーーっ!!!!!」
どがががががががががあぁぁぁぁぁぁっぁぁん……
ぜえぜえ。
息をついていると、土煙の向こうから拍手が聞こえた。
「魔術の腕は完璧だな。その辺の魔術師よりよほど強いぞ」
「どうも……」
そこにいるのは黒髪に赤い目をした、何を考えているか分からない朗らかな笑みを浮かべた宮廷魔術師、アルガード師匠。手足の長い長身に漆黒のローブを纏い、偏光で様々に色を変えるベルベットのマントをすっぽり被った、この国で最も強い魔術師。
妃教育も手習いもやり尽くした私だが、あるときからストレス解消に魔術の手習いを受けている。以前ストレスがたまりまくった結果、武術を習いたいと訴えたとき「さすがに王子の妃が武術は」「あの王子を殺しかねません」と言われてしかたなくの魔術を習うことになったのだ。
そこで指導にあたってくださったのが、この変わり者の宮廷魔術師アルガード師匠で。
「いいか。転んでもただで起きるな。人生は長い、逆境は自分だけの好機だ」
彼の口癖。それは『逆境は好機』。
「そうは言っても先生、もう私は人生詰んでいますよ。逆境どころか崖下です」
「崖か、いいな。崖の下に防御魔法と治癒屋と占い屋を置くと、結構儲かるぞ」
「先生やってたんですかそんなこと」
「はは、宮廷魔術師にスカウトされるまでは何でもやっていたぞ」
先生は20代後半から30代前半の容姿をしていて、あの顔だけは美しい第二王子も霞むほどの美丈夫だ。そのうえ人の手紙で鼻を噛んだりしないわけだから当然社会性のある人格者でもある。
先生は長年各地で修行の旅をしていたが、我が国の宮廷魔術師にスカウトされ今に至る。
水害問題も活火山の噴火対策もこなし、天災の多かったこの国で20年以上酷い災害が起きていないのは、先生の力だと言われている。
「逆境はチャンス……そうですね、この力でもう顔の骨がボコボコになるまで殴りにいくしかないですね」
「落ち着け弟子。そんなことをすれば必死に耐え忍んで品格を保ってきた君の苦労が水の泡だぞ。それは逆境の良い乗りこなし方とは言えない。1点」
「1点はくださるんですね」
「私だって愛弟子を無下にした雑魚をボコボコにしたい気持ちはわかる。よく考えなさい。君なら必ずもっと良い答えを導き出せるよ」
「はい……」
それからしばらくふらふらになるまで魔術の修行をし、走り込みをして、筋トレをして、そしてお風呂に入って眠りに就き、私はじっくり考える。
もう良縁は諦めた方がいいと言われた。
王家は「責任は何かしらの形で取る」とは言ってくれているけれど、王子の同意なしに婚約解消は難しいらしい。王子と結婚を先延ばしにされた数年間で、すっかり私は、鮮度の落ちた存在になってしまった。王子のせいで。王子のせいで。
私は眠りに落ちながら、羊を数えるがごとく、王子への罵倒語を並べた。
カス。クソ。馬鹿。鼻水製造機。風船野郎。首から下と家柄以外は家庭ゴミ以下。
「あの雑魚野郎が……」
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、私はかっと目を見開いた。
「そうだわ! 雑魚! 雑魚はいいダシが取れるのよ!」
翌日、私は早速思いついたあることを両親に話し、そして意見を纏めて王家に陳情した。
王家も困惑しながら「それで溜飲を下げてくれるなら」と許可を出してくれた。
早速、私は先生の元に向かった。
師匠はちょうど、城の地下で城の防御を司る精霊と雑談をしていた。
「先生! 旅に同行してください!」
「ほう?」
「『婚約解消』が叶わないのなら、私は王子を探すという名目で旅に出られます。護衛としてご同行いただけますか?」
師匠は、その切れ長の赤い目に好奇心を輝かせて立ち上がった。
「よかろう。私ももうこの城に閉じこもって20年、いい加減飽きてきたところだ」
先生は笑う。
「しかし、よく思いついたな?」
「あのカスはカスですけどカスをせっかくならダシにしていい思いをすればいいじゃないですか。王子を追う愁傷な婚約者という体ならば王家も遊学を許可せざるを得ませんもの。仕方ありません」
あっはっは、と師匠は手を叩いた。
「そうだ、雑魚だってダシが取れる。しっかりダシにしてカスになるまで利用してやるんだ、君に煮え湯を飲ませたのはあちらなのなのだから」
「そうです。煮え湯を用意したのは雑魚の方なんですから!」
◇◇◇
そうして少数の護衛と先生と私で、王子に会いに行く旅をした。
本気で王子を追うつもりはない。とりあえず王子を追うという名目さえあれば、入国に関して同情こそされるが足止めされたり不審に思われることもなく、のびのびと諸国漫遊することができた。
護衛がぞろぞろといるとあちこちで窮屈なこともあるし、護衛達は正直旅に乗り気でない。というわけで都合の良いタイミングで皆を少しずつ散らしていき、先生と私ののんびりした旅になるように図った。
「おお、騎士サンパレス! 持病の腰痛が辛いのですね、クサツの地で湯治をなさい」
「ふがいない……申し訳ございませんが離脱いたします!」
「あら、女性騎士ラザーラ! 女王国でしか上演されない歌劇団のファンだったのね!」
「私はここに骨を埋めたいと思います……ああ美しい……」
「そろそろ引退したかったんじゃないですか? 騎士団長ロバート殿」
「妻がもうすぐメイド長の役目を終えるのです。ホテル経営の第二の人生を送ります」
エトセトラ。エトセトラ。
連れてきた護衛も本気で王子を探せると思っていない左遷組の寄せ集めなので、あっという間に皆好きに散っていってくれた。
そんなわけでお目付役が消え、無事に二人旅になったところで、旅は本番。
王国から旅立って三ヶ月、海の美しいマイネース神聖国から王子にコピペな手紙を投函し、わたしはうんと伸びをした。
「先生、次は隣国バートリー公国ですね!」
「ふふ、これから本格的に修行の旅となるな」
「しーっ! あくまで王子探しですよ! 王子探し!」
「はっはっは」
「もー」
そうして国を順々に進み、私たちは修行と称し、世界中を実験場のようにしてさまざまな魔術で人々の小さな生活の問題から、国ごとの大きな問題まで解決した。
なにせ先生は世界に知れ渡る大魔術師さま。先生がふらりと立ち寄れば、あっという間に問題を抱えた人々が知恵を授かりにやってくるのだ。
真水不足の某国では塩水から真水を分離する魔道具開発を手伝い、隣国との水紛争を解決に導いた。
海の魔物が暴れる国では、魔物と対抗できる肉食海藻の繁殖を手伝い、海苔づくりの技を伝授したり。
魔物ポメラニアンが大増殖しててんやわんやの国でポメラニアンをかき集め、そしてあちこちの保養所や孤児院の癒し兼番犬として置いて行ったり。
先生と過ごす中で学ぶ魔術は本当に多彩だった。
私は国にいた頃よりずっとずっと魔術の腕を磨き、いつしか勝手に各国の宮廷から宮廷魔術師の打診の手紙が届くまでになっていた。
とある宿で手紙の返事を纏めつつ、私は近くで本を読む師匠を振り返った。
「私は正直なところ、あの煮え湯を飲ませてきた雑魚のカスに多少感謝してます」
「へえ、どうして?」
本に目を落としたまま、師匠が訊ねる。私は答えた。
「あの煮え湯をコトコト飲まされた日々がなければ、その間にすぐに次の人生に進んで、こんな楽しい日々を送ることはできませんでしたもの」
そう言いつつ、私はちらりと師匠を見る。
「師匠と一緒にいる時間は、とても楽しいですし……」
勇気を振り絞って言った言葉も、師匠はふふっと笑って流す。
「そうか。君のような優秀な…弟子が、国でくすぶっているだけの人間にならずによかった」
「……そ、そうですよ! みすみす逃しましたね! 殿下は!」
先生との日々は楽しかった。
でも同時に思うのは、師匠は私をあくまで弟子として扱ってくること。
魔術師の師匠と弟子の契約は絶対で、親子関係に近いものだと最初に聞かされていた。だから婚約者持ちの私でも、この美貌の男性と一緒に過ごして怪しまれることがないのだ。
――それは当然、私はまだ王子の婚約者だけど。
一緒にずっといたら、少しでも女性として意識して貰えるかとも淡く期待していたのだ。ほんのちょっとだけ。
――そう。私は師匠にずっと片思いをしていた。
思い出すのは、王子にすっぽかされた一回目の結婚式の日。
師匠は着替える前に人払いをして庭で泣いていた私に、空から花を降らせ、泣き止んだらその後「少し気晴らしをしなさい」とマントをかけて、箒に乗せて空の散歩をさせてくれた。
すっぽかされた花嫁として腫れ物扱いだった私に、優しくしてくれたのは師匠だけ。
王族は皆知らん顔で目をそらし、私の家族も忙しくて泣いている私に構っている余裕はなかった。
分かっている、そこで誰か一人でも悲しみに寄り添ってほしいと思うのは、政略結婚に身を投じる貴族の娘として甘えていると分かっている。
――それでも師匠だけは、それまで話したこともないひとりぼっちの私に話しかけ、慰めてくれた。
分かっている。
師匠は誰にでも優しい。
自分の目の届く範囲にはささやかな奇跡で手助けをする。
ただ困難を解決してあげるだけでなく、困難から抜け出すためのヒントをくれる。
師匠が私に優しかったのも、この旅でいろんな人を助けているのと同じだ。
師匠にとってはワンオブゼムだと分かっている。
でも、私にとっては師匠はたった一人の、初めて好きだと思った人だった。
片思いが実るなんて思っていない。師匠は当然私との距離は大切に保ってくれるし、誤解されないように宿は別、仕事の席でも私を王子の婚約者で、自分は同行者だときっぱりと名乗り続けてくれた。そういう師匠の不埒なところがない紳士さが大好きだし、大好きだからこそ、切ない。
ほんの少しだけでも、私の事を意識して欲しいだけ。でも。
師匠はことあるごとに私に言う。
「君もこの旅で、いいご縁を見つけるといいさ。君は卑下するが家柄も人柄もいい君は、愛されて幸せになる価値があるのだよ」
違います。私は師匠の隣にいるのが一番幸せなんです。
そう言いたいけれど、言ってしまえば師匠が私に一線を引くのは分かっている。
師匠はそういうひとだから。特別な誰かを、作らない人だから。
「そうよ。私はそんな師匠が好きになったんだから諦めなきゃ。まだ婚約者がいる身なのだし。弟子からの一方的な片思いなんて、師匠にとって迷惑よ」
私は自分に言い聞かせ、切なくて苦しい片思いをなんとか抑え込むことに成功した。
そしてまた、一年。師匠との日々が続いた。
◇◇◇
旅の途中、ある国でのことだ。
私たちとある国の王子、スティーブ殿下と一緒にパーティを組み、魔竜退治をした。
そこでなんとスティーブ殿下から、求婚されたのだ。
私は師匠と旅を始めて、もう一年以上が経っていた。
すっかり大人の女性であるし、貴族女性としてはいわゆる「行き遅れ」だ。
だからもう、こんな求婚なんてされないと思っていた。思っていたのに。
私は丁重に、彼の厚意をお断りした。
「私は婚約者がいる身です。この旅も婚約者を追いかけるためにしていること。王子殿下のご結婚相手にはふさわしくございません」
しかしスティーブ殿下は諦めない。
「もうよいではありませんか。我が国があなたの国に訴え出れば容易く婚約は破棄されましょう。そもそも誓いすら交わしていないまま、あなたは五年以上も婚約者として放置されている。あなたの国の法でも婚約解消はできるのでは?」
「それは……波風を立てないように……」
「私のプロポーズを受け入れていただきたい。婚約解消に尽力しよう」
そう言って、彼はぐっと手を握る。強い瞳が私を射た。
「……なんなら結婚し、既成事実を共につくってくれるのであれば、全力であなたをお守りできる。私の国の国力であれば、それこそ波風を立たないように取りはからえます」
「っ……」
「あなたを不幸にする法も建前も許さない。何を敵に回しても私はあなたを守る」
「……か、考えさせてください」
私はスティーブ殿下の手と熱視線から逃れ、その日は城を後にした。
来賓向けのベッドにつっぷし、私はシーツに涙を吸い込ませた。
「もし師匠に言われていたなら、付いていったわよ……」
何を敵に回しても私を守る。
師匠に、言って欲しい言葉だった。
切なさにひとしきり泣いてすっきりしたのち、私は師匠の部屋の扉をたたいた。師匠は容易く私に扉を開いてくれて、ホットミルクまで用意してくれた。子どもに対する慈愛のようなそれに、また涙が出そうになった。
師匠は優しい。けれどその優しさは弟子に対してのものだから。
マグカップを手で包み、私は師匠に問いかけた。
「師匠は、私がもしここで結婚すると言ったらどうしますか」
「それが君の決めたことなら、私は否定できまいよ」
「私は幸せになれるでしょうか」
師匠は皮肉のような笑みを向けた。
「君らしくない。君は幸せにしてもらうために、ここまで努力してきたのか」
私は目を瞬かせた。
師匠は、プロポーズを受けるように背中を押してくれると思い込んでいたから。だって弟子の幸福を願いそうな、優しい師匠だから。
師匠は私に言った。笑みこそ皮肉めいていたが、言葉と眼差しは真剣だった。
「……君は待つのを止め、行動して、君自身の手で生きていく力を得た。私は傍にいるが、あくまで君の補佐をするためだ。ここまでの功績も、ここまでの魔術の実力も、名声も、……彼が君に惹かれている君の魅力も、全て君が手に入れてきたものだ。私の知る弟子なら、『幸せになれるかどうか』ではなく……幸せになると確信して、選択して欲しいものだ」
師匠の言葉に、私は吸い込まれるように師匠を見た。
師匠は目をそらし、背を向ける。
「そろそろ行きなさい。師匠とはいえ、男の部屋に長居してはいけないよ」
「……失礼いたします」
部屋を出て、私はしばらく廊下に立ちつくしていた。
落雷に打たれたように動けなくなりながら、私は己の手のひらを見下ろす。
細く白い女の手だ。
先生の手とも、プロポーズを貰った手よりもずっと頼りない。
けれど私はこの手で道を切り開くことを選んだ。たくさんの人の力を借りてきたけれど、決めたのも、選んだのも自分だ――自分が、自分の力で幸せになるために。
ぐっと拳を握る。胸の奥が熱く奮い立った。
「私は何を勘違いしていたのかしら。……待ちの姿勢なんて、私らしくないのに」
◇◇◇
翌日、私はスティーブ王子に己の本心を語り、丁重にプロポーズをお断りした。
彼は目元を赤くしながらも、私の決断を応援してくれた。
「あなたがそういう人だから俺もあなたに惹かれたんです。わかりました、これからはせめて憧れさせてください。……そして俺でできることなら、いくらでも力になります」
「ありがとうございます」
私たちはそして握手をし合った。
対等な友人関係として、強く。
城から出ると、師匠が腕を組んで私を待っていた。
「これでよかったのかい、君は」
「はい。彼はいい人です。だから幸せになれるかしらなんて日和った気持ちで彼を選んでは、彼に対して失礼ですから」
「……いい人だとは思っていたんだな」
「はい。だってとっても素敵な人でしたもの。美男子だし、誠実だし、何より私を対等な相手として尊重してくださる優しい人でした」
師匠はどこか不機嫌そうに、目をそらしたままだ。
「それならば結婚すればよかっただろう、と言いたいのですか?」
「……いいや。私が言うべきことではない。君に自分で幸せを選び取れと言ったのは私だ」
「そうですね。私が選びました」
私は背筋を伸ばして、師匠を見上げた。
帽子の影になった師匠の目を見上げて、私は微笑む。
「出会う順番が違えばプロポーズを受け入れていたと思いました。でも私、好きな人がいますもの。あの日、私を空の散歩へ誘ってくださった方」
師匠がすごい顔で睨んで来る。
それ以上言うな、という顔だ。分かっている。
でも私は逃げずに、挑むように口にした。
――だって私は、自分の幸せは自分で選びたいから。
「お慕いしております、アルガード様。好きです」
名を呼んでぎょっとした顔をして、師匠は早口で被せるように言った。
「刷り込みだ。冗談じゃない。君は僕に優しくされて、勘違いしているんだ」
「勘違いかどうかは私が決めます。私はアルガード様の事が好きです。添い遂げるならばあなたがいいです」
「婚約者がいる身で滅多なことを言うもんじゃない」
「いつでもこちらから破棄できます。書類だけで解消手続きができるように、母国に要請してくれるよう殿下が約束してくださいました。魔竜退治のお礼の一環だそうなので、殿下の私情による一存ではもちろんありません」
「……そんな話をしていたから、出てくるのが遅かったのか」
師匠はたじろぎながら言葉を探し、続ける。
「師匠が弟子に手を出すことなどできるか。私の倫理に反する」
「はい。だから諦めておりました。……でも」
魔術の世界において師匠と弟子は絶対だ。親子関係に近い禁忌となるらしい。
だからこそ、私はぐいっと一歩近づいた。
「師匠、私が彼のプロポーズを受けそうになったら止めましたよね?」
「君らしくないからだ」
「でも私、いちおうこれでも嫁ぎ遅れの女なんですよ。結婚をふいするような迷いを与えるなんて、師匠の行いとしてはちょっと違いますよね?」
「……嫁ぎ遅れと自覚があるなら、なおさら私など」
「私は、師匠と結婚できないなら独身貴族上等です」
「なっ」
「私が決めましたので」
絶句した師匠の姿を見て、私はふうっと息を吐く。
言いたいことは言った。悔いはない。
私は頭を下げた。
「不敬をお詫びいたします、師匠。師匠が私をそういう目で見られていないのは承知です。分かっています。……ただ、こっぴどく振られなければ先に進めない不肖の弟子をお許しください。もう二度と、同じ事は言いませ」
ぽん。
そのとき、私の頭に何かが乗る。
香水の香り。師匠の帽子だ。
「……頭を上げずに聞け」
師匠の声が頭上から聞こえる。少し口ごもるような口調だった。
「お前の意思は受け止めた。謝らずともよい。…………だから早く……れ」
「? 師匠、後半が聞こえず」
「早く弟子を卒業してくれといっているんだ。教える事がある限り、二度と困らせるな」
師匠が先を行く気配がする。
帽子を押さえつつ頭をそっと上げると、師匠の背中が少し遠くなっていた。師匠の黒髪から覗く、耳が赤い。
「え…………」
私は混乱した。
もしかして、見込みはあるのだろうか。師匠に、弟子以外だと思って貰える。
「滞在許可証も明日までだ。次の移動に備えて支度をするぞ」
「はい!師匠!」
「帽子は被ってろ。泣き顔を人にそうそう見せるんじゃない。はしたない」
「はい。……ありがとうございます」
師匠はこれからも一緒にいてくれる。
私は師匠の背中をおいかけた。自分の意思で。自分の幸せを掴むために。
◇◇◇
――数年後。とある街で。
私から逃げた殿下が逮捕された。
殿下が成人した若い男たちを侍らせて遊び歩いていたところまでは、まあ本人の勝手だった。問題は、その中に身分を偽らせた未成年まで交じっていたことだ。
当然現行犯逮捕。私はこのときもう既に婚約解消手続きは済ませていたので、悪評のとばっちりが来る事はなかったのだけど。
カフェテラスで新聞を読みながら、私は軽く頭をかかえた。
「なんてことかしら。最低な雑魚とは知っていたけれど、まさかここまでだなんて」
成人した男が好きなら、私との婚約なんてさっさと解消して好きに生きればよかったのだ。それを王族として結婚する気はありますよという体裁だけ私に背負わせ、自分は好き勝手遊んでいたらしい。いいように使いやがって。
とはいえ、成人同士で遊ぶのと、未成年を権力と金で囲うのはまったく別の話だ。
当然永久追放、王家の戸籍からも名を消され、王子はいなくなったことにされた。
母国ではさっそく吟遊詩人が面白おかしく、雑魚のクソ王子を歌にして広めているらしい。全世界で未来永劫クソの名が轟きやがればいいと思う。
「煮え湯を飲ませてきた雑魚で出汁をとったら砂利食べていたのが見つかったって、ほんと雑魚は最後まで一生雑魚ですね」
「そんな雑魚のことは忘れろ。魂が穢れる」
「はい、承知いたしました、師匠」
「……もう師匠じゃないだろう、リジェリア」
「ふふ、そうですね。まだ慣れません」
「敬語もやめなさい。まるで亭主関白のようではないか」
「それは落ち着かないですよー。だって弟子時代も長かったので」
「……好きにしなさい」
そんな未来は、まだまだ遠くの話。
私はリジェリア、師匠の弟子。師匠に甘く名前を呼んで貰えるのはまだ先だ。
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