プロローグ(第0話):サキュバス襲来
家が悲鳴を上げた。
ドガァァアンッ!
リビングの中央で赤紫の魔力が爆ぜ、床が波打つように割れる。
黒い翼が一閃し、衝撃波が家具をなぎ倒した。ソファが壁にめり込み、テレビが粉々に砕ける。
「邪魔しないでよぉ! 今、最高に美味しそうな子見つけたんだから!」
ルシアが舌なめずりしながら笑う。
ほとんど紐みたいなマイクロビキニが、激しい動きで今にも弾け飛びそう。
その豊満な胸が、羽ばたきのたびに激しく揺れる。
「っは……!」
俺は壁に背を押し付けられ、動けない。
視界の端で、ルシアの瞳が妖しく光っていた。
次の瞬間、彼女の指先が俺の首筋に触れる――
シュパッ!
エメラルドグリーンの光の矢が空を切り、ルシアの翼をかすめて壁に深々と突き刺さった。
「そこまでだ」
天井の梁の上から、金髪のエルフが姿を現す。
セラフィナ。弓を引き絞ったまま、冷たい瞳でルシアを射抜く。
レイナがルシアに忠告する。
「この家は霊道の“溜まり場”。お前の魔力をこれ以上乱せば、この家ごと崩れるぞ」
「はぁ? そんなの知らないし!」
ルシアが苛立ちを隠さず羽を大きく広げる。
空気が一瞬、重く歪んだ。
同時に、部屋の中央で淡い光が膨らむ。
魔法使い見習いのエイルが、必死に両手を広げていた。
「……回復魔法、展開中……! あれ?! MPが全然減らない?」
その言葉の直後。
カチッ。
無表情の少女、カナデが端末を操作する音だけが静かに響く。
「無許可干渉を確認。即時停止を要求します」
ルシアが舌打ちし、俺の方へ一歩踏み出す。
「ちょっと待ってよ! 私、ただご飯食べようとしただけで――」
「吸えてない?」
俺の首筋から離れたルシアが、初めて本気で困惑した顔をする。
「……え、何これ。吸えてないんだけど?」
その瞬間――
家全体が、ふっと息を吐いたように静かになった。
割れていた床の亀裂が、ゆっくりと閉じていく。
飛び散っていた破片が、逆再生のように元に戻る。
乱れていた魔力の流れが、まるで水が澄んでいくように整列した。
「……は?」
ルシアが呆けたように呟く。
セラフィナが弓を下ろし、訝しげに俺を見下ろした。
「……人間。お前が留めているのか?」
「は?」
全員の視線が一斉に俺に突き刺さる。
ルシアはしばらく俺を凝視したあと、ふっと悪戯っぽく笑った。
「ねえ、ここ……めっちゃ落ち着くんだけど」
沈黙。
誰も即座に否定しなかった。
「……で?」
セラフィナが小さく肩をすくめる。
「どうする、サキュバス」
ルシアは少し考えて、にっと笑った。
「とりあえず……ご飯おごってくれるなら、今日は大人しくしてあげよっか?」
俺の絶叫は、今回も誰にも届かなかった。
ただ確かなのは――
この夜、この家は
もう平凡な日常を取り戻せない場所になった、ということだけ。




