第三章 らしさ ①
フィンさんと祖母の配慮のおかげで、もっとバタバタすると思っていたホテルの運営は、思ったよりもスムーズだった。
支配人は「お任せください」と力強く言ってくれている。
私もフロント係として、職場に出ることにした。
出勤する日、私は喪服を身に着けた。
頭には黒いクレープ地のボンネット。飾り気のないモスリンの襟に、つま先まで隠れそうなほど長いドレス。その上に長い黒シルクの外套を羽織った。
祖母が亡くなってから、最低でも九か月は、喪に服さなければ。
「まだお休みになられた方がいいんじゃないですか?」
マーサはおろおろと声をかけてくれたけれど、私は働きたかった。
家にいると夜が無性に長く、無駄にうろうろしてしまう。
「いいのよ。今は動いていたいんだから。いってまいります」
家から出ると日差しが眩しかった。
外に出るのは、埋葬の日、以来だ。
足は地面を頼りなく踏んでいたけれど、止まってはいられなかった。
早足で歩いていると、目の前で馬車が横切った。
その黒く大きな塊が飛び込んできて、息が止まった。
ぐしゃりと視界が歪み、世界から色がなくなっていく。
勇んで出てきたことを鼻で笑うように、私は身動きが取れずにいた。
吐き気がこみあげ、思わず口元を抑えた。
痛いくらい心臓は高鳴っていて、苦しくてたまらない。
体が思い通りに動いてくれない。どうして――。
不快さで胃をぐらぐらさせながら、私はまた歩き出す。
いつもの道。いつもの喧騒。
それなのに、方向が分からなくなってきて、混乱した。
何度も歩いた道なのに、知らない道に迷い込んだみたいだ。
ようやくホテルが見えた頃、疲れが肩にのしかかって、一歩も動きたくなくなっていた。
緩慢な体を動かして、出勤すると、ホテルの従業員たちが驚いて私を見た。
「セリアさんっ」
ドアマンの彼が声をかけてくれた。その顔を見ると、少し背筋が伸びる。
「おはようございます」
弱々しい声で言い、私はスタッフルームへ歩いた。
従業員たちに出会うと、次々と抱きしめられた。
同じフロント担当で、友人でもあるマーガレットは私に抱きついて泣いていた。
「セリア、大変だったね……」
そう言ってくれたが私は「ありがとう」と言うのが精一杯。
これから先、同じようなことが何度も、何度も起きるのだろう。
そのたびに、祖母は死んだという現実を見直すことになる。
孤独が、いっそう色を濃くするのだろう。
それでも、私は進まなくては。
涙ぐむ従業員にあいまいにほほ笑んだまま、私は朝礼に並んだ。
今日は週に一度、トップ・オブ・サービス賞を発表する日。
先週、尤もお客様に感謝され、御礼カードをたくさんもらった従業員が報奨金をもらう。
祖母はトップ・オブ・サービスの発表を自らしていて、従業員ひとりひとりに感謝を述べていた。
今日、祖母はいない。支配人が発表していた。
今回は掃除係の女性が、賞をもらった。
あたたかな拍手が上がり、女性は誇らしげに笑っている。
女性はコメントを求められると、にんまりと笑った。
「食いしん坊な旦那の肉代にいたします」
女性はそう言うと、どっと笑い声が巻き起こる。いつもの光景だ。
陽気で、熱心な従業員たちがいて、ホテルは運営されている。
その輪の中に入っているのに、私はまるで外側から様子を見ているかのようだった。
ホテルの一員なのに、一員ではない。
仕事への情熱も以前ほど湧かず、拍手しているのに、どこか他人事だ。
それを悟られまいと、笑顔を顔に貼り付けながら受付をこなす。
お客様に声をかけ、部屋を案内する。
私なりに、ぎりぎり平均点の接客はできたはずだ。
だけど、五日間の出勤を終えたとき、私は支配人に呼び出された。
何かミスしたわけでもないから何ごとだろうとは思った。
「セリアさん。明日は出勤しなくていいです」
「え……なぜですか」
「今のあなたは、あなたらしさを失っているからです」
きっぱり言われてしまい、雷を受けたような衝撃が全身に走った。
私は頭を軽く振って、支配人に訴える。
「クレームは来ていません。……仕事も、きちんと」
支配人は小さく息を吐くと、机の上にあった卓上鏡を私に見せた。
「よく、顔をご覧ください」
鏡の中の自分を見て、ぞっとした。
どこを見ているのか焦点の合わない目で、口は真っ直ぐな線を引いたみたいに結ばれている。
顔の輪郭はあいまいで、全体的にうすぼんやりしている。
これが、今の私。
人形みたいな顔をして、お客様の前に立っていたのか。
苦い思いがこみ上げ、ひくついた口元は歪な線を描いた。
私は見ていられなくて、鏡から目をそらした。
支配人は、ただ真っ直ぐ私を見ていた。
「私が見る限り、セリアさんは上品に笑って接客されていました」
何も言えずに、唇をかみしめた。
「ホテルのモットーは『お客様には、最上のおもてなしを。それを自分で考え、自分が楽しむ』です。セリアさん。あなたは今、仕事が楽しいですか?」
はい――とは、とても言えなかった。
「お客様の前で笑えるようになるまでお休みください」
慰めるわけでもなく、運営者としての言葉だった。
支配人の配慮は感じるけれども、私は丸裸でほうり出されたみたいだ。
働かずに家にいて、何になるというのだろう。
時計の針の音がよく響き、長い夜を毛布にくるまりながら、朝を迎えるようなことはしたくない。
ホテルに出てから、ようやく少し、眠れたというのに。
「あなたには時間が、必要なんです」
支配人に反論の機会を与えられることなく、言い切られてしまった。
それ以上、私は何も言えなくて、深く一礼をして、支配人室から出た。
いつの間にか、私はホテルの中で、笑えなくなっていた。
ホテルから出ると、冷え冷えとした秋風が私を包んだ。
まとわりついてくる風が虚しく感じて、私は顔をしかめる。
背中を丸めて、重い足を引きずって歩いた。
ホテルに居ても役立たず。家に居ても役立たず。
今の私は何もできない。
支配人は時間が必要と言ったけれど、私にとってそれは何日? 何年のこと?
祖母がいない生活をスタートさせられない自分が、ほとほと嫌になる。
そんな悶々とした気分に関係なく、人々は忙しなく行き交う。
外の世界は何も変わらない。
私だけが世界から、切り取られてしまったみたいだ。
ぼんやりと考えながら歩いていると、突然明るい声で呼び止められた。
「セリア!」
声の主に嫌な予感がし、私は相手を見て、片方の眉を持ち上げた。
ウィリアムだった。
 




