第二章 星 ②
祖母の部屋は、変わらずほこりがキラキラと光を帯びて、自由に舞っていた。
「まだ手つかずで……」
「そうですか。少し、空気が悪いですね。窓を開けてもいいですか?」
「え……え、ええ」
私の混乱を気づくことなく、彼が部屋に入っていく。
光に溶け込むような背中を見ていると、彼は出窓の鍵を開けた。
風が部屋に招かれる。
窓から差し込む光のベールが、ゆらゆらと揺れた。
風はほこりを抱きしめて外に運んでくれる。
カーテンは大きく深呼吸する。
部屋が、息づく。
最初から、私を歓迎していたんだよという顔をして。
それに気づいて、胸が打ち震えた。
「いい天気ですね」
彼が振り返る。黒いスーツを着た彼の輪郭が、あわく光っていた。それに目を細める。
「ええ、ほんとうに」
足がすくんだことも、それを彼が解放してくれた感動も、彼には関係ないことだから。
そっと胸にしまっておこう。
私は足に羽がついたように、軽やかに部屋に入り、ぐるりと辺りを見渡す。
祖母の愛用していた香水の香りがかすかにした。
ベルガモット、シダーウッドを調合した香りは、ホテルと同じ匂いだ。
心が真綿でくるまれているみたいに落ち着く。
私は机の引き出しを開けて、名刺入れを取り出す。
束になっている紙から、二枚を抜き出して残りは箱にしまう。
「……ありました。買い取りは家に出入りしてくださっている商店の方がいいと思います」
「それなら支援金の手続きは僕がします」
「そんなわけには」
弁護士の職務を超えていないだろうか。
申し訳なくなって、片手を振ると彼は柔らかくほほ笑んだ。
「なんでもすると言ったばかりです」
「あ……」
「僕は弁護士といっても事務弁護士ですから、書類の手続きが圧倒的に多いんです」
彼は「ああ」と一息つき、口角を持ち上げながら、胸に手をおいた。
恭しく私に礼をする。
「もちろん。費用はご請求させていただきます」
彼は片目をぱちりを閉じた。
今までの静謐な印象とは違ってチャーミングなしぐさだった。
私は「まあ」と声を出して笑ってしまった。
彼はいっそう目を細め、姿勢を正す。
「お手伝いさせてください。僕にできることなら」
その涼やかな声に、安心した。
ようやく私はこの部屋で呼吸ができそうだ。
「お願いいたします」
私はもう一度、部屋を見渡す。
主を失った小物たちは、次の持ち主を見つけたくてソワソワしているようにも見えた。
誰かが使ってくれるといい。
祖母が大事にしていたものがが、誰かの大事になれば言うことはない。
「……おばあさまの思う通りにさせてあげたいですね。支援者のアーチボルド教授は私にもとてもよくしてくださいますから」
「ええ。手伝います」
彼の気遣いとほほ笑みが、今の私には深く、胸にしみた。
フィンさんが帰った晩、私は部屋に戻って窓の外を眺めていた。
時刻は午前一時。
今日は何時に眠れるのだろう。
それとも長い夜が、また巡ってくるのだろうか。
祖母が死んでから私は寝つきが悪くなった。
体は疲れ果てて、一歩も動きたくないというのに、目は冴えている。
ふと、大きな窓ガラスに映る自分と、目が合った。
「あなた、ひとりになっちゃったわね……」
自分に話しかけてみた。そんな無為なことをしていないと、夜に気持ちが押しつぶされそうだ。
私はこの先、何度も何度も、喪失感に震えるのだろう。
「それでも……生きなくちゃ」
私は白い私の先、夜空に目を向けた。
ガス灯が消された深夜は闇が濃く、星々の明かりがよく見えた。
彼らだけが、私の理解者、みたいだ。
あの星を今、誰かが見ているだろうか。
その人は、どんな思いで見ているのだろう。
私のように孤独で震えているだろうか。
同じ星を見上げている誰かを、私は探していた。
【幕裏】 フィン視点
ふと顔を上げると、窓の外で星がまたたいていた。
時刻は午前一時。
机に広げた書類に目を落としていたが、結局、手は止まったままだった。
僕は眠れていない。
原因は分かっている。
ヘレンさんが亡くなったからだった。
ヘレンさんは僕が事務弁護士としてやっていけるようになった恩人だ。
僕をファミリー弁護士にしてくれ、事務所の援助までしてくれた。
ヘレンさんには、身の丈に余る経験をさせてもらった。
彼女のコネクションで顧客も増えたし、彼女の無茶ぶりのおかげで、僕は事務処理が早くなった。
両親を病気で次々と失い、天涯孤独の僕にとって、彼女は後ろ盾になってくれた。
だから彼女が事故で亡くなったと聞いたときは、ショックだった。
親しい人の死は、何度、経験しても慣れない。
だけど両親のときと違うのは、ヘレンさんに託されたものがあったから。
それをやることが恩返しになると思った。
そして僕は、彼女の孫、セリアさんに出会った。
彼女の外見を見て、驚いた。
ヘレンさんにそっくりだったからだ。
葬儀で会った彼女は、亡霊のような顔をしていて、まるでかつての自分を見ているようだった。
運命の不条理を叫びたいのに、叫べなくて、顔から感情を消している。
見ていられなかった。
僕はあの時、荒れた生活をしていて、それをヘレンさんとジョージさんに掬い出された。
だから、今度は彼女の手助けをしたいと思った。
それは過去の自分を、今の自分が救い出したいのだろう。
僕はヘレンさんのおかげで、ずいぶんと力をつけられたのだから。
星を仰ぎながら、その美しさに切なく目を細める。
「ヘレンさん、あなたはどの星になってしまったのですか?」
問いかけても、星は答えない。
「そこで見ているなら、セリアさんのところへ行ってあげてください。彼女、泣くに泣けない顔をしていましたよ」
そっと言うと、星がよりいっそう瞬いたような気がした。
星が彼女にそばにいればいい。
大切な人を亡くしたら、今を追いかけるように、何度も何度も喪失感がくるのだから。
星に祈りながら、僕は止まっていた手を動かした。




