第二章 星 ①
散々な気持ちのまま、ウィリアムとの関係を一旦脇に置いて、私はファミリー弁護士と会った。
すらりと背の高い男性だった。
同世代とは違う落ち着きがある。
彼が二十八歳で、私よりも八歳年上だからだろうか。
彼は艶が消えたスーツを着ていた。
まるで葬儀屋みたいな格好だけど、湿っぽさはない。
しわひとつないスーツにピンと立った襟からは清潔感が漂っている。
かすかに、甘くウッディな白檀の香りがした。
彼は、型の古い、黒い中折れ帽を取り、腰を折って挨拶をした。
「はじめまして、フィン・マッケンローです」
帽子を取った姿――後ろに髪をなでつけた短い髪に、柔和な笑みを見て、やっぱりと思った。
長く祈っていた彼だ。
「はじめまして、セリア・エバンスです。どうぞ中に入ってください」
彼を客間に通し、ソファに座ったタイミングでマーサがお茶を出してくれる。
彼は「どうも」とマーサに小さく頭を下げ、ティーカップに指をかけた。
しぐさがきれいな人だと思った。
彼はティーカップをソーサーに置くと、私を見て語りかけてきた。
「あなたのおばあさま……ヘレンさんは、僕の恩人なんです」
彼はどこか懐かしむように目を細くしながら、身の上を話し始めた。
「ヘレンさんは後ろ盾のない僕を雇ってくれました。駆け出しの新米に声をかける奇特な方は、ヘレンさんだけでした。彼女の口利きで、ずいぶんと仕事が増えたんです。それに僕が事務所を持つときも、支援してくださいました」
「そうでしたのね」
「だからなんでも言ってください。遠慮なさらずに。僕にできることはなんでもします」
あまりに真剣に言われてしまい、私は薄く口を開いた。驚いているのが分かってしまったのか、彼は目尻を柔らかく下げ、低く、落ち着いた声で言った。
「あと、ヘレンさんから遺言書を預かっています」
「え……」
「前から準備されていました。いつ何が起こるか、分からないからって」
知らない話だった。
祖母は、ずっと前から覚悟していたのだろうか。
私がひとりになってしまうことを。
そう考えていると、彼は黒い鞄から、太陽の模様が入った箱を取り出した。
中には白い封筒が入っていた。
しかし奇妙だ。
封筒には【ひとりでは決して見ないこと】と書かれている。
「あなたと見るということでしょうか……?」
彼は困ったように眉を下げた。
「今は答えられません。ヘレンさんとの約束ですから」
わたしは封筒をまじまじと見つめた。
力強く書かれた文字は間違いなく祖母の字だ。
何を書いたのか気になるけれど、開く気になれない。
読んでしまったら、そこで祖母との繋がりが切れるような気がした。
私は箱を閉じて、彼に返した。
「……遺言書、まだ預かっていただけますか」
「いいのですか?」
「今は、まだ……」
わざわざ来てくださったのに、返すことになって申し訳ない。
彼の顔が見れずにいると、手の中から箱が消えた。
彼はそっと箱を受け取り、穏やかにほほ笑む。
「分かりました」
しつこく聞かれなくて、肩の力が抜けた。
それから彼は遺言書の話はなかったことのように、ホテルの経営について説明を始めた。
ホテルの経営は、支配人が今のまま運営し、祖母が亡くなって五年後、私がオーナーをするか、決めてよいそう。
オーナーをしないなら、ホテルは従業員を変えずに、オーナー交代の売却する手配までされていた。
「あなたが別の道を行くかもしれないから。ヘレンさんがそうおっしゃっていました」
私に選択をゆだねている。祖母らしい、愛情の深さだ。
「私、ホテルの仕事、好きなのに……」
「それでも気が変わるかもしれないからと」
「……おばあさまらしいわ」
私のことを思っているからこその配慮。
それが今は切なかった。ありがとうを、もう伝えられないから。
「五年、考えます」
「それがよろしいと思います」
それから彼が作成した書類のもとに、遺産相続が行わることになった。
彼はとても親切で、戸籍などの取り方や、役所への付き添いまでしてくれた。
すべての名義は、私になる手続きが行われた。
でも、それはただの紙の上のこと。
未熟な私は祖母のホテルの預かり人でしかない。
今はそれでいいのだろう。
支配人に頼っていれば、ホテルの運営は続けられているのだから。
相続税の支払い、保険の解約など。事務的な手続きをひとつずつこなしていく。
幸い――とは言いたくなかったけれど。
相続税は、祖母が急死したことにより、私が払える金額だった。
何度も姓名を書き、何度も家紋を押す。
しんと静かな部屋で紙にインクを一滴、一滴落としていく。
書き終わったら彼が「こちらを」と次の書類を差し出した。
その「こちら」は、迷子になってしまった子の手を引く、善良な大人の声に思えた。
ぼんやりしながら書いていると、書き損じてしまった。インクが紙ににじんでしまい、私は小さく息を呑む。
「大丈夫ですよ」
私は薄くほほ笑み、また紙にペンのインクを落とす。黒い丸いしみは不格好で、今の私の心のかたちみたいだ。
祖母のいない世界で、私はどう歩いていけばいいのだろう。
手を引かれているのに、私は迷子のままだ。
「これで手続きは終わりです。お疲れ様でした」
彼がそう言うと、強張っていた肩から力が抜けていく。
軽く首を振り、私は背筋を伸ばして、軽く頭を下げた。
「ご指導ありがとうございます」
「いいえ、仕事ですから」
そう言って彼が軽やかに笑う。
空気が和んだのを感じて、私は彼に質問した。
「おばあさまの部屋を整理したいのですが、どう手をつけていいか分からなくて」
「ああ、それなら遺品整理リストがありますよ」
彼はなんてことはないと言う雰囲気で、黒い鞄から一枚の紙を取り出した。
そこには、高額の服や宝石類の一部を売り払ってほしいという願いが書かれてあった。
「まあ、……おばあさま、こんなものまで」
「高額で買い取らせて、住宅支援事業を支援してほしいと言っていました」
「アーチボルト教授がしているチャリティーのことでしょうか」
「ええ。教授を支援し続けてほしいそうです」
「おばあさま……メイヒューという名前の記者が書いたレポートを見て、お怒りになっていたわ。住む家がない人が集まっているから、その日の家賃を稼ぐために、盗みや性犯罪が起きやすいのよって」
「僕も聞いたことがあります。東地区の壮絶さは、目に余りますからね。売却の宛てはありますか?」
「確か……祖母の書斎に名刺がありました」
思い立って、彼を祖母の書斎に案内する。
金メッキのレバーを握ったとき、一瞬だけあの息苦しさを思い出した。
他人の顔をした部屋を見るのが嫌で、レバーの下げるのをためらってしまう。
「どうかしましたか?」
彼の声にハッとして、私は反射的にレバーを下げた。