第十章 秘密 ①
陽光を瞳に浴びて、目を覚ます。
ぼんやりとした目で、体を起こすと白檀の香りがした。
落ち着く香りに、だんだんと目が冴えてきて私は辺りを見まわした。
「あ……」
フィンさんが机に座って眠っていた。
仕事をしたまま眠ってしまったのか、腕組みをしたまま椅子に背中を預けている。
あどけない寝顔に好奇心が刺激され、私は音立てずに彼に近づいた。
もっと、近くで見てみたい。
そっと椅子の横に立って、顔を覗き込むと、規則正しい寝息が聞こえてきた。
まさか先に起きるとは思わなかった。
私だけが知れる特別な瞬間を目にして、心臓が高鳴っていく。
可愛い。触れてみたい。ずっと見ていられる。
思わず、へらりと頬をゆるませると、彼から「んっ」と小さな吐息が漏れる。
ゆっくりと彼の黒い目が開かれ、近すぎていた私は一気に全身を緊張させた。
「セリア、さん?」
まだ寝ぼけているのか、とろんとした眼差しだ。
私は冷や汗をかきながら、反射的にこくこくとうなずく。
すると、とろけた彼の瞳が怪しい色香を放ちだす。
本能で分かった。これは――欲情の色。
「また、僕を試しているんですか」
そう言って、彼は股を大きく開き、長い腕を私の首に巻き付けてきた。
白檀がいっそう、濃厚に香る。
動揺して体を引こうと思っても、思いのほか、引き寄せられる力が強い。
紳士的な彼とは思えない、やや乱暴な手つきだ。
椅子に座ったまま、鼻と鼻が付きそうなほど顔を寄せ、彼はくすりと笑った。
「だめですよ。ここは、僕とあなたしかいないんですから」
その甘い警告に、かあっと熱が脳天を突き抜けた。
優しくされるよりも、強引にされるほうがドキドキする。
またうちももが震えだしてしまい、視界がぐるりとひっくり返りそうだ。
いっそのこと、気絶したい。
そんな馬鹿なことを考える。
無言で口を引き結んでいると、フィンさんが目をとろんとしまま、ぱちぱちと瞬きをした。
黒い瞳から熱情が消えていき、代わりに誠実な光が灯りだす。
「セリア、さん?」
疑問形ではっきりと言われた。
彼はハッと目を見開き、両手を上げて私を解放した。
緊張感が一気にゆるみ、私の膝は力を失った。
彼の胸に倒れる形になってしまい、彼はまた咄嗟に私を受け止めてくれる。
そのままずるずると、私は彼の腰から膝にもたれかかり、床に座り込んでしまった。
「失礼なことを! セリアさん、すみませんっ」
彼の焦った声が聞こえるが、私はそれどころではない。
煙を噴き出す蒸気機関車のように、心臓が痛いくらい高鳴っていた。
すっかり腰が抜けて、立てない。
「寝ぼけてしまい、本当に申し訳ない……立てますか?」
気を使われれば使われるほど、かえって先ほどの熱い瞳とのギャップでくらくらする。
「……急に抱きついて、嫌でしたよね……。お許しください」
哀しそうな声で言われ、誤解されていることが辛くなる。
「嫌ではなかったのですけれど……」
ぼそぼそとした声で、ちらりと彼を見上げる。
恨めしそうな顔になってしまったかもしれない。
「少々、刺激が強すぎて……腰が」
立たないのです。
そう言えなくて、私は恥じ入ってうつむいた。
私の視界に、彼の手が映る。
「お手を……どうぞ」
落ち着いた声で言われ、私はそっと彼の手に自分の手を重ねる。
腰に手を添えられ、私は立ち上がることができた。
でも、彼の顔は見れなかった。
立ったもののどうしようか悩んでいると、視界の端で彼が胸に手をあてたのが見えた。
「とんだ失礼を。朝食を用意します。食べていってください」
そう言って、彼は視界の中から消えてしまう。
顔を上げると、隣の部屋に出て行く背中が見えた。
「あぁぁぁ……」
はしたなくも、声を上げて私はソファに座りこむ。
ドキドキした。
一瞬、一瞬にこんなに動揺していたら、身がもたない。
もう一度、大きく嘆息して、辺りを見まわす。
改めてみると、ふたりだけの空間だった。
それが非現実的に感じて、でもまちがいなく現実で、私はまたぐっと緊張してしまった。
それから彼が朝食にコーヒーと焼きたてのブレッドを用意してくれた。
言葉のはしばしに、気を使われているのを感じて、妙にそわそわする。
彼のことは好きだ。間違いなく、好きだ。
へんに気を使われるのではなく、もっと自然体で彼と話したいなと思ってしまった。
その後、私は家の近くまでフィンさんに送ってもらった。
マーサに電報を打ってしまったので、家まで送られるのは気まずかった。
「じゃあ、また」
「また……」
彼は中折れ帽子を取って、挨拶をした。
その背中を見ながら、私も家まで歩く。
冬の朝は冷え込んでいて、息をするたびに白い息が出た。
加熱した頭には、ちょうどいい寒さだ。
靴音を鳴らして、立ち止まる。
自分の身に着けている喪服を改めて眺めた。
黒い手袋に、黒いドレス。
真っ黒な私は、彼の前で黒を脱ぎたくなる。
「おばあさま、いいですか?」
黒い手袋に向かって、ぽつりとつぶやく。
秘密を打ち明けるように。
「フィンさんと遺言書を見たあと、ドレスを脱いでもいいですか……?」
喪が明ける。
それは、祖母の死を思い出のなかに溶け込ませていくことだ。
答えがないことが分かっていても、私は手袋を握りしめる。
その時、一陣の風が吹いた。
突風だ。私の被っていた帽子が脱げそうになる。
ひらめくスカートを手でいなし、呆然と空を仰いだ。
曇天の雲間を割って、何本もの光が大地に向かって差し込んでいた。
きらきらと幻想的なそれを見て、私は切なく、胸を鳴らした。
祖母が、笑っているような気がした。
***
家に戻ると、マーサがにこにこ顔で出迎えてくれる。
「まあ早いお帰りで、晩になるかと思いましたわ。伯爵夫人はお元気でしたか?」
ぎくりとして、私はマーサと目を合わせずに答える。
「え、ええ……。貴重なお話を伺ったわ」
嘘は、言っていない。
「左様でございますか。今日はお休みでございますね。ごゆっくりなさいませ」
私のコートを脱がせながらマーサは笑顔のままだ。
その純粋な笑みに、罪悪感がちくりと痛む。
かと言って、フィンさんの一夜を話したら、マーサとジョージがどんな反応をするか。
……想像したくない。
ジョージに凄まれたら、怖いんだもの。
私は居間のソファに座って、今日はどう過ごそうか、ぼんやり考えた。
妙案が浮かばずに、ちらりと隣のソファに目を向ける。
窓から伸びる光が、座面に映り、人影ができているみたいだった。
――セリアさん。
そこに座っていたフィンさんを思い出してしまい、かっと脳天に熱が突き抜ける。
寝ても覚めても彼のことを考えている。
これではまるで熱病だ。
何か別のことをしないと。
そう思い直し、マーサに新聞がないか尋ねた。
すると、マーサは異様なほど目を泳がせた。
「あ! ああ! 新聞でございますね。今日はまだアイロンをかけていません。少々お待ちくださいますか?」
「アイロン? ジョージがかけているんじゃないの?」
毎日、そうしてくれているはずだ。
「ジョージさんも、うっかりするところがございますのよ? うふふふ」
あのジョージが、忘れる――あり得ない。
私は肘を曲げて手の甲を腰においた。
「マーサ、何か隠しているでしょう?」
「あ! 洗濯をしなければあ!」
「あ、ちょっと! マーサ! マーサ!」
マーサは子犬が駆けだすみたいに、走り去っていく。
「……なにがあったの?」
秘密にされて、もやもやする。
自分もしているけど、内緒にされるのは不満だった。




