第一章 暗転 ③
次の日、私は祖母の書斎に向かって部屋を歩いていた。
弁護士と約束を取り付けたから、ホテルの書類や荷物の整理をしなければ。
祖母の書斎は最も日当たりのよい、角部屋だ。
通いなれた廊下を歩き、部屋の扉の前に立つ。
何度も開けた金メッキのレバーを握って、扉を開くと、目に入った部屋の様子にぞっとした。
窓から一筋の陽光が差し込んでいた。
光のベールの中で、細かいほこりが舞っている。
強い日差しにライトアップされ、光の粒が軽やかに飛んでいた。
十畳ほどの部屋には机、椅子、本棚が整然と配置されている。
小物は、それぞれの場所にきちんと収まっている。
だけど、祖母が愛用していたそれらは、他人の顔をしていた。
まるで誰か知らない部屋に来てしまったみたいで、居心地が悪い。肌がぞわぞわする。
祖母が死んで、部屋も死んでしまった。
リアルにそう、実感した。
それでも、私は部屋に入らなくては。やるべきことは山積みだ。
ごくりと、生唾を飲み干して、一歩、部屋に入る。
整理を――。そう思うのに、何をしていいのか分からない。
引き出しを開けたり、閉めたりして、私の行動は支離滅裂だった。
呆然と立ちすくんでいると、背後から声をかけられた。
「お嬢様、ウィリアム様がいらっしゃっています」
ジョージに声をかけられ、扉の方を振り返る。
現実にふっと引き戻されるような違和感を覚えて、私はジョージの元へ歩き出す。
ウィリアムが? どうして?
言わなくても顔に出てしまったのだろう。ジョージは声を低くして言った。
「お約束はないそうです。いかがいたしましょう?」
これは不在にするかどうかの確認だ。
死んだように重い部屋の空気から逃れたくて、私はジョージに言った。
「ありがとう、会うわ」
ジョージの脇を通り過ぎ、廊下を歩きだした。
客間に行くと、ウィリアムが待っていた。
彼は私を見た瞬間、ソファから腰を持ち上げた。
肩まである甘く緩やかな金髪と、澄んだ青い瞳がぐんぐん近づいてくる。
かと思ったら、両手を広げて、私を抱きしめた。
「ああ、セリア。会いたかったよ」
大胆に抱きしめられた瞬間、お酒の匂いを感じた。思わず顔をしかめる。
飲んできたのだろうか。こんな時に――。
急に心が冷えていき、そっと彼の胸を押し返した。
「ウィリアム、突然、どうしたの……?」
「何を言っているんだい? 僕たちのこれからを話に来たんだよ」
ウィリアムはソファにどかりと座り、私を見上げた。
「おばあさまは亡くなった。だから僕たちの結婚を急いだほうがいいと思うんだ」
「え……」
――なぜ。
「母が君との結婚に賛成しているんだ」
「あなたのお母様が……?」
「はりきって、君の母親になりたがっている。ほら、僕には父親がいないだろう? 兄弟もいないし、母が賛成するなら障害は何もない」
手を取られ、ウィリアムは甘い顔をする。
青い瞳はどこまでも無垢で、何の企みもないようだった。
「一緒になろう、セリア」
両手を掴まれた瞬間、首裏に悪寒が走った。
いったい彼が何を言っているのか、分からなかった。分かりたくなかった。
「考えさせて……っ」
私はウィリアムの手を振り払った。
「どうして拒むんだい? 家族が亡くなったら、結婚して支え合う。――そんなの、よくある話だろう?」
心底、戸惑ったような顔で、ウィリアムは言った。
よくある話。それは軽薄な言葉に聞こえて、いつまでも耳に残った。
家族を失ったから、補充するみたいな言い方が納得できなかった。
祖母の代わりはない。なにものもこの喪失感は埋められない。
彼は誰よりもそれを「分かっている」と思っていた。
父親のいない彼は、両親のいない私の淋しさを「分かる」と言ってくれた。
だから、私は彼に惹かれていた。
でも、そうではなかった。
彼の「分かる」は、心からの同調ではなく、空虚な相づちだった――。
今まであいまいにしてきたことが、一気に押し寄せてきて、私はそれを押し返すように激しく首を振った。
「はあ……君も頑固だな。黙って僕と母を頼ればいいんだよ……泣いて喜んで、結婚するかと思ったのに」
傲慢な言い方をされて、すーっと心が冷えていった。
私が泣いて、喜ぶ? 結婚はご褒美か、なにかなの?
「落ち着いたら連絡するから、今日は帰って」
ウィリアムは深く息を吐いた。
「また来るよ。だけど、結婚は早くした方がいい。親のいない女性は、詐欺で騙されやすいだろう? 君は莫大な遺産を相続するんだし。悪い男にひっかかる前に僕のところに来るんだよ」
そう言って彼は部屋を出て行った。
――なに、あれ。
百年の恋も冷めるとは、こういうことだろうか。
彼としたデートの光景が脳裏に次々と浮かんでは、パチンと弾けた。
恋心を土足で踏みにじられたみたいだ。
雑巾を固く絞るみたいに胃が痛みだし、声が出てこない。
「お嬢様……」
ずっと控えていたジョージが、目を据わらせていた。
「あれは、全体的にダメでございます」
ジョージに祖母と同じことを言われ、ガンと頭を殴られたような衝撃を受ける。
私はあまりにも盲目的だったのだろうか。
自分の見る目のなさに、ショックだ。
言葉にならない怒りと、自分自身の不甲斐なさ。
それらが、喉の奥でせめぎ合って、何も言えなかった。
明日から7時50分に更新します。
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