第九章 おもてなし ①
フィンさんと別れたあと、私はしばらく呆然としていた。
仮眠を取るために、控室に行って横になったけれど、胸が高鳴っていて眠れなかった。
「会いたいと思ったら、……会えるなんて……」
まるでクリスマスの奇跡だ。
でも、フィンさんだから――という納得もある。
私があんなに素直に『会いたいです。』と書いてしまったから、彼は忙しい合間に来てくれたんだろう。
偶然を必然にしてくれたフィンさんに、思いが募っていく。
「これが……恋するってこと……」
彼のことを考えすぎて、まるで自分の感情が思い通りならない。
もしも、フィンさんに告白したら、彼は私を受け入れてくれるだろうか。
同情でもいいから――なんて思う、自分の図々しさに苦い笑みがでる。
「私、変わっていない」
ウィリアムに惹かれたのは、祖母を失う恐怖を埋めたかったからだ。
私はずっと、祖母を失うのが怖かった。
今度はフィンさんを代わりにしようとしている。
それは依存だって、私はもう分かっている。
「思うだけなら……いいよね」
仮眠室のシーツを頭からかぶる。
あまり、眠れなかった。
***
クリスマスの次の日は、多くのお客様がチェックアウトされて、ウィンター・セールに行く。
朝からお客様を見送って、気づけば夕方になっていた。
私は勤務、最後のお客様、ラズール伯爵夫人のチェックアウトを済ませていた。
「今年もクリスマス・プディングが美味しかったわ」
「伯爵夫人、光栄です」
ご満足いただけたことに胸をなでおろしていると、伯爵夫人は私に顔を寄せてきた。
「セリア、これから時間ある? あなたに話したいことがあるの。内密に」
よく響く低い声で言われた。
伯爵夫人のお誘いならば、お断わりするわけにいかない。
「仕事が終わりますから、その後でしたら」
「なら、わたくしの城にいらっしゃい。おしゃべりをしましょう」
伯爵夫人は足をほっそりと魅せるショートブーツで優雅に絨毯を踏みながら、ホテルを後にした。
私は仕事が終わってから、マーサ宛に「帰りが遅くなる」と電報を打ち、伯爵夫人の城、アッシュベリー城に向かった。
アッシュベリー城は都市から西へ、鉄道で、一時間の郊外にある。
クリスマス期間で、今日は地下鉄も休日ダイヤだ。
汽車の本数は少ないが、人も少ない。
私は駅構内にある貸本屋で、本を借り、定刻通りにこない列車を待っていた。
やがて煙を巻き上げて、黒い塊のような蒸気機関車がやってくる。
伯爵夫人にお呼ばれてしているのに、服を煤だらけにするわけにはいかない。
私は一等席に乗り、がらんとした列車のボックス席に座って、窓を見やる。
結露で曇っている窓のかたすみをそっと拭いて、外をのぞいた。
夕闇が近づいていた。道には誰もいない。
今日は家族でのんびり過ごす日だからだろう。
そんな日に列車で揺られているのがふしぎだった。
駅に着き、人けのないホームに降り立つ。
どことなく空気が新鮮に感じのは、木々が多いせいだろうか。
改札を通り抜け、目の前に見えたのは石畳。
こしょう瓶のような尖塔がそびえたち、優雅で奥ゆかしい白い外壁の城が遠くに見える。
私は城への一本道を歩き出した。
大きな門の前に立ち、呼び鈴を鳴らす。
じりじりと鳴るベルの音を聞いていると、従僕が来た。
「セリア・エバンス様ですね」
「伯爵夫人にお呼ばれしました」
「どうぞ、お入りください」
従僕に招かれて、私は門をくぐった。
城内は、外の冷たさとは対照的に、暖炉の火が燃えていて、あたたかい。
アーチ型の広いホールを抜けて、深紅の絨毯を歩いていくと、客間に通された。
トルコブルーの壁紙に、肖像画が並んでいる。
丸みを帯びた上質なひとり掛けソファに、伯爵夫人は座っていた。
カシミアのショールを肩にかけてた伯爵夫人は、私を見ると立ち上がって、手を大きく広げた。
「可愛らしいセリア。会いに来てくれて、本当に嬉しいわ」
私は伯爵夫人の腕の中にそっと潜り込み、抱擁を交わした。
一歩下がり、スカートの端を持ち上げて、軽やかに礼をする。
「このような席にお招きいただき、心より御礼申し上げます」
「ねえ、セリア。お茶になさるかしら? それとも、温かいホット・ワインのほうがよろしい? ミンス・パイも召し上がっていらしてちょうだい」
「お心遣い、痛み入ります。お茶を頂戴できれば、それだけで十分でございます」
従僕がすぐに紅茶を用意し、夫人は私にソファを勧めた。
テーブルの上には、紅茶と、クリスマスらしく星型になっているミンス・パイが皿の上に、お行儀よく乗っていた。
伯爵夫人はグラスにシナモンスティックと、輪切りのオレンジが入った、ホット・ワインをひとくち、嗜んだ。
「まあ、あなた本当に、顔色が見違えるほどだわ。前を向けるようになったのね」
思わぬ賞賛に、笑みがこぼれる。
「恐縮でございます」
伯爵夫人は紅茶を一口飲むと、その豊満な胸の前で手を組み、私をまっすぐに見つめた。
「ウィリアム氏とは、もうご破算になったのね?」
伯爵夫人の耳に届いていることに、びっくりした。
「おうわさにのぼられていらっしゃいますか?」
「社交界では、とうに周知の沙汰よ。あのクロージット夫人が、突如この街から姿を消したのだから、当然でしょう」
私は薄く口を開いて、啞然としてしまった。
伯爵夫人はソファの手すりにひじをかけ、足を組むと優美な笑みを浮かべて、小首をかしげる。
「知らなかったの?」
「お恥ずかしながら……」
「あらそう。あなたのファミリー弁護士が、その負債の処理を担当していたと耳にしたものだから、あなたも当然ご存知だとばかり思っていたけれど」
伯爵夫人の言葉に、私はカップをソーサーに置いたまま、呆然としてしまった。
単語をひとつひとつ確認する。
弁護士が、なぜ債務処理をした?
「あの……差し支えなければ、弁護士と申しますのは、フィン・マッケンロー様のことでいらっしゃいますでしょうか……」
心臓の音が大きくなるのを感じながら、私は伯爵夫人に尋ねる。
夫人はゆったりとワインを味わい「ええ」と言った。
……どうして?
「実はね。わたくしの息子が宮廷弁護士という高い立場にいるのだけれど、その息子からの又聞きで知ったのよ。あの冷静沈着なはずの事務弁護士が、感情的に熱を上げていると」
ああ――だから、フィンさんは忙しいんだ……。
「それに息子のウィリアム氏は、その弁護士の事務手続きを断ったそうね。愚かなことだわ。彼は今ごろ、とうに拘置所よ。手の施しようがなかったのでしょう。哀れで、自業自得の末路だこと」
私は胸の奥が燃えるように熱くなるのを感じながら、立ち上がった。
行かなければ。彼に会わなければ。
その思いに突き動かされ、失礼を承知で夫人に頭を下げた。
「伯爵夫人、今宵はよいお話を賜りまして、誠にありがとうございます。まことに恐縮でございますが、私、用事ができてしまいましたので、おいとまさせていただきたく存じます」
「あらそうなの」
伯爵夫人は怪訝そうにするわけでもなく、ゆったりと口の端を持ち上げた。
「そういうことであれば、もうよろしいわ。おいとまなさい」
私はもう一度、礼をして、伯爵夫人の城を後にした。
フィンさん、フィンさん。
移動しながら、彼のことを考えていた。
私は債務処理のことは知らない。
きっとフィンさんが私に黙ってしてくれたことだろう。
理由を考えるまでもない。――私を守るためだ。
どうして、そこまでしてくれるのだろう。
祖母に頼まれたのだろうか。……ジョージみたいに。
彼の本心を確かめたくて、何より会いたくて、私は冬の夜を駆ける。
白い息を吐きだしながら、駅に行くと地下鉄はもう止まっていた。
彼の弁護士事務所は都市だ。
今日は帰れない。
私は闇に包まれた道の先を見渡した。
ほんのり淡い光が近づいてくる。
ランタンをぶら下げた辻馬車が、のんびりと歩いてきた。
ひづめの音に、反射的に体が震える。
目の前を馬車が通っていく。
本をいちページ、いちページ、ゆっくりとめくるように、その動きがやけに遅く目に焼き付いた。
「あの!」
私は声を出し、馭者に話しかける。
ハンチング帽を被った中年の馭者は、たずなを引いて私を馬車の上から、見下ろした。
「あの……私っ」
「こんな夜更けに、どうしたんだねえ、お嬢さん」
馭者は少しなまりのある声で、のんびりと話しかけた。
私は息を震わせながら、馭者に都市まで行けないか交渉する。
馭者はびっくりしたようでハンチング帽を頭からとった。
つるっとした後頭部をさすりながら、困ったように言う。
「おれは、いいけどもお。お嬢さん、急用か?」
「……はい……お金は……払いますから」
生唾を飲み干し、馭者に頼み込んだ。
「若いお嬢さんが、ひとりでいるのはいけねえなあ。おれでよければ、送ってくよお」
のんびりとした言葉に、荒い息が静まっていく。
私は「お願いします」と言い、馬車に乗り込んだ。
馬車に乗ると、馭者がつなを引いて、馬がいななく。
その声にぞっとして、歯が鳴りそうだ。
ぐっと口を引き結び、私は両手を組んで恐怖をやり過ごす。
大丈夫。これは祖母をひいた馬車ではない。
あの馬車ではない。
何度も念じて、気を奮い立たせていると、馬車は急ぐことなく、のんびりとしていた。
「急いでいることすまねえけど、おれは、ゆっくり走るんだあ」
馭者は愛嬌のある声で話し出した。
「都市でなあ。事故が起きたって聞いてなあ。死んだ人がいるんだってよお。新聞でみたんだけどな。かわいそうに、遺族は若いお嬢さんだってよお」
馭者の話に顔をあげる。
それは、私のこと?
「それ見たときからよお。おれは、のんびり行くって決めたんだ。まあ、馬もじいさんだし、こんぐらいのペースがちょうどいいんだあ」
声を聞いていると、いつの間にか体の震えが止まっていた。
それ、私のことです――そう言いそうになって、やめた。
彼がゆらす馬車のリズムと、声のリズムが心地よかったから。
馬車から空を見上げる。
一番星が輝いていた。
※マイ・レディ=(階級が下の者から呼ぶ)伯爵夫人
参考著書
村上 リコ著 図説 英国社交界ガイド 増補版: エチケット・ブックに見る19世紀英国レディの生活(河出書房新社)




