第八章 御礼カード ④
クリスマス当日、外は雪が降っていた。
この日は、クリスマスを家族で過ごしたい従業員のことを考えて、私が一日、ホテルにいる。
帰ることはないけれど、自分で決めたことだから納得している。
その中でも嬉しかったのが、毎年、クリスマス当日に来られるラズール伯爵夫人が来てくださったことだ。
伯爵夫人は祖母より年上で、祖母の古くからのご友人。
葬儀にも真っ先に来てくださった。
伯爵夫人は豊満な体を妖艶に見せる美女だ。
旦那様と一緒にホテルに来てくださっていて、旦那様が亡くなった今もクリスマスに毎年、来てくださる。
「今年もよろしくね」
祖母が亡くなっても変わらぬお声がけをしてくれた。
それが嬉しかった。
夜になり、お客様のチェックインがすべて終わったころ、私はロビーでひとりぼんやりしていた。
回転扉には鍵をかけていて、ドアマンには休憩に入ってもらっている。
お客様はお部屋でくつろいでいる時間で、誰もいない。
ロビーも明かりを落としている。
中が暗いせいで、外の景色がよりいっそう明るく見える。
雪化粧をしたクリスマスツリーがガス灯に照らされて、きらきらと光っていた。
ロマンチックな光景に、思わずつぶやいた。
「フィンさんにも見せたいな……」
会えないと分かっていても、恋しがる自分に苦く笑う。
「いつの間に……こんなに大事な人になっちゃったんだろう」
フィンさんは信頼できて、頼もしくて、会うとふわっと笑ってしまう人だった。
会えない時間が、こんなに長く感じる人ではなかった。
「会いたいな……」
焦がれてつぶやいたとき、ガス灯に照らされて、誰かがいることに気づいた。
黒い影にぞっとして、不審者ではないか目を凝らす。
でも、すぐに警戒はとけた。
「……フィン、さん?」
信じられない気持ちでツリーが見える鏡張りの窓に走った。
入り口が閉まっていたから覗いている?
ううん、そんなことはどうでもいい。
――フィンさんが、いる。
窓に両手をつけて、彼の存在を確かめた。
間違いなく、彼だ。
会えた興奮で、私は言葉を失って食い入るように彼を見た。
彼がガラスに両手をつける。ちょうど、私の手を重なるように。
とろけるような笑顔になった彼の口が、かすかに動いた。
白い息が吐き出され、ガラス越しに、声が、響く。
「会いに、きてしまいました」
くぐもった低い声だった。
それにきゅんと心臓が高鳴り、私は声が届くように、顔を寄せた。
「今、扉を開けます」
外はマイナス気温だ。
このままではフィンさんが風邪を引いてしまう。
すると彼は顔をぐっと近づけて、私にはっきりと言った。
「このままで、いい、です。顔を、見たかった、だけですから」
ガラス越しに重なった手のひらが、じわじわとあたたかくなっていく。
彼が外の寒さを私から守ってくれているみたいだ。
それにまた心が、かき乱される。
近づいた彼の唇にキスを、したくなる。
夢中で彼の首に絡みついて、彼の冷えた体をあたためたくなる。
そうしないと、私は私の感情を抑えきれない。
私は彼の唇を見ながら、吸い込まれるように下唇をガラスに付けた。
氷のようなガラスに私の熱が冷えていく。それに焦がれた思いまでもが冷めていった。
触れらなくて、よかった――のかもしれない。
急にキスしたら彼をきっと、困らせる。
私は吐息でガラスを白く曇らせながら、彼にほほ笑みかけた。
「会えて、嬉しい、です」
それ以上、何も言えなかった。
たくさん思いはあふれているのに、今この瞬間が大切すぎて、彼から目を離したくなくて、言葉が出せない。
フィンさんは目を細めて、無邪気に笑った。
「僕も、です」
その幸せそうな笑みを見て、じれったかった思いがきれいに無くなっていった。
私も口元に幸せです、と伝える笑みを作る。
彼といるこの瞬間。すべてが、愛しかった。
クリスマスイルミネーションで縁取られた彼はきれいで、まだ見ていたくなる。
だけど、本当にこのままでいたら体を壊してしまう。それは嫌。
私は唇をつけながら、彼に細い声で言った。
「風邪をひきますから……お休みください」
声が届かなかったようで、彼は目をぱちぱちさせる。
そしてもう一度と言いたいのか耳元をガラスに付けた。
アップになった横顔にドキリとしながらも、私は聞こえるように声を出す。
「風邪を、ひいちゃいます。おやすみ、なさい」
そう言うと、彼は肩を震わせて笑い出してしまった。
口元から白い息を吐きだしながら、彼はガラスから離れていく。
合わさっていた手を離し、自分の耳をとんとんと軽く指さした。
そして、とんとんと軽く指でガラスをつつく。
耳をガラスに付けてほしいってことかしら?
私はそっと冷たいガラスに耳をつけて、聞き逃さないように目を閉じた。
「――メリークリスマス。よい新年を」
大人の色香がまじった声だった。
彼の声の甘さ、全身をめぐり、腰骨がうずいた。
うちももまで震えだして、倒れてしまいそうなる。
私は思わず足を踏ん張った。
やだ、私。顔が、きっと真っ赤。
両手で頬をはさみながら、こくこくうなずいた。
ちらりと見上げると私を愛しそうに見る彼がいる。
まるで宝物でも見ているみたいで、勘違いしてしまいそう。
彼の眼差しが特別なものなんだって。――浮かれすぎだ。
両手を祈るように組んで、彼に言う。
「メリークリスマス。よい新年を」
彼は中折れ帽子を取って挨拶をした。
ゆっくり離れていき、私はまた両手をガラスにつけた。
彼はまた帽子を取って、爽やかにほほ笑んでくれる。
彼の輪郭、笑み、しぐさのひとつひとつを記憶にとどめておきたい。
何一つ、忘れたくはない。
私、フィンさんが好きだ。
大好きだ。




