第一章 暗転 ②
祖母、ヘレンは六十歳になっても活動的なホテル・スターリッジの経営者だった。
祖母がオーナーになってから、ホテルはがらりと方針を変え、都市では珍しく伝統よりも【最高のおもてなし】を重んじるようになった。
「記念日には、スターリッジがいい」と言ってくださるお客様も多い。
慈善事業活動にも精力的で、ありあまる情熱を、自分以外の誰かに注ぎ込むような人だった。
そんな太陽のような祖母に比べると、私はうすぼんやりしている。
茶色の髪も、翡翠の瞳も、まったく同じなのに、祖母は誰もが振り向くほど、存在感がある。
私は主役というより、舞台の隅にいるエキストラだ。
祖母という太陽がいるからこそ存在する、地面に伸びる影。
それが私だ。
メイドのマーサは私の顔を見て「世界一、愛くるしい」と言ってくれるけれど、私は自信のなさが出ているようで、自分の顔があまり好きではなかった。
私は祖母のホテルで、フロント係として働いている。
最近では仕事にも慣れてきて、ようやく楽しくなってきたところだ。
祖母と私。そしてメイドのマーサと従者のジョージと四人で陽気に暮らしていた。
恋人もでき、その関係に少し悩みながらも、私の生活はおおむね順風満帆だったのだ。
祖母の死は、そんな矢先に起きた。
***
祖母の葬儀は自宅で行われた。
黒いドレープがゆらゆら揺れる紋章入りのリースを玄関に飾り、艶の消えた喪服を着た人々がひっきりなしに、エンバーミングを施された祖母に会いにくる。
祖母の善行は全国紙で報じられ、実に多くの人が訪れた。
祖母が助けた女の子の両親もいらしてくれて、涙ながらに感謝されたし、祖母を慕う人は「あの人らしい最期だ」と言ってくれた。
喪服を着た私は、彼らに丁寧に礼をした。
喉まで出かかる言葉を、必死に抑え込んだ。
誰が何を言おうと、私は――祖母に、生きていてほしかった。
けれど、私が感情を振り乱して、そう叫んでも無意味だ。祖母は帰ってこない。
それならば、薄く笑っているしかないだろう。
そんなふうに割り切って事務的にお辞儀をする自分が、どこか不気味だった。
私は、全身で祖母の死を悲しんでいない。
目が渇いて、涙一粒、落とせていなかった。
次々と弔問客が訪れる中、黒い髪の青年が長く祈っていた。
黒い中折れ帽子をとって、祖母の前で跪いている。
手を組む彼の周りだけ淡く光っているように感じて、そのしぐさひとつひとつが神秘的なものに思えた。
ふと、彼の片方の瞳から涙がこぼれ落ちる。
それを手で拭いながら彼は立ち上がり、私と視線を交わした。
黒い瞳が細くなり、口元には淡いほほ笑みが浮かんでいる。
その笑みは、他の誰とも違っていた。
彼は、私を可哀そうな人として見ていない。
集まった皆が、孤独になった私を痛ましそうに見ていた。
けれど、彼の瞳の奥に同情が見えない。
それがふしぎで、心地よかった。
***
霊柩車で運ばれ、祖母は埋葬された。
――土葬は嫌ね。ゾンビみたいだわ。するなら火葬にして、遺灰は花の肥料にしてちょうだい。
そうジョージにこぼしていた祖母の意志通り、讃美歌が奏でられるなか、祖母は灰と、白い骨になった。
白い十字架が立ち、墓標の周りは祖母が好きだったアジサイとラベンダーの花が植えられる。
瑞々しく咲き誇る花たちに、両手を組むが、祈りの言葉は心に浮かんでこなかった。
ただ、祖母だけの箱庭ができてしまったと思った。
***
屋敷に戻った私は、居間のソファに座った。
大きな荷物を下ろしたみたいに体が疲れ、しばらく立てそうにない。
うつむいて、足元をばかりを見ていると、視界の中に革靴が入り込んだ。
顔を上げると、従者のジョージがいた。
硬い表情が崩れ、優しい眼差しで私を見ている。
「お嬢様、ご立派でした」
めったに褒めないジョージからの言葉は、私の心に深く響いた。
一区切りついたのを感じて、私は口角を少し持ち上げた。
「これから大変だわ……ジョージ、頼りにしているわね」
「お手伝いいたします」
「今日は、何かお嬢様の好きなものを作りましょうね」
マーサがころころと笑いながら近づいてきた。
変わらぬ笑みの軽やかさに、私の口も軽やかになる。
「あまり作りすぎないでね。食べ過ぎて動けなくなっちゃう」
「まあ。ふふふっ」
マーサは笑って、厨房に向かった。
鼻歌を口ずさむ陽気な背中を見送りながら、胸の奥がじんわりあたたかくなる。
足に生えた根が消え、やっと自然に立てそうだ。
「ジョージ、来てくださった方のリストを持ってきてくれないかしら。ひとりひとりに御礼状を送りたいの」
「只今、お持ちいたします」
ジョージが弔問客のリストを持ってきたので、私はそれに目を通す。
改めて見ると、ずいぶんと来てくださった。
祖母の古くからの友人、アーチボルト教授、ラズール伯爵夫人など、私を昔から可愛がってくださった方々。そしてホテル従業員たちは交代で来てくれ、お客様、支援していた若い人たちまで、様々な人が祖母のために駆けつけてくれた。
「これだけ多くの人が見送ってくれたのね……ありがたいことだわ」
リストを確認していると、ある人の名前で目が留まった。
「フィン・マッケンロー……この方って、おばあさまが契約していたファミリー弁護士よね?」
「はい。ヘレン様が目をかけていた好青年です」
「ジョージが褒めるなんて珍しいわね。私はまだお会いしたことがないのよね。ジョージはどんな方か知っている?」
「黒い髪に黒い瞳で、優しい面立ちの方です」
「黒い髪に、黒い目……」
ふと葬儀の時に目が合った彼を思い出した。あの人だろうか。
「おばあさまの遺産のこともあるし、連絡を取らないと」
さらにリストに目を通していると、恋人のウィリアムが来ていないことに気づいた。
弔問客からの電報を見ると、彼の名前があった。
『心からお悔やみするよ。近々、会いに行く。』
他の電報と見比べると、言葉が軽く感じられた。
もともと、ウィリアムは細かいことは気にしない性格で、強引に話を進めてしまうところがあるから、彼らしいといえば、彼らしい。
ウィリアムは二十三歳の中流階級。付き合って、三か月になる。
出会って二か月目ぐらいから結婚してほしいと言われているが、仕事はやめてほしいそうで、私は彼からのプロポーズに答えられないでいた。
最初は、ハンサムな彼が連れていってくれるパブやパーティーに大人の刺激を感じていたけれど、結婚の話が出てから、ぎくしゃくしている。
でも、祖母が亡くなった今、結婚どころではない。
祖母が残した莫大な遺産。ホテルの行く末を決めて、喪に服さないと。
彼も分かってくれるだろう。
そう考えながらメッセージを見ていると、ジョージが話しかけてきた。
「お嬢様、どうなさいました」
「ウィリアムから電報が来ていたの。あとで返事を送らないとね……」
心のもやもやを悟られないように、あいまいな笑みを作る。
すると、ジョージの顔つきが厳しくなった。
「ウィリアム様ですか……」
言いたいことを押し殺しているような、低い声だった。
それまで私たちの間にあった和やかな空気が、一瞬で緊張感のあるものになる。
生前、祖母はウィリアムを「全体的にダメな男ね」と言って、付き合いを快く思っていなかった。
ジョージは祖母と一緒で、ウィリアムのことを快く思っていない。
歓迎されていないことは分かっているから、私もウィリアムのことはこれ以上、言わない。
「お嬢様、ディナーの用意ができましたよ。今晩は、心も体も安らぐクリームシチューです」
マーサが満面の笑みで部屋に入ってきた。ちょうどいいタイミングだ。
今の私には天の助け。私は慌てて立ち上がり、大げさなほどに元気よく答えた。
「ありがとう、マーサ! 今、行くわ」
ジョージの視線を感じながらも、私はマーサににっこり笑いかけ、ダイニングルームに向かって歩き出した。
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