第五章 温度 ④
翌週になり、私はエレナさんと顔を合わせた。
エレナさんは、黒い髪を顎のラインでショートボブにしている凛とした女性だ。
年齢は三十五歳。ホテルの制服を着ていると女優さんみたいで、すらりと背も高い。
「セリアさん、今日から一週間、よろしくお願いします」
「こちらこそ、宜しくお願いいたします」
私はエレナさんの後ろに立ち『研修中』の札を胸に下げて、彼女の一挙一動を観察した。
エレナさんの声は、なめらかだった。
のど越しのよいゼリーを食べているような心地よさがある。
聞けば、オペラ歌手の友人に発声練習を教わっているらしい。
「あそこまで重厚な声は出せないけれど、お客様に響く音程を探しているの」
声の良さ、という発想は私にはなかった。
生まれついた高さ、低さを自分で鍛えてコントロールしているなんて、思いもつかなかった。
ひとつ、発見だ。
他にもエレナさんは、姿勢をピンと保つために、バレエのレッスンに通っているらしい。
エレナさんを見ていると、私は今まで何してきたのだろうと思う。
そんな率直な思いを口にすると、エレナさんは軽やかに笑った。
「セリアさんはあえて習わなくても、充分できているのよ。わたしは労働階級出身だから学生のうちは文字の読み書きが精一杯だったのよ」
「それなら、なおさらすごいです。努力なさっていますから」
「セリアさんは生まれながらに努力していたでしょ?」
「え?」
「あのヘレン様のことだもの。厳しく躾けられたと思うわ。あなたは椅子に座っても背筋が伸びているし、声がのびやか。なんていうのかしらね。育ちの良さが全身から出ているのよ」
エレナさんは片目をつぶった。
「洗練されたしぐさっていうのは、あなたの大きな武器よ。自信を持って」
そんなこと、考えたこともなかった。
エレナさんとお話していると、モノクロだった自分に色がついたみたいだ。
「ありがとうございます。頑張ります」
「どういたしまして。最後に、ひとつアドバイスをするわ」
「なんでしょう」
メモを片手に前のめりになった私に、エレナさんは艶やかかに笑う。
「これはヘレン様の受け売りなんだけどね。お客様が何をしてほしいか、一歩先に行くのよ。そして分かったらホテルの従業員全員で、それを叶えてあげるの。ホテルはチームワークが大事だから」
それは初心に立ち戻る、いいアドバイスだった。
私はうんと口角を持ち上げて返事をする。
「はい」
こうして私は一週間の研修を終えた。
一日のお休みを挟んで、いよいよ受付に立つ。
お客様から見えないよう、カウンターに隠された小さな鏡を覗き、笑顔を作る。
うん。いい笑顔だ。
そして、やってきたお客様に向かって頭を下げた。
ドアマンがお客様に先に声をかけ、荷物を手に持ち、身軽になったお客様が受付にやってきた。
どこか緊張なさっているお顔だ。
はじめてご利用されるからだろう。
私は口角を持ち上げて、お客様に声をかける。
「いらっしゃいませ。ようこそホテル・スターリッジへ。お客様のご来訪を心よりお待ちしておりました」
最高の笑顔で迎えてあげたいと思った。
勤務して二週間後、私はフィンさんから、りんごを届けたいという電報を受け取っていた。
なんでも弁護士費用の代わりに、たくさんのりんごを頂いたそう。
『ひとりでは食べきれないので、ぜひ。』という話だった。
フィンさんは忙しくなり、私も仕事を始めたから、一緒のタイミングでお休みが取れない。
それならば私がホテルを退勤したタイミングで、待ち合わせをしましょうという話になった。
マーサにそれを話したら、目をキラキラと輝かせた。
「りんごの受け取りだけではもったいのうございます! ぜひとも! フィン様には家に寄っていただき、夕ご飯をご一緒にいただきましょう。腕を振るいますわ! お嬢様! いいですわよね!」
そう大変乗り気になってしまった。
私はフィンさんの負担にならないか心配だったけれど、彼は『御相伴にあずかります。』と快諾の電報をくれた。
そういうわけで、フィンさんは仕事が終わったあと、ホテルに来てくれた。
私はまだ仕事中だった。
彼は私には声をかけずに、ホテルのレストランに向かう。
コーヒーを飲んで待っていてくれるのだろう。
退勤時間まで、あと十分。
と、その時。予期せぬお客様がホテルにやってきた。
大きなリュックを背負った青年だ。
いかにも旅行者という身なりで、落ち着かない様子できょろきょろしている。
鳥の巣のような髪の青年は、吸い込まれるようにシャンデリアを見て、茶色い瞳をきらきらさせた。
予約されたお客様ではない。
だけど、その純朴な瞳を見ていると悪い人とも思えなかった。
私はカウンターを離れ、青年に近づいた。
「お客様、どうされましたか? なにかお手伝いできることはございますか?」
笑顔で話しかけると、青年はびくりと両肩を跳ねらせた。
「ご、ごめんなさいっ。泊りにきたんじゃないですっ」
青年はバツが悪そうに話し出した。
彼は故郷を飛び出して、昨日、右も左も分からない都市に来たらしい。名前はジョン様。
昨日は飛び込みで安い宿に泊まったけれども、次の宿泊先を探してうろうろしているうちに、ホテルにたどり着いたそう。
「すげーきれいなホテルなんで、泊まれるわけないと思ったんですけど、ちょっと見てみたくて……」
「まあ、そのようなご事情でございましたか」
「……すぐ出て行きます」
そう言って、青年はもう一度、シャンデリアを見る。
名残惜しそうな顔を見て、なんとかしたいと思ってしまった。
「お客様……本日のご宿泊はお決まりですか?」
「あ、いえ」
そして思い出す。お客様の先に――それが、ホテリエの仕事だ。
「ならば、私の知り合いが短期宿泊施設を営んでおりますので、そちらに入れるか問い合わせいたしましょうか」
「えっ⁉ そ、そんな」
「お手伝いをさせてください。どうぞ、ラウンジにお座りになってお待ちください。お疲れでしょう」
私は受付カウンターに戻ると、水差しとコップを手に取り、水を汲んだ。
それを持って青年の元に戻る。
「どうぞ」
「……でも俺、泊るわけじゃないのに……」
「ホテルの中にいる方は、みなさま大事なお客様です」
そう言ってほほ笑むと、青年はコップを受け取り、椅子に腰をかけた。
よほど疲れていたのか、水を一気飲みする。
空になったコップを受け取り、私はカウンターに戻る。
まだ勤務中のマーガレットに声をかけた。
「私、お仕事を終わりますね。お客様の宿泊施設を探します」
マーガレットは何か言いたげに眉を下げた。
「ひとりで大丈夫? わたしも手伝うよ」
――平気です。と言おうと口を開きかけたとき、そっと声をかけられた。
振り返るといつの間にかフィンさんが立っている。
「何かありましたか?」
私はマーガレットに一礼して、お客様の視線から隠れるように廊下の端に寄る。
「フィンさん申し訳ありません。今日の予定はキャンセルにさせてください」
私は小声で端的に事情を説明しました。
「私、おばあさまのお知り合いに電報を送ります。ホテルの通信機を使えば、すぐなので」
「僕もお手伝いします」
思いもよらない言葉に驚いた。でも、と言おうとしたら先に彼が言う。
「僕もはじめて都市に出てきたとき、右も左も分からなくて泊るところに苦労しました。彼が困っているのが分かりますし、僕にもつてがありますから」
優しい声で言われて、頭を下げる。
「お願いします」
それから二人で手分けして、つてを頼った。
ジョン様からどれぐらいの金額ならよいかあれこれ聞いてようやくぴったりな宿泊先が決まった。
私は地図を用意して、フィンさんと一緒に彼を宿泊先まで送った。
ジョン様は恐縮しすぎて、ぺこぺこ頭を下げた。
「……本当に、助かりました」
「よいご旅行をなさってください」
そう言うと、ジョン様は純朴な笑みを口元に浮かべる。
「はい」
フィンさんは手持ちの袋から赤いりんごを一つ取り出し、ジョン様に差し出した。
「あなたに幸運がありますように。こちら、どうぞ」
突然の行為に、ジョン様は目を泳がせている。
フィンさんは彼の戸惑いを和らげるように涼やかに笑った。
「一日一個のりんごは、医者いらずと言いますから」
その言葉に思うことがあったのか。
ジョン様はりんごを手に取り、あどけない笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。……本当に、お世話になりました」
ジョン様を見送って、私たちは宿泊先を後にした。




