第四章 ぬくもり ①
窓辺の陽光で目が覚める。起き上がると体がだるくて重かった。寝すぎたのか頭痛までする。
「ふわぁぁっ」
あくびをかみ殺しながら窓の外を見ると、小鳥がチチチと鳴きながら木の枝にとまっていた。
小鳥は忙しなくくちばしを動かし飛び立ってしまう。
それをぼんやり見ながら、私はベッドから出た。
階段を降りて一階に行くと、マーサがパタパタと駆けてきた。
「お嬢様、おはようございます。まあまあ、ご出勤なさらないとはいえ、だらしない格好はいけませんよ。お顔を洗ってしゃんとしてきてください」
それだけ言って、くるんと背中を向けて廊下を走りだしてしまう。
大きなお尻を揺らす様子は、ご機嫌で散歩する子犬のようだ。
私はそれに目を細め、洗面室へ向かった。
朝食は甘いミルク粥だった。
「わたしの愛情がたーっぷり入っておりますからね。たんと召し上がれ」
胸を張るマーサに微笑しながら、私はミルク粥をスプーンですくう。
口に運ぶと、優しい味で口の中にしみわたる。
胃が優しくもみほぐされているようだ。
「美味しい……ありがとう、マーサ」
マーサはにこにこ笑っていた。見守られながら、私はミルク粥を一杯、食べきれた。
しかし、家にいると、何もすることがなかった。
趣味といえるものもなく、暇を持て余した私はマーサの横に座り彼女と一緒にクッションカバーに刺繍をした。
「お嬢様と一緒に刺繍するのなんて、何年ぶりでございましょう」
にこにこ笑うマーサを見て、ふと過去を掘り返す。
少女時代、マーサの横で刺繍を習った気がする。
白い布に色とりどりの花々が魔法のようにステッチされるのがすてきで、私もやりたくなった。
あまりうまくできなくて、途中で飽きてしまったけれど。
自分の刺繍とマーサの刺繍を見比べると、同じラベンダーの花なのに、華やかさが違う。
マーサのは香りまでしそうなのに、私のは……あまりに粗雑だった。
「マーサの刺繍は売り物みたいね。本当にすてき」
「あら、嬉しいことを。刺繍は趣味ですからね。少女時代からよくしました」
「……マーサの少女時代は知らないわ。どんな子だったの?」
「今と代わりはありませんよ。ただ、そうですね……わたしはずっと北の地方の出身ですから」
「マーサは他の地域から来たの?」
「ふふっ。そうでございますよ。北の大地。泥灰の匂いと、荒れ地が広がる、静かで何もない村の出身です」
「……知らなかった」
「お嬢様は私が来てからお生まれになりましたからね。仕方のないことです」
笑っているマーサのことをもっと知りたくなった。両目で彼女を見たい。
「マーサはどうして故郷を出たの?」
するりと声を出すと、マーサはビーズみたいな小粒の瞳をぱちぱちさせた。
聞いてはいけなかったことかしら。
「ああ、えっとね……その、マーサのことが知りたいの。私、今までマーサに甘えてばかりだったし……」
「嬉しいですね。でも、わたしの話は面白くありませんよ」
マーサは手を止めて、懐かしむように刺繍を指でなぞった。
その横顔には覚えがある。
ああ、そうだ。――祖母だ。
祖母が祖父や父と母の肖像画を見るときと同じだ。
会いたいのに、会えないことを知っている人の切ない眼差しだ。
「……いいの。マーサが話せるだけでいいから、教えて……」
マーサが私を見る。小粒な瞳が細くなり、彼女は愛しそうに私の頬を撫でた。
「少々、刺激的ですよ?」
わざと茶化すようなことを言って、マーサは話、始めた。
マーサは大家族の生まれで八歳になった時から、奉公に出されメイドとして働きだしたそうだ。
そこのお屋敷は、のちに男爵位をもらうほどの家柄で、マーサはその家の嫡男と恋に落ちてしまった。
「わたしが十六歳のときで、あの方が二十歳のときです。あの方は大変な美男子でしてね。豆みたいなわたしのどこを好いてくれたのか存じ上げませんが、大切にはしてもらいました」
でも、マーサと彼では身分差がある。
結婚は望めない間柄だった。
誰にも見つからないように、ひっそりと愛を育んでいたそう。
「大恋愛でした」
そう言ったマーサの笑顔は、胸が苦しくなるほど清々しかった。
「それから、紛争が始まりまして、あの方は戦争に行くことになったのです」
「……お父さまたちが行ったもの……?」
私の父は医者で、母は看護師だったそうだ。
紛争地帯に行き、そこで命を落とした。
「それより前のことですね。あの方は二年従軍し、そして帰ってきた。わたしが二十歳、暑い夏の日にあの方はお屋敷に帰ってまいりました。わたしはそりゃあもう気が狂いそうになるほど心配しておりましたから、あの方の前で泣いてしまったんです」
わんわん泣いたマーサを見て、相手の人は「マーサと結婚したい」と強く思ったそう。
「駆け落ちしてもいいって言ってくださいました。わたしもあの方を愛しておりましたから、それを承諾しました。夢のような夜を過ごさせてもらい、朝、目覚めたらわたしは、怖くなっちゃったんです」
マーサは眠る彼に黙って、去っていたそう。
「遠くに行こうと思いました。あの方がいない世界へ、行きとうございました」
それからマーサは身一つで、都市にやってきた。
そして貧民街で下働きをして、体を壊して病院に行ったときに、祖母と出会ったそうだ。
マーサが行った病院は、聖アンドリュー記念病院。そこは祖母が亡くなった場所だ。
祖母は病院を建てるときに支援をしていて、たまたまギリギリまで働いて体を壊しかけていたマーサと出会った。
「ヘレン様には救われました。そして、お嬢様にも」
マーサが私を見て、頭を撫でた。
「子どもを持つことは諦めておりました。ですが、お嬢様が生まれたときに、わたしは赤ちゃんを抱かせてもらえたのです。ちっちゃいおてて、とーってもあたたくて、じぃっとわたしを見るんですよ。嬉しくて、ぽろぽろ泣いてしまいましたわ」
目頭に涙をためて、マーサは笑った。
その笑顔が深くて、ひだまりみたいだと思った。
私は家族を失って、天蓋孤独になったと思ったけれど、そうではない。
私は今もなお、家族に愛されている。
「……私、知らずに……ううん、何も見ようとしなかったのね……」
気づいたら、私は瞳からぽろぽろと涙をこぼしていた。
マーサはエプロンの裾で、私の涙をぬぐってくれる。
「そんなことございませんわ」
お化粧のコットンを頬にあてるような軽やかさで、マーサが涙をとってくれる。
「マーサはもうその人のところへ帰りたくないの……?」
マーサはエプロン下げ、緩やかに眉を下げた。
「……思い出は、残っていますから」
その声は、苦しみ抜いた人が奏でる、優しい響きがあった。