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アレクサメノスは正直だった

作者: 鱈井 元衡

 アレクサメノスはナザレ人を信仰している。

 圧倒的な力の前に抵抗を試み、犬死にしたあの男を。なぜそんな惨めな人間に敬愛の念を寄せる人間がいるのか、メネラオスにはさっぱり分からなかった。

 ユダヤのある男が殺され、復活したという真偽不明の噂を真に受けた者たちだ。メネラオスはこの噂を全く信じていなかった。そもそも昔から神々にまつわる言い伝えその物をメネラオスは馬鹿馬鹿しいと思っていた。ゼウスやアポロンといった先祖伝来の神々ですら、内心軽蔑していた。ヘラスの民が恐れていたゼウスやヘルメスは、今やアテナイやスパルタといった名にし負う大都会ですら、自分たちが神殿祭祀の体裁を取った玩具となってしまったのを見ても、天罰を与えるつもりがないらしいからだ。

 神々とは、思っていたよりも脆弱な存在らしい。

 今や、ミトラスだのセラピスだの訳の分からない有象無象に心惹かれている者が、今やこの街には数多い。そして、その変な有象無象にあのナザレ人も混じっているのだ。そしてアレクサメノスは中でも最も胡乱なナザレ人の叛徒の再臨を待ち望んでいるのである。


 メネラオスはインスラ――ローマのあちこちにたたずむ高層アパート――の高い階でひもじく暮らしている。

 インスラの窓から見る空は青く澄んでいるが、蒸し暑く狭い部屋は、彼にとっては監獄のように思えた。

 哲学書に関して造詣が深く、難解な文章も読みこなすメネラオスは、写本の筆写で日銭を稼いでいる。

 ティベリス川を渡り、ウェスパシアヌスの公衆便所を利用する。ローマ人に捕えられたギリシア人はその優れた文明でローマ人を捕らえたというが、このローマ市にあってはローマ人ならではの文物の恩恵に浸ることしきりだった。

 フラミニア街道にはセラピス神殿がある。セラピスとはエジプト発祥の神だ。ちょうどイシスという同じエジプト由来の女神がこのローマでもにわかに信者を集めている。ローマは神々の都市ではあるが同時に人間の都市でもある。

 元首の地位を巡って、貴族たちが今日も権力闘争にあけくれている。

 今の時代を、歴史上最も幸福な時代だとうそぶく者もいるが、メネラオスには全くそう思えない。命がけの権力争いは元首の宮廷の中で依然として熾烈だからだ。

 下の者が上の者を引きずり下ろし、新しく上に立った者が下の者に蹴り落とされる永久機関。それがこの都市の本性だ。


 この都市にあっても、あのナザレ人の同胞の存在感は依然として強い。

 彼らの信仰心の中心たるエルサレムの神殿が破壊され数十年が経つが、彼らの勢いは決してやむことがない。この苦難を前に、ますます彼らの信仰心はたぎっているかのようだ。

 メネラオスはヘブライ人の苦境をあって良いものだとは思わなかったが、かといって彼らに共感を寄せようともしなかった。『あいつら』と言いたくなるのも仕方ない。

 その中からあの連中は現れたのだ。イエスを待望の救世主と信じ崇める者と、救世主を僭称する異端者と排撃する者とに分かれて、同じ神の信奉者であるにも関わらず争い合っている。

 メネラオスはその諍いについて聞いて、冷笑した。せいぜい共倒れしてくれればいいと思った。

 だが実際にはどうだ。元首や元老院議員がどれくらいあのナザレ人信奉者を嘲笑しようが、彼らは屈服しない。

 それどころか、ユダヤの地を越えて、ローマの街の外にまで信奉者は増えてきている。

 道を行けば、彼らの話を聞かない日などない。ナザレ人の同胞は、ローマの支配する領土の上で急速に広がり、その数はますます多くなっているかのようだ。

 

 神を信じないと言えばそれはいかなる社会の規則にも従わないということになり、たちまち排撃の対象になるわけだが、そんなものは単なる空疎な建前に過ぎない。本当はもう誰も守るつもりのないものだ。

 しかし、ユダヤ人は珍しく敬虔だった。信じない罪深さを自覚していた。

 ゆえに一瞬だが、メネラオスはヤハウェへの入信を企んだこともある。様々な神の名前を唱えながら、奥底ではそのどれにもさして敬意を感じない浮気な連中の仲間だとみなされたくないと思った時期もあったから。

 しかしヘブライ人の信仰に入るには包皮を切除しなければならない、と聞いて結局その計画も立ち消えになってしまった。そして、再びメネラオスは神を追い求めない者に戻った。

 あの宗教に属する者たちの数々の戒律が、外の人間にとっては実に奇異なものであったために、あらぬ誤解を常に巻き起こすのである。

 作業の途中で、同僚がたわいもない話に興じている。

「ユダヤ人とやらは豚を食えないんだろう?」

「あいつらには豚の血が入っているからな」

「豚から生まれたということは、奴らが敬愛してやまないナザレ人はさぞかし、オシリスやセトに似て豚の頭でもしていたんだろう。なおさら信じるわけにはいかないね」

 不愉快な会話をかき消すように、それからメネラオスはとりとめのない空想にふけった。

 万が一、あのナザレ人が地中海を統べる神にでもなったら民衆の口にどんな冗談が昇るのだろうか。自分たちの神を、「ユリウス・カエサル(Julius Caesar)」をもじった「イエスス・カエサル(Jesus Caesar)」とでも言うのだろうか? 「イエスとキリストが執政官の時」みたいなことを言いだすのだろうか? そんな時代は絶対に来ない。


 アレクサメノスという男をメネラオスが知ったのは全くの偶然だった。

 彼と初めに会ったのは居酒屋だったろうか。

 この頃ローマの一画ではキリスト教徒の秘密の集会の噂が立っていた。彼らは、常に神への礼拝を密かに行っており、場所や時刻を公にしない。だがそれでも彼らの存在を認知する瞬間はまれではない。メネラオスは、一角にたたずみ、小声で話し合う数人に注意を向けた。その会話に聞き耳を立てていると、相手の方からこう囁いてきた。

「あなたも、『命の魚』を信じますか?」

「『命の魚』だって?」

「十字架上で亡くなり、しかし三日後に復活した奇跡の方を」

 メネラオスはそれを聞いて、この男が例のキリスト教徒であると分かった。これは面倒なことになったぞ、と途方に暮れそうになった。

「本当にあの男のことを信じているのか?」

「ええ、信じていますとも!」

「なぜ、信じるようになったんだ? それが聞きたいな」

 メネラオスは別にこの男の信仰の遍歴に関心などなかった。ただ、ギリシア人伝統の弁論術でもってこの狂信者の鼻面を明かしてやりたいまでだった。しかし相手は、メネラオスを明確に人生の指針に迷える者だと思い込んでしまったらしい。

「私の話を真剣に聞いてくださる方がいるとは……これも神様のおぼしめしなのですね……」

相手の男は純粋に感激していた。メネラオスはその圧を前に、無下に立ち去るわけにはいかなくなってしまった。

 決して整った顔立ちとは言い難い男だった。しかし、その瞳は活力がみなぎっており、老けた感じの顔立ちに反してやけに若い眼光を放っていた。

 メネラオスは相手の顔をまじまじと見た。

 肌には傷があり、恐らくは荒事に興じていたのだろうということを想像させた。背が高く、北方の蛮夷らしく精悍で粗野な体格をしていたが、それに反して気弱な感じの顔つきが強烈だった。腐っても、由緒正しいヘレネスとしての自負をかすかに持っていたメネラオスにとって、アレクサメノスはもう少しガラの悪い感じをすべきだと思った。要するに、見下す感情が頭をよぎった。

 それからボスポロス――ペロポネソス半島から黒海を隔てて北の大陸に広がる、最果ての国――の出身だと語っていた。

 それにつられてメネラオスも出自を名乗った。

「俺はイオニアのスミュルナ生まれだ」

「イオニア……ご主人から聞いたことがあります。神の教えにたどり着きかけた、偉大な哲学者を輩出した土地だと」

「今じゃヘラスの端の片田舎さ。昔の面影なんかない。俺はあの場所の沢山の負債を抱えて、生活のために蔵書も手放さなきゃいけなかった」

 思い出したくもない過去が鮮やかに浮かびそうな気がして、思わず頭を振り払うメネラオス。

「彼らは神へ至る知識にはたどり着けませんでした。ですが、我々は違う。それを手にすることができる稀有な時代にいるのです。メネラオスさんは神をお信じになりますか?」

「信じないね」

 冷たい声で。

「神を信じても、俺は何も変わらなかった。どいつもこいつも神にすがっているように見えて、神を利用しているだけだったからな」

「しかしあのお方は違う。あのお方を信じることができた瞬間、私の中で大きな変化が起きたのです」

「何が変わる?」

「世界が変わるのですよ。一つの存在が一つの存在と対峙せねばなりません。いや、今がそうすべき時なのです」

 語っている内に、ずっと眼窩の奥でくぼんでいたアレクサメノスの目が輝きだした。

「あのお方がこの世に降臨し……いつか再び現れると思うと、私の心は高揚するのです。決してあのお方は私をお見捨てにはならない」


 メネラオスは、未だかつて神を信じたことがない。

 もう神は、人々の信心を失ったからだ。

 人々がゼウスの名にかけて誓う時、ゼウスがどういう神であるか、ゼウスに対しどれほどよりたのむ気持ちがあるかなど誰も問題にしない。第一、我欲のままに力を振りかざし、ゆく先々で女に手を出す好色で利己的な神を見上げる義理があろうか?

 死んだ元首を神と同等の存在として祭り上げるような時代に、神への崇敬の念などどれほどの数の人間が持っているというのだろう。

 今時そんなことを心から気にかけている奴といえば、常にローマの威光を保つための祭祀に身を捧げているウェスタの巫女くらいのものだ。

 だが奴らは違う。奴らがナザレ人の名を口にするとき、その表情には必ずと言っていいほど深い畏敬の念が現れる。単なる信心深さと違って、そこには神を信じられる境遇にあることへの感謝すら感じられる。このような信仰のあり方をメネラオスは今まで知らなかった。

 その感謝があればこそ、彼らはあのナザレ人と同じ死に様を迎えることすら喜ぶ。

 実際、狂気の沙汰だ。


 アレクサメノスとまた会ったのはおよそ一か月後のことだった。

 メネラオスが仕事から帰ると、今にも倒れそうなアレクサメノスを見つけた。

 そして、アレクサメノスを自室に連れて行った。

 かなり衰弱しているようだがそれでもまだ息がある。

「おい、生きてるか」

 さして期待などしていない小さな声で、メネラオスは問うた。

「はい……」

 アレクサメノスのかすかな返答が聞き取れた。メネラオスは安心すると共に困惑した。どうせ死んでいるはずだと分かっていたのに、ここまで連れて行ってしまった自分自身に。

「良かった」

 これにしたって、単に善意ではない。ただ、目の前で人が苦しみながら息絶えるのを見るのが嫌なだけだ。兄弟の死を思い出しながら。

「なあ、一つだけ聞いて良いか? 誰からナザレ人の信仰を教わったんだ?」

「ご主人のプブリウス様が、あのお方への愛を教えてくださったのですよ」

 懐かしそうに語るアレクサメノス。

「私の主人は、私を道具としてではなく人間として扱ってくれた、稀有な方でした。そして、天に召される時、私を奴隷の身分から解放して自由の身にしてくださったのです」

 そこで、目を細める解放奴隷。

「しかし、心配なのは、私と共にプブリウス様にお仕えしたもう一人の者が、口では神を信じるとまくし立てながら、心の中では神を信じる本心ではないようなのです」

 メネラオスは気になったが、自分がそこまで根掘り葉掘りする義理でもないだろうと思った。

 次第に、日が暮れてきた。そろそろ寝なければならない。

 その時、星空が見えた。すると、

「ああ、神様!」

 アレクサメノスは窓の外をのぞき込んで、声をあげた。

「ただのあかりだ」 メネラオスは言った。

「しかし、あの無数の光に、神を感じるとは思いませんか?」

「あの一つ一つが神だというのか?」

「そうではありません。あらゆる事象の裏に神様がおられるということです」

 違う世界に住み、違う物を見ていることにメネラオスは愕然とした。そしてもうそれからは、アレクサメノスの内面を探ろうとする気も捨ててしまった。

「あなたも礼拝に参加してはいかがですか。あなたはキリスト教徒を偏見の目で見ない方だ。私の仲間たちの話を聞けば、きっと考えも変わることでしょう……」


 メネラオスは礼拝を見物した。そこは地下にある薄暗い、じめじめとした空間だった。

 アレクサメノスには、そこがいつ、どこであるかを決して他人に漏らさないように厳命されていた。もとより孤立しがちで、人に身の上を明かさないメネラオスにとっては、そもそも漏らすような他者もいなかったが。

 連中はギリシア語を話す人間の方が多い。ユダヤ人の中でも、祖国を離れた場所に住む者たちはギリシア語を母語とする者が多く、実際イエスへの信仰は彼らを通してローマの領土の西半分に広がったのだが、このイタリアではまだこの新しい宗教はそれほど普及してはいない。彼らが嫌う偶像で埋め尽くされたこの街に、偶像の一つも作ることを許さない偏狭な神の居場所などあるはずもない。そんな所でも彼らは無意味にあがく。

「苦しめば苦しむほど、その日の栄光は大きなものとなる。故に心配する必要はない。その日、必ずあのお方が救ってくださるのだ!」

 男はどこか焦点の合わない顔で叫んでいた。

 そしてそれを聞く者たちもまた、正気なのかどうか判別しがたい、得体の知れない表情。

主よドミネ!」「神よテエ!」 それぞれの言葉で、信じたい者への熱情をぶちまける。

 それから主催者がこう言った。

「ホサナ!」

 イエスがエルサレムに入場した時、住民が言った言葉だという。ユダヤ人の言葉で、助けを求める時に使う言葉だそうだ。

 その時は住民は、イエスを救世主として迎えた。

 だが、イエスは使命を果たすことができず死んだ。けれども、死者の中から復活し、天へと昇った。だからこそ、この言葉は、主は必ず我々の元に帰ってきてくださるという自信に満ちた宣言となる。

 神を追い求める熱狂がしばしやみ、主催者は語り始めた。

「兄弟たちよ! 我々がここに来たのは他でもない。主の信仰の元に我々は結集しつつある。主が再びこの世に現れなさる日は近い。そして我々の信仰もいよいよ堅固な物となってきている。時代は変わった。かつて異邦人であった我々が、神の民として生まれ変わりつつあるのだ。かつては、ユダヤ人たちが我々の兄として導いてくれた。だが、今や信徒の数は増え、かつて偶像を拝んでいた者の方が多くなり、もはやユダヤ人が先導する立場ではなくなった。今日、主は全人類の頂点であり、そしてユダヤ人も特別な存在などではない」

 誰もがその言葉を真摯に聞いていた。

「生まれからしてユダヤ人であり、元から唯一の神を信じる者たちよりも、かつては偶像を拝んでいたにも関わらず、悔い改めて真の神に立ち返ることのできた俺たちの方が優れた存在だと思わないか」

「そうだ!!」 群衆が叫ぶ。

「滅びゆく体に割礼をしている奴らより、不滅の魂に割礼をしている俺たちの方が偉い……そうだろう?」

「そうだ!!」 メネラオスは納得できなかった。

 そんなことを言ってしまえば、イエスもユダヤ人だろう。ならばなぜ、イエスだけは特別に他のユダヤ人から引き離して祭り上げるのだ?

 メネラオスは、彼らの信じる神イエスが、人間イエスと同じ存在であるとはどうしても思えなかった。

 イエスという男は、同胞であるユダヤ人のためならばあらゆる奇跡を起こし、人々に救いの手をさしのべしたが、その力を異邦人に施すには積極的ではなかったというではないか。

 それなのに異邦人に特別視され、他のユダヤ人から切り離すような言い方をされたら、あのナザレ人は何を思うだろうか。

 メネラオスはかつて、エウヘメロスという数百年前の学者が記した著作を読んだことがある。エウヘメロスはその中でこう説いていた。人々が信じ拝んでいる神々は、元々は人間の英雄たちが祭り上げられたものだと。目の前で繰り広げられている光景もまさにそれだ。人間であったイエスが、本来の実像をはぎ取られ、神としての虚像を押し付けられたのだ。

 もはやユダヤ人であるという前提が彼らの知識からは抜け落ちてしまったらしい。

 アレクサメノスは信仰に目覚めれば人は変われるとでも言いたげな様子だったが、それはとんだ間違いに過ぎない。

 信仰に目覚めたからといって人としてのまともさに繋がるかどうかはその人次第ということだ。神への信心は、善悪とは関係がない。

 メネラオスはぼうっとして遠くから眺めていると、突然横から肩を叩かれた。

「これが奴らの本性さ」

 知らない男がすぐ横に立っていたので、メネラオスは驚いた。こんな所で何の真似だと殴りつけようとも思ったが、相手の形相に気おされ、そうはできなかった。頬がこけた、浅黒い肌の男だ。口元は笑っているが、目は笑っていない。

「お前、こいつらを見て気づくことはないか?」

「何に気づくというんだ? あいつらは自分たちの神にただ誠実なだけだ」

 メネラオスはアレクサメノスの同類とみなされることに怯えた。

「独善だ。偽善だ。お前、あいつらの化けの皮をはがしたいとと思わないのか?」

 相手はにやついた笑顔を浮かべていた。しかし、目は笑っていなかった。

 明らかにこちらに拒否権を与えるつもりはないらしかった。メネラオスは怖いもの見たさで、彼について行った。


 パラティウム丘に隣接するとある一角。そこはかつては建物らしかったが、今ではすっかり手入れがされないまま荒れ果て、壁にはしったひびに苔がむし始めていた。

 建物の重々しい戸を開くと、そこには数人の男が地べたに座ったり壁にもたれかかったりしてたむろしていた。

「見ない顔だな!」

 その一人がメネラオスの顔を見て怪訝そうに。

「かっかするなクレオメネス。最近は信者が増えたからな、知らない奴が多いんだ」

 メネラオスを連れてきた男に問いかける。

「奴を本当に告発する気か、ペルディッカス?」

「あいつは無神論者だからな。神々の偶像を拒否し、犠牲も捧げない奴らがこのローマを徘徊している……それがどれだけ我慢ならないかお前らも分かるだろ?」

 ペルディッカスはひそひそと。

「アレクサメノスはまだ奴らの元にとどまっている。どうせ死ぬまで考えを変えるつもりはないだろう」

 その名前でメネラオスは震えた。そして、勘づかれないように必死で服を抑えた。

 メネラオスはおそるおそる聞いてみた。

「彼らを密告するつもりか?」

 クレオメネスが、

「しなかったらどうする。奴らが捕らえられるたびに、ローマの住民は治安が良くなったと思い込んで日々ためこんでいる溜飲を下げてるんだぜ?」

「そんなことをしてどうする? 罪のない人間が磔にされるだけだろう?」

 ペルディッカスが答える。

「気に食わねえからだよ。主人の元で俺は無理やり洗礼を受けさせられ、罪を悔い改めさせられた。その時は俺も気が変になってたからな、本気で神に赦しを乞うていたよ。だが時間が経つと俺は自分がどれだけ馬鹿げたことをしていたか思い知るようになった。あの男はありもしない救いを俺の目の前にかかげて、馬鹿げた儀式に参加させた。だがそれ以前それ以後も俺は悪だった」

 彼は遠い目になった。

「あいつの元で犯した悪行は……棚神ラレスに捧げられた菓子を盗んだのが初めてだったか。どうせ奴隷なんだ、それくらいして当然だ。俺は人間じゃないんだから」

 憂えを含んだ声になりかけた所で、また元の野卑な調子に。

「あいつは人間になれた。だが俺はなれなかった。奴は神を信じたからだ。だが神なんて信じているから人は愚かになる」

 それを人前で言うのが何を意味するのかと考えると、メネラオスはぞっとした。

 ペルディッカスは壁に何かを刻み始めた。

「見ろ。これがアレクサメノスの拝む神だ」

 ペルディッカスはロバ頭の男が磔にされている絵を見せた。下手な絵の側にこれまた拙い字で「アレクサメノスは神を信じている」(ALEXAMENOS SEBETE THEON)と。

 クレオメネスたちが嘲笑した。

 ここまで来るとさすがのメネラオスも顔をしかめずにはいられなかった。

「お前はあいつらを見て、人間を食っている、幼児を生贄に捧げているだなんて思わないだろう。だが嘘も数万人が言えば嘘じゃなくなる。あいつらは人類の敵だ。この世から滅ぼされるべき害獣どもなんだ」

「嘘だと知って、そんなことを言うのか」

「当たり前だ」

「人死にが出るぞ」 メネラオスは、なぜ自分でもキリスト教徒たちを擁護したいと思うのか、分からなかった。

 キリスト教徒への同情よりも、こんな見下げた連中への嘲笑の方がずっと大きかった。

「それを神様は望んでいるんだろう? 奴ら自身がイエスの野郎と同じ死に方をするのがお望みだ。それを実現している俺は神様に愛されている。だから俺のやることは許されるんだ!」

 こいつの言っていることは支離滅裂だとメネラオスは思った。

 ペルディッカスはメネラオスの頭を思い切り殴りつけた。メネラオスは抵抗するすべもなく地面に倒れ込んだ。

「これも赦してくれるんだろ? 『天にまします我らの父』はよぉ!」

 息を荒くするメネラオスを見下ろしながら、ペルディッカスは叫んだ。

「見た所お前には奴らへの共感はなさそうだな。あいつらと運命を共にするつもりなんてないはずだ」

 いよいよ、こらえきれなくなった。

「奴らの方がまだまともだと思うね」

「何だと?」

 メネラオスは叫んだ。

「キリスト教徒は異常だが、お前のように無実の人間を処刑場に送るほど落ちぶれちゃいない」

「やはり奴隷は解放されようが常に笑い者になる定めか。やはりこの世に神も糞もあったもんじゃない……おいストラボン、こいつを連れ出せ!」

 メネラオスは笑われながらその場を後にした。こんな場所で無様にくたばるわけにはいかない。

 あいつらはキリスト教徒を当局に密告するつもりなのだろう。

 あんな異常者どもと同じにされるのはこりごりだ。だが、彼らにも彼らの道理がある。それは認めてやらなくてはならない。

 メネラオスは隣の部屋に逃げ込んだ。

 そしてこう刻んだ。

「アレクサメノスは正直だ」(ALEXAMENOS FIDELIS)

 ギリシア文字で信者の名前を書き、彼を指し示す形容詞はラテン語で書いた。どちらの言語を話す者に伝えるか、考える暇もなかったからである。

 ペルディッカスに付けられる前にメネラオスはそこから脱出した。


 帰り道、雨が降っていた。

 アレクサメノスはかなり元気を取り戻していたようだった。

 濡れ、怪我をしたメネラオスの姿を見るなり、彼は必死に体をふいてくれた。

 メネラオスは少しためらってから言った。

「あんたの相方とやらに会ってきたんだ。奴はやはり棄教していた」

「そうですか……やはり彼は……」

「キリスト教徒を摘発するつもりだそうだ。あんたも逃げろ」

「いいえ。私は逃げません」

「お前の主とやらと同じ死に方をする必要はないだろう。なぜそんなことに執着する?」

「ペテロは主に会ったそうです。主は『もう一度磔になるために行くのだ』とおっしゃったどうです。それを聞いたペテロはローマで殉教を遂げたとのことです。私は、神の使徒に恥じるような生き方はしたくありませんから」

「死ぬのが怖くないのか?」

 アレクサメノスは言った。

「怖ろしいに決まっているじゃないですか」

 メネラオスは、ますますこの男の真意を理解できなくなった。

「だったら、なぜ逃げない」

「体が動くのですよ。それが神のためであるならば、もはや理屈で説明の出来ない力が私を操るのです」

 アレクサメノスは、そこで声の調子を変え、

「とはいえ、私も決心がつきかねているのです。今すぐ死にたいのなら公衆の面前で偶像を否定すればよいでしょうが、今の私では今わの際まで神に忠実に生きられるとも限らない。アンティオキアで司教を務めておられるイグナティオスという方が近々ローマを訪れる予定なのです。私は彼の元に身を寄せて、しかるべき日に備えようと思います。同じギリシア語が通じる方ですから、話は早いでしょう」

 アレクサメノスにはあの事は言わないと決めた。ペルディッカスが信仰をあのように歪めていると知ったら、神に命まで捧げる覚悟が揺らぐかもしれない。仮にもしそうすればアレクサメノスに死が訪れる可能性が減りはする。確かに、それはそれで良いことだ。

 だがメネラオスはあくまで自分本位な人間だった。アレクサメノスの選択など、自分に左右する資格はないと考えていた。まして信仰が彼の精神をのっとり、破滅に突き動かしている以上、たとえどれだけ彼の生の非合理性を説こうが、かえって彼の救いへの期待と確信を増長させる結果したもたらさないだろう。あのナザレ人の怖ろしい死にざまを自分の体で再現したい異常者たちに、そこまで気を遣ってやるつもりはなかった。ペルディッカスがあんな絵を描くのも最もだ。

「お前の仲間は、世界中に広まっているそうだな」

 イシスやミトラスと同じく、イエスという神もローマの支配下をかけ巡っている。

 今も昔と変わらず、神々の世界だ。それに飽きて、メネラオスは神々から離れて行ったのだが。

「一人ではないからこそ、信じる心をどこまでも保てるのですよ」

 アレクサメノスは言った。

「あなたの目からも丸太が取り除かれますように……」

 俺にもあいつらみたいな死に方をさせるつもりか、とメネラオスは毒づきそうになった。


 それ以来アレクサメノスがどうなったかメネラオスは知らない。知ろうとも思わない。

 ナザレ人の信奉者以外にも多くの信奉者がいるのは事実なのだ。

 ソクラテスが自死を命じられたのは、旧来の神々の信仰を否定したためだったという。イエスも似た存在だったのかもしれない。

 しかし、そこには自分自身への奢りがあるのではないだろうか。自分自身の正しさがそのまま、善として認められると思い違いをしていたのだから。

 今日もインスラの窓から見下ろすローマの街には偶像があふれている。民衆の雑踏、ユピテルやセラピスを祭る神殿から響く歌声を聞きながら、あのナザレ人がこの街に君臨するなどありえないとメネラオスは確信を深めるのだった。

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