イチズの1日・父子の会話
この物語は すべてフィクションです
イチズは毎朝、母と一緒に家を出る。
母が 農場で働いている間、イチズはキンダーガーデンで過ごす。
そこには 保母さんと 自分と同じような年ごろの子供達がいる。
昼過ぎには、母と一緒に家に帰る。
途中で 母と一緒に買い物もする。
家につくと、父が迎えてくれる。
(父は在宅ワーカーなのだ。)
そのあとは 部屋で一人で遊んだり、
近所に遊びに行ったりする。
夕方、父と一緒にふろに入っている間に、母が夕食をつくる。
◇
父から 挨拶の大切さを教えられてから、少しづつ イチズは 父と話すようになった。
「ねえ、父さんは どうして 今まで 何も話さなかったの?」
「幼い息子に なんと声をかけていいかわからなかった。」
「えっ?」
「父さんの父は ほんとに無口な人で、母は聾だった。
母は 手話で父にはなしかけ、父は はいといいえを首を動かして伝えるだけで、二人の会話がなりたっているようだった。
少し大きくなってからは、二人がモバイルを使って、手話記号でやり取りをしていることに気が付いたが。」
「それで?」
「ん?」
「父さんも モバイルを使って家族と話すようになったの?」
「いや」
「どうして?」
「母は、私が生まれたときは、指導員に言われて、トーキングエイドを使って
赤ん坊の私に 言葉を教えようとしたらしい。
だけど それでは満足できなかったらしくて、よく癇癪をおこしていた。」
「幼いころの私は、母がいつも不機嫌な顔をしていて、突然怒り出すのが怖かった。
それに 声を出して呼んでも 全く気が付いてくれなかった。
なのに、母が私に用があるときは、急に後ろから私の肩をつかんで ワーワー言いながら手を動かすのが怖かった。
そのころは、『私には声が聞こええるが 母には聞こえない』
『母は 他の人の声が聞こえないから、発音も覚えられなかった』ということがわからなかったんだ。
父もすごく無口だったしね。
だから いつのまにか 私は 家で両親と ほとんど話さなくなった。
学校に行くようになってからは、母が聾なので、後ろから話しかけても聞こえないこと。
母と会話をするためには、母の正面で お互いの顔を合わせて話さないといけないことを学んだが、
正直に言うと 母の顔を見るのが怖かった。」
「それに 私はかなり速い時期から 保育所に行ってたんだ。
たぶん生後5・6か月のころには 入所していたと思う。
そこで 音声による言葉を覚えた。
3歳ぐらいの時に、両親が手話記号を使ってやり取りをしているのを見て、私もそれを使いたいと言った。
しかし母は、親子なのだから手話を使えと言って モバイルを使った手話記号での会話を拒否した。
だが、 私は 手話がうまく使えなかった。
手話というのは、向かい合った人が動かしている手と同じように自分の手を動かすと違うっていわれるだろ。そのあたりがよくわからなかったのだ。
聴覚障害があっても、モバイルを使って 文字言語で 健聴者とやり取りをできる人は多い。口話ができる人もいる。
しかし、人によっては どうしても文字言語での会話が理解できなくて、手話と手話記号を使って対話する人もいる。母はそういうタイプの人だった。
昔のデフファミリーの中には、音声言語と文字言語は健聴者との付き合い用のことば、自分たちの言語は手話と考え、上手にそれぞれを使い分けている一家もあったそうだが、母の家族がどういう人たちだったのかは知らない。
母は 家族とは手話で自由に気楽に話したい人だった。
健聴者の中にもいろいろなタイプの人が居るように、聴覚障害の人にもいろいろなタイプの人がいる。
聾であっても、手話と口話・音声言語と文字を使いこなして生きている人もいれば
母のように 手話中心の対話を望む人もいる。
父は 健聴だけど とても無口で、おしゃべりな人との交際は苦手だったらしい。
偶然 手話記号を知り、それを使った文通相手を求めて、ネット上で母と知り合ったらしい。
聴覚障害者のグループの中でも、活発な人は、
相手の唇の動きから相手の音声言語を読み取たったり(=口話)、自分も音声で話したり、手話と文字を併用して、いろいろなタイプの人と交流しながら、自分の道を切り開き、生活を築いていた。
母のように 音声言語や文字を苦手とする人は どうしても付き合えるタイプが限定されてしまう。
だから 母にとって、父との文通は 未知の世界を知る刺激的なものだった。
父にとっては、手話記号を使って 自分のペースで対話・文通できる母との交際は 好ましいものだった。
だから二人は結婚して、幸せだったのだと思う。
一緒に暮らしていても、無口な父の表情や雰囲気を読んで、母は 父に細やかな気づかいをしていた。
父は 家庭外のことをいろいろと 手話記号で母に伝え、
母は 家の中に引きこもっていても 外の世界のことを知ることができたし、
家庭外の人との交流は 父が引き受けていたから、生活がしやすかった。
ただ 健聴の幼児の子育ては 両親にとっては負担だったようだ。
なにしろ 自分たちが苦手とする音声言語を使ったコミュニケーションを我が子としなければならないのだから。
しかも 肝心の息子は 手話の覚えが悪かった。
というわけで 私は ネットワーク学習が始まる前に、寄宿舎に入ることになった。
正直言って あの家から出ることができてほっとしたよ。
一応 家族だから、文通したり、帰省することはできたけど、正直に言えば もう帰りたくなかった。
父は 毎月、文字を使った手紙をくれた。
季節ごとに面会に来て、一緒に買い物に行こうと誘ってくれた。
だが 私は その付き合いがしんどく感じたので断った。
今から思うと 父は相当の口下手で・・
何を思っているのか、どう感じているのか、何を考えているのかさっぱりわからなくて・・
一緒にいると ものすごく疲れた。
だから、あの父と一緒に楽しく過ごせる母は偉大だと思ったよ、昔も今も。
というわけで、7歳からこっち、季節のあいさつを送る以上の付き合いはしていない。
手紙をもらっても、返事を書くのが苦痛だからと、父からの手紙を控えてもらうように頼んだ。
それでも 節目節目の時には、父だけ あるいは両親一緒に 会いに来た。
その前後には 父からの手紙も届いた。
母と面会するときにきちんと話せるように、手話記号も学んだのだが、相変わらず母には受け入れてもらえなくて、困った。
父に言わせると 母の手話は、一般的な手話文法からやや外れているから、正しい手話記号文では ダメなんだそうだ。
だから 母が一緒の時は 父に通訳を頼むことにした。
母も 父に説得されて 私との会話に父の通訳を入れることを受け入れてくれたので、母と会うのも 耐えられるようになった。
母に取ったら、父を通訳に立てることは、
『息子まで 自分と普通に会話ができない、息子まで自分を疎外すると感じて悔しかった』そうだが、
父が母に『君のユニークさを認めている僕だけでは満足できないなんて 僕は悲しいよ』と迫り、母はあきらめることにしたらしい。」
「うわぁ じいちゃん すごい口説き文句!」
「あー そのセリフは 私が父に教えたんだ、面会前後の文通で。」
「うそ!」
「ほんと。
だって 父は 対面で話すことが苦手なだけでなくて、
会話で使う言葉そのものの知識も少ない人だということが だんだんわかってきたから。
私としても、恨みがましい母の睨みつけ攻撃と
ひたすら押し黙った父からの圧力にさらされる面会時間を避けるために、
「状況改善のための研究」を頑張ったのだ。
両親との会話を何とか成立させようと考えて、寄宿学校で 自分から希望して 何年も、特別支援を受け続けたくらいに。だからこそ 自分の負担も考えて、両親の面会時間も絞り込んでもらったんだが。
今でも 私は 人と対話することは苦手だよ。
あの両親のもとで暮らした、人生最初の6年間は 多大な損害を私に及ぼしたと思っている。
たとえ保育所やキンダーガーデンで、健聴者と過ごす時間を保障してもらったとしてもね。
でも 子供は 生みの親を選べない。
だから 親子のミスマッチ被害を小さくするための、教育的援助プログラムが研究され続けているわけだし、私も両親もその恩恵を受けている。
父もまた 息子との交流を続けるために、特別支援を受けていたことは、君が生まれてから聞いたよ。
実際 寄宿学校に入ってからも 親子の縁が途切れず、
最終的には 両親と なんとかコミュニケーションができるようになったのは
「コミュニケーション障害を持つ親とその子の為の、継続的な教育援助プログラム」を受けることができたからだ。
君が生まれてきたとき、僕としては 私の存在を 君が苦痛に思わないでくれるようにと心から祈った。最低でも それだけは守ろうと思った。
だから 君といるときは できるだけ良い雰囲気で、挨拶だけはしっかりしようと頑張った。
あとは 君がある程度 言語理解ができるようになってから、しっかりと話せる父親であろうと努力を続けるのみだ。」
「そんなことを考えていたんだ。」
「ああ」
「夕ご飯 できたわよ。
はやく お風呂から出てきなさい。」
風呂の外から母が呼びかけてきた。
「「はーい。 今行く」」僕たちは あわてて 風呂を出た。
(補注)
※ 本文中でとりあげている「手話記号」というのは、今の日本には存在しません
(口話指導などで使われていたキュードなどとも異なります)
※ 「口話」というのは、話し手の唇の動きを読み取って、相手の話(発語)を理解するとともに、
幼少時からの特別な訓練の結果、自分の発声器官(唇・舌など)の動きとして発語を身に着けて
音声言語を話す、聴覚障害者の会話方法です。
ただ 聴覚障害者には自分の声が聞こえておらず、あくまでも口腔の運動として発話しています。
話すときの音量の調整も、発話に伴う息の強さを、口の前に置いた紙の動きや、口の前にかざした掌に当たる息の感触として確かめながら 音量調節を覚えるのです。
なので 幼児期の訓練は かなり厳しいものとなります。
読唇は、英語など唇・口の形がはっきりとした音声言語に比べ、
日本語のようにあまり口を動かさない・唇を変化させない音声言語では、かなりむつかしくなります。
また 会話の間中、相手の顔に注目し続けなければならない為 目の負担が大きく
さらに 1対1の対話ならともかく、
複数の者が集まる雑談では、話し手がどんどん変わるため
その都度 発言者の方に向き直って唇を読み取るという作業が必要になるため、
聴覚障害者にとっては 参加しにくいものとなります。
※ トーキングエイド:キーボード入力により音声を発する端末
現代日本におけるトーキングエイドについては↓
https://www.p-supply.co.jp/topics/index.php?act=detail&id=491
現在販売されている、非課税・福祉機器としてのトーキングエイドの実物写真は↓
https://www.talkingaid.net/products/ta-plus
現場では 聴覚障碍者よりも、肢体不自由児や脳卒中の後遺障害を負った失語症等の人々のツールとして 使用されているように感じる。
・なお 物語で使われているトーキングエイドの仕様は SFバージョンで、現況の物とは違います(;'∀')
(参考書籍)
・ハナ グリーン 1997 「手のことばー聾者の一家族の物語」(みすずライブラリー)
聾者の両親から生まれた子どもは「聞こえる」娘だった。家族の半世紀にもわたる無関心と誤解と苦難に対する闘いの跡をたどり、沈黙とコミュニケーションの間にある深い裂け目を見据える。再刊
https://www.msz.co.jp/book/detail/05022/ より
↑
私が読んだのは 1970年代末 つまり再刊される前の書籍です
聾の両親を持つ健聴の娘さんの 家庭内での また学校での孤立感・寂寥感、実際的な困惑をひしひしと感じました。
・私は 同じ作者の「デボラの世界 分裂病の少女」1971年 みすず書房 の作品よりも、
「手の言葉」の主人公に共感しました。
◇
・最近では 「聞こえない親の元で育つ聞こえる子ども コーダ(CDA)を育てる親の悩み」というNHK番組もあったようですが、私は未見です。
公開:
2024年3月5日(火)午前11:22
更新:
2025年3月18日(火)午前11:43
NHK
「聞こえない親のもとで育つ、聞こえる子どもたち。英語の頭文字をとって「コーダ(CODA : Children Of Deaf Adults)」と呼ばれています。子どもは“ろう者の文化”と“聞こえる人の文化”を行き来しながら成長します。一方で聞こえない親たちは、コーダの子育てならではの悩みを抱えがちです。工夫をしながらコーダの子を育てる、聞こえないママたちを見つめます。」
https://www.nhk.jp/p/heart-net/ts/J89PNQQ4QW/blog/bl/pA7G0jqaYA/bp/pgn9d3Kv0G/ より
・NHKは 放送開始当時から、受信料を使って「最先端の録画技術を活用した 先端科学の研究への寄与」というテーマに沿って、幅広く 当時の 一流の研究者・実践家とともに 取材・撮影・放映による研究活動とあわせて 庶民への情報提供を行なってきました。
その取り組みは、コミュニケーション分野においても、一貫してすすめられました。
たとえば、
「ことばの誕生 産声から五歳まで」
昭和36年9月中旬に生まれた4人の子供の声を、誕生の瞬間から継続して5年間録音して 成長をたどり、研究。
それを書籍化したのが、
日本放送出版協会 昭和43年8月20日 初版
岩淵悦太郎 波多野完治 内藤寿太郎 切替一郎 時実利彦 沢島政行 村石昭三 滝沢武久 著
いずれも 各界のそうそうたるメンバーです
(国語学:国立国語研究所長、心理学:お茶の水女子大学長、小児科医、耳鼻科医、脳生理学、音声言語医学、言語発達 教育心理学)
いずれの先生方の著作も 大学時代のテキストで いっぱいレポートを書きましたw)
・その一方で、全日本ろうあ連盟(1947年創立)が、1976年に手話通訳認定試験を開始し
1979年 厚生省委託の「手話通訳指導者養成研修事業、標準手話研究事業」の開始が始まると
いち早く、手話関連の話題を特集し、
1990年からは、手話講座番組・手話ニュースを 放送番組に取り込むなど、
コミュニケーションの多様性の実現に向けた取り組みを積極的に推進し、
日本で暮らす誰もが 自分が必要とする情報を入手し
自分自身のための学習活動に取り組めるように、
公共放送としての使命をはたさんと、時々刻々と継続的に進化・適応してきました。
(だから 受信料は 単に番組を見る代金ではなくて、もっと奥深く 豊かな社会を形成する土壌の肥やしになっている点が、NHKと その他の有料放送(企業利益の追求)とでは 違うのだと ご理解いただければと思います。
つまり 受信料は 自動引き落としで支払ってね♡
受信料をきっちりと支払ったうえで、番組への疑問や批判を展開しましょうw(←個人的見解です_(._.)_
◇
全日本ろうあ連盟のサイトは
https://www.jfd.or.jp/about
第1世代は かなり強烈な個性豊かな面々であり、
社会から疎外されることを拒否して戦う面々でもありましたが、
今 活躍している世代は・・
分断をつなぐ橋がすでに出来上がった社会において、
ある種 日本の聴覚障害児教育(学校教育)におけるトップの成果を収めた人たちだと思います。
たとえ 手話の推進派であっても。
(私はあえて言えば 1.5世代くらいの、難聴・聾の人とともに橋を作る 健聴者側から参加者だった視点でこの作品を書いていますので
各自の立ち位置により いろいろ批判はあるかと思いますが その点はお許し下さい。
あくまでも フィクションで SFものですので、すみません <(_ _)>
特に歴史的経緯と舞台設定は 現実社会とは 全く異なりますので!! ←ここ大事
そして あくまでも これは 個人的な見解をもとに書いております。 ←ここ重要
文責はすべてに私にあり、既存の 機関・制度・組織・各個人の見解とは 完全に無関係です。)
◇ ◇ 「言葉の誕生」に記された 重要な知見と 仮説と、リアル展開半世紀への感想 ◇ ◇
①ことばの習得に、「学習条件」が大きく影響している
・先行研究で、言語習得・言葉の学習において、「親による指導」の影響がさほどないとされていたのは、「家庭全体の雰囲気を考慮しない皮相な観察」であることがわかった。
・親の指導方針といった「意識的にコントロールできる要因はあまり影響がない」かもしれないが
「家庭の雰囲気」といった 一人一人の意識を超えた行動・活動は、家族にとって著しく異なり
それが 子どもの言語習得能率の差となって表れる
⇒CODAだけでなく、両親のタイプによっては、
子供の言語習得促進・発達保障のための特別支援が必要な家庭もある
(現状では、未実施・まだ実現していません。だから未来小説で取り上げようと思った)
それが 親子関係の改善にも役立つものであってほしいと願うのは 私の個人的願望
②言語習得の段階は、体の機能の影響を受ける
〇発語には、発音・発声の構音機構を整備する感覚運動的段階が必要
赤ん坊のころは、言葉もまた 一つの「運動」であり「感覚運動」である
子供のあご、口腔が 「言葉」の基礎となる
・発声・発音・発語という「運動」
⇓
運動を通して ひとつひとつのことばが「意味」(事物とのかかわり)を持つ。(「能記・サイン」)
・発音・発語には その子の微細運動能力(細かな筋肉の動き)が関係する
だから 乳児期で 言葉が遅い子がいても 心配ないですよと 健診担当者が言うのです
「お父さん お母さんは どうでしたか?
あ おそめでしたか。だったら そのころ(親の発語時期)まで ゆったり構えましょう」
みたいな感じでw
(手先の器用さ不器用さと同じように 話し始めの早い子遅い子がいるのは 個性のうちw)
〇映像的段階の存在
一語文の発達以後、ことばは、心内に入って 映像化し、思想の表現に大きく作用する
幼児期にスマホを持たせることの良しあしについては この観点からの 縦断的行動観察分析が必要ではないかと、
それなしに あれこれいっても 机上の空論・大人の観念的な話(各自の思い込み)に終始するのではないかと
私は個人的には考えている。
〇言い換えるなら、一語文の時代から、「音声」+「事物についてのシェマ、子供の行動を大人がいかに概念化するかという 周囲からの働きかけ」が重要 という仮説が成り立つ。
◇
この仮説に基づいて、様々な 子供に対する言語療法的プログラムが提唱されてきたが、
一部の学級担任やxx訓練士たちが、対象の内的発達年齢を勘案することなく 形式的に「xx法」を適応していることが
「訓練成果があがらない」「教育不能」なんぞというラベル付け(教師・担当者の無能さを 子供に転嫁する偽「教育的評価」の蔓延)につながっていると 私は見ています。
(その者達が用いているつもりの訓練法がまっとうであっても、実際の指導現場を観察すれば、
その訓練方法そのものを正しく実行できていない指導者ほど、平気でそういうことを言う!というのが
私の実感でした。)
子供に係る職業に就く人たちは、
”「音声という「感覚運動的」行為のシェマと、事物に対する「感覚運動的」シェ,相互に「同化」しあって、その結果として 言葉の学習が進むのでないかという仮説”
の本質を、再度しっかりと認識,(再学習)して頂きたい。
用語とその解説だけを テストの回答用紙に書き込んで、資格を取得したり、
保護者に向かって 偉そうに文章を復唱してみせて、自分の権威付けや、保護者の自発的な発言をぶった切ることに利用するのではなくて!
とマジ思うことが リアル日常の中でたびたびありました。
資格制度設立と連動させた情報公開と共有のむつかしさ(課題)が ここにも現れていると考えます。
研究と実践が 純粋に教育活動の一環として確立し、切磋琢磨しながら発展する道を閉ざし、
専門学校等の営利活動と結びつけて 諸資格が制度化された日本の制度的欠陥が、
子供達とその保護者に 多大な不利益をもたらした点を見過ごしてはならないと、私は考える。
その発端が 厚生省>文部省の力関係にあったとしても><
言い換えるならば、医学と教育学が 対等の立場で共業するのではなく
障害児教育における教育的活動が 医療現場におけるヒエラルキーの中に組み込まれる一方で、
教育活動における援助的側面が、運動論からひいてはメディアの宣伝活動の支配下・影響下におかれてしまったことが、
平成~令和にかけての不幸(学校における教育力の急低下 制度的崩壊)の一因ともいえるのではないでしょうか?
本来、障害児教育とは、教育・医学・福祉の共同の場であったはずなのに!
◇
・1947年の教育基本法と学校教育法の公布により、日本国民はすべて 9年間の学校教育を受ける権利が保証されました。
しかしながら、専門的な教育援助を必要とする「障害児」に対しては、施設の整備や専門教員の配置が間に合わないことから「就学猶予・免除」規定が設けられました。
この就学猶予というのは、保護者が、己が保護する子供を9年間学校に通わせる義務を負う(応分の費用負担と子供の通学環境を整える義務)という、日本の教育制度の基本において、
学校を準備し運営する義務を負う国と自治体が、それだけの体制を未だ整えられていないので、
保護者側にも 子供を通学させる義務を猶予・免除しますという
法律上のレトリックでありました。⇦ここ重要!
その結果、日本国民として生まれた者すべてに対して 日本国が保証していたはずの
「教育を受ける権利・学習権」から疎外された多くの障害児たち
しかしながら 各都道府県に最低1校は設立されていた盲・聾・養護(肢体不自由・精薄)学校教員たちの、 粘り強い研究と教育実践、
そしてわが子に学校教育を受けさせたいと献身していた保護者達の努力の結果として、
1979年養護学校の義務化が実現しました。
それは、これまで 「障害があるから」と差別され、教育を受ける権利をはく奪されてきた子供達と
いわば日本社会から法規を盾にとって公然と排斥され続けてきた子供達を、家庭内で 何とか養育しようと頑張っていた保護者達を守り、
国と自治体の責務(6歳~15歳の日本国籍を持つ子供達が持つ 教育を受ける権利を保障する義務)を
果たさせるための法改正であったわけです。 ⇦これも重要!!
それをなぜか、「子どもの選別・障害者差別だ」と虚偽の報道を繰り返し、
実情を知らない人をあおって抗議行動に煽り立てた 全国紙・TV局の「報道」と称する、デマ宣伝を
私は決して許しません!! (その怒りが 私の進学・職業選択につながったともいえます)
(その同じ新聞社が 外国人が日本で教育を受ける権利(そんなものは憲法でも法律でも決まっていない!国際的に見てもあり得ない主張)を「守る」ために「民族学校」に日本の国費を費やせと執拗に何十年も書き立てていた矛盾、
外国人が日本の学校に通うこと、そのために公費支出することを受け入れている日本の義務教育制度を否定して 民族教育のための別枠のクラスや学校運営を日本国の税金でまかなえと主張していることと、
持って生まれた個性(=心身の特徴)に合わせた その子が必要とする教育・援助を実施するための場である養護学校(当時の呼称)を攻撃しまった全国紙・TV局の矛盾!!)
私が子供のころ、
今でいうところの「自閉症」タイプの子供が 日本社会の中で存在することが許されず、家庭内に閉じ込められたまま、父親はさっさと離婚したり別居して逃げだし、母親一人が 家の中で苦悩するさまを 何例も見てきました。
その子の家の中は 荒れ果て、その子は 何かといえば暴れ、母親が憔悴しきっていた姿も。
しかし 養護学校義務化により、その子らは スクールバスの送迎付きで毎日学校に通うことができるようになり、
お子さんたちは、家の中では 落ち着いて過ごすようになり、
それまで疲れ切ってやつれた姿だった母親だった人たちに 人間らしい感情がよみがえったのを
私はリアルで間近で見ています。
(もちろん にわかに増員された教師たちの中には 専門知識なく、不適切な行動をとった教師がいたのも事実ですが)
その後 紆余曲折を経て、養護学校は「支援学校」と名をかえ、そこに通う子供達への分類上の呼び名も変わりました。
それを実現したのは 専門性の高い教師たちによる粘り強い教育実践により、
どのようなハンディがあろうとも、子供達には 学習により成長する力があるのだという、まぎれもない結果・実例を掲げ、
だから その子たちが持っている心身の特徴(個性)を理由に この子たちを学校教育から排斥し続けている「教育免除規定は誤りである!」と
政治家と行政に突きつけてきた教師たちの真摯な活動であり、
その教師たちと連携して医師として医学的発展を促進してきた一部の医師たち、
そしてなによりも 苦境の中で 何とかわが子に教育を受けさせ、人間らしい生活が送れる大人に育てようと頑張った母親たちの献身です。
けっしてマスごみの成果でもなければ 政治団体の手柄でもない!!
そいつらは 養護学校義務化以後に、己の利益のために デマを巻き散らかして騒ぎ出した有象無象に過ぎないのです!!
と 半世紀以上もの間(養護学校義務化以前の15年以上もの間を含む) 障害児者と同じ地域の仲間として生きてきた私は 強く主張したい!!
学校に通えることのありがたみを、学校に通うことが許されなかった同世代の仲間たち(就学免除規定のせいで!!)とともに育った私は 強く実感して育ちました。
だから 仲間たちが やっと 学校に通うことが認められた1979年の法改正は大歓迎でしたし
その成果は ほんとに 予想以上に 仲間たちの家族全員に光をもたらしたことも つぶさに
リアルタイムに見ています!!!!
学校に通えることは 自分の人生を自分の手に握ることを可能とする唯一の手段と言っても過言ではありません!
そしてまた 一人では日常生活を送ることのできない子供達に、
家庭外で過ごすことのできる時間と場を保障する養護学校義務化により、
その子たちの母となった人達に 己の時間・己の人生を取り戻す機会、さらに収入を得る機会(短時間でも働いて生活費を得るチャンス=生活保護からの脱却の実現)を与えることになったのも事実です
養護学校義務化以前の日本社会では、障害児を産んだ女は、
離婚されたり夫が逃げ出し無収入の状態にさらされ、
貧困と24時間「目を離すことのできない」我が子と 部屋の中に閉じ込められる生活を強いられていた現実を、
一体 どれだけの記者が知っているのであろうか?
実態を知らず 手前勝手なイデオロギーと物語だけを「報じて荒稼ぎする」全国紙・TV局には 怒りを禁じえません。
近代史捏造の主体でもあるメディアを許してはなりません!
・一番悪質なのは、「限定された地域の 特例的な状態」をとりあげ、そこから 新聞社の主観に沿った運動論に情宣していったケースです。(詳細は長文になるので 別の機会に改めて述べたいと思います)
こうした虚偽報道に惑わされないためにも、日ごろから 身近な現実を直視する必要性を、私は強く訴えたい。 先入観で人や物事を見てはいけません。
物事を直視するのは 思った以上にむつかしく、時には危険を伴い
あまりにもひどい現実を前に、知らなきゃなきゃよかった思うこともあれば、
知っただけでは物事の改善につながらないことも多く、無力感を募らせる結果になったり
無遠慮なのぞきになってしまって他者を傷つけることにもなりかねない危うさも潜んでいるので
そんな気軽に言えることでもないのは 承知の上で、
それでも デマに惑わされないためには、
身の回りの出来事を 注意深く見る必要性があることも主張したいです。 <(_ _)>