表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天体葬儀士の鎮魂録:共鳴する星のレクイエム  作者: 灰庭ぐり
第2章:虚像に沈む惑星 《エクリノム》
6/7

プロローグ:かつて幸福だった記録

 船体を伝う微かな震動が、浴室の床を通して足裏に届く。巡航艇 《リカオン》は慣性航行を続けながら、星域の外縁を滑るように進んでいた。


 ユン・ミレは、壁に埋め込まれたシャワーユニットの前で目を閉じる。細やかな湯の粒が頭上から降り注ぎ、黒髪をなで、肩を伝い、鎖骨のくぼみに沿って滴っていく。皮膚に触れた雫が飛沫となって弾け、指先を過ぎて床へと消えた。


 吐く息に混じる湯気は、今日に限ってやけに心地よい。温度設定はいつもと変わらないはずなのに、芯からほどけるようなぬくもりを感じるのは、きっと“前の星”で覚えた沈黙の感触が、まだどこかに残っているからだ。


 あの星――《ミラ=Nira》。液層の深奥に、誰にも聴かれなかった“子守唄”が眠っていた惑星。葬儀士としての初任務を終えたユンにとって、それは単なる記録ではなく、「確かに存在していたもの」として、心に刻まれていた。


 だが、感傷に浸れる時間は思いのほか短かった。


【ユン・ミレ。黙示庁より、新たな任務が割り当てられました】


 艦内スピーカーから響いたのは、サポートAI《K-0ma》の機械的な声だった。


「はいはい、今出るから、ちょっと待ってて」


 額の汗をぬぐい、シャワーのノズルを止める。無重力下でも湯の粒は滑るように落ち、排水面へと吸い込まれていった。


 ユンは手早く身体を拭き、壁のロッカーから白いバスローブを取り出して羽織る。濡れた髪から落ちる雫が、床に柔らかなリズムを刻んだ。


 スツールに腰を下ろすと、足元のタイルの冷たさに思わず身を引き締める。


 情報端末に指を滑らせると、指令ポートが静かに起動し、澄んだディスプレイに黙示庁《Arka-Sun》からの指令コードが浮かび上がる。


 ーーーーーーーー

 ▼黙示庁・第9223葬儀調査命令

 記録識別ID:EKR-22114


 ▼対象宙域

 ミロク宙渦第9軌条宙域 《リプレイ・ベルト》


 ▼対象惑星

 惑星 《エクリノム》


 ▼状態

 記録不能指定星(識別No. 45-EKR)


 ▼構成チーム

 導師:オラム・トーナス

 技術士:ケイル・マーン

 葬儀士:ユン・ミレ

 ーーーーーーーー


「……記録不能?」


 バスローブの胸元を合わせながら、ユンは小さく首を傾げた。


 “記録不能指定”とは、記録局や観測庁が正式に「これ以上の観測価値なし」と判断した、“死者”としての星に下される最終通告である。つまりそれは、宇宙からの“看取り”を意味していた。


 だがそれでもなお、葬儀が行われるのは――そこに「残響」があるからだ。


 物理的な死ではなく、文明が滅び、記憶が崩れ、意識の残滓だけが星域に漂っているような状態。そこから、ほんのわずかな「声」や「手触り」をすくい上げること。


 それが、天体葬儀士の仕事だった。


 添付されていたエクリノムの映像が、ホログラムとして目の前に展開される。

 ユンが指をスライドさせると、夕暮れに美しく照らされた巨大な都市の姿が現れた。


 街路灯、影を落とす高層ビル、空を舞う小型ドローン――そのすべてが、まるで今も誰かがそこで生きているかのように見えた。


「ずいぶん文明が発展してる星に見えるけど……ほんとに葬儀していいのかな」


 ミロク宙渦 《リプレイ・ベルト》。

 かつて情報文明の極致に達した星域。記録が現実を凌駕し、実体への信頼が失われていった、その末路。

 エクリノムは、その中核に位置する惑星だった。


 髪をまとめていたタオルを外すと、天井のパネルから微かな音がし、低音振動フィールドが自動的に起動する。

 水滴が細かな霧となって肌の上でほどけ、空調ユニットへと吸い込まれていった。


 ユンは襟足に残る感触を指先で確かめ、ひとつ息を吐く。


【巡航艇内気圧、標準圏。ユン・ミレの体表温、36.5度に安定。バイタル正常域内です】


 壁際のミラーに視線を移し、手ぐしで前髪を整えながら、ユンが何気なく呟く。


「髪、もっと伸ばしたほうが“シゴデキ”に見えるかなー」


【その発言には“外見に対する不安”および“自己肯定感の揺らぎ”が含まれています】

【ユン、今のあなたは十分に“できる人”です】


「わー、珍しく優しい回答」


【なお、“髪が長い女性は仕事ができそうに見える”という認識は、過去100年の広告資料において36.2%の頻度で確認されています】

【第一印象への影響はありますが、実際の評価は、その後の言動により決定されます】


「ありがとう。じゃあ、その“評価”をキープできるように頑張るよ」


 バスローブの袖を直しながら、ユンはひとつ深呼吸をした。

 次の任務へ備える前の、ささやかな気持ちの切り替えだった。


【新航路の割り当てを確認。恒星管制ネットにより進路を再編中】

【宙域間転移に伴う移動時間は標準時間で約4サイクル──およそ13時間です】


「ふうん……じゃあ、まだシャワー入っててもよかったのね」


 バスローブが肌にふわりと触れる感触に埋もれながら、ユンは小さく肩をすくめる。


 艦橋のメインモニターとリンクした自室の航行管制ディスプレイには、現在の転移航路と、到達予定の惑星エクリノムが描かれた軌道マップが静かに表示されていた。


「記録不能指定星、識別ナンバー45-EKR……惑星 《エクリノム》」


 声に出して読み上げることで、わずかにその存在が現実味を帯びる気がした。


【任務開始予定は標準時間で13時間後です。十分な休息時間が確保できます】


「了解。……まあ、たまにはちゃんと寝るのも悪くないかもね」


【起床予定時刻に合わせ、室温・照度を調整します】

【環境音の再生が可能です。ご希望はありますか?】


「……水の音が聴きたいな」


【承知しました。音源ライブラリより“プロキシマ・ベータの夜雨”を再生します】


 天井パネルがわずかに明滅し、空調システムから静かな音が立ち上がる。

 細かな粒が天蓋に当たるようなリズムに続き、遠くを流れる低い風音が混ざり始める。


 “プロキシマ・ベータの夜雨”。

 環境音ライブラリの中でも、睡眠前の再生率が高いとされる音源だ。

 記録装置に保存された実際の気象データから再構成された音は人工的でありながら、不思議と耳に馴染む。


 乾いた船内に広がる、疑似的な湿度と音の微かな揺らぎ。

 ユンにとっては、無音よりも、こうした“少しだけ何かがある”静けさの方が落ち着いた。


 バスローブの襟元を軽く合わせ、ベッドにもたれかかる。

 深く息を吸い、吐く。音に意識を預けるようにして、ゆっくりと目を閉じた。


 *

 *

 *


【起床プログラム開始。照度を段階的に上げます】


 まぶた越しに、やわらかな光が差し込む。ユンは小さくあくびをした。


「ん……もう時間?」


 寝起きの声に反応して、天井スピーカーから《コマ》の淡々とした声が返る。


【任務開始予定時刻まで、あと2サイクル──約8時間です】


「……思ったより寝ちゃったかも」


【入眠時間は8時間12分。前回任務の疲労蓄積を考慮し、途中で覚醒シグナルは送信していません】

【次の作業ブロック:着替え・補給食・ブリーフィング】


「了解、了解……まずは顔洗わなきゃ」


 ユンはベッドから起き上がり、洗面ユニットへ向かう。

 ミラーの下、噴射口をタップすると、ぬるめの再生水が霧状になって顔を包んだ。

 短く洗顔を済ませ、髪を整えると、ラックから標準スーツを手に取る。


 宇宙船用スーツは、温度調整機能と柔軟素材により、肌にぴたりと馴染む。

 船内服のゆるいバスローブ姿とは違い、身を包んだ瞬間、気持ちがすっと切り替わった。


「……やっぱり、こっちのほうが落ち着く」


 着替えを終えたユンは、室内の一角に設置されたガレー(簡易調理ユニット)へ向かう。

 温調パネルを操作すると、加熱された食事パックが音もなくコンパートメントから現れた。


 ラベルには「レモンジンジャー風味/スチューバー(再水和済)」とある。

 透明なパック越しに、淡く黄みを帯びたスープと、浮かぶ柔らかな固形片が見える。


 ユンはそれをトレイに載せ、重力安定フィールドの微かなゆらぎを感じながら席へ戻った。

 封を切ると、柑橘と生姜の香りがふわりと立ち上がる。空腹を刺激するというより、身体に寄り添うような香りだ。


「いただきます」


 つぶやきとともにスプーンを手に取り、透き通った琥珀色の層を一口。

 レモンピールの粒子が光を弾き、酸味と微かなジンジャーの熱が、ゆっくりと舌の上に広がっていく。


 固形片のなかの水分が飲み込む直前にふわりとほどける。思っていたより、ずっと美味しい。


「……うん、今日のは当たりかも」


 二口、三口とスプーンを進めるたび、温かな酸味とやわらかな甘みが、身体の内側へ染み込んでいった。


 食べ終えると、トレイをガレー横の回収スロットに滑り込ませる。


【摂取完了。カロリー補充率87%、水分量・ミネラル濃度ともに正常です】


「ありがと。じゃあ、そろそろ本題ね」


 立ち上がったユンは、艦橋の中枢──インフォ・デッキへ向かう。

 壁面に設置された湾曲モニタが起動し、宙域図と任務ログが自動展開される。


【ブリーフィング・モードに移行。指令内容を再表示します】


 曇りのない画面に、“第9223葬儀調査命令”のコードが浮かび上がる。

 ユンは軽く顎に手を当て、内容に目を通す。


【対象宙域:ミロク宙渦第9軌条宙域リプレイ・ベルト

【対象惑星:エクリノム(識別No.45-EKR)】


「やっぱり、ここね。“記録不能”なんてラベル貼られてるけど……映像を見る限り、まだ“生きてる”ようにも見える」


 ホログラムが浮かび上がり、夕暮れの都市が再投影される。

 無人であるはずの街路には、風に揺れる広告幕や、点滅を続ける信号灯の姿が映っていた。


【記録上では、当該星域での居住者反応はゼロ】

【ただし、観測ノイズの頻度が異常に高く、情報の整合性が崩壊している可能性があります】


「……つまり、“何か”が、まだ残ってるってことね」


 ユンは背後のシートに腰を下ろし、指先で都市の縁辺部を拡大した。

 廃墟となった研究施設のような構造物が映し出される。


【当該構造物内で、音響信号およびデータ反射を複数回検出】

【ただし、いずれも通信プロトコルに適合せず、“未分類”と処理されています】


「データノイズにしては……妙に規則的。行ってみるしかないわね」


【現地への接近判断は、ユン、あなたの裁量に任されています】


 《コマ》の声が静かに応じた。

 ユンは短く息を吐き、画面から視線を外すと、起動シーケンスに手を伸ばした。


「了解。準備に入る」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ