プロローグ:かつて幸福だった記録
船体を伝う微かな震動が、浴室の床を通して足裏に届く。巡航艇 《リカオン》は慣性航行を続けながら、星域の外縁を滑るように進んでいた。
ユン・ミレは、壁に埋め込まれたシャワーユニットの前で目を閉じる。細やかな湯の粒が頭上から降り注ぎ、黒髪をなで、肩を伝い、鎖骨のくぼみに沿って滴っていく。皮膚に触れた雫が飛沫となって弾け、指先を過ぎて床へと消えた。
吐く息に混じる湯気は、今日に限ってやけに心地よい。温度設定はいつもと変わらないはずなのに、芯からほどけるようなぬくもりを感じるのは、きっと“前の星”で覚えた沈黙の感触が、まだどこかに残っているからだ。
あの星――《ミラ=Nira》。液層の深奥に、誰にも聴かれなかった“子守唄”が眠っていた惑星。葬儀士としての初任務を終えたユンにとって、それは単なる記録ではなく、「確かに存在していたもの」として、心に刻まれていた。
だが、感傷に浸れる時間は思いのほか短かった。
【ユン・ミレ。黙示庁より、新たな任務が割り当てられました】
艦内スピーカーから響いたのは、サポートAI《K-0ma》の機械的な声だった。
「はいはい、今出るから、ちょっと待ってて」
額の汗をぬぐい、シャワーのノズルを止める。無重力下でも湯の粒は滑るように落ち、排水面へと吸い込まれていった。
ユンは手早く身体を拭き、壁のロッカーから白いバスローブを取り出して羽織る。濡れた髪から落ちる雫が、床に柔らかなリズムを刻んだ。
スツールに腰を下ろすと、足元のタイルの冷たさに思わず身を引き締める。
情報端末に指を滑らせると、指令ポートが静かに起動し、澄んだディスプレイに黙示庁《Arka-Sun》からの指令コードが浮かび上がる。
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▼黙示庁・第9223葬儀調査命令
記録識別ID:EKR-22114
▼対象宙域
ミロク宙渦第9軌条宙域 《リプレイ・ベルト》
▼対象惑星
惑星 《エクリノム》
▼状態
記録不能指定星(識別No. 45-EKR)
▼構成チーム
導師:オラム・トーナス
技術士:ケイル・マーン
葬儀士:ユン・ミレ
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「……記録不能?」
バスローブの胸元を合わせながら、ユンは小さく首を傾げた。
“記録不能指定”とは、記録局や観測庁が正式に「これ以上の観測価値なし」と判断した、“死者”としての星に下される最終通告である。つまりそれは、宇宙からの“看取り”を意味していた。
だがそれでもなお、葬儀が行われるのは――そこに「残響」があるからだ。
物理的な死ではなく、文明が滅び、記憶が崩れ、意識の残滓だけが星域に漂っているような状態。そこから、ほんのわずかな「声」や「手触り」をすくい上げること。
それが、天体葬儀士の仕事だった。
添付されていたエクリノムの映像が、ホログラムとして目の前に展開される。
ユンが指をスライドさせると、夕暮れに美しく照らされた巨大な都市の姿が現れた。
街路灯、影を落とす高層ビル、空を舞う小型ドローン――そのすべてが、まるで今も誰かがそこで生きているかのように見えた。
「ずいぶん文明が発展してる星に見えるけど……ほんとに葬儀していいのかな」
ミロク宙渦 《リプレイ・ベルト》。
かつて情報文明の極致に達した星域。記録が現実を凌駕し、実体への信頼が失われていった、その末路。
エクリノムは、その中核に位置する惑星だった。
髪をまとめていたタオルを外すと、天井のパネルから微かな音がし、低音振動フィールドが自動的に起動する。
水滴が細かな霧となって肌の上でほどけ、空調ユニットへと吸い込まれていった。
ユンは襟足に残る感触を指先で確かめ、ひとつ息を吐く。
【巡航艇内気圧、標準圏。ユン・ミレの体表温、36.5度に安定。バイタル正常域内です】
壁際のミラーに視線を移し、手ぐしで前髪を整えながら、ユンが何気なく呟く。
「髪、もっと伸ばしたほうが“シゴデキ”に見えるかなー」
【その発言には“外見に対する不安”および“自己肯定感の揺らぎ”が含まれています】
【ユン、今のあなたは十分に“できる人”です】
「わー、珍しく優しい回答」
【なお、“髪が長い女性は仕事ができそうに見える”という認識は、過去100年の広告資料において36.2%の頻度で確認されています】
【第一印象への影響はありますが、実際の評価は、その後の言動により決定されます】
「ありがとう。じゃあ、その“評価”をキープできるように頑張るよ」
バスローブの袖を直しながら、ユンはひとつ深呼吸をした。
次の任務へ備える前の、ささやかな気持ちの切り替えだった。
【新航路の割り当てを確認。恒星管制ネットにより進路を再編中】
【宙域間転移に伴う移動時間は標準時間で約4サイクル──およそ13時間です】
「ふうん……じゃあ、まだシャワー入っててもよかったのね」
バスローブが肌にふわりと触れる感触に埋もれながら、ユンは小さく肩をすくめる。
艦橋のメインモニターとリンクした自室の航行管制ディスプレイには、現在の転移航路と、到達予定の惑星が描かれた軌道マップが静かに表示されていた。
「記録不能指定星、識別ナンバー45-EKR……惑星 《エクリノム》」
声に出して読み上げることで、わずかにその存在が現実味を帯びる気がした。
【任務開始予定は標準時間で13時間後です。十分な休息時間が確保できます】
「了解。……まあ、たまにはちゃんと寝るのも悪くないかもね」
【起床予定時刻に合わせ、室温・照度を調整します】
【環境音の再生が可能です。ご希望はありますか?】
「……水の音が聴きたいな」
【承知しました。音源ライブラリより“プロキシマ・ベータの夜雨”を再生します】
天井パネルがわずかに明滅し、空調システムから静かな音が立ち上がる。
細かな粒が天蓋に当たるようなリズムに続き、遠くを流れる低い風音が混ざり始める。
“プロキシマ・ベータの夜雨”。
環境音ライブラリの中でも、睡眠前の再生率が高いとされる音源だ。
記録装置に保存された実際の気象データから再構成された音は人工的でありながら、不思議と耳に馴染む。
乾いた船内に広がる、疑似的な湿度と音の微かな揺らぎ。
ユンにとっては、無音よりも、こうした“少しだけ何かがある”静けさの方が落ち着いた。
バスローブの襟元を軽く合わせ、ベッドにもたれかかる。
深く息を吸い、吐く。音に意識を預けるようにして、ゆっくりと目を閉じた。
*
*
*
【起床プログラム開始。照度を段階的に上げます】
まぶた越しに、やわらかな光が差し込む。ユンは小さくあくびをした。
「ん……もう時間?」
寝起きの声に反応して、天井スピーカーから《コマ》の淡々とした声が返る。
【任務開始予定時刻まで、あと2サイクル──約8時間です】
「……思ったより寝ちゃったかも」
【入眠時間は8時間12分。前回任務の疲労蓄積を考慮し、途中で覚醒シグナルは送信していません】
【次の作業ブロック:着替え・補給食・ブリーフィング】
「了解、了解……まずは顔洗わなきゃ」
ユンはベッドから起き上がり、洗面ユニットへ向かう。
ミラーの下、噴射口をタップすると、ぬるめの再生水が霧状になって顔を包んだ。
短く洗顔を済ませ、髪を整えると、ラックから標準スーツを手に取る。
宇宙船用スーツは、温度調整機能と柔軟素材により、肌にぴたりと馴染む。
船内服のゆるいバスローブ姿とは違い、身を包んだ瞬間、気持ちがすっと切り替わった。
「……やっぱり、こっちのほうが落ち着く」
着替えを終えたユンは、室内の一角に設置されたガレー(簡易調理ユニット)へ向かう。
温調パネルを操作すると、加熱された食事パックが音もなくコンパートメントから現れた。
ラベルには「レモンジンジャー風味/スチューバー(再水和済)」とある。
透明なパック越しに、淡く黄みを帯びたスープと、浮かぶ柔らかな固形片が見える。
ユンはそれをトレイに載せ、重力安定フィールドの微かなゆらぎを感じながら席へ戻った。
封を切ると、柑橘と生姜の香りがふわりと立ち上がる。空腹を刺激するというより、身体に寄り添うような香りだ。
「いただきます」
つぶやきとともにスプーンを手に取り、透き通った琥珀色の層を一口。
レモンピールの粒子が光を弾き、酸味と微かなジンジャーの熱が、ゆっくりと舌の上に広がっていく。
固形片のなかの水分が飲み込む直前にふわりとほどける。思っていたより、ずっと美味しい。
「……うん、今日のは当たりかも」
二口、三口とスプーンを進めるたび、温かな酸味とやわらかな甘みが、身体の内側へ染み込んでいった。
食べ終えると、トレイをガレー横の回収スロットに滑り込ませる。
【摂取完了。カロリー補充率87%、水分量・ミネラル濃度ともに正常です】
「ありがと。じゃあ、そろそろ本題ね」
立ち上がったユンは、艦橋の中枢──インフォ・デッキへ向かう。
壁面に設置された湾曲モニタが起動し、宙域図と任務ログが自動展開される。
【ブリーフィング・モードに移行。指令内容を再表示します】
曇りのない画面に、“第9223葬儀調査命令”のコードが浮かび上がる。
ユンは軽く顎に手を当て、内容に目を通す。
【対象宙域:ミロク宙渦第9軌条宙域】
【対象惑星:エクリノム(識別No.45-EKR)】
「やっぱり、ここね。“記録不能”なんてラベル貼られてるけど……映像を見る限り、まだ“生きてる”ようにも見える」
ホログラムが浮かび上がり、夕暮れの都市が再投影される。
無人であるはずの街路には、風に揺れる広告幕や、点滅を続ける信号灯の姿が映っていた。
【記録上では、当該星域での居住者反応はゼロ】
【ただし、観測ノイズの頻度が異常に高く、情報の整合性が崩壊している可能性があります】
「……つまり、“何か”が、まだ残ってるってことね」
ユンは背後のシートに腰を下ろし、指先で都市の縁辺部を拡大した。
廃墟となった研究施設のような構造物が映し出される。
【当該構造物内で、音響信号およびデータ反射を複数回検出】
【ただし、いずれも通信プロトコルに適合せず、“未分類”と処理されています】
「データノイズにしては……妙に規則的。行ってみるしかないわね」
【現地への接近判断は、ユン、あなたの裁量に任されています】
《コマ》の声が静かに応じた。
ユンは短く息を吐き、画面から視線を外すと、起動シーケンスに手を伸ばした。
「了解。準備に入る」