【4】ひさしぶり、でいいのかな
艦内の灯りは、液層の冷たい青とは違う。
《リカオン》の空間は、あたたかい光で満たされていた。
ユンが《リカオン》に戻ったのは、深層への潜行から約四時間後のことだった。スーツの外殻は液層の粒子で曇り、足取りはゆっくりと重かったが、彼女の目には達成感のような静かな光が宿っていた。
探索任務を終えたユン・ミレは、静かにヘルメットを外した。汗の滲んだ前髪が額に貼りつき、頬に残る緊張の名残がわずかに震える。
「ただいま、コマ」
【帰還を確認。環境スキャン正常。液層圧の変化に対するスーツ適応率、97%。大したものです、ユン】
「ありがとう。――それと、聞こえたの。あの歌。ほんの一瞬だったけど、確かに……」
迎えたのは船体AI《K-0ma》。ユンの声に合わせて船内照明がやわらかく灯る。身体からスーツを脱ぎ、ブリーフィングルームへと足を運んだユンは、しばし深呼吸を繰り返した。静寂と重圧の世界から戻ったばかりの感覚は、まだ体内にしっかりと残っていた。
【解析用モジュールへ記録を転送中。ログの整合性を確認後、黙示庁への暗号化送信に移行します】
ユンは無言で頷き、スーツを外してインナーフレームへ預けた。そのまま自動スキャンが始まり、装備には微細な液層粒子が除去処理されていく。
目を閉じる。あの場所に響いた子守唄の残響が、心の奥で小さく振動していた。
「ちゃんと……伝えてあげたい。あの“音”を、言葉に」
ユンは立ち上がり、船尾にある“静穏中枢”——記録送信モジュール《クロノス・カプセル》のある区画へ向かった。
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《クロノス・カプセル》の内部は他の区画とは異なり、丸みを帯びた壁面に微細なシールドが張り巡らされていた。音響・振動・熱といったすべての情報媒体が、正確に記録・分析・送信されるための特別な空間。床には振動吸収材、天井には流体型の照明。艶のある黒曜石のような壁面には、淡く流れるラインが時折呼吸のように光る。
ここが、黙示庁が最も重視する記録の中枢。《リカオン》の通常航行系とは分離された独立構造で、葬儀士の記録と対話のために存在している。
仮に船体が破損しても、記録データのみが宇宙を漂い、黙示庁《Arka-Sun》へと届く仕組みだ。
入り口が開き、重厚な遮音扉が静かに閉じた瞬間、空間の音は艦内とはまるで異なるものへと切り替わった。
それは音響ではない。沈黙の“密度”が変わる。
ユンが席につくと、中央の透過パネルに、淡く記号のような音響波形が立ち現れる。
その波紋が交差し、ひとつの声へと変わった。
《……ようこそ、葬儀士ユン・ミレ。識別コード一致。あなたは、前訓練対話記録の当該個体です》
「ひさしぶり、でいいのかな。訓練ではあなたの声だけじゃなく、過去の天体葬儀での演習だったね。だけど……今回は、ほんとうの“死”があった」
《黙示庁記録基準に基づく評価を開始します。――解析中。……ログ照合:オネイロス言語断片あり。波形再構築を試行》
ユンはパネルに向けて、そっとデータ・キーを差し込んだ。振動記憶の抽出によって得られた断片が、音ではなく、触覚のような情報となって響いてくる。
《認証完了。初期化フレーズを検出:構文形態より、これは子守唄です》
「……やっぱり」
ユンの頬に、微かな熱が戻る。液層の底で聴いたもの――それは、滅びた文明の中で最後まで残った声だったのだ。
《再構成ログの一部を音響波として出力します。――再生》
空間に、微かな響きが生まれる。
まるで遠くの水面に指先を落としたような、そっと揺れる“声”の気配。
ユンは目を閉じた。
子守唄。
それは言葉ではない。“眠り”へ導くための音、“無”の境界へ添えられる祈り。
オネイロスの誰かが、誰かに向けて、最後まで歌い続けた記録。
《あなたの任務は完了しました。この声は黙示庁《Arka-Sun》へ送信され、星の死は公式に記録されます》
ユンは静かに、深く息をついた。
「この星の“死”は、確かに私が看取った。だけど――この声は、まだ生きてる。そう思いたいの」
《それは、あなたの自由意志に属する感情表現です。……記録済》
ユンは薄く笑い、パネルをそっと閉じた。
次に星を見下ろす時、その名はすでに“死者”として登録されているだろう。
だが、その沈黙の底からすくい上げた“声”は、どこかに届く。そう信じた。
葬儀士ユン・ミレの初任務は、これにて終了した。
《ミラ=Nira》。その名は、記録に刻まれた。
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沈黙の水惑星《ミラ=Nira》
やがて、星を満たしていた液層の構造に変調が現れる。
音を封じていた媒質の共鳴性が失われ、微細な泡鳴が惑星の全層に広がりはじめる。
一度は沈黙を宿したこの星が、今度は意味のない騒音に侵されていくのだ。
ゆっくりと、液層はその均衡を崩す。
自壊的な振動が繰り返され、星全体が微細な振るえを帯びる。
無音の記憶は崩れ、泡立つ音の奔流に溶けていく。
最後に残るのは、圧力の臨界を超えたときに起きる、巨大な“崩れ”。
それは爆発でも陥没でもない、ただ液そのものが重力に抗えなくなり、自ら潰えてゆく過程。
星が、星であることをやめる。
その変化を観測する者はもういない。
だが、記録は残る。
この沈黙の水惑星にかつて響いた、名もなき祈りの声が――
永遠の孤独の中で、いつか誰かに再び届くことを願いながら。
第2章:虚像に沈む惑星 《エクリノム》
へ続きます