【3】声じゃない、音でもない
液層の穏やかなゆらぎが、柔らかな光の粒となって漂っていた。
探査艇とその着陸ポッドを取り巻く一帯には、沈黙が満ちている。それはもはや威圧でも不穏でもなく、深い湖の底で静かに眠る祈りのようだった。
ユン・ミレは、胸に抱えた記録装置の重みに、ほのかな安堵を覚えていた。
この星は死んだ——そう思いながらも、声が残っていた。失われた種族の、最期の“ことば”。音が吸い込まれるこの星で、それは確かに、彼女の指先に触れていた。
祈祷ドームへと足を向ける。
それは液層の中に設置された簡易構造物だったが、外殻は銀灰色の織り布のような素材で覆われており、周囲の光を柔らかく弾いていた。
小高い水床の上に浮かぶその姿は、月光の落ちた水面のような優美さを湛えている。
ユンは軽く深呼吸し、静かに出入口のシールドをくぐった。
内側は想像よりも広く、天井は弧を描き、淡い薄桃色の照明が空間全体を包み込んでいた。
液層の光を内部に導く特殊構造らしく、灯りには自然な陰影と静けさがある。
床には低反発の吸音マットが敷き詰められ、足音は消えていた。
その中央に、彼はいた。
導師オラム・トーナス。
祈祷台の前に静かに膝を折り、凛とした佇まいで座していた。
まだ若い——ユンより少し年上くらいか。
けれどその背筋はまっすぐで、所作には無駄がなく、動きのすべてに呼吸がある。
ユンの視線が、つい、彼の横顔に吸い寄せられる。
やわらかな灰金色の髪が首元で結ばれており、うなじの線まで美しい。
目元には微かな翳りがあるが、それは幾つもの死と向き合ってきた者の証なのかもしれない。
服装は正装ではなく、深藍と銀白の静かな祭礼衣。布は液層の中でもたゆたい、まるで祈りの一部であるかのように身に馴染んでいた。
「おかえりなさい、ユン」
静かに、けれど確かに届く声だった。
その声音は温かく、液層の深奥にゆらぐ記憶の光のようだった。
「……見つけました、導師。残響が……ありました。ほんの、断片だけど」
「ええ、それで充分です。あなたが聴き取り、持ち帰った。それが、この星への供養になります」
ユンはそっと歩み寄り、装置を中央の再生台へ置いた。
オラムは目を閉じ、掌を広げて儀式の始まりを告げた。
《K-0ma》がドーム全体と同期し、天井の照明がふわりと落ちる。
星の液層から採取された微結晶素子が、壁面に淡い光の揺らぎを映し出す。
装置が起動し、再生が始まった。
……音はない。けれど、確かに“何か”が始まった。
液層を通じて空間が震え、わずかに振動が肌を撫でた。
それは言葉にならない“声”。
子どもの息遣いのような震えが、次第に形を帯び、旋律になっていく。
子守唄。
滅びゆく種族の、最後の幼子が、誰かに聞かせた——あるいは、自分のために口ずさんだ——祈りのような歌。
ユンは装置を見つめながら目を細めた。
その旋律は、不完全で、断片的で、でもやさしかった。
誰かが誰かを眠らせようとした、最期の夜のための歌。
その“意志”だけが、残っていた。
オラムはゆっくりと立ち上がり、しずしずと舞い始めた。
祈りに音はない。ただ、流れと所作がある。
衣の裾が波のように揺れ、彼の動きが空間に紋様を描いていく。
まるで声なき言葉が空間に刻まれていくかのようだった。
ユンは、装置を見つめながらそっと目を閉じた。
浮かび上がるイメージは、海底都市の断片。
消えた文明の輪郭。
失われた時間の中で、それでも最後まで残された——“ひとつの声”。
彼女の目尻から、ひとすじの涙がこぼれた。
それはスーツの内側をすべり、頬にぬくもりを残して落ちていく。
——その瞬間。
液層が、ごくわずかに揺れた。
それは微細な波紋となり、祈祷ドームの中央に一瞬だけ“音の像”を刻んだ。
オラムが動きを止め、ユンと目を合わせる。
「……あなたが、聴いたのですね」
「うん……声じゃない、音でもない。でも、“いた”って、わかった」
彼女の手が、装置の停止スイッチに触れる。
子守唄は、そこまでだった。
旋律は液層に溶け、また沈黙の中へ還っていく。
だが、もうこの沈黙はただの“無”ではなかった。
それは、誰かがいたという記憶。
誰かが誰かに祈った証。
そして、誰かに「聴かれた」ことの残響だった。
ユンとオラムはしばし言葉を交わさず、静かにその静けさを受け止めていた。
《ミラ=Nira》は、沈黙の中で語られた。