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天体葬儀士の鎮魂録:共鳴する星のレクイエム  作者: 灰庭ぐり
第1章:沈黙の水惑星《ミラ=Nira》
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【3】声じゃない、音でもない

 液層の穏やかなゆらぎが、柔らかな光の粒となって漂っていた。

 探査艇リカオンとその着陸ポッドを取り巻く一帯には、沈黙が満ちている。それはもはや威圧でも不穏でもなく、深い湖の底で静かに眠る祈りのようだった。


 ユン・ミレは、胸に抱えた記録装置の重みに、ほのかな安堵を覚えていた。

 この星は死んだ——そう思いながらも、声が残っていた。失われた種族の、最期の“ことば”。音が吸い込まれるこの星で、それは確かに、彼女の指先に触れていた。


 祈祷ドームへと足を向ける。

 それは液層の中に設置された簡易構造物だったが、外殻は銀灰色の織り布のような素材で覆われており、周囲の光を柔らかく弾いていた。

 小高い水床の上に浮かぶその姿は、月光の落ちた水面のような優美さを湛えている。


 ユンは軽く深呼吸し、静かに出入口のシールドをくぐった。


 内側は想像よりも広く、天井は弧を描き、淡い薄桃色の照明が空間全体を包み込んでいた。

 液層の光を内部に導く特殊構造らしく、灯りには自然な陰影と静けさがある。

 床には低反発の吸音マットが敷き詰められ、足音は消えていた。


 その中央に、彼はいた。


 導師オラム・トーナス。

 祈祷台の前に静かに膝を折り、凛とした佇まいで座していた。


 まだ若い——ユンより少し年上くらいか。

 けれどその背筋はまっすぐで、所作には無駄がなく、動きのすべてに呼吸がある。


 ユンの視線が、つい、彼の横顔に吸い寄せられる。


 やわらかな灰金色の髪が首元で結ばれており、うなじの線まで美しい。

 目元には微かな翳りがあるが、それは幾つもの死と向き合ってきた者の証なのかもしれない。

 服装は正装ではなく、深藍と銀白の静かな祭礼衣。布は液層の中でもたゆたい、まるで祈りの一部であるかのように身に馴染んでいた。


「おかえりなさい、ユン」


 静かに、けれど確かに届く声だった。

 その声音は温かく、液層の深奥にゆらぐ記憶の光のようだった。


「……見つけました、導師。残響が……ありました。ほんの、断片だけど」

「ええ、それで充分です。あなたが聴き取り、持ち帰った。それが、この星への供養になります」


 ユンはそっと歩み寄り、装置を中央の再生台へ置いた。

 オラムは目を閉じ、掌を広げて儀式の始まりを告げた。


 《K-0ma》がドーム全体と同期し、天井の照明がふわりと落ちる。

 星の液層から採取された微結晶素子が、壁面に淡い光の揺らぎを映し出す。


 装置が起動し、再生が始まった。


 ……音はない。けれど、確かに“何か”が始まった。


 液層を通じて空間が震え、わずかに振動が肌を撫でた。

 それは言葉にならない“声”。

 子どもの息遣いのような震えが、次第に形を帯び、旋律になっていく。



 子守唄。



 滅びゆく種族の、最後の幼子が、誰かに聞かせた——あるいは、自分のために口ずさんだ——祈りのような歌。


 ユンは装置を見つめながら目を細めた。


 その旋律は、不完全で、断片的で、でもやさしかった。

 誰かが誰かを眠らせようとした、最期の夜のための歌。

 その“意志”だけが、残っていた。


 オラムはゆっくりと立ち上がり、しずしずと舞い始めた。

 祈りに音はない。ただ、流れと所作がある。

 衣の裾が波のように揺れ、彼の動きが空間に紋様を描いていく。

 まるで声なき言葉が空間に刻まれていくかのようだった。


 ユンは、装置を見つめながらそっと目を閉じた。


 浮かび上がるイメージは、海底都市の断片。

 消えた文明の輪郭。

 失われた時間の中で、それでも最後まで残された——“ひとつの声”。


 彼女の目尻から、ひとすじの涙がこぼれた。

 それはスーツの内側をすべり、頬にぬくもりを残して落ちていく。


 ——その瞬間。


 液層が、ごくわずかに揺れた。

 それは微細な波紋となり、祈祷ドームの中央に一瞬だけ“音の像”を刻んだ。


 オラムが動きを止め、ユンと目を合わせる。


「……あなたが、聴いたのですね」

「うん……声じゃない、音でもない。でも、“いた”って、わかった」


 彼女の手が、装置の停止スイッチに触れる。


 子守唄は、そこまでだった。

 旋律は液層に溶け、また沈黙の中へ還っていく。


 だが、もうこの沈黙はただの“無”ではなかった。


 それは、誰かがいたという記憶。

 誰かが誰かに祈った証。

 そして、誰かに「聴かれた」ことの残響だった。


 ユンとオラムはしばし言葉を交わさず、静かにその静けさを受け止めていた。


 《ミラ=Nira》は、沈黙の中で語られた。

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