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天体葬儀士の鎮魂録:共鳴する星のレクイエム  作者: 灰庭ぐり
第1章:沈黙の水惑星《ミラ=Nira》
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【2】もっと深いところ

小型艇リカオンから伸びた着陸モジュールは、深い水膜を静かに裂きながら、惑星《ミラ=Nira》の表層へと降下した。水惑星特有の分厚い液層は光を吸い、まるで深海のような暗さを湛えている。だが、そこには波の音も、泡の弾ける音もなかった。ただただ、無音。


「音、全然しない……本当に全部、吸われてるんだ」


ユン・ミレは、記録装置を胸に抱え、そっとヘルメット越しに呼吸を整えた。標準装備の環境制御スーツは水中活動に対応しているが、今いるのは“海”ではない。“液層”と呼ばれる未知の媒体。生命を包み、文明を抱いたこの星のすべてが、この静けさの奥に沈んでいる。


【外殻構造、安定。気圧・温度ともに想定範囲内です】

【生体反応なし。重力安定。構造物の磁場反応を15度下に検知】


「……あった。人工構造物の反応」


ユンは《コマ》のナビゲートに従い、ゆっくりと歩を進めた。液層の抵抗は重く、足元の感覚は鈍い。それでも彼女の目は前方に微かな構造の影を捉えていた。


”静寂”に沈んだ都市。オネイロスたちがかつて住まい、言葉を“音”として刻んだ場所。

彼らは歌い、祈り、詩によってすべてを記録したという。


文明が滅び、液層の圧力に押し潰され、今はただの遺構となった都市に、なおも漂う静謐な空気。

それは誰かの生活があった証であり、滅びの先にも残り続けた“余韻”だった。


ユンは周囲の様子を記録しながら、かつては舗装された岩畳であっただろう道を辿っていく。

やがて半ば沈降した建築物の一角。巨大な石柱がいくつも並び、かつては都市の中心だったであろう広場のような空間に繋がった。


壁面には、音を象るような紋様が刻まれていた。波形、渦巻き、交差する線。それは音そのものを象徴した文字言語ソニグラフ——オネイロス族の記録体系だ。

言葉ではなく、音そのものの“形”を封じ込めたような、波の彫刻だった。


「……読める、けど……残ってる?」


ユンは壁にそっと手を伸ばした。スーツ越しに感じる微かな凹凸。彼女の脳内には、黙示庁で学んだ翻訳プロトコルが走る。


【この星の言語群には、振動そのものを記録媒体とする“振動記憶”の技術がありました】

【構造体の素材に“共振物質”が用いられている場合、記録の残響を抽出できる可能性があります】


「やってみよう」


ユンは胸元のデバイスを取り出した。記録用レゾナンス・パッチ。特定の周波数で微弱振動を与え、対象物に残された“記憶”の再生を試みる装置だ。


静かに装置を石壁へと押し当てる。液層の中で光がゆらめき、わずかに共鳴する波が広がった。


しかし、返ってきたのは沈黙。


【反応ゼロ。記録層はすでに劣化……あるいは、もともとこの構造には残されていなかったか】


「……違う。ここ、何かが“鳴ってた”。そういう場所だよ」


ユンは目を細め、広場の中心に目を向けた。そこには台座のようなものがあり、かすかに円形の座席と見られる痕跡がある。音楽家の演奏台だろうか、それとも祭祀の場か。


「振動……もっと深いところ?」


【構造物の基礎部分に亀裂。地下構造が存在する可能性。……推定、旧オネイロス・アンダーホール】


「そこに行く」


即答したユンに、コマの音声は一拍の間を置いて返された。


【液層圧が上昇します。スーツへの負担も増大しますが、強行しますか?】


「行く。——わたし、ちゃんと“聴いて”あげたいから」


彼女の手が、再びレゾナンス装置を握る。

そして、沈黙の下層へと足を踏み出した。



広場の中央から延びる崩れた階段を辿ると、そこには液層に満たされた空洞が口を開けていた。アンダーホール――古代オネイロスの集会所、あるいは聖堂のような場所だったのだろう。構造体はほとんど無傷で、壁面には上層と同じくソニグラフの文様が規則正しく刻まれていた。


「……ここだ。さっきのより、ずっと新しい……」


ユンは慎重に床を踏みしめながら、中心部へと歩みを進める。液層はやや粘性を帯び、微かな波動が空間の中に滞留していた。まるで、何かの“息づかい”のように。


【検知。構造物の芯材に強い共振性反応を確認。ここには“残響”があるかもしれません】


「レゾナンス、試す」


ユンは静かに頷き、再び記録装置を壁面へと当てた。今度はより細かな周波数スキャンを組み合わせ、周囲の“響き”を丁寧に探っていく。


やがて――


ふと、ヘルメットの内側に震えるような“音”が忍び込んできた。


【……振動記憶層へアクセス。残留音波の解析を開始】


《ァ……ゥ……ロ……ナ……ィ……》


不確かな波形。断片的な音節。何かが、何者かが、微かに声を発しようとしている。


「……歌? 違う……これは、子守唄……?」


ユンの声は震えていた。感情ではなく、音の“輪郭”に心が触れた瞬間の、生理的な反応だった。


【確証はありませんが、音構成から推定されるのは単純な旋律型。感情定着型の振動記録──“伝承歌”と分類可能です】


「誰かが……この場所で、誰かに向けて……」


彼女の視界が揺れた。液層の光が、波紋に照らされて踊る。


そのときだった。レゾナンス装置の反応が跳ね上がる。石壁の表層が微かに共振し、粒子のような音波が液層の中を漂い始めた。


――それは、音にならない音だった。


空気を震わせることなく、言葉を持たぬまま、それでも確かに「記憶」として残された、誰かの声。

やさしく、静かで、泣きたいほど懐かしい。


「……ねぇ、コマ。これが、この星の……“最期”じゃないよね?」


【まだ記録は続いています。彼らが伝えようとしたもの……そのすべてを、見届けましょう】


ユンは微かに頷き、再び記録を開始した。無音の中で奏でられる、言葉なき歌。


それは――沈黙の惑星に残された、最後の子守唄だった。

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