巻の八、その手は誰の手
――苦しい。
息ができない。
気持ち悪い。
お腹痛い。頭痛い。胸が詰まる。
指一本動かせない、鉛のような体が、ズブズブと見えない黒い沼に沈んでいくような感覚。多分、沈んだら二度と浮かび上がれない。
(前世も、こんな感じだったなあ)
確か前世は、駅のホームから転落したんだっけ。
朝のホームで電車を待ってたら、誰かに後ろから突き飛ばされて、線路の上に落っこちて。そこに電車(それも通過電車)が来て轢かれた。
痛くて痛くて、熱くて。体がバラバラになりそう――ってか、なってたと思う。見てないし、バラバラになったときには絶命してたから。
あの時は、一瞬で死ねたけど、今回はどうやらそうじゃないみたい。
苦しいのがずっと続いてる。
目も開けられないのに。息も途切れるのに。
それでもこの命が終わることはない。苦しいだけがずっと続く。
(やだなあ。終わりたいなあ)
二十で死ぬのが、わたしの運命なのだとしたら。このままサクッと終わって欲しい。苦しみ抜いた末のってのは、勘弁してほしいのよ。
終わるなら終わる。グダグダズルズルされるのは好きじゃない。まな板の上の鯉は、どうせ死ぬなら、ダンっと頭を落として欲しいと願ってる。
けど――。
――いくな。
わたしの手を掴む、誰かの手。
わたしが沼に沈んでいかないのは、この手のせい。
――いくな。生きろ。
(わかってるわよ)
わたしだって、好きこのんで死にたいわけじゃないの。
大好きな桃を食べたら、毒に当たって死にましたって、洒落にならないもん。
生きていいなら、生きていたい。
転生できるかもだけど、できることなら生きていたい。
慈恩さまのもとに戻れなくても。誰からも愛されずに終わることになっても。一生、後宮から出られなくても。
それでも、生きていたい。
死んで転生したいわけじゃない。
それに。
(尚佳……)
わたしが死んだら、あの子はどうなるの?
故国からずっとついてきてくれた尚佳。わたしのために、毒見までやってくれてた尚佳。
あの子が生き延びれたとしても、主であるわたしが死んだら、その責をとって、あの子は死ななくちゃいけなくなる。主が死んだせいで、せっかく生き延びた命を失くさなきゃいけなくなる。
そんなのはダメ。
わたしは転生するからいいかもだけど、あの子も転生できるとは限らないし、あの子はこの世界にまだ未練があるかもしれない。その命を理不尽に失うのは、前世のわたしと同じで、許されることじゃない。
だから。
(この手! 早くわたしを引っ張り上げなさいよ!)
「いくな」というのなら。「生きろ」というのなら。
この苦しい沼のようなところから引っ張り上げて。鉛のような体をもとに戻して。
わたしだって、早く楽になりたいんだから。
もたもたしてないで、サッサとわたしを助けなさい!
* * * *
「――ジュさま、里珠さま、里珠さま!」
え?
あ。眩しい。
開いたばかりの目を眇める。
それまで真っ暗ななかにいたせいか、光がとても眩しく感じられる。
「里珠さま!」
「あ……、尚佳……」
喉から出た声はとてもかすれてて、「尚佳」と言ったつもりだけど、耳に届いたのは、「ョーカ」っていうカッスカスの風みたいな音だった。そして、声を出したせいか、喉が辛くて痛いことに気づく。
「里珠さま。本当に、よかった……」
わたしの手を握りしめたまま、泣き崩れる尚佳。
そうか。
あの夢のなかで感じてた手のぬくもりは、尚佳のだったんだ。
「尚佳は、無事? どこも苦しくない?」
何度か唾を飲み込んだことで、喉の痛みは多少軽減した。でも、体のダル重さはまだ残ってる。
同じように毒を食らった尚佳。この子だって、苦しかったはずなのに。
「あたしは、もう。里珠さまが医師を手配してくださったおかげです」
「そっか」
わたしが手配した――んじゃなくて、メチャクチャに走り回った末に、あの皇帝にすがっただけなんだけど。
(そっか。ちゃんと医師を手配してくれたんだ)
最後の最後、アイツに会ったことは覚えてるけど、なにをどう伝えたかは覚えてないから、医師の手配ができてたことにちょっと驚き、感謝する。
医師の手配、間に合ったんだ。
「尚佳――」
「え? ちょっ! 里珠さまっ!?」
驚き、声のひっくり返った尚佳を寝台に引きずり込む。大事にされすぎて力の弱い現世のわたしだけど、不意打ちで引っ張り込むだけなら、なんとかできる。
「アンタだって体弱ってんだから。無理しないで休みなさい」
って、いっしょに寝台にゴロンは、なんか百合みたいだな~と頭の片隅で思う。けど、今はそれでいい。尚佳だって休まなきゃ。わたしを心配してくれるのはうれしいけど、ちゃんと自分の体をいたわらなきゃ。
「尚佳、アンタが無事でよかった」
その小柄な体を抱きしめ、深く感謝する。
わたしが無事でよかった。尚佳が無事でよかった。
「里珠さま……」
ブワッと、わたしを見つめる尚佳の目から涙が溢れた。
よかった。本当によかった。この子が死ななくて。この子に死ぬ運命を与えなくて。
生きて帰れてよかった。
わたしが死んだら、この子も無事にはすまなかった。
わたしの命は、わたしだけのものじゃない。尚佳のものでもあるんだ。
「里珠さまっ!」
感極まったのか。尚佳がしがみつき、ワッと声を上げて泣き出した。
「里珠さま! 里珠さま!」
おいおいと泣き続ける尚佳の髪をやさしく梳いてあげる。何度もなんども。ここまで心配してくれたこと、わたしの手を握っていてくれたことへの感謝を込めて。
あの手がなければ、わたしはあのまま死んでいたかもしれない。
「ありがとう、尚佳」
声に出して感謝を告げる。