巻の七、おいしい桃はいらんかえ?
「――あら、珍しい。桃じゃない」
ぼやっと外を眺めていたわたし。室に戻ってきた尚佳の手にあるものに、ちょっと驚く。
「膳夫司にあったんですよ。里珠さま、桃、お好きですよね」
「大好きでしてよ」
桃は皎錦国にいたころからの大好物。
だから、目ざとく(?)その香りに気づいたんだけど。
尚佳の持ってきた、ザルに盛られた桃。その柔らかそうな産毛とか、淡い桃色とか、甘い香りとか。そのすべてが、「旨いぞ、食え!」と言っている。
「ちょっ、里珠さまっ!?」
桃を手にしたわたしに、尚佳がストップをかける。
「まさか、そのままかぶりつくおつもりですかっ!?」
「ダメなの?」
「ダメに決まってます! 汁がお衣装についたら、とれないんですよ?」
「そうなの?」
「そうです。桃の汁は厄介なんです」
そうなんだ。
わたし、前世でも現世でも、食べるだけで洗う側じゃなかったから知らなかった。まあ、前世では、ちゃんとお母さんが切り分けて出してくれてたから、かぶりつくなんてしたことなかったけど。
あれは、もしかしたら、「桃汁で服汚すんじゃねえぞ」っていうお母さんの牽制だったのかもしれない。
目の前、卓に載せた桃を急いでむいて切り分けてくれてる尚佳の姿に、そんなことを思う。皮をむいて、種を取って、切り分けて。前世のお母さん。懐かしいなあ。
ちょっぴりおセンチ気分。
「あ! 里珠さま! お行儀悪いです!」
尚佳が剥き終えた一欠片。ちょっとお先にヒョイパク味見。
(――って、これ、ちょっと硬い?)
モグモグモグモグ。
かじった一欠片を、口のなかでジックリ吟味する。
用意してもらった桃。
なんていうのか、青臭いっていうのか、硬いっていうのか。桃というよりりんごに近い食感。甘みも少ないし。
まだ、熟しきってないのか。それとも品種改良なんてないこの世界だから、これがノーマルスタンダードなのか。
前世を思い出したわたしには、少し物足らない。
(お菓子にしたら、甘味が増す?)
ジャムとか、パイとか。
りんごをそばにおいておくと、熟成が進むってワザもあるけど、ここにりんごはないし。パイを作ろうにも、オーブンとかそういうのもないし。そもそも、ジャムもパイもレシピは記憶に残ってない。っつーか、パイもジャムも消費する側で、作る側じゃなかったし。
(砂糖がないってのも、致命傷よねえ)
今まで、それが普通だったんだけど、こうして前世の記憶を取り戻したわたしには、それが一番辛かったりする。甘味。甘味がほしいのよ。だから甘味に飢えて、桃丸かじりしそうになったんだけど。
「そうだ!」
「り、里珠さまっ!?」
「ねえ、尚佳、ハチミツ、ハチミツならあるわよね」
突然立ち上がったわたしに、驚く尚佳。
ハチミツ。
ハチミツなら、蜂さえいれば、世界中どこでも手に入る甘味。
室で焚くお香を練り合わせるのに使ってるから、この国にもハチミツはあるよね?
「あ、ありますけど……」
食用できるかどうかは不明だけど。でも煮ればなんとかならないかな。それか、新鮮な採れたてハチミツを用意してもらうの。
「じゃあ、さっそく作ろう、コンポート!」
「こ、こん、こんぽ……?」
用意するのは、確か、水と砂糖とレモン。それと果物。
砂糖の代用品は、ハチミツで。レモンは、別の柑橘類で。なければ、それでも構わない。
レモン汁を入れるのは、さっぱり感を出すためと、変色を防ぐためだから。「変色? 気にしませんのことよ」なら、レモンは不要。
「ほら、膳夫司に行くわよ」
レッツお菓子作り!
これも自由気まま後宮ライフの一環よ。
「里珠さまっ!?」
あわてて立ち上がり、歩き出したわたしの跡を追いかける尚佳。だけど。
ガタン。
「え? し、尚佳っ!?」
背後で聞こえた音。ふりかえってみたら、そこには、床に崩れ落ちた尚佳の体。
「ちょっ、どうしたのっ!? 尚佳!」
抱き起こした尚佳の息は、浅く荒くて。顔はさっきと違って土気色。体もとっても熱くて、顔中汗びっしょりになってる。
「り、里珠さま。あの、桃は、食しては、なり、ません……」
苦しげな息の下から告げられる言葉。
「あの、桃には、毒が……」
「毒っ!?」
そのせいで、尚佳はこんなことになっちゃってるわけっ!?
「待ってて、尚佳! 今、医師を呼んでくるから!」
尚佳を、室にデデンと居座る寝台に寝かせ、急いで室から飛び出す。
(もう! どこに行けばいいのよ!)
室から飛び出してみたものの、室から出たことなかったわたしには、医師のいる場所はおろか、女官がいそうなところも見当がつかない。
あっちへ走ってみて立ち止まり、こっちかなと当てずっぽうで角を曲がる。庭に降りて、茂みをかき分けて、最短距離で医師を探す。
「誰か! 誰かおらぬのか!」
声を上げてみるけど、回廊の先から誰かが現れるなんてこともない。静まり返ったままの菫青宮。
ええい! こういうとき、尚佳と二人暮らしだったことが恨めしい。作戦がバレないようにって、女官たちを遠ざけてたことが仇になった。
その上、この体、とっても走りにくい! 性技のためってことで、ヤワヤワのままにされた足の裏がとっても痛い! 体力もないから、すぐに息が上がる!
この世界、どこに119番したらいいのよ!
早くしないと、尚佳が! 尚佳が!
「――皎錦の鳥は、こんなところにも現れるのか」
ゼイゼイフラフラ。
(な、なにっ!?)
顎に滴ってきた汗を、手の甲で拭いながらふり返る。
「夜を待てずに、さえずりにきたか。それとも、籠の鳥は嫌だと、逃げ出してきたか」
「――皇帝……へい、か、どうし、て」
どうして陛下が後宮に?
「ここは、思清宮だ」
へ?
思清宮?
皇帝の居住区?
ってことは、ここ、後宮の外?
わたし、いつの間に後宮を抜け出してたわけ?
金糸で龍が刺繍された紅色の袞衣。頭上には、皇帝の証でもある冕冠。ジャラジャラとぶら下がる旒の向こうに見えるのは、あのクソ生意気な皇帝、紅志英の顔。
「余を籠絡せねばならぬから、必死なのはわかるが、ここまで来たとしてもなんの益もな――」
「それどころじゃないのよっ!」
ガシッ!
必死な手がヤツの衣に掴みかかる。
「尚佳が! 尚佳が! 毒で! 医師を! 医師を呼んでちょうだい!」
「毒?」
「そうよ! 毒! 桃に毒が仕込まれてたの!」
おそらくだけど、尚佳はわたしのところに持ってくる前に、貴人に仕える女儒として、予め毒見をしていた。そして、自分が食べて大丈夫だったから、わたしに持ってきた。
けど、桃に含まれていた毒は遅効性のもので。だから、ああして遅れて毒が彼女の身に回ってしまった。
って、あれ――?
「おいっ!」
グラリと回った視界。体から一気に力が抜ける。
気持ち悪い。息が苦しい。喉が詰まる。頭痛い。
(そういや、わたしも桃、食べた……)
硬いし青かったから、そんなにかじってないけど。それでもちゃんと飲み込んじゃった。
「おねが……い。尚佳を……」
それが限界だった。