巻の四、この世界攻略ハンドブック
――今宵はここで寝るつもりだったが、興が冷めた。
ボスッ。
――次に来るまでに、そのひん曲がった鼻を直しておけ。さすれば、そなたを抱くこともあるかもしれん。
ボスボスッ。
――キレイな鼻筋をしているが……。残念だな、鼻が悪いのはどうしようもないな。
ボスボスボスッ!
「里珠さま」
なによ。
ボスボスボスボス。
「いい加減に枕にあたるの、おやめくださいませんか」
ボスボスボスボスボスボスボスボス。
ボスボスボスボスボスボスボスボスボスボ――
「だから、おやめくださいって! 枕がダメになってしまいます!」
ムキになって殴ってたら、途中でヒョイッと枕を取り上げられてしまった。
「ちょっとぐらいいいじゃない。あのクソガキ皇帝の顔はぶん殴れないんだからさ」
ホントは、枕じゃなくて、アイツの顔をぶん殴ってやりたいの、ガマンしてるんだからさ。
「当たり前です! 皇帝のご寵姫になろうってのに、その尊顔を殴る人がどこにいますか!」
プンスカ。
尚佳が半分呆れて、半分怒った。
「だから、枕でストレス発散してるの」
だから返して。枕はアイツの代替え品。もう少し殴らせて。
じゃないと、このイライラは治まんないの。
なぁ~にが、「鼻がひん曲がってる」よ! 「興が冷めた」よ!
怒りを握りしめた拳。枕がなくなって行く場所失って、グヌヌヌヌと震わすだけ。
「それより、尚佳。どう? 洗ってみて」
行き場のない怒りより、思考の行き先を変更。
「かなり落ちましたけど。敷紗とか大きいものは難しいですね」
「そっか……」
皇帝を籠絡するために、さんざん焚きしめたお香。
わたしの髪や身体は洗って匂いを落とすことはできるけど、布となると、それもなかなか難しい。それも絹百パーセント素材だし。木綿とかなら、ガシガシ煮沸消毒とかできるけど、絹は……。うう。前世の消臭スプレー欲しいよう。
「でも、あれぐらいで『臭い』って。陛下はかなり過敏な方なんですね」
尚佳が言う。
「やっぱ、そう思う?」
「ええ。皎錦の後宮でしたら、あれよりももっと香りをつけておりますよ」
そうなんだ。
それは、わたしも遠慮したいなあ。
昨日の香りつけでも、結構クルものあったのに。あれよりもスゴいとなると――スメハラ? 香害? 香りで窒息しそう。
「とりあえず。洗っても匂いとれそうになかったら、もったいないけど、新しい敷紗を用意しておいて」
皇帝が無臭が好きなら、それに合わせる。――もったいない、とぉぉってももったいないけど。
ってかさ。
(これ、「次」ってあるわけ?)
お香の匂いを取ったとして。無臭空間にしたとして。
あのクソ皇帝と、「籠絡! ラウンド2!」は起こり得るわけ?
「次に来るまでに」とかぬかしてたけど、「あそこ、くっせえから行きたくねえんだよな」で終わりなんじゃない?
だとしたら、わたしのハニトラ作戦は大失敗で。わたしはいつまでもこの国に攻め入る隙を作れなくて。滅ぼせなかったら故国に帰ることもできなくて。慈恩さまと添い遂げることもできなくて。この国の後宮のすみっこで、一生を終えることになる――?
(イヤイヤイヤイヤ! そんなの絶対イヤ!)
だって、慈恩さまは、待っていてくださってるもん! この国を滅ぼしたらいっしょになろうって誓ってくださったもん! 時間かかっても、わたしは必ず帰るんだもん!
涼やかな目元。スッと伸びた鼻梁。こめかみのあたりからていねいに撫でつけられ、流れるように梳かれた髪。
目を閉じれば、何度でもまぶたに浮かぶ、慈恩さまのお姿。
――里珠。
わたしを呼ぶ、あまく優しい声。
あんな少年皇帝とは違って、大人のダンディさと、知的で清廉としたカッコよさを備えた人。
あの方に、あの方にわたしはもう一度お会いする。お会いして、「里珠」とか名前を呼んでもらって、せつなそうに、愛おしそうにギュッと抱きしめてもらうんだ。
――って。
ペション。
「ハアアアァァァ……」
寝台に潰れ、魂まで吐き出せそうなため息を漏らす。
「……無理かもしんない」
続く弱気。
「里珠さま?」
「ねえ、尚佳ぁ。あの皇帝が次に来る時って、どういう時だと思う?」
「次……ですか?」
「うん、次」
あの皇帝を籠絡させるには、ここに来てもらう必要があるけど。
今までみたいな、「いつか興が乗ったら来てくれるかも」って、待ってりゃオッケーじゃなくて、「あそこ臭えからなあ。行きたくないなあ」にランクダウンしてしまった。
ここから、「臭いかもしれないけど行ってみよう」って思わせて、「やはり佳い女だ」って思わせて、「コイツといつでもニャンニャンしたいぞ(ゾワッと鳥肌)」と思わせて。そうするためのはじめの一歩は、どうしたらいいと思う?
「次なんて、あるんですかねえ」
ゔ。
やっぱそうなる?
尚佳の素直な感想が、心をえぐる。
「こうなったら、いっそのこと策略は諦めて、ここで一生終えることを視野に入れてもいいのでは?」
ゔゔ。
「寵愛されなくても、ここにいれば一生安泰。食べ物にも住むところにも苦労しませんし。飢えも寒さも知らずにいられるって幸せなことですよ?」
「そ、そうなんだけど……」
でもそれじゃあ、待っててくださる慈恩さまに申し訳ないっていうのか……。
「大丈夫ですよ。宰相閣下のことですから。里珠さまでダメなら、別の作戦を立てますって」
そ、それは……。
第二、第三のわたしを送り込むとか?
そりゃあ国を落とすとなったら、ハニトラ以外にも方法はあるけどさ。でも、でもっ!
(わたし以外のヤツがお役に立つのって、なんかイヤあっ!)
ワガママだけど。
慈恩さまには、わたしがヨシヨシされたい。「頑張ったね」って言われたい。――クスン。
(ここが、どっかのゲーム世界とかだったらなあ……)
それか、小説、アニメ、マンガ。
とにかく、わたしが知ってるストーリーのある世界。
「ここは、もしかしてあのゲーム(小説、マンガも可)の世界!? ワタクシ、悪役令嬢!? 断罪されちゃう困っちゃう!」ってアレ。
そうしたらさ、あの皇帝の攻略法もわかるし、少しは慈恩さまのお役に立てる有益な情報もわかるのに。わたしがダメでも、「あの皇帝はこういう女が好みですよ、ゲヒ☆」みたいな。それか「この将軍を味方に引き入れましょう。皇帝に不満をもってるし、扱いチョロいですよ、グフ☆」みたいな。(なんで笑い方がゲスっぽいのか不明)
それか、前世の近代科学の塊日本の知識を使って……って、それは無理だわ。
所詮、前世は普通の女子大生。
持ってる知識なんて、せいぜい「臭い取りには、煮沸が有効。でも絹は熱湯で洗っちゃダメ」程度。そんなのこの世界の人だって、「は? 知ってますけど?」ってレベル。工業、科学の発展した世界からの転生であっても、その工業、科学のしくみをわたしは知らない。知ってるのは、「スイヘー、リーベ、ボクノフネ」って呪文程度。スマホを作り出す能力もなければ、「お前、ググってんのか?」レベルのお役立ち知識も持ち合わせてない。ってか、ああいうのって、前世の知識持ちすぎてて、頭がキャパオーバーしないのかな~って心配になる。
(なーんーのー、やーくーにーもー、たーたーなーいー)
ジタバタ、モダモダ。
敷紗も外された木枠だけの寝台の上でバタバタ。
「ホコリ、立てないでもらえますか? 仕事が増えて困ります」
淡々と、グサグサくる尚佳の言葉。
――はい。
失敗ご寵姫は、ここで大人しくしております。シュン。