巻の三、ヒョウタンから出た駒は、なにがあっても逃さない
「ねえ、今日で何日目? 尚佳」
「一年と二ヶ月、それと二十三日目ですわ」
「そっかぁ……」
そんなに過ぎたかあ。そして、よく即答できるなあ、尚佳。
わたしがここに来て何日目か。最初こそ、わたしもカウントしてたけど、なんかもう数えるのもイヤになったし、虚しくなってきて止めてしまった。
――敵国の少年皇帝を籠絡して堕落させ、国が疲弊した隙をついて責め滅ぼす。
そのために貢物として、送り出されたわたし、鳥さえもさえずりをはばかるほどの美声、噤鳥美人。
声だけじゃなく、その容姿、物腰、教養、あと夜のアレコレ。すべてにおいて完璧な女として育て上げられたけど。
(これじゃあ、自信なくす……ってか、自信の持ちようがないっての)
籠絡するもなにも、その皇帝に一度も会ってないんだもん。
この作戦が長期戦になることは覚悟している。皇帝を籠絡したって、すぐに国は疲弊しないし、他国が攻め入る隙は簡単には生まれない。おそらくは五年、十年。それぐらいのロングスパンで見なきゃいけない作戦。
作戦が成功したとしても、故国に戻っても、わたし、白髪のお婆ちゃんになってるかもしれない。慈恩さまよりも先に、バンバン皇帝の子を産んじゃってるかもしれない。それぐらい時間と身体の負担のかかる作戦。
だけど。
(始まらなければ終わらないっての)
一日も早く任務を終えて、慈恩さまの元に帰りたいのに。
日陰の窓辺。ここならギリオッケーと尚佳に言われた場所で、牀に腰掛け、物憂げに窓の外を見る。
どうよ、このアンニュイな美人の姿! と思うけど、尚佳しか見てくれる人のいない室では、アンニュイがムダ遣いされてるだけ。虚しい。
「――菫青妃さま」
ホトホト。
室と廊下の間にある戸が叩かれる。
菫青妃。この菫青宮に暮らす女主。つまり、わたしのことだ。
「今宵、陛下がこちらにお渡りになります。お支度なさいませ」
扉越しに声をかけてきたのは、この国の女官。
「――承知致しました」
わたしに代わって尚佳が答えるけど。
(声、上ずってるなあ……)
カチンコチンのガッチガチ。お笑い芸人みたいな、トーン高すぎの声。
まあ、仕方ないよね。
だって、ここに来て初めての「お成り、予告!」だもん。それも突然の。
なんで? どうして? 唐突にどうした? どういう風の吹き回しだ、これ? って感情より、
(いよいよなんだ……)
が大きい。
そういう意味では、わたしもゴクリと喉を鳴らす。
この先。
わたしが皇帝に気に入られるかどうか。そこに作戦の、ううん、わたしと尚佳の運命がかかってる。
気に入られれば、作戦を始められて、いつかは国に帰れるかもしれない。故郷に錦を飾るって感じの凱旋。
気に入られなければ、一生この後宮で命をすり減らすだけの生涯になる。慈恩さまのもとにも戻れず、老いさらばえていく。
それか、アッサリと作戦を見破られて、「このスパイが」でザシュッとぶった斬られ……は嫌だ。慈恩さまのもとに戻れなくても。ここではじっこぐらししてたほうがマシ。命、大事にしたい。
(すべては、今日の夜にかかってる)
気に入られるか。気に入られないか。
バレるか。作戦通りに進むか。
「――尚佳支度を」
言ったわたしの声も微妙に裏返った。
そうとなったら、さっそく行動開始! のんべんだらりと牀に腰掛けてる場合じゃない。
湯に浸かって垢をすべて削ぎ落として。髪もくしけずって、たっぷり香油を塗り込んで。
美しく淫らに啼いてあげるために水飴舐めて喉を整えて。後は、そういう気分を盛り上げるために、室に香を焚きしめて。
あとは、えーっと。何かすることあったかしら。
タイムリミットは、今日の夕暮れ。それまでに、誰もが一目で惚れる、最高のわたしになっておかなくては。
人生初の、ハニートラップ!
必ず。必ず落としてやるのよ! 噤鳥美人の二つ名にかけて!
*
「――お前が、皎錦から来たという者か」
「はい。陽里珠と申します」
石床に膝をつき、胸の前あたりで、袖の中の両手を重ねそのまま恭しく持ち上げる。拱手。本来は立ったまま行う所作だけど、今だけは特別。わたくし、跪いて挨拶するほど、アナタを最上級に敬っておりますのよ。――ってポーズ。
そして、人生最大最高の美声で名乗った。顔こそ袖で隠れて見えないだろうけど。
どや。
興味持ったか? 袖に隠された顔が気になったか?
自分から手をほどくことはできないから、相手の出す音で、次の行動を予測する。
かすかにした、衣擦れの音。目の前に立つ皇帝が動いた証拠だ。
わたしの予想だと、「面をあげよ」で、わたしの手を動かす(or払いのける)で、「うむ。なかなか見目好い娘だ。気に入った」になる――
「クサいな」
――は?
「そこなる女儒。窓を開けよ」
わたしではなく、その脇を通り過ぎ、窓に向かう皇帝。同じように控えていた尚佳に命じると、バタンバタンと自らも室の窓を開け始める。
「よくもここまで臭い部屋に居られるものだな。皎錦の者は、みな匂いを感じられぬほど、鼻がひん曲がっておるのか?」
――は?
窓という窓を開けても、苦虫噛み潰したように顔を歪めた少年皇帝。
「うわ、若いな~」とか、「おっ、意外とイケメン?」みたいな感想よりも、「は?」が頭を占める。
臭いってナニ? これぐらいの香を焚くことぐらい普通でしょうが! 年頃の女性なら、これぐらいの香を焚くことぐらいあるっちゅーの!
そりゃあ、まあ? ちょっと(かなり)ムラムラしてもらうために、麝香とか焚きまくったけどね? でも、「イヤン♡アハン♡」する場所って、たいていこういうもんでしょうが。
……自分でも「匂いキツすぎたかな~」ぐらいは思ってたけどさ。
「キレイな鼻筋をしているが……。残念だな、鼻が悪いのはどうしようもないな」
近づいて、わたしの顔をマジマジと見る皇帝。顎を持ち上げ、お肌の毛穴までチェックされてるような視線。
(うわ、若い……)
大きく黒目がちの瞳に映るわたし――じゃなくて。
普段からセッセとお手入れしてるわたしよりもキレイな肌。皇帝らしく絹の豪奢な刺繍入りの衣を着ているけど、その顔はどこか幼くてアンバランス。顔立ちも整ってるけど、どっちかというと「カッコいい」より「かわいい」。背もわたしと同じぐらいだし。
「……一度ぐらいこちらに参らぬと、お主の国がなにかとやかましいからな」
わたしの国?
「宰相の、張慈恩だったか。贈った女はどうだったか、息災にしておるか。あの手この手でこちらに問うてくる」
じ、慈恩さまがっ!?
「両国の友誼をというのなら、贈った時点で問題なく結ばれておるというのに。余がそなたを抱かぬ限りは、安心できぬという」
そ、それは……。
「まあ、それも杞憂に終わる。そなたは息災であるようだし、余もこうして寝所を訪れた。これで宰相も納得するであろう。そなたのことも『佳い女であった』と報告しておこう。ウソはついておらぬからな」
う、ウソはついてないけど……。
慈恩さまが願ってる報告は、「朱煌国の新皇帝は、贈られた美女にメロメロのデレデレで、日も夜もあかず女に溺れております」ってヤツだろう。「政なんてうっちゃって、女のもとで、デヘヘとエロい顔してます」っての。朱煌国が弱体化していくのも時間の問題。朱煌国が滅びるまであとわずか。
そういう報告が欲しいのであって、「贈られた女は元気でしたよ~」なんてのは、いらないと思う。そりゃあ、優しい慈恩さまのことだから、わたしのことを案じてくださってるだろうけど。
「ではな。今宵はここで寝るつもりだったが、――興が冷めた」
スッと立ち上がった皇帝。そのまま回廊につながる扉に向かって歩き出す。
「次に来るまでに、そのひん曲がった鼻を直しておけ。さすれば、そなたを抱くこともあるかもしれん」
ニッと、底意地悪そうな笑いを残して、扉の向こうに消えた。
(なっ、なんなのよ、あれ――っ!)
怒りと屈辱と、苛立ちとムカつきとムカつきとムカつきと……。
(ムキ――――っ!)
ムカつき大爆発。