巻の十七、一世一代大舞台
「里珠さま。書が届いておりますわ」
窓も閉め、火鉢に手をかざしていたわたしに、尚佳が黒い箱を差し出す。
「また?」
「ええ。またです」
顔を軽くしかめたのは、わたしだけじゃない。それは尚佳も同じ。
大きくなったお腹を抱え、大儀そうに体を動かして、それを受け取る。
「――ねえ、尚佳。七ヶ月目ぐらいの妊婦ってどんな感じかしら」
受けた手紙。それを読んで相談する。
「七ヶ月目ですか?」
「そう。七ヶ月目」
わたしの問いに、尚佳がうーんと、軽く唸る。
「そうですねえ。お腹が前に突き出してくるので、動きは緩慢になるのではないでしょうか」
「うん。それから?」
「貧血とか、立ち眩み。胎動を感じることもあるかと。胎児が外の音を聞いているとも言いますわね」
なるほど、なるほど。
「じゃあ、そういうふうにするわ」
〝そういうふうにするわ〟
知らない人が聞けばおかしな言葉だけど、菫青宮のわたしの室には、尚佳以外、誰もいない。
秋に軍を引き連れ出立した皇帝。
南の洸州で起きた反乱。
若干十五歳の少年皇帝にとって、初めての戦。
だからなのかどうなのか。彼は、未だに帰ってくることができないでいる。
(まあ、こういうのは長期になることもあるし。しょーがないわよねえ)
ピラっと、届いた書を長椅子の上に放置。
彼は帰ってこないけど、代わりに届けられる手紙。
三日とおかず、セッセマメマメと届く。メッチャ筆まめ。
――それほどまでに、菫青妃さまを熱愛なさっておいでなのだなあ。
なんて感想も聞こえてくる。
わたしが懐妊してなかったら、戦地にも連れてっただろうと予想。そして、剣を片手に、わたしを(イチャコラ)抱っこ。――勘弁して。
「それと、里珠さま。吏部尚書さまと、御史大夫さまから絹と香料が届けられております」
「あー、はいはい。じゃあ、台帳に記入しておいて~」
いつ、誰から何がどれだけ届けられたか。
「ご覧にならなくてよろしいのですか?」
「いいわよ、めんどくさい」
興味ないし。どうせいつもの贈り物だし。
――今後のことも考えて、菫青妃にゴマすっておいたほうがいいな。
皇帝の極端なまでの寵愛。
そして、懐妊。
万が一のことがあれば、わたしの産んだ子を皇帝とせよっていう宣言。
それらを鑑みて、「こりゃあ賄賂贈っとくべや」みたいな連中が爆発的に増えた。
皇帝がこの反乱で命を落とす――なんて不敬極まりないことを考えてはいけない。けど、万が一、万が一ってことはある。ありえる。それでなくても鎮圧までに時間かかってるし。
だとしたら、次期皇帝の母である菫青妃に取り入っておいて損はない。賄賂でも金でも布でも香料でも。なんでもいいから贈りつけて、いい顔しておこう。
そしたら皇帝崩御、政権交代となっても地位は安泰。皇帝還御であっても、菫青妃が寵愛されてる限り、不遇を囲うことはない。
そういう魂胆モリモリ贈り物。
皇帝の帰りが遅くなればなるほど、贈り物が増えていく。ウンザリするほど。
「それより、尚佳。支度手伝ってくれない?」
「支度……ですか?」
「うん。もうすぐ来ると思うから」
軽く首を傾げた尚佳。その首がまっすぐに戻るより速く、回廊が騒がしくなる。
「――菫青妃さま。姜丞相がお呼びでございます。至急、含元殿まで参られませ」
室の外から告げた女官。
その内容に、「ね? 来たでしょ?」と目で尚佳に伝える。
そう。
来た。
「ってことで、いっちょ出かけるわよ」
軽く深呼吸して気持ちを整える。ついでに、「フン! ハッ!」と軽く拳を突き出す。
さあ。ここからよ、わたし!
* * * *
(うわあ、お通夜~)
女官の先導で、外廷にある含元殿に入る。
皇帝に連れられ来たこともあるけど、今日、彼はいないから、わたしの席は誰にも顔が見られないようセッティングされてる。御簾と薄い紗の帷帳と二重のガード、鉄壁防御。これ、中から「ベロベロバア」しても気づかれないよ、きっと。
ちょっとやってみたかったけど、それは封印。わざと衣擦れの音をさせて、着座。隣にすました顔の尚佳が立つ。
「菫青妃さま」
真っ黒衣装の文官武官たちのなかから、老齢の男性が拱手を捧げ、前に出る。確か、この人が先帝時代から仕えてるっていう姜丞相。皇帝がわたしを抱っこして廷議に出るたび、ゲフンゲフン風邪引いてた人。
「身重の御身でお出でいただき、誠にありがとうございます。今日は、どうしてもお伝えせねばならぬことがあり、こうしてお呼びだていたしました」
丞相が一段深く頭を垂れる。
「先ほど、洸州から早馬が参りました。……皇帝陛下崩御とのことでございます」
沈痛な丞相の声。
「ああっ……」
ちょっとだけ間を置いて、ガタンと音を立てて椅子から崩れ落ちる。
「菫青妃さま! お気を確かに!」
わたしを支えようと、尚佳が駆け寄る。
「――まこと、いたわしいことでございます。陛下はまだお若く、もうすぐ御子も生まれるというのに」
丞相が、袖で目元を拭う。同じように、すすり泣くような声が、居並ぶ文官武官の間からも漏れ聞こえた。すすり泣きどころじゃない。大音声の「オーイオイオイ」なんてのもある。
「亡き陛下を偲び、紅涙に浸りたいところでございますが、今は国家存亡の危機。心を殺し、国家のため、最善を尽くさねばなりません」
丞相の言葉に、「オーイオイオイオイ」以外のすすり泣きがピタッと止まる。――うそ泣きかい、お前ら。
「生前、陛下は、菫青妃がお産みになるであろう御子を皇太子にと、お考えであらせられました。我ら臣も、そのお考えに異論はございません。我ら一同、御子が無事お生まれあそばし、帝位に就かれることを望んでおります」
これでさっきまで泣いてたの? 悲しみに暮れてたの? ってぐらい朗々とした丞相の声が含元殿に響き渡る。文武百官一同に会することができる含元殿。廷議が行われる宣政殿よりずっとこ広い。そこにこんなに響くんだから、たいしたもんだ。
「皆さま。その忠心、ありがたく存じます。陛下も、陛下も……、きっとお喜びであらせましょう……。ウウッ」
ちょっとだけ声を詰まらせる。潤んだ目をそっと袖で抑えてみたり。
「わたくしは、政もなにも存じませぬ。陛下から、望外のご寵愛を授かっただけの無知な女でございます。わたくしは、ただ無事に陛下の遺児をお産み参らせるだけ。ですから、どうか。どうか吾子を、吾子とこの国の安泰を、お願い申し上げます」
サメザメザメザメ。
お腹を守り、ヨヨと泣く。丞相の声に負けないくらいハッキリと。
「ハッ。我ら、無事に御世を継がれること、身命賭してお支えいたす所存」
ザッ。
そんな擬音が聞こえそうなほど、一斉に文官武官が頭を垂れた。
「菫青妃さまは、どうか心安らかに、御子を無事産みまいらせることだけ注力くださいませ」
この国の忠臣代表が言った。




