巻の十五、波乱の予兆をはらむ予感。お断り
「――菫青妃。余の子を孕め」
――――――は?
余の子を? 孕……め?
「そろそろ孕んでもいい頃合いだ」
「えっ、ちょっ、なっ、なにをっ、なにをおっしゃ、ええっ!?」
夜。
いつものようにわたしの室に来た皇帝の言葉に、目ん玉ひんむく。
余の子って! そそそ、それって! それってぇっ!!
今いる寝台の上。
そりゃあね、ここは本来、皇帝とご寵姫がそういうことをいたすところなわけで。間違っても、ご寵姫がニセの嬌声あげる場所でもなければ、皇帝が政務を行う場所じゃない。
わかってる。わかってるんだけど。
いきなり本番で、いきなり押し倒されてそういうことされるには、心も体もなにもかも準備不十分!
でも、えっ、ちょっ、ええっ!?
どうしよう。
皇帝の顔と寝台を交互に、高速で首を動かして見比べる。
皇帝が「そういうことしたい」って言ったら、わたし、「NO」は言えない立場よねえ。やっぱり。逆らっちゃいけない……わよ、ね。
心拍が上がりすぎたのか。胸どころか頭の奥もガンガンしてきた。
「くわしく説明したいが――。お前の声は通りすぎる。明順、支度せよ」
「ハッ」
いつも室の端っこで空気になってる近侍が、一礼を残して足早に立ち去る。
「そこなる女儒もついてこい。琴を持ってな」
「はい」
尚佳も一礼するけど、その声は「は? なんで琴?」ってかんじ。命令には従うけど理解はしてない。――っつーか、「ついてこい」?
「きゃあっ!」
「だから、ソナタの声は通り過ぎる。もう少し声を落とせ」
キーンときたのだろう。片眉上げて顔をしかめる皇帝。だけど。
(いきなり抱き上げられたら、誰でも驚くわいっ!)
それも、いつものように「ご寵姫抱っこ」じゃなくて、「荷物運びまーす」的担ぎ上げ方。
回廊を大股で歩いてく皇帝(と、わたし)。
皇帝の後ろ、琴を抱え、必死についてくる尚佳と、バッチリ目が合う。
――どこに行かれるのですか?
――ンなもん、皇帝に訊いてよ!
――琴をどうされるのですか?
――それも、皇帝に訊いて!
みたいなテレパシー目線を交わす。
「――着いたぞ」
いくつも回廊を曲がって、そのまま外に出たところで、立ち止まった皇帝からストンと降ろされた。
「――池……でございますか?」
なんで池? どうして池?
池と琴の関連は?
というか、夜の池に何の用?
目の前に広がる池。夜の暗さでハッキリわかんないけど、学校のプールなんかよりはずっと大きい。建物に囲まれてても「大きい」って感じるんだから、実際はもっと大きい。
その大きな池の周りには、等間隔に松明が焚かれてる。真っ黒な水面に、その灯りが映る。
「乗れ」
ポカンとしてたら、グイッと腕を引っ張られた。
目の前、真っ暗な池にポウッと浮かび上がる赤い船。
「もしかして、船にも乗り込めないのか?」
「だだっ、大丈夫です! 一人で乗れます!」
ちょっと驚いてただけです!
ふっ、船ぐらい、一人で……って。うおっ!
船にはすでに近侍が乗り込んでて。棹を立て、船がぐらつかないように支えてくれてるけど、それでもグラグラして。
「菫青妃」
軽くため息をついた皇帝が、再びわたしを抱き上げての乗船。
うう。やっぱりこの体、どんくさすぎ。
尚佳なんて、琴を抱えてても一人で乗り込めたっていうのに。
わたしたちが座るのを確認して、近侍がその棹で船を池の真ん中まで進める。
四人が乗ってもまだ余裕の船は、とても安定していているんだけど。
(さすがに、夜の水面は怖いな)
ひっくり返ったら。溺れたら、上も下もわかんなくってブクブクブクだな。それでなくても着てる衣装は絹。水を含んだら、浮かび上がることもできない。
「ここでよい」
わたしの隣、タップリクッションにもたれるというか、寝っ転がるというか。一人メチャクチャリラックスしてる皇帝が、船を止めるよう近侍に命じる。
「女儒、琴を鳴らせ。曲は何でも構わん」
言われるまま、尚佳が琴を鳴らす。
「菫青妃」
「きゃあっ!」
腕を引っ張られ、同じように仰向けにひっくり返されたわたし。安定してたはずの船がグラリと揺れ、尚佳の琴が止まった。
「なっ! なにするんですか!」
「大丈夫だ。船は転覆しない」
「当たり前です!」
されてたまるか!
クツクツ喉を鳴らす皇帝に抗議。
それに、アンタさっき、「余の子を孕め」って言ったわよねっ!?
それって、もしかしてもしかしなくても、ここでそういうことをするってことっ!?
棹取りしてる近侍と、尚佳の見てる(聞いてる)前で?
船の上ってだけでも変わってるのに。それってどんな特殊プレイよ! わたし、絶対イヤだからねっ!? 初めてが、青姦on池ってどんなのっ!?
「ここなら、誰にも聴かれる心配もない。ソナタの声は、嬌声をあげるには適しておるが、ことを謀るには向いておらぬからな」
え?
「余とソナタ。また変わった趣向で閨を楽しんでいると思われるだろう」
「えっと。そういうつもりで、ここに?」
「そうだ。だからソナタもそのように振る舞え」
「はあ……」
わかんない。わかんないけど、船に身を委ねるように体の力を抜く。チャポンと船に波が当たる音がした。
「もうすぐ面白い魚が釣れる。だが、その前に一つ趣向を凝らしたい。そう思っている」
空を見上げ、話し出す皇帝。だけど。
「――どうした?」
そのまま聴く気になれたかった、わたし。そっと船がぐらつかない程度にゆっくりと体を動かし、水面を見る。
「いえ。どこかに誰かひそんでないかな~って」
「誰か? ひそむ?」
「こういうのって、悪事(?)とか話し始めた時に、そっと隠密とか忍者とか隠れてたりするのよ」
「オンミツ? ニンジャ?」
皇帝が首を傾げた。
「そうそう。屋形船なんかで『お代官様、これを』って小判を差し出して、『三河屋、お主もワルよのぉ』で、『お代官様こそ』『フッフッフ』みたいなワル笑いをしてるとさ、そこにピットリペットリ隠密が貼りついてて、『全部聴いちゃってたんだもんね~』って展開になるの――って」
シマッタ!
皇帝、メッチャキョトンってしてる! お目々まんまるだ!
そりゃそうだ。この世界、居るとしたら「隠密」じゃなくて「細作」だもん! 呼び方違うもん!
「――心配性なのだな、ソナタは」
フッと笑って、皇帝がわたしの髪を一筋持ち上げる。
「池には、誰も近づかぬよう命じてある。どこにひそんでたとしても、話を聴くのは難しかろう」
「いやでも! 忍者だったら、こう、竹の筒を持って、水の中に潜ってるかも!」
ほら、こう、ブクブクしながら!
忍者の正しい潜み方(?)をゼスチャーで伝える。
「心配ない。そうしてひそんだところで、琴の音で声は聞き取りにくくなる。菫青宮と違って、ここなら忍び近寄ることも不可能だ」
あ。
それで、琴を弾かせたの?
池の上に出たのも、そのため?
池の上、船で皇帝が寵姫とイチャコラしてたら、それを臣下が堂々と見に来ることは難しい。そして、忍者をひそませようにも、突然の船遊びに手配できるだけの時間もない。ワンチャン池の中に潜れたとしても、琴で声はかき消される。
ここで話を聴けるのは、近侍と、尚佳だけ。近侍はともかく、尚佳なら、聴いたことを外に話すような不忠義はしない。
なるほど。
「ということで。これから話すことをよく覚えておけ」
真剣な目になった皇帝。
「この先起きること。この先成すべきこと。すべて、お主の働きにかかっている」
その真剣な視線に、ゴクリと喉が鳴った。わたしの働きってなに?
「なに。そう心配することはない。ソナタは、余の命じるまま、子を孕んでおればよい」
すくわれたままのわたしの髪。そこに、いたずらっぽく表情を崩した皇帝が、チュッとキスを落とした。




