巻の十三、太公望皇帝は寵愛と言う名の釣り糸を垂らす
皇帝が、皎錦の女に溺れているらしい。
そんな噂が一気に広まる。
「溺れる」なんてかわいいもんじゃない。ドロドロのグチョグチョのグチャグチャになるほど溺れている。(どんなの?)
あれほど熱心だった廷議にすらお出ましにならない。お出ましになったとしても、ご寵姫を連れてのご臨席。それも、すぐに退出されてしまう。
この間は、閲兵にもご寵姫を連れていらしたそうだぞ。
それを言ったら、含元殿の謁見のほうがもっとすごいぞ。ご寵姫を連れてお出ましになって。薄い帷帳の向こうで、怪しげな動きとあられもない声がしておったからな。宰相殿がお諌めしようと咳払いしても、おかまいなしときた。
朝も夜も、片時も手放さないせいで、愛されすぎてご寵姫はグッタリ。だが、陛下は寵愛を止めない。菫青宮からは、ご寵姫の嬌声が、日も夜も途切れることなく聞こえてくるらしい。
陛下にとって、初めての女性ですからな。
初めての女というのは、得てして溺れやすいものだからのう。陛下もまだ十五。まだまだお若いですし。いたしかたありませんな。
それでなくても、噤鳥美人などという飛び抜け美しい女ですからのう。
しかし、政務に熱心で、民の声を広く聴く、名君の器だと思っていたのに。女にうつつを抜かすとは。
いやいや、名君をたぶらかし、暗君たらしめるほどの名器を持っているのだろう、その女は。
一度は、抱いてみたいものですな。おっと、これは失言でしたかな。ハハハ(エロ笑い)
なーんて、噂。
それが、後宮だけじゃない、市井のネズミまでがささやきあってる。
(好きで上げてる嬌声じゃないっての!)
あっちこっちに連れ回されて、膝上抱っこをされた上、「啼け」と命じられる。含元殿の謁見なんか、膝の上で思いっきり揺さぶられての「啼け」だったし。
賢君だった少年皇帝を虜にして、溺れさせる美女、陽里珠。
一度抱いてしまえば二度と手放せなくなり、腎虚になるまで精を搾り取られる(かもしれない)。
(搾り取られてるのはこっちよ、こっち! ご寵姫のフリして、エッチしてるフリして、こっちが心をゴリゴリ削られてるっての!)
反論したい。
尚佳が持ってくる「こういう噂ありますよ」には、全部、逐一反論したい。
エッチしてるフリ、ウソであっても、人前であんな声を上げるのは抵抗あんの! あんなの、恥ずかしいに決まってんでしょ!
わたしにだって、「こんなとこはそういうことしちゃいけない」ぐらいの常識はあるし。次に顔合わせた時のバツの悪さってか、「ああ、コイツが皇帝に抱かれてる女なんだな」みたいな視線が辛いのよ!
「さっき啼いてたのは、この女か」とか、「そんなに佳い女なのか?」とか、「一度ぐらい味見してみたいもんじゃのう。ヒッヒッヒッ」みたいなのとか。(最後のヤツはぶん殴りたい)
「もう勘弁して」
ボデっと寝台に潰れる。
噂も。日々振り回される生活も。
「里珠さま。しっかりなさってください」
「あ~、尚佳ぁ~」
アンタだけよ、いたわってくれるの。
「そんな格好で寝潰れないでくださいまし。お召し物にシワが入りますし、なにより、敷紗に化粧がついて取れなくなります」
………………。
そうね。そうだね。そうだよね。
豪華! ご寵姫衣装、キラキラ化粧つきで寝ちゃダメだよね。うん。(ちょっぴり涙出ちゃう)
「ご苦労だったな、菫青妃」
尚佳に脱がされるままになってるわたしと違って、自らテキパキと衣装を脱ぎ続ける皇帝。サッサと脱ぎきったヤツの後ろには、恭しく箱を捧げ持った若い近侍。箱を卓の上に置くと、代わりに、皇帝の脱ぎ捨てた衣を集め持つ。
(旦那の脱ぎ散らかしを集める主婦みたい)
「こんなに脱ぎ散らかしてー!」、「靴下は裏返さないでって、いっつも言ってるでしょ!」――違うか。
「それにしても。先程の演技はなかなかのものであったぞ」
置かれた箱から取り出した書簡。それを手に、わたしには視線もくれずに皇帝が言う。
「まさか、あの場で荔枝を食べさせられるとは思わなかったが」
「いけませんでしたか?」
笑いを含んだ皇帝の言葉に、思わずムッとする。
先程の宴席。
いつも通り、わたしをお膝抱っこして参加した皇帝は、見せつけイチャラブのために、わたしにお酒を飲ませようとしてきた。「愛いヤツじゃ、飲め飲め~」みたいな。だけど。
わたし、お酒、好きじゃない。ってか苦手。
だから、こっちから先手を打って、「陛下♡ 荔枝あ~ん♡」をした。皮をむいた(むいてあげた)荔枝を指で軽くつまんで、皇帝の口に放り込む。放り込んだら、残った指を艶かしくチュッと舐める。
「悪くない。寵姫に食べさせられる荔枝の味は格別であった」
そうですかい。
こっちは、指舐めてしなだれかかって、「愛されてますぅ」演技追加してたってのに。「そちも食べよ」ってお返し荔枝してきた皇帝。次々口に放り込んでくるもんだから、あやうく種まで食べちゃいそうになった。
まあ、お酒回避できたし、溺愛っぷりは加算されて、出席者たちを唖然とさせることができたから、いいっちゃあいいんだけど。
――って。よくないわ!
「あの、陛下」
意を決して問いかける。
「ご寵姫演技は、いつまで続けるのですか?」
面白いものが見れる。
そう言われて、尚佳やわたしの身の安全のために演技を続けてるけど。
(面白いものも、安全もピンときてないのよね)
毒桃その2を贈られてないから、安全っちゃあ安全なんだけど。かわりに、朱煌国の臣民から顰蹙買いまくりなんだよなあ。
他国の見知らぬ人のからの顰蹙なんてどうでもいいわ。
な~んて思えるほど、わたしのメンタルは鋼でできちゃいない。
「今しばらくだ。もうすぐ、面白いものが釣れる」
「――釣る?」
「ああ。大きい魚が一匹。良き魚が一匹、――かな?」
――――――?
よくわからない。
「まあよい。今宵は疲れたであろう。余は起きているが、気にせず床につけ」
「はい」
言われなくても先に寝ますよ。
単の衣になったわたし。尚佳の許しも出たことだし、ボフッと皇帝の隣、寝台にダイビング。
「眠れぬというのなら、よく休めるようかわいがってやってもよいが?」
「いえ。大丈夫でございますわ」
かわいがってやる=エッチでしょうが。その場合。
いっぱいそういうことして、クタクタになって寝潰れるってやつ。
お国のために、皇帝籠絡作戦中なら、「陛下、そんな書簡より、わたしくを愛でてくださいませ」一択だけど、今は「なにすんじゃ、このドスケベ野郎」一択。睡眠薬代わりのエッチなんて、絶対やりたくない。
それに、別にそんなことしてもらわなくても充分に眠い。日々行われるご寵姫ごっこは、心だけじゃなく体も疲弊させてんのよ。それでなくても、寵姫として、男を籠絡する名器になるよう育てられたこの体は、体力なさすぎて疲れやすい。
隣に誰がいようが、気にせず眠れるほど疲れてるの。
「おやすみなさいませ、陛下」
それだけ言うと、重いまぶたが視界を閉ざす。キチンと整えられた寝台は、最高の睡眠薬。
「ああ」
皇帝がペラリと紙をめくる音がする。黙読し、書を置き、また次のものを手に取る。寝台から伝わるその動き、音。
皇帝は、日中、わたしに夢中ラブラブのフリをして、夜に必要な書に目を通す。そして、朝には指令を書き込んだ書をあの近侍に渡す。わたしに溺れてなどいない。皇帝はキチンと仕事をこなしている。
(釣れる魚って、なんだろう)
隠れて仕事して。期待の魚が釣れるのを待ってる皇帝。そこまでして待つ魚ってナニ?
(あ、ダメだ。眠い……)
思考、限界。おやすみなさい。




