巻の一、今日も閨には閑古鳥が鳴く
日も暮れた暗い窓の外に雨が降る。
室の明りを受け、銀糸のような雨が幾筋も降り注ぐ。
それを、窓枠に頬杖をついて、何をするでもなく眺め続ける。
シトシトシトシト、ピッチョン、タンタンタン。シトシトシトシト、シトシトシトシト、ピッチョン、タン、タタン。シトシトシトシト、ピッチョン、カーン。
「あーっ! もう!」
思いっきり吠える。
屋根から落ちる雫。その不規則に奏でられる雨だれ音に苛立つ。
もうちょっと、音に規則性とか法則性とかないわけ?
シトシト降るなら降って、ピッチョンピッチョン落ちるなら落ちて。同じ律動で鳴らされてるなら、なんていうのか、こう「眠いなあ」って感じで心地いいのに。うと~っとしたところで、「ピッチョン、カーン」なんて入っちゃうと、こう、眠気がガクッとずっこけて、「うがあっ!」ってなっちゃうのよ。
それでなくても、それでなくても……。
「里珠さま。そろそろ、おやすみになられてはいかがですか?」
「うん……」
「今宵も、お渡りなさそうですし」
「うん……」
わかってる。わかってるわよ。
「今宵は」じゃなく、「今宵も」だってこと、強調されなくてもわかってるってば。
朱煌国後宮の一つ、菫青宮。
この国の皇帝が寵姫と一夜を過ごすはずの宮。「いやん♡ アハン♡ そこはダメェ♡」みたいなことが、毎夜くり返されるはずの場所。
皇帝が暮らす思清宮からつながる回廊と門を経て、後宮で最初にたどり着く場所。皇帝は、ここを通らないと後宮の奥へと行けないし、後宮に入った女性は、ここで皇帝の寵愛を受けないと寵姫として認められず、奥にある宝珠宮へと居を動かせない。
つまり、皇帝、寵姫(候補)、どちらにとっても始まりの宮。
だけど。
(ぜんっぜん来ないのよねえ……)
ドハアアアと、窓の外にため息を盛大に吐き出す。
この朱煌国の皇帝、紅志英。去年の暮れ、父親の跡を継いで皇帝になった弱冠十五歳のその人物は、この一年、一度も後宮に足を踏み入れてない。
(まあ、この青菫宮を迂回して後宮に……ってこと、やってるかもしれないけど)
今のところ、この奥、後宮のどこかに、コッソリご寵姫を住まわせてるとか、そういう情報は入ってない。
それに、そんな回りくどいやり方をしなくても、わたしが邪魔ならサッサと後宮の隅にも追いやって、自分の寵愛する姫を菫青宮に据えればいい。わたしが隣国の貢物であっても遠慮する必要はない。だって彼はこの国の皇帝なのだから。皇帝の考えは、国の規律。それはどこの国であっても同じ。
「ほら、いい加減、おやすみになってください、里珠さま!」
パンパン!
「ちょっ……! 尚佳、驚かせないで!」
そんな耳元で手を叩かれたら、心臓飛び出ちゃうじゃない!
「こうでもしなくては、いつまで経っても『うん……』で、終わりじゃないですか」
ゔ。
「早くおやすみにならないと、お肌に良くありませんよ?」
ゔゔ。
「それに、あたしだって、早くやすみたいんです」
だから、主であるお前は、トットと寝ろ。
ゔゔゔ。
故国からついてきてくれた唯一の女儒、尚佳。唯一の仲間である、彼女の命令に逆らうことができようか。いや、できない。(反語的表現)
「わかってるわよぉ」
小屋に追い立てられる鶏のように、ノロノロと窓を離れ、寝台に向かう。
菫青宮の寝台。
皇帝と寵姫が、ああいうことやこういうことをしても、どれだけ羽目を外しても、どれだけ盛り上がっても大丈夫なように、大きすぎるぐらい大きく作られてる。――なんか腹立つな。
虚しいっていうより、すごく腹立つ。
一人寝が寂しいんじゃない。なんで来ないんだこの野郎ってのが上。
「ねえ、尚佳。いっしょに寝ない?」
これだけ広いんだし。二人で寝ても余裕だよ、きっと。縦にだって横にだって寝られる。あと何人か呼んでワイワイ寝ることだって可能。ちょっとやそっとの寝相の悪さじゃ、落ちることもない。
「なに、バカなこと言ってるんですか。それよりホラ、衣装、脱いでください」
テキパキと、わたしの腰紐を解いていく尚佳の手。
「あ~れ~ぇ~」
面白半分に、クルクル回転しようとしたら、グイッと引っ張り戻された。「ふざけるな」ということらしい。
「簪、ご自身で外してくださいね」
「――はい」
「お化粧も落として。敷紗についたら、洗うの厄介なんですからね」
「――はい」
わたしのお化粧。わたしの金の簪、わたしの絹の衣。すべて王を迎えるために用意したもの。王が訪れないのなら、これらすべて意味がない。寝台にかかる敷紗につけないように、化粧は落として、簪外して髪も下ろして。絹の衣はシワにならないように、いつもの綿の衣に着替えて。
王を迎える準備万端ご寵姫から、寝る準備だけは万端女になる。
「ねえ」
半ば尚佳にされるまま、着せ替え人形になりながら声をかける。
「陛下って、女性を愛することあるのかしら?」
「――は?」
尚佳が手を止め、思いっきり顔をしかめた。
「いやさ、ここまでずっと訪いがないとさ、陛下の性癖に問題あるんじゃないかなって思えてさ」
「問題って……」
「わたし以外に気に入った女がいるようでもないし」
皇帝の暮らす、思清宮に女を囲ってるってのなら別だけど。
「もしかして、もしかしたら、女じゃなく、男に興味がおありなのかな~って」
だって、あちら、思清宮で、夜遅くまで政務を執られてるって噂を聴くし。あちらで近侍とか侍従とずっといっしょにいるって聴くし。
皇帝ともあろうものが、そんな夜遅くまで部下といっしょにいたりする? それも毎日。
「ボクちゃん、ご寵姫とチョメチョメするので忙ちいの~。まつりごと~? ボクちゃん、ムズかしいことわかんないから、あとはヨロチク~」ってのが普通じゃないの?
だから、「ボクちゃん、女より男とチョメチョメするのが忙ちいから~、後宮なんて行ってられないの~」なのかな、と。いわゆる、びぃえる、男色、衆道、ほも、薔薇族、やおい、みたいな。もしそうだとしたら、わたし、どれだけ頑張っても、皇帝を籠絡するなんて、むりげぇっしょ。
(――ん? ちょっと待って)
そこまで考えて、別のことで思考が立ち止まる。
(〝びぃえる〟って――何?)
ついで、〝むりげぇ〟も。
頭のなかにポロポロ湧いてでた単語。
聽いたことないはずの言葉なのに、わたし、その意味わかってる?
(〝びぃえる〟はビーエル、ボーイズラブ、男同士の恋愛で。〝むりげぇ〟は、無理ゲーで、クリア不可能なゲームのこと? こと?)
自分で質問。自分で答える。
それに、さっきやろうとした、帯を外され、「あ~れ~」も、その次、「御代官さまぁ~」ってのを付け加えたかったし、「よいではないか、よいではないか」っていうチョンマゲお代官様の不埒な笑みが思い浮かんでた――って。
(わたし、もしかしてもしかしなくても、転生してる?)
唐突に思い至る。
ドッと襲いかかる、記憶の津波。
前世日本人だったわたしは、生まれ変わってこの中華っぽい世界にいる。
わずか二十歳で命を落とした前世のわたし。
前世では、さえない普通の女子大生だったけど、今のわたしは〝その美声に鳥がさえずるのを憚る、噤鳥美人〟、陽里珠。
故国からある密命を受けて、この朱煌国に贈られ、こうして後宮で暮らしている。
(これって、ゲーム転生とか、小説世界への転生とかそういうヤツ?)
「こ、これはわたしが大好きだったゲーム『ナンダカンダのスッタモンダ』の世界!」みたいな。「わたし、そこの悪役令嬢、アレコーレ嬢になっちゃった!」とか。(ヒロイン、聖女とかも可) 「そして、目の前にいる彼は、わたしの最推し、ソレコレさま!」とかとかとか。
この場合、『後宮の冷遇妃ですが、まったり中華生活を満喫させていただいてます ~陛下? お呼びじゃないんですが?~』みたいなタイトルかな。
(いやいやいや。わたし、こんな世界知らないし)
ゲームだってそこまでやりこんでなければ、小説とかマンガもそこまで読み込んでない。
電車とかでの移動時間、少しだけゲームしたり、マンガ読んでたけど、言ってしまえばそれだけだし。前世の記憶と同時に思い出せるほどやり込んでない、ライトユーザーだったし。
無料だからって読み漁ってたマンガとかに、こんな世界があったかもしれないけど、今のわたしはまったく知らない、ミリシラ状態。
この先の攻略法とか、物語の展開なんてまったくわかんないのに、「前世は日本人で女子大生でしたー」なんて記憶だけが戻ってきた!
(……どうすんのよ、これ)
ものすごく中途半端なんですけど?
「――里珠さま? 里珠さま!」
パンッ!
「うわっ! 尚佳!」
「『うわっ!』じゃありません! ホラ、着替え終わりましたから、サッサと寝てください」
見れば、いつの間にかお着替え完了。
顔を動かしたせいで、下ろしたままの髪が、サラリと肩から流れ落ちる。
(こ、これがわたし……)
改めて実感。
前世の髪は、硬くて太くて多くて。伸ばしたところで、「サラリ」じゃなくて「バサリ」と、獅子舞のように暴れる髪だったのに。引き締まったお胸と豊かなお腹で、寸胴体型、凹凸に乏しい体だったのに。
絹糸のようなつややかな黒髪。細く長い指。豊かすぎる胸と、折れそうなほど細い腰で、確か「柳のようなたおやかさ」と言われたことある。今は確認できないけど、目は黒曜石のようと称えられるし、肌も白く抜けるように美しい。唇だって赤く潤んで、紡ぎ出される声は、迦陵頻伽もかくやとばかりに謳われる。
(ギャップ激しすぎ)
前世と同じ二十歳とはとても思えない。大人すぎってかエロ過ぎでしょ、この体。
「里珠さま。陛下の訪いがなくて、悔しいのはわかりますが、早く寝てくださいまし」
絶賛自分に戸惑い中のわたしに、何度も「寝ろ寝ろ」攻撃をくり返す尚佳。
「わかった。わかったわよ」
これ以上ヤイヤイ言われたくないので、大人しく寝台に横になる。
「では、おやすみなさいませ」
「うん。おやすみ」
皇帝が訪れないのなら、燭台をつけっぱなしにするのは無駄。倹約志向の尚佳が、寝台脇の手燭以外の灯りを消していく。
いつもなら床に入ったところで、「このままではマズいのよぉ」とか考えて、悶々とするんだけど。
(前世を思い出して、どうすんのよぉ、わたし!)
違った意味で悶々として、暗い室でも眠れそうにない。