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魔族は、魔物を「良き隣人」と呼ぶ。彼らにとって、魔物は野山にいる動物と変わらない。
しかし、魔物は人間を食らう生き物だ。
魔族と人間は相容れない。
海を挟んだ大陸には魔族の国があるというが、足を踏み入れた人間はいないし、その逆もまた然り。人間の国に足を踏み入れた魔族は、存在しないはずだった。
黒髪赤目は、魔族と人間を見分ける唯一絶対の特徴だ。
黒髪だけでも、赤目だけでもない。黒髪と赤目の両方を持っているのは魔族だけなのである。クレアの髪が黒いのに、魔族と間違われることがないのは、このためである。クレアの瞳がアイスブルーだからだ。
魔物のあとから部屋に入ってきた謎の人物。フードの奥に隠されていたのは短く刈りこんだ黒髪と、赤い瞳だった。
まさか、クレアが依頼をした暗殺組織は、魔族で構成されているのだろうか。それなら、魔物に特定の人間を襲わせるなんて芸当も、理解できなくはない。魔物を「良き隣人」などと称する彼らなら、魔物と意思疎通をはかることもできるのだろう。
ずいぶん厄介な組織に手を出してしまったものだ。
(できれば一生、知りたくなかったわ)
前世のクレアは、知らずに生きていた。依頼が失敗したあとのこともあまり考えていなかったし、暗殺組織が何者かだなんて考えもしなかった。
たぶん、その方がずっと幸せだった。
最終的に殺されたし、心のなかはずっと、リリアンへの怨恨でいっぱいだった。それでも、いつか訪れる死に怯えることも、ラズウェルが自分を殺すとわかっていて一緒に暮らすことも、いままでの行いを後悔することも、魔物に襲われることもなかった。前世のクレアの方がずっと楽な人生を歩んでいた。
まぶたを持ちあげると、見知らぬ天井が視界に映った。
最低限の家具が置かれただけの、簡素な部屋だ。客が宿泊するときに使う部屋かなにかだろうか。少なくともクレアの部屋ではない。シンプルなベッドに、クレアは寝かされていた。
壁を伝うように視線を下ろすと、青い光が見えた。ラズウェルの杖である。
ラズウェルが椅子に座っていた。ベッドの縁に沿うように、半身をこちらへ向けている。長い脚を組んで、その上に開いた本を読んでいるようだった。
杖を抱えたまま、彼はページをめくった。
手袋の指先が本の上を滑る乾いた音。そしてまた、ぱらり。ページが進む。
ぼうっとその手を眺めていたクレアだったが、ページが擦れる音を何度も聞いているうちに、だんだん意識がはっきりしてきた。
「……あなた、いつからそこにいるの」
絞り出した声はかすれていた。喉がカラカラだ。
ラズウェルがため息をついて、吸い飲みを差しだしてくる。驚いた様子はない。クレアが目覚めたのに気づいていたらしい。
クレアは一瞬ためらって、吸い飲みに口をつけた。冷たい水が喉に滑り落ちる。
「ずっとそこにいたのかしら?」
いくらかはっきりした声が出た。
「二日です」
ラズウェルの答えは簡素だった。
そこで初めて気づいたが、ラズウェルの隣に置かれたサイドテーブルに、山のように積まれた本があった。読み終わったものか、これから読むつもりなのかはわからないが、とにかく長い時間クレアの傍にいるのは間違いない。
「貴女を助けないと、リリアンが泣き止まないんですよ」
ラズウェルの杖の宝石は、ずっと光り続けている。発動している魔法は、クレアの傷の治療か、生命維持だろう。文字通り、休まず付きっきりで看病しているのだ。
「てっきり、助けられなかったとか言って見捨てるかと」
「そうしようかとも考えました。自業自得ですからね。あれを引きいれたのはあなたでしょう」
「……依頼はしたけど、手引きはしてないわ」
さすがに後ろめたい。ラズウェルがこちらを見ないのが救いだった。目が合ったら心が折れる自信がある。
しかし、ラズウェルはほとんどノーリアクションだった。クレアはリリアンの命を狙ったのに。
「もっと罵倒されるかと思ったのだけれど」
「貴女が普通の暗殺組織に依頼していたら、そうしたでしょうね」
「どういうこと?」
「魔物にリリアンは殺せません。貴女だって知っているでしょうに」
ラズウェルがこちらを見た。静かな瞳だ。怒りもなにもない。
クレアは眉をひそめた。
「魔物が、リリアンさんを殺せない?」
「とぼけても無駄ですよ。貴女が調べたのは知っています」
「いえ、本当にわからないのだけれど」
ラズウェルの表情が動いた。クレアの背筋が、ぞわりと粟立つ。
弁明をしなければ、まずいことになる。即座に理解したクレアは、頭をフル回転させた。
「だいたい、知ってたらわたくし、リリアンを走らせて自分が部屋に残ったりなんて絶対にしないわよ。リリアンを部屋に残してわたくしがラズウェルさまを呼びに行った方が、わたくしの生存率は上がったはずでしょう」
しばしの沈黙が流れた。
先に目を逸らしたのはラズウェルだ。どうやら、クレアの言うとおりだと察したようである。
「知らないならそれでいい。いまのは忘れてください」
それはさすがに無理がある。
問い詰めようと口を開いたクレアだったが、ひときわ強い杖の輝きが、それを遮った。
「まだろくに動けないでしょう。もう少し寝ていなさい」
抵抗する間もなく、クレアの意識は眠りの底に沈められた。