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部屋の窓ガラスを割って、黒いかたまりが絨毯の上に降り立った。
べちゃん、と液体のように広がったかたまりは、あっという間に収束して、一体の獣の姿をとる。
影を具現化したような黒い体躯に、異様なほど赤く光る目。
間違いようがない。
魔物だった。
ちいさな体躯にも、同じ大きさの獣よりはるかに大きな膂力を秘める。その爪や牙には、人のからだに毒となる瘴気を含んでいる。
ひゅう、と誰かの喉が鳴った。
それがリリアンのものだと気づいて、クレアは慌ててその口を塞ぐ。
「しっ! 刺激してはだめよ」
四つ足の魔物は、まだ周囲の様子を注意深く確認しているようだった。鼻を鳴らして、あたりを嗅ぎまわっている。いま叫んだら、一気に注意がこちらへ向いて襲われるだろう。
リリアンが何度も頷いたので、クレアは彼女の口を解放した。静かにリリアンを立たせて、扉の方へ押しやる。クレアもまたソファとローテーブルの間から抜けだした。
「どうして魔物がここに」
リリアンの声が震えている。
クレアは……クレアのからだは、別の意味で震えていた。
(事故に、見せかけるって)
街はずれや森の近く、辺境の村などでは、魔物に襲われて命を落とした人の話をちらほらと聞く。
魔物に殺されたとあっては、人為的に起こされた事件だとか、その背景に誰かの手引きがあっただとか、そういった疑いはかけられない。
(まさか、魔物をけしかけるのが彼らの方法なの!?)
クレアが暗殺を依頼した今日、この時間に魔物が現れたのは、決して偶然ではない。
例の暗殺者集団は、魔物を用いた暗殺を生業としているのだ。
(魔物を操るなんて、聞いたことがないわ!)
「クレアさまっ」
リリアンに袖を引かれて、はっとした。
魔物の瞳が、こちらに向いている。
クレアはとっさに、リリアンの手を払った。
――保身なんて、考えている余裕はない。
「ラズウェルさまを呼んできなさい!」
助けを呼ばれると理解したのか、あるいは偶然か。
魔物が絨毯を蹴るのと、リリアンが扉に飛びついたのは、ほとんど同時だった。
「リリアン!」
クレアが振り返る。
その頭上に、影が差した。
死線を持ちあげれば、赤い瞳とクレアの視線がかち合う。
(ちがう、リリアンじゃない――)
魔物の狙いは、クレアだ。
反射的に、頭を腕で庇う。鋭い爪が服を破り、肉をえぐった。
一瞬、視界が真っ赤に染まった気がした。
かん高い悲鳴が上がる。リリアンのものだ。
「クレアさまっ!」
床に倒れたクレアは、駆け寄ってこようとするリリアンを睨みつけた。ぴたり、とリリアンの足が止まる。
(こいつ、まっすぐわたくしを狙ってきた)
魔物は、爪についたクレアの血を舐めとっている。それが終わると、ふたたびクレアに目を向けた。リリアンには見向きもしない。まるで最初からクレアしかいないように、迷いなくこちらを見るのである。
(リリアンが狙われないなら……)
助かる可能性がある方法はひとつだけだ。
クレアは食いしばった歯をこじ開けた。
「さっさと行きなさい」
魔物と睨み合ったまま、クレアは吐き捨てた。
リリアンの行く手が阻まれることはないだろう。魔物はクレアににじり寄ってくる。
あとはクレアが、助けがくるまで保つかどうかだ。
玉のように浮いた汗が、頬を伝ってしたたり落ちた。左腕が燃えるように熱い。涙で視界が滲んでくる。無事な手足も震えて、正直もう一歩も動けそうにない。
じっとりと服を湿らせる生暖かい液体は、まさかクレアの血だろうか。
激痛が走った。魔物の前足が、クレアの傷を踏みつけている。獣の息遣いがすぐ傍で聞こえた。ぽたり、と頬に垂れてきたのはよだれだ。
「――めろ、そいつは――」
人の声がした。
「クソッ……んで――がここに」
男にしては少し高い。ラズウェルでも、リリアンでもない。
(だれ!?)
窓際に、新たな影が立っていた。魔物のように見えたが、違う。黒いローブで頭から足先まですっぽり覆われているだけだ。
窓枠を乗り越えたその人物は、まっすぐクレアのもとへとやってきた。
(魔物を操っているのは……こいつね)
「依頼主さんよ。厄介な仕事を回してくれたじゃねぇか」
赤い瞳がクレアを睨みつけた。被ったフードの奥に見えるのは黒髪だ。
黒髪赤目、魔族の特徴である。
「ま……ぞく?」
答えはなかった。代わりに、部屋の外の音が耳に届く。
「失敗だ。覚悟しておけよ……俺にも言えることだが」
クレアは、暗殺組織との契約を思いだす。
失敗した場合、依頼主は口止めとして殺される。無謀な仕事をさせた場合もまた然り。
「……望むところよ。ただでやられたりなんかしないわ」
クレアは無理矢理顔を持ちあげて、魔族に笑いかけてやった。
直後、黒ずくめの魔族のからだが、魔物ごと吹っ飛ぶ。暴風がクレアの頬を叩いた。
「死にましたか、マーフィー嬢」
「うる、さいわね」
「なんだ、生きてるんですね」
状況に似合わないほど落ち着いた声には、ほんの少し残念な色がにじんでいる。
ラズウェルだった。
「遅い……」
呟いたクレアは、そのまま意識を手放した。