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ラズウェルがスープを膝の上にぶちまけたのは、それから少し経ってからである。
「リリアンが……婚約……? アルバート殿下と……?」
食堂の空気を揺らがせるほどの濃い魔力が、そのからだから立ちのぼる。
布巾を持って駆け寄ろうとした侍女が、魔力にあてられてその場に倒れ伏した。あとはもう、上を下への大騒ぎである。
「やっぱりこうなったわね……」
「お、お兄さま! 難しいのはわかっていますが、わたしはその、アルバート殿下をお慕いしております……だから」
「リリアン、ちょっと黙りなさい」
触れてもいないのに、ラズウェルの飲み物が入ったグラスが砕け散った。その破片が、正面に座っていたクレアの頬をかすめる。
「お姉さま!? 大丈夫ですか!」
「大丈夫じゃないわよ! ちょっとあなたたち、ラズウェルさまを部屋に連れていってちょうだい!」
「クレアさま、無茶です……私共ではとても!」
倒れた侍女をふたりがかりで抱えた侍従が、声をそろえる。
クレアは深いため息をついて、天を仰いだ。
ここで一番影響がないのはリリアンだろうが、いまのラズウェルをリリアンに任せるのは下策中の下策である。クレアは覚悟を決めて、椅子を蹴った。
「わたくしが運ぶわ。退いてちょうだい」
◆ ◇ ◇
魔力がほとんどないクレアが濃厚な魔力に触れるのも、また下策である。
ガンガンと痛む頭を抑えながら、全身で引きずるようにして、アルバートへの呪詛を呟き続ける男をなんとか部屋に放りこんだ。
自分も一緒に入って、ばたんと扉を閉じたクレアは、その場でへなへなと座りこむ。
吐きそうだった。
「い、いい加減にしなさいよ……ラズウェルさま」
冷や汗がひどい。たぶん、顔が真っ青だ。
本気で気分が悪そうなクレアに、ようやくラズウェルが呪いの世界から戻ってきた。
濁っていた瞳が、鮮やかなエメラルドグリーンを取り戻す。
「失礼しました、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないわよ」
先ほどリリアンに放ったのとまったく同じ台詞を繰り返す。
「立てますか、クレア」
ラズウェルに腕を引かれて、なんとか膝を立てる。大きな手のひらが、クレアの胸の前にかざされた。
すぅ、となにかが吸いとられる感覚。
同時に、金づちでしつこく叩かれるような頭痛が引いていった。吐き気も同様である。
「どうです?」
「楽になったわ。お礼は言わないけど」
すかさず手を伸ばして、ラズウェルの頬をつまんだ。
彼が痛いと声を上げても構わずに、力いっぱい引っ張ってやる。
「いい年した大人なんだから、もう少し冷静になりなさいよ! リリアンが絡むと、泣いたり怒ったり、子供っぽいったらありゃしないわ!」
「子供でいいです……リリアンが、婚約……」
「よくない! リリアンだってもう子供じゃないんだから」
「別に、反対するつもりはありませんよ」
「えっ」
思わずぱっと指を離した。すかさずラズウェルに手首を掴まれて、動きを封じられる。
「認めない! とか騒ぐものと……」
「貴女は私をなんだと思ってるんですか」
「シスコン野郎」
「それ、考えるの初めてじゃないですね? やけに流暢に出てきましたね?」
「口が滑ったわ」
「いまさら塞いでも遅いですよ」
クレアは自身の口元を袖で覆ったまま、もごもごとしゃべった。
「反対しないならなおさら、もっと冷静になりなさいよ」
「それはちょっと難しいですね……あぁ、頭が痛くなってきた」
魔族の皇女と、人間の王太子が婚約……とラズウェルの唇から、悲痛な声が漏れる。
リリアンの婚約に動揺した……部分ももちろんあるのだろうが、どうやらそれだけではなかったらしい。やはり、考えつく問題は皆一緒だ。
「そう簡単にはいかないわよね」
「もとからわかっていたことです。しかし……道筋は見えました」
「道筋?」
「メリベラル王国でのリリアンの立場をどうするか、ですよ。気づきませんか?」
王家……それも次期国王となるともちろん、本人の一存だけで結婚する相手を決めることはできない。婚約の段階でも然り。
リリアンに届いた手紙には、王家の印籠が押されていた。王家から正式に届いたものだ。
それが意味するところは。
「陛下は了承済み、ということ?」
「そうなりますね。たぶん陛下は……この機に、ティザシオン皇国と和平を結ぶつもりなのかもしれません」
魔族の力は脅威である。彼らが隣人と呼ぶ魔物たちを片っ端から討伐している以上、戦争とまではいかずとも、国家間の小競り合いは免れない。それは、強化された国境……この場合は港だが、ティザシオン皇国に面する海岸沿いの街が、軍港として多大なる発展をしていることからも、見て取れる。
両国に和平が成立すれば、国王……ひいてはメリベラル王国にとっても、悪いことはひとつもない。
「……できるの?」
「どうでしょうね」
難航を極めることはたしかだろう。
こと魔物の件に関して、魔族と人間は決してわかり合えない。
「でも、和平を成立させて、リリアンを正式にティザシオン皇国の皇女としてこちらに嫁がせることができれば」
「……リリアンを、ティザシオン皇国に帰さずに済む?」
「そういうことです」
ラズウェルが、道筋が見えた、と言うのも理解できた。たしかに、魔族と真っ向から対立してリリアンを守り抜くよりもずっと現実的で、実現可能なプランである。
「アルバート殿下はどう思うかしら」
自分が求婚した相手が魔族の皇女だと知れば、そのショックはそれなりに大きいだろう。彼にはまだリリアンの正体を明かしていない。
「賢明な判断をしてくれるように、祈るしかありませんよ。まさか、カイン殿下のような愚かな真似はなさらないでしょうが……しかし、リリアンが傷つくのは」
ラズウェルが嘆息した。クレアも同様である。
カインのときとは違う。
リリアンには、アルバートを慕う気持ちが、すでに芽生えてしまっている。
もし、アルバートが婚約の申し出を取り下げるようなことがあれば……しかも、それだけではない。なお悪いのは、カインのように、リリアンを拒否されることだ。
その答えは、存外に早く得られた。




